どん底からのメイク・ドラマ

 上記のような「傾向と対策」めいた属性の小説内での備給は、凡庸きわまりない営為でしかなく、文学的価値とは無縁なのだと。そのごく少数の人々とはドゥルーズ蓮実重彦のラインのことで、後者が「凡庸さ」の対極にある概念としてあげるのが「愚鈍さ」。蓮実重彦の著作ではわかりにくいので、ドゥルーズを潤色しながら説明すると、思考は主体が意志的に行うものではなく、(マドレーヌを契機に湧出したプルーストの無意志的記憶と同じく)(主体のような何かに)思考することを強いるもののすべてを思考したり、思考することを強いられる主体のような何かのすべてを思考したり、というような無意識的思考がある。その無意志的思考こそが、愚鈍たるものの代表なのである。

 現代思想好きの純文学作家志望を思いっきり前面に出すと、自分の文体はこんなに硬くなってしまうようだ。ただ、言おうとしていることは、自分の芸術的信条と変わらないし、その芸術的信条は娯楽作品にも充分に応用が利くと思っている。 

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これも評判の高い映画だ。上の記事で書いたノッティングヒルの恋人を90点とすれば、80点以上はある女性向け恋愛映画。例によって、ここからはネタバレ満載でお届けするので、未見の方はご注意されたい。

あらすじと予告編を先に紹介したい。

【起】
アメリカ、現在。老人施設に入居している老齢男性・デュークは、認知症の老女にいつも朗読をしていました。その朗読は、1940年代のアメリカ南部・シーブルックを舞台とする、2人の若い男女の恋物語です…。

…1940年6月。
 都会から避暑として別荘に、17歳の少女アリソン・ハミルトンが両親と共に訪れていました。アリソンは、通称:アリーと呼ばれており、ひとりっ子です。両親から大事に育てられていました。アメリカ南部の小さな町・シーブルックに訪れたアリーに、町の青年ノア・カルフーンがひとめぼれします。ノアはアリーの乗る観覧車に無茶をしてぶら下がり、デートの約束を強要しました。
 ノアとアリーはすぐに親しくなり、やがて恋に落ちました。初めての恋です。少女・アリーの家は裕福です。しかしノアは学歴もなく、材木屋で働く肉体労働者でした。
 初めてのデートの後、アリーは「大事なことは親が決める」とぼやきます。ノアは、アリーはもっと自由なのかと思っていましたが、金持ちの娘なので、進学や縁談などは、親が勝手に決めてしまうのだそうです。
ノアは夜の車道に横たわり、信号が変わるのをよく父と見ていたと言いました。誘われて、アリーもその場でやってみます。車がやってきてクラクションを鳴らしたので、2人は急いでどきました。その後、ノアの歌に合わせて車道でダンスをします。

 ノアとアリーの交際は、おおむね順調でした。アリーが趣味の絵を持ってノアの家を訪れると、ノアは軒先で父・フランクに詩を朗読していました。昔、ノアはひどい吃音(きつおん どもりのこと)に悩まされたそうです。朗読をすることで、吃音が治ったとノアはアリーに言いました。
ノアとアリーはよく喧嘩もしましたが、その都度すぐに仲直りをしていました。
ノアと付き合うのを見たアリーの父・ジョンが、ある時ノアを自宅のパーティーに誘います。アリーの家のパーティーは豪華でした。ノアは貧富の差を思い知らされます。さらにその席で、アリーはニューヨークにあるサラ・ローレンス大学へ進学しろと言われました。遠いので、ノアと会いにくくなります。アリーの父・ジョンと母・アンは「ひと夏の恋だ」と、娘の恋を受け止めていました。

 ある夜、ノアはアリーを廃墟となった屋敷に連れていきます。その場所は1772年にフランシスという人物が作った、ウィンザー農園でした。ノアは金を貯めてその土地を購入し、屋敷を改築するのが夢だとアリーに話します。

 

【承】
 アリーはそれを聞いて「家の壁は白で、窓は青がいいわ」と言いました。2人で将来一緒に住むことを約束します。屋敷にあったピアノをアリーが弾き、その場でアリーが望むまま関係を持とうとした時に、ノアの親友・フィンがやってきました。帰りが遅いのを心配したアリーの両親が、警察に捜索願を出していたのです。
 午前2時になっていました。ノアは急いでアリーを家まで送ります。
別室で母・アンに叱られるアリーを、ノアは聞いていました。母・アンはノアのことを「肉体労働者のクズ」と言い、交際に反対していると知ったノアは、黙って立ち去ります。

 反対されていると知ったノアは、アリーと距離を置こうとしました。アリーは怒ります。様子を見るくらいならば、いっそのこと別れようとアリーが言い出しました。喧嘩別れで終わります。
 その翌日、アリーの両親が強制的に、別荘から家に引き揚げると言い出しました。アリーはノアの仕事場に会いに行きますが、会えずに終わります。アリーはノアの親友・フィンに「愛していると伝えて」と伝言しました。

 夏が終わってから。ノアは365日、ちょうど1年間、毎日アリーへ手紙を書き送ります。ところが返事はきませんでした。なぜならば、アリーの母・アンが握りつぶしていたからです。アリーは手紙の存在を知らないままでした。

 アメリカがドイツと開戦を始めたので、ノアはその後フィンと共に、アトランタへ召集されました。パットン第3師団に入り、フィンは戦地で死亡します。アリーは大学3年の時、病院のボランティアをして、ロン・ハモンド・ジュニアという青年と知り合いました。
 ロンは南部の富豪の子孫で、優秀な弁護士でもありました。回復したロンはアリーをデートに誘い、ロンとアリーは楽しい時間を過ごします。アリーの両親は、ロンとの結婚を許しました。ロンはアリーにプロポーズします。ロンのプロポーズを受けた瞬間、アリーの脳裏に一瞬だけ、ノアのことがよぎりました。しかしロンとアリーは婚約します。

 ノアは無事に帰還しました。父・フランクの元へ戻ると、父は家を売ったと言います。家を売った金と復員手当てで、ウィンザー農園を買えと、父が言いました。


【転】
 念願の土地を購入し、家の改築許可を届け出するためにチャールストンに行ったノアは、そこでアリーを見かけます。喜んだノアですが、アリーがロンと寄り添う様子を見たノアは、声をかけられませんでした。「家の改築がうまくいけば、アリーが戻ってくる」と思い詰めたノアは、必死で家をアリーの言ったとおり、壁を白く窓を青く塗ります。父・フランクが亡くなり、家だけが残されますが、ノアは打ち込みました。

 改築が終わり、屋敷は立派になりました。それでもアリーが戻ってこないので、ノアは売りに出します。デザインが美しい屋敷なので、買い手はたくさん現れました。しかしノアは売る気はなく、ことごとく断ってしまいます。
 その頃、ノアは隣町に住む戦争未亡人マーサ・ショーと肉体関係になりました。しかしマーサも、ノアには別に思いを寄せる相手がいることに、気づきます。

 婚約に浮かれていたアリーですが、ある日、自分の結婚式を報じる新聞記事に、ノアの屋敷の宣伝が載っていることを知りました。ノアのことを思い出したアリーは、いてもたってもいられなくなります。絵を描くための旅行に出かけるとロンに言い残し、シーブルックへ出かけました。
アリーはノアと再会します…。

…そこまで話したところで、朗読する老齢男性・デュークは医者に呼び出されました。診察で席を外します。バーンウェル医師に診察してもらいながら、「認知症は治らないんですよ」と声をかけられたデュークですが、「それでもいつか…」と答えました。老女は認知症ですが、ピアノを前にすると弾けるのです。

 デュークの家族が面談にも来ました。デュークは老女に、家族を紹介します。メアリー、マギー、エドモンド、孫のデーバニー…名前を言いますが、老女は丁寧に挨拶しました。「ママは思い出さないわ」と老女を見てメアリーが言いますが、デュークはそれでも留まると言います。老女の元へ戻ったデュークは、朗読の続きを始めます…。

…ノアと再会したアリーは、やはり愛していると再認識しました。2人は7年ぶりに結ばれます。24歳のことでした。「なぜ連絡をくれなかったの」と問い詰めるアリーに、ノアは手紙を書き送ったことを告げます。


【結】
 アリーの母が手紙を隠したことを、ノアもアリーも気付きました。未亡人のマーサが訪ねてきますが、ノアに思い人が現れたと悟り、去ります。7年の空白を埋めるように過ごしていた2人ですが、そこへアリーの母・アンが現れました。町のホテルにも、ロンが来ているそうです。
 母はアリーに手紙の束を渡しました。アリーを連れて、ある工事現場に行きます。母も25年前に、その現場にいる男性と恋に落ちたそうです。
その男性と駆け落ちしたものの、隣町へ行く前に捕まったと言い、「ママはパパを愛している。それでもここへ来るたびに見てしまう」と、かつて愛した男性のことを見守っていたと告げました。
 母の告白を聞いたアリーは、考え込みます。ロンと会ったアリーは、「彼を撃ち殺すか、ぶん殴るか、アリーと別れるか」という言葉を聞きました。ロンから「僕だけの君でいてほしい」と、アリーはノアとの別れを迫られます…。

…そこまで聞いていた老女は「どうなったの?」と続きをせがみました。
デュークは、「ロンとアリーが、めでたし、めでたし」と答えます。
しかし老女は、違うと気付きました。アリーはノアを選び、ノアの元へ行ったのです。それと同時に、アリーとノアの話が、自分と目の前にいるデュークのことだと気付きました。認知症なので忘れていたのですが、老女とデュークは夫婦だったのです。そして途中に見舞いに来た家族は、老女の子どもたちでした。(つまりアリーとノアは結婚し、子どもたちを設けた)

 思い出した老女は忘れていたことを詫びますが、また元に戻ります。認知症があらわれた老女は、デュークを振りほどくと「なぜダーリンなんて呼んでるの!?」と怒り狂い、看護師らに鎮静剤を打たれます。毎度のことではありながら、かつての妻がまた自分を忘れてしまう様子を見たデュークは、悲しそうに顔を歪めました。若い頃の写真を見返しながら、眠りにつきます。

 翌日。
 デュークは心臓発作を起こし、運び込まれました。なんとか持ち直したデュークは、馴染みの看護師の女性のはからいで、老女に会いに行きます。目覚めた老女は、デュークのことを覚えていました。認知症の自覚もあり、不安がります。デュークは老女に「僕らの愛に不可能はない」と言い、老女の手に自分の手を重ねました。

 翌朝。
 部屋に入ってきた看護師は、デュークと老女が一緒に亡くなっているのを知り、言葉をなくします。ノアとアリーが起こした、最後の愛の奇跡でした。(老齢男性・デュークと認知症の老女は夫婦。朗読していたのは、若い頃の自分たちのなれそめ。2人は同時に息を引き取った。究極のハッピーエンド)

いけない、いけない。涙脆い自分は、この映画の数か所で涙腺が緩んでしまった。例によって、この映画の脚本家も、このブログを読んだ上で映画を作ったのにちがいない。読んでもらえたのは光栄だとしても、あの場面のあのセリフはないぜ。

号泣してしまったじゃないか。しかも予告編にまで引用されているのを見て、また涙ぐんでしまった。

 

これはぜひともクイズにしてみたい。

Q: ブログ主は、上記の予告編のどの場面をきっかけに号泣したでしょう?

答え合わせは、記事の最後で。

 

さて、運命の愛で結ばれる二人は、『ノッティングヒルの恋人』と同じく、女高男低の格差が設定されている。男性が下層階級(材木職人)で女性が上流階級(金持ちの娘)なのだ。

ノッティングヒルの恋人』では、トップ女優が本屋店主を見初める理由が、まったく描かれていなかった。思春期の少年の妄想のように、美女が現れて不意にキスをしてきて、その美女が逃げ込んできて深夜にベッドへ誘ってもらえる筋書きだったのだ。恋愛映画好きの自分としては、脚本家の精神年齢にR18指定を要求したいところだ。

きみに読む物語』では、お嬢様の少女(アリー)が最初は拒絶していた貧しい少年(ノア)を、どうして受け入れるようになるのかを、逃げずに描こうとしている。アリーがノアを好きになるのは、お稽古ごとや勉強のスケジュールで雁字搦めに拘束されている自分を、粗野で無鉄砲な田舎少年のノアが「解放」してくれたからだ。

二人が最初に親密になるのは、映画を見た帰り、ノアが無人の道路に寝そべって、アリーも隣に寝転がるよう誘う場面。誘いに応じて、行儀よく脚を揃えて道路に横たわると、車にクラクションを鳴らされて大騒ぎ。そこから、アリーはずっと元気弾ける自由奔放なキャラクターとして映画の中を動き回りつづける。

レビューを見ていると、アリー役の自由すぎる女優が嫌いだという男性陣らしき意見が目立つ。ヒロイン役レイチェル・マクアダムスの演技は、とても巧みだ。とくに奔放に叫ぶ演技が上手で、それが保守的な日本人男性の癇に障るらしい。もっと「奥ゆかしい」女性が理想なのだろうが、「ゆかし」とは「見たい、知りたい」をあらわす古語。男性特有の「探究システム(=奥まで見たい・知りたい)」の欲望形態に沿って、女性の性格が画一的であってほしいというのは、わがままというものだろう。好みはどうあれ、相手の魂を見なくては。

この映画はまだ1回しか見ていない。それでも、映画を見ている間に、パラプロット(自分だったらこうプロッティングする)はたくさん明滅した。自分の恋愛小説の参考材料にするために、書き記しておきたい。

1. 初体験未遂の演出がおかしい

いつかリノベーションしたがっている廃屋に入り込んで、二人は初めて異性を体験する流れになる。しかし、少年少女が脱衣していく演出が、全然おかしくて笑いが込み上げてしまう。

男と女はなぜか数メートル離れて、向き合って立っている。男が肌着を脱ぐと、それを見た女が肌着を脱ぐ。男が下着を脱ぐと、それをもいた女も… という無ジャンケン野球拳をするのは、いったいどういう演出意図なのか このはかなり巨大だ。読者の中に、そういう脱ぎ方を二人でやった人はいるだろうか? 

少年少女の初体験にある「羞かしさ」を表現したかったのかもしれないが、たぶんこの演出の方が羞かしいだろう。

原作小説に縛られているせいだろう。脚本作りのところどころに歪みが生まれている。原作の成果とも思ったが、「監督世間知らず説」も捨て切れない。というのも、初体験の場面で、廃屋の床にシーツを敷いて横たわっているからで、マットレスやクッションなしというのは、男性として女性の痛みに対して無神経だと思う。

 2. 遠距離恋愛先の住所がわかっているなら、365通手紙を書く前に、そこへ行け! 

とても良い恋愛映画だけれど、こういう脚本上の不自然さが随所にあるので、涙脆い自分が5回くらいしか泣けなかったのは、本当に困ったことだ。うまくすれば10回くらいは行けた。

デートのOKを取り付けるのに、観覧車の骨組にぶら下がるほどのノアだ。住所がわかっているなら、365通書く前に、NYへ飛ぶに違いない。「きみが鳥になれというなら鳥になる」と宣言だってしているのだ。

返事が来ないならNYへ行くつもりだったのに、戦争で軍隊に召集されて行けなくなった、という筋書きの方が説得力がありはしないだろうか。

3. 決闘は不可避のはず

 映画はこんな風に進行する。結婚式直前に、新聞で初恋のノアを見かけたアリーは、すぐに車で逢いに行く。将来を約束しあったリノベーション後の邸宅で、二人は断ち切られた初恋を再び燃え上がらせる。しかし、帰らない娘を心配した母が到着し、如才ないキレ者の婚約者もその避暑地に到着する。

ここまでのシナリオの流れで、観客の「期待の地平」には「決闘」の二文字がネオンサインで煌々と輝いているはず。アリーが結婚式直前の婚約者を捨てて初恋の男に走るという選択を、日本的な集団主義から、どうしても受け入れにくいというレビュアーも散見された。多数の登場人物、多数の要素のうち、ひとつでも苦い味が後を引くと、「後味が悪く」なる。

ここは、どうしたって決闘しなければ収まりがつかない局面だろう。その決闘では、田舎者の材木職人ノアよりも、洗練された有能なハンサム婚約者が圧倒するにちがいない。

男としても、婚約者の勝ち。しかも、名家同士の結婚式直前でもある。

ハッピーエンドになりそうにないと観客がやきもきしたところで、アリーの金持ち父さんをぜひとも登場させようではないか。

映画の中では、金持ち父さんは「売春宿ジョーク」が得意だった。

自分のパラプロットでは、その父が悪所で婚約者とばったり出会い、バチェラー・パーティーで商売女たちとふしだらで不誠実な醜態を晒しているのを目撃する。

そして、駆けつけた避暑先で、決闘で婚約者が勝ったにもかかわらず、二人ともに「不合格」を言い渡す。そんなドンデン返しが有力なのではないだろうか。このプロットなら悪い後味は消えるので、純愛の残響だけを余韻にできる。

4. 脚本家は「想起の喜び」を知らない

 原題の『Notebook』は、ノアがアリーに朗読して聞かせている二人自身の恋愛物語を指している。映画の最後で、その自作小説はアリーが書いたことになっている。「自分の認知症が進行したらこの物語を読んで私を連れ戻して」という意味の自署が冒頭に書かれているのだ。

この設定は、あまり上手くない。物語は夫のノアが認知症の妻アリーのために書いたことにした方が、絶対に創造の幅が広がるのだ。

ノアによる恋愛物語の朗読で、アリーは時々理性を取り戻しはじめる。そして、その正常な理性のもとで、二人の他愛のない愛の逸話にアリーから訂正が入り始めると、映画空間はグッと面白くなる。

アリーは「違うわ。あのとき、あなたはこんな姿勢でこう言ったのよ」などと言うだろう。「そうだった、そうだった」とノアは嬉し気に応じて、二人であの時と同じ姿勢、同じ台詞、同じ感情を再体験する。二人の中で、記憶がまざまざと蘇ることだけでも心が気持ち良いのに、それを認知症の妻と共有できることの喜びの強さは何にも代えがたいことだろう。

 その「想起の喜び」は、実は映画の登場人物だけに生起するわけではない。人はどうして、伏線が緊密に生きている映画を、あれほど愉快だと感じるのだろう? それは、映画前半で観客が記憶した伏線が、映画後半で想起させられるからだ。人間は記憶が蘇ることに、快楽を感じる動物なのである。

5. 「想起の喜び」の文芸批評上の含意

 「想起の喜び」の文芸批評上の含意を、自分用に追記しておきたい。実は、その「想起の喜び」のこの延長線上に、プルースト失われた時を求めて』の「無意志的記憶」が存在するのだ。 

 それにたいしてプルーストが重視するのが、無意志的な記憶である。これはまったくの偶然の経験として主人公を訪れる。あるとき主人公が紅茶に浸して柔らかくなったマドレーヌを紅茶とともに口にすると、「素晴らしい快感、孤立した原因不明の快感が、私のうちに入り込んでいた」[8]ことを、突然に感じたのだった。

 これは有名な実例だが、きっと誰にも、数回は訪れたことがあるだろうと思う。風の肌触りや物の匂いなどで、その時いる場所や時間とはまったく違う場所と時間での経験が、奇蹟のようによみがえってきて、その記憶にさらわれてしまうことがあるものだ。そのときぼくたちは時間を忘れ、場所を忘れて、よみがえってきた過去の記憶に恍惚となる。プルーストはこれを無意志的な記憶と呼ぶ。意志によってこれをよみがえらせることは決してできないからである。これは偶然が感覚に与えた特権的な瞬間なのだ。 

(強調は引用者による)

この無意志的記憶を、さらに拡大して精緻化した概念が「エピファニー」だ。時間にまつわるものを、プルースト的「間時間的な」エピファニーとし、空間にまつわるものをベンヤミン的「間空間的」エピファニーとする分類は、わかりやすいと思う。 

先に「エピファニー」の、この分脈での定義を確認しておきたい。文学におけるエピファニーの諸相を探った唯一の上記の書では、このように書かれている。

 文学はエピファニー、つまり、日常の些事に紛れて見えなくなっている生の意味、あるいは超越論的なレベルの存在を、なぜかも知れず瞬間的に気づく様子を表す最良の媒体である。

ある種の芸術体験と宗教体験とは、確実に重なる部分があるのだ。科学的に言えば、昨晩のリサ・ランドールの話につながりそうだ。すでにその痕跡が科学的に観測されている五次元空間の関与。つまり、私たちが知覚可能な四次元空間に、余剰次元が交差したときの感覚に近いのかもしれない。文芸批評でも、このスピリチュアルな領域との交錯について、目立った研究がなされていないのが現状だろう。

自分は簡単にこうまとめたことがある。

平たく言えば、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」とは、本来なら関連がありえない物同士(地上から見る星は、遠近法の働かない視覚上どれほど近接していても、その星と星との間には、実際は気の遠くなるような距離がある)のあいだに、つかのまの「星座線」を引くことによって、「世界はそうなっているのかもしれない」という脱日常的な「顕現」の感覚を得ることなのである。

事実、ジョイス自身も『フィネガンズ・ウェイク』でそのような「間空間的エピファニー」の最高度の現出に成功しており、そもそも、作家が作品に対して神の位置をもって日常世界への alternative を提出している以上、あるいは、その創造過程において自己統御可能な自意識以上の何かにしばしば浸潤される以上、ベンヤミン的な「間空間的」、プルースト的な「間時間的な」エピファニーにコミットせざるをえないことは自明なのだが、ジョイスを貧しくしか読まないと、教科書のような名著でも、しくじってしまうことはあるのだろう。 

7. 個人的に撮りたかったエンディング

認知症患者の女性は、化粧をしなくなると聞いたことがある。最初から、ばっちりメイクで美貌の老婆として登場している「老いたアリー」に、私は違和感を感じずにはいられなかった。

どうして、この映画は認知症の妻と夫を、最終場面で同時死亡させてしまったのだろうか。「自然心中」は、上の要約サイトが言うような「完全なハッピーエンド」ではないように感じられる。認知症は必ずしも治癒不能の病気ではない。

下の動画をご覧いただきたい。

 誰もが「不治の病」だと誤認しているエイズ。適切な治療を施せば、このCMが意外な印象を観客に喚起するのと同じく、エイズも快方へ向かう。化粧療法が認知症にも有効であることは、科学的に認められている。

 高齢者が専門スタッフ(ビューティーセラピスト)のサポートを受けながら化粧を楽しむことで、表情が明るくなるだけでなく、化粧が筋力トレーニングになり、日常生活の基本動作が自力でできるようになるといいます。

 (…)

 健康・長寿の秘訣は、「運動」「食事」「交流」の3つであるといわれています。私たちの研究では、その3つのすべてに「化粧」が関わってくることを明らかにできました。 

私がこの映画を撮るとしたら、老け込んでいた認知症のアリーに、ノアが献身的に化粧する場面を入れたい。自伝小説の読み聞かせと化粧療法によって、アリーがだんだん理性を取り戻し、ノア執筆の恋愛小説にケチをつけはじめたら、絶対に面白い。

この映画でもそうだったように、「ボケる」「正気に返る」のスイッチはかなりご都合主義的に使える魔法の装置だ。アリーとノアが病室で青春時代の再現ドラマをやろうとしているときに、アリーに無神経なことを言うと、急にボケはじめたり、アリーを優しくいたわると、急に正気を取り戻したりする展開は、きっと面白いにちがいない!

 

 

 さて、クイズの答え合わせをしよう。同じく、クイズを出すことにしたこの記事の経緯を読めば、答えは簡単に出せたことだろう。

琴里:その通り。先生は、ハートの真ん中に i があるから。絶対にクズ野郎なんかじゃないから。

ぼく:…まさか、まさか。ぼくがク i ズ野郎だってこと? 

 0.34から、材木職人のノアとの交際を反対する母が、こう叫ぶ。

Trash, trash, not for you!

クズよ、クズよ。あなたにはふさわしくない! 

酷いな。あんなにはっきりと怒鳴らなくても良いのに。ドルビーサウンドでまる聞こえだったぜ。本当に号泣してしまった。

どう反論したらよいのかわからないまま、自分の両手はカタカタと動いて、昔書いた記事の一行を引用していた。 

クズがどうした。クズが一輪の薔薇を咲かせることだってあるさ。 

 

 

 

 

 

 

(ノアとアリーのラブソング)

オゥザワァの恋の不等式

渾名をあまり付けられたことがない。せいぜい上で書いた「バカ王子」くらいで、さすがに後輩からはそう呼びにくかったらしい。定着しなかった。自分で付ける方はかなり得意で、アニメ好きの「古山くん」につけた「プルピー」はヒットして定着。「水津さん」に付けた「スージー」は定着ならず。目の大きな甘い顔立ちだったので「スイーツ」の方が良かったのかもしれない。

90年代から自分がキャサリンと呼んでいた場所が、東京のベイエリアにある。

「これしかないぜ」の決まり具合なので自分の発想力にご満悦でいると、地元民も昔からそう呼んでいるらしい。「キャサリン」とは「葛西臨海公園」のことだ。 

東京都立葛西臨海水族園江戸川区)で展示されていたクロマグロなどが2014年12月以降に大量死した問題で、都は7日、死んだ原因は細菌などの感染や水槽の壁面への衝突、特定の個体の動きによるストレスといった複数の要因だったとする調査結果を発表した。

葛西臨海公園のマグロが大量死した事案は、複数の要因が複合的に作用したとの水族館側の結論が、マスメディアに上奏された。諸事情を慮っての玉虫色の結論だろう。

自分の勘では、これはヤツの仕業で間違いない。セシウムの300倍の毒性があるのに、日本では検査もせずに絶賛「放し飼い中」のストロンチウムの可能性がきわめて高いのではないだろうか。

ストロンチウムはカルシウムに似ているので、骨に吸着されやすい。だから、逆にカルシウムを定期的に摂取していれば、内部被爆を多少は軽減することができると言われている。ストロンチウムが骨にくっついたら、骨は折れやすくなってしまうのだろうか。たぶん、そうだろう。調べてみると、もっと大変なことが分かってしまった。

ストロンチウム90は、主に骨に取り込まれてカルシウムに置き換えてしまいます。このため、ストロンチウム90の恐ろしさを想像する時、真っ先に白血病が頭に浮かんできます。

しかし、スターングラス博士は、骨に取り込まれたストロンチウム90がβ崩壊を繰り返してイットリウム90になると、骨から肺、心臓、生殖器などに移動し、膵臓に最も高い集中が見られる、というのです。これが、膵臓がんや糖尿病の増加につながっている本当の原因であると博士は言っているのです。 

甘かった。見通しが甘かった。作品の構想力が卓越した三島由紀夫は「最後の一行が決まらないと書き出せない」が口癖だった。自分の場合は「最後の洒落が決まらないと書き出せない」を最近の口癖にしている。

けれど、洒落を思いつかないまま書き出してしまって、いま「見通しが甘い」と「スイーツ」と「糖尿病」のスリーカードがようやく揃ったところだ。しかし、これしきでは読者のハートが盛り上がったり、火が付いたりはしないのではないだろうか。 

キャサリンの「マグロたちの沈黙」には沈黙したままにして、ジョディーの『羊たちの沈黙』に話を移そうか。正確には、物理学界のジョディー・フォスターこと、リサ・ランドールに。 

リサ・ランドール(Lisa Randall、1962年6月18日 - )はアメリカ合衆国理論物理学者。専門は、素粒子物理学宇宙論

ハリウッド女優だと言われても違和感がないくらいの美人ですが、実はアメリカの有名な理論物理学者です。

(…)

「我々の世界は3次元と時間(4次元)、そして空間の因子を追加した5次元目が存在している」というのが彼女の理論です。

それを確かめる為に、スイスのジュネーブにあるLHC(大型ハドロン衝突型加速器)で"7兆電子ボルトの亜光速まで加速された陽子"を衝突させる実験が計画されています。

この衝突実験によって粒子が姿を消したことが確認されたなら、姿を消した先が異次元の世界であると考えられ、異次元の存在が立証されたことになるそうです。  

リサ・ランドールは、プリンストン、ハーバード、マサチューセッツ工科大学のすべてで終身在職権をもつ初の女性教授なのだとか。世界一流の超優秀な物理学者であると同時に、一般向けに書き下ろした科学書が、わかりやすくて面白いことでもよく知られている。 10年代、理系に進んだ大学生が宇宙を語るのに、この本を忘れてはいけない気がする。大江健三郎が一時期よく用いた欧文直訳調でいうと、忘れるなんて「それはいかなる obvilion よりも悪い」という感じだろうか。

ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く

ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く

 

 これ、凄く良いのではないだろうか。ひとことで言うと、「うほうっ(=宇宙の法則)」を超天才の美人物理学者が、一般向けに書き下ろした啓蒙書。わかりやすいとはいっても、そこは世界最先端の宇宙物理学の話。それ以上わかりやすく説明できない地点は、一般読者から見て、頭上にあることだろう。簡単とは言い切れないが、とても面白い本。理系の大学生は必読だろう。

一文に論旨を要約すると、(三次元空間に時間を加えた)四次元空間に私たちは慣れ親しんでいるが、本当はその四次元空間に影響を与えている五次元空間が存在するという論旨。

相対性理論量子力学素粒子物理学、超対称性、ひも理論……。

現代までの物理学の総カタログかと見紛うほど、理系向けのホットな話題尽くしで、文系の自分でもかなり楽しめる。

リサ自身もかつて楽しんだと語っていた『フラットランド』(日本語字幕設定可能)。

二次元の世界へ三次元の私たちが遊びに行くと、二次元の住人たちに話しかけただけで、サークルくんは悲鳴を上げる。三次元にいる私たちが、神のように見えるのだ。

この動画のように、私たちは五次元を認識できず、五次元を怖がって生きているのだとリサは示唆する。

五次元だけでなく宇宙全体まで視野に入れて、リサは宇宙のモデル図まで説明してくれる。宇宙とは「バルク方向へブレーンが多重化したマルチバース」だというのだ。専門用語の原液が濃いので、ここはバシャールの宇宙論で水割りにしておきたい。 例によって、二人は同じことを言っている。

つまり両者とも、並行宇宙(=ブレーン)が無数に存在する多元宇宙論を取っているのだ。

論より証拠。リサは最新の実験結果が、多元宇宙説を可能にする余剰次元が存在することを示唆していると説明する。つまり、バシャール的宇宙論の一端が、最先端の物理学で証明されつつあるというのだ。 

 本書の初めのほうで、余剰次元がどのように隠れていると考えられるかを説明した。巻き上げられたり、ブレーンに取り囲まれたりして、いずれにしても気づかれないほど小さくなっている。

(…)

 もし余剰次元があるのなら、その余剰次元の指紋はきっと存在する。そうした指紋が、カルツァ-クライン(KK)粒子だ。

 このKK粒子はすでに高エネルギー加速器が生み出して実験データとして記録を残しているという。そして、何とこのKK粒子の大きさは、余剰次元の大きさに逆比例するというのだ。粒子が小さければ小さいほど、余剰次元の大きさは大きくなる。現在分かっているのは、KK粒子の大きさが少なくとも10のマイナス17乗以下だということ。わかりやすいサイズ表現でいうと、1cmの一兆分の一のさらに十万分の一なのだそうだ。そして、その次元的背後に、それに逆比例した大きさの宇宙が広がり、交錯しているということなのだ。

五次元世界はなかなか想像しにくい。しかし、私たちの時空と交錯した多元宇宙の想定は、多くの物理学者の間で共有され始めているらしい。「私たちの生活世界で宇宙がかくれんぼをしている」という比喩を使って、こんな本も出ている。 

隠れていた宇宙 上 (ハヤカワ文庫 NF)

隠れていた宇宙 上 (ハヤカワ文庫 NF)

 
隠れていた宇宙 下 (ハヤカワ文庫 NF)

隠れていた宇宙 下 (ハヤカワ文庫 NF)

 

 自分はリサの本の方が好きかもしれない。というのも、『ワープする宇宙』には、なぜか各章の冒頭に、洋楽ロックの歌詞の一部がちりばめられていて、1ページ程度の「不思議の国のリサ」のようなミニ小説がついているのだ。どうして、宇宙本の各章が洋楽つきなのか、リサが単に洋楽好きなのか、よくわからないけれど面白い。

例えば、最終章の「結論」は、こんな感じだ。

これが世界の終わりさ、知ってのとおり(そして僕は気分良好)――REM 

選曲は、自分の好きなビョークやこの記事に書いたサイプレス・ヒルなんかも入っている。自分より10歳も上なのに選曲が重なるとは、リサの感性はかなり若そうだ。

と、豆腐で記事を終わらそうと思っていると、それを制止する手が伸びてきた。自分の左手だ。せっかちな右手を牽制して、まだ続きがあるよと伝えようとしている。

最終章のエピグラムの「It's The End Of The World」は「世界の終わり」だぜ。続きなんてあるはずないだろう。と思っていたら、あった。

「…オブ・ザ・ワールド」とカタカナ読みするからいけないのだ。ネィティブっぽく発音しなきゃ。

オゥザワァ

 リサ・ランドールの『ワープする宇宙』は原著の出版が2005年だった。それ以後も、物理学の最先端は依然としてホットだ。ぜひ『ワープする宇宙』に書き加えてみたいのが、ハイゼンベルク不完全性定理が敗れ去ったこと。

2012年に或る日本人がその不完全性定理を過去のものにしてしまったことは、まだあまり知られていないのではないだろうか。

その方程式を通称「オゥザワァの不等式」という。もう少しネィティブっぽく発音すると「小澤の不等式」だ。

今回の実験で実証された小澤の不等式は、誤差と乱れ、そしてゆらぎをきちんと区別した上で、かつてハイゼンベルクが追究した測定の限界を正しく語っている。2003年に提唱され、これまでは一部の専門家にしか知られていなかったが、今回実験で実証されたことで、物理学界全体に知れ渡った。

シュアにまとめられた日経の記事に付け足すとしたら、「小澤の方程式」がもたらす近未来の可能性についてだろうか。これまで支配的だったハイゼンベルクの不完全性の定理は実験では成立せず、代わりに「小澤の不等式」がすべての実験で成立していることが判明した。つまり、量子力学の微細空間での動きを精緻化させる定理が確立されたというわけだ。近い将来、微細空間そのものであるナノテクノロジーや、量子コンピュータや量子暗号の開発でも、応用されていくことは間違いないだろう。

量子暗号が普及すれば、原理的には盗聴されたら盗聴されたとわかるので、盗聴犯罪が不可能になる可能性が高い。どこの分野にも、明るい材料というものはあるのだ。

 さて「バカ王子」という渾名話で始まったこの記事に、ようやく思いついたらしき「オゥザワァ」を接合して、自分を90年代の王子さまっぽく演出しようとするのはみっともないぜって?

そんあつもりはさらさらないよ。当時だって、雰囲気が似ているって言われただけだし、それも20代の頃の話だ。

記事の途中で揃った「見通しが甘い」と「スイーツ」と「糖尿病」のスリーカード。それより凄い洒落が揃って、読者のハートに火がついたと思うかって?

そんなトランプゲームに乗った覚えはないな。大事なのは、トランプではなくハートだろう? かなり以前、半年くらい前から、自分のハートに甘い火がついていることの方がはるかに大事さ。

すると、急に左手がカタカタとキーボードを叩いて、こう打ち込んだ。

あなたのハートには、どれくらいの炎が?

私は驚いて自分の左手をじっと見つめた。左手は何を言わせたがっているのだろう? 左手だけに、まだ言っていない、残された(left)思いを書き込めと言っているのだろうか? わかった。書くよ。

My heart is firing more violently than any other heart オゥザワァ.

ぼくのハートは、世界の他のどのハートより、激しく燃えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

She maybe the reason I survive

どういうわけか、自分でも理由がわからないのに、自分がそれに引き寄せられていくのがわかることがある。

逆に無数の破片の散らばりの周りを散歩していると、明らかに輝いている破片だとわかるのに、まるで頭上の飼い主に「待て」をかけられているかのように「待った方が良い」と分かるときもある。

シンクロニシティ引き寄せの法則を体感したことがない人には、さっぱりわからない話だろう。なるべく実感してもらえるように、この記事を書いていきたい。

「待て」の話から。

というわけで、スチャダラパーBOSE加山雄三と一緒に、小野リサがボサノバの創始者たるカルロス・ジョビンと共演した時の話をしているのを、引き込まれて見ていた。

実はこのテレビ番組が放映されたのは、記事の日付の数か月前だったはず。「待て」がかかったような気がしたので、年が明けてからの「待て」解除の勘を頼りに書いたら、知る人ぞ知る美味しい展開になった。

 さて、このブログ読者が抱いているパブリック・イメージには「センスが良い」というありがたいイメージもあって、昨晩の悪ふざけを含んだ記事に対して、「恋をしているのならもっともっと繊細に」との感想をもらったようだ。確かに、恋してる相手の女子のことを充分に考慮できないようでは、モエ・エ・シャンドンにはまだ早い。というわけで、鯉に恋するカープ女子のことを考えながら、どこかで広島カープの3選手を織り込みながら、記事を書いていくことに決めた。

 上の記事を書いているときに、すでにフレンチ・タクシーの洒落は思いついていたけれど、「待て」がかかっている気がして、この日には書かなかった。しばらくたった日の朝、ブログの構想を練っているとき、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家にプジョーが突入するイメージがふと脳裡に蘇った。何のイメージだったかな、と考えに考えて、昔書きそびれた洒落だったと、ようやく思い出した。ひとり声を出して笑ってしまった。

自分でも笑えるくらい面白いので、それをバウムクーヘンに絡めて書いたのが、この記事。 

「自分でも理由がわからないのに、自分がそれに引き寄せられていくのがわかる」という冒頭の不思議な現象については、この映画に引き寄せられたときのことを、ここで詳しく書いた。 そこで数え上げた①~⑦のシンクロニシティは、本当にただの偶然の一致でしかないように見えるだろうか? この一年間、種々のスピリチュアル系の本を読み込んできた自分には、それらの偶然に自分が引き寄せられてきたのを感じずにはいられない。

ラブリー・ボーン』と同じことが、別の映画でも起こった。

自分はかなりの家具好きでもあって、上の記事のように椅子の歴史に詳しかったり、下の記事のように、天上に据え付けるライトやソファーにも一家言あったりする。

 ソファーは、なぜとはなしにチェスターフィールドを第一候補に考えて、デザインや機能性が高い第二候補を探しにいくことが多い。

さて、昨日たまたまDVDで鑑賞して、なるほど、ここ数か月間、自分はこの映画を見るよう引き寄せられていたのかもしれないと感じた。有名な恋愛映画で、生涯最高の恋愛映画に掲げる人も多いらしい。 

 これまで、(ゴダールのような)フランス映画が好きだというと、ではハリウッド映画は嫌いなんだね?とよく訊き返された。当たらずとも遠からず。ヨーロッパ映画の方が陰影に富んだ芸術性が高いような気がして、最初にそちらを選ぶことが多い。『ノッティングヒルの恋人』が大流行しているのは、当時知っていたものの、未見だった。

概要を説明するだけで、心が震えてしまう。オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』を現代にアダプトした映画で、主人公は『ラブ・アクチュアリー』のヒュー・グラント(!)(ラブ・アクチュアリー』については非公開記事あり)。

例によって、ネタバレ満載で書いていくので、未見の方はご注意を。

ノッティングヒルの恋人』は、『ローマの休日』と同じく、社会階層トップの「お姫様」女優が、一般人男性と恋に落ちる話。主人公はロンドンの下町にある小さな赤字本屋の経営者で、そこをハリウッドのトップ女優が偶然訪れ、二人の恋が始まる。

脚本が入念に作られていて、ヒュー・グラントの演技と佇まいが良いので、ハリウッドが苦手な自分でも好きな映画だ。好きというか、他に代わりが利かない映画だと感じて、完全に嵌まってしまった。流し見も含めると、3回も観てしまったのだ。

あらすじと予告動画を紹介しておきたい。

【起】
アナ・スコットはアメリカ・ハリウッドで押しも押されぬ大女優です。そのアナがある日、ロンドン西部のノッティングヒルにある旅行書専門の書店に立ち寄りました。その書店は大して儲かっておらず、店主のウィリアムはバツイチのさえない男でした。ウィリアムは大女優の突然の来店に非常に驚きます。アナはウィリアムに微笑して店を去りますが、その後、飲み物を買いに出たウィリアムは街でアナとぶつかって、オレンジジュースをアナの服にかけてしまいました。慌てふためいたウィリアムは、アナの服を乾かすためにすぐ近くにある自宅に招きます。

 

【承】
洗面所で服の汚れを取ったアナにぎこちなく飲み物を進めたウィリアムは、なんとかその場をやりすごしてアナを送り出しますが、なんとアナは引き返してきて、ウィリアムにキスをしました。ウィリアムは、この夢のような出来事に、文字通り夢見心地になります。その興奮も冷めやらぬ数日後、ウィリアムのルームメイト・スパイクが、ウィリアムに「アナとかいう女性から電話があった」と告げました。早速アナが宿泊しているリッツホテルに電話し、偽名のフリントストーンという名を告げて電話を繋いでもらい、雑誌記者と偽って部屋に入りました。そこでウィリアムは、妹・ハニーの誕生パーティにアナを誘います。


【転】
その後もデートを重ねるウィリアムとアナでしたが、ある晩アナの部屋に行くと、有名俳優の恋人・ジェフがアナの帰りを待っていました。アナとの進展に有頂天になっていたウィリアムは、ジェフの存在にショックを受けます。ウィリアムはアナに別れを告げて去りました。独り者の暮らしに戻ったウィリアムのところに、半年後、突然アナがやってきました。アナは売れない時代にヌード写真を出しており、そのゴシップでマスコミに追われています。ほとぼりが冷めるまで家に置いてほしいとアナは頼みました。しかしルームメイトのスパイクがバーで口を滑らせたことでマスコミに知れ、殺到します。


【結】
ゴシップが増やされて怒ったアナは、ウィリアムに二度と会わないと言って去りました。一年後、アナの撮影現場を訪れたウィリアムは、アナから愛の告白をされます。しかし撮影現場でアナの輝く姿を見たウィリアムは、不釣り合いだと思ってアナを振りました。アナが書店に来てもつれなく振る舞います。しかし友人たちに慰められたウィリアムはアナを受け入れることにし、ホテルの記者会見の場でウィリアムはアナに告白しました。アナもプロポーズに応え、会場は結婚会見に変更されます。二人はそのまま結婚しました。そして数ヶ月後、お腹の大きくなったアナとウィリアムは、街の公園で寄り添っていました。 

 (字幕つきの予告編は見当たらなかった)

 初見では、心をぐらぐら揺さぶられて、最高の恋愛映画だと感じた。けれど、さらに2回くらい流し見をしていると、プロットメイクは自分ならこうするのにな、というパラ・プロットが次々に思い浮かんでくる。自分が書こうとしている恋愛小説の参考材料として、記録しておきたい。4つほど思いついた。小さい順に書いていきたい。

 1. 本屋のウィリアムの文芸映画転向の勧めを生かし切る

 ウィリアムとアナはマスコミから一緒に隠居している間、屋上で台詞の練習をしていた。そこで、ウィリアムが文芸映画への転向を進めて、実際にアナは転進する。

しかし、アナが芸映画(ヘンリー・ジェイムズの撮影をしている場面はやや描き方が不十分だ。手の届かないところにいるアナが再成功している描写を入れて、それをウィリアムが喜ぶ場面はあった方がいい。その「共作」が成功して二人が交際すると思いきや、マイクロフォンから洩れてきた「ウィリアムを突き放した台詞(ただの過去の男よ)」で、ウィリアムが意気消沈するという流れの方がベターだと思う。

どこかのレビューで脚本家が「ブッキッシュなイケ好かない奴」というコメントを読んだ。ヘンリー・ジェイムズ好きがその鑑賞者の気に触ったらしい。

まいったな。自分もヘンリー・ジェイムズにチェックを入れている人間だ。

文芸批評史に従えば、口承のように語り手が現前するか否かによって小説言説がどのような変容を蒙るかは、石川が強調するような近現代文学特有の問題ではなく、プラトンのdiegesisとmimesisの対立にまでその起源を遡るべきものである。詩人が語り手として介在する叙述がディエゲーシス、詩人が語り手ではなくあたかも誰かになったかのように模倣して話すのがミメーシス。この詩法の二様式の水脈はともに演劇へと受け継がれたが、小説言説にもディエゲーシス性のいくらかが流れ込んで「叙述性」となり、ミメーシス性のいくらかが「描写性」を形成した。後にヘンリー・ジェイムズらがミメーシス=showingこそが小説の理想的な形態であるとして規範化しようと試みたのは、今からちょうど一世紀ほど前のことだ。  

ヘンリー・ジェイムズも良いけれど、その『ねじの回転』を論じたショシャナ・フェルマンの『狂気と文学的事象』は、ラカンを適用した文芸批評の中では最高峰だ。確か文学理論に世界一詳しいジョナサン・カラーも「瞠目すべき仕事」と絶賛していた記憶がある。 

狂気と文学的事象

狂気と文学的事象

 

 と、『ノッティングヒルの恋人』の脚本家より、さらにブッキッシュなところを披露してしまったが、実は、そのレビュアーのいう「イケ好かない奴」というのは、自分にも同じように響くところがある。4.で詳述したい。

2. アナがフラれて泣く場面を入れる

 しかし撮影現場でアナの輝く姿を見たウィリアムは、不釣り合いだと思ってアナを振りました。アナが書店に来てもつれなく振る舞います。

 当然のことながら、あらすじは簡略化されて書かれている。しかし、見どころはここなのだ。終盤のクライマックスのひとつでアナがいう台詞に、アナをハグしたい気持ちが起こらないウィリアムと男性観客には、自分は不信感を抱いてしまう。原文では、アナはこう告白している。

William: Anna, look, I'm a fairly levelheaded bloke, not often in and out of love. But, can I just say no to your kind request and, leave it at that?

Anna: Yes, fine. Of course, I, of course, I'll just be going, then. It was nice to see you.

William: The thing is... with you I'm in real danger. It seems like a perfect situation, apart from that foul temper of yours, but my relatively inexperienced heart would, I fear, not recover, if I was once again cast aside, as I would absolutely expect to be. There are just too many pictures of you, too many films. You'd go and I'd be, well, buggered, basically.

Anna: That really is a real no, isn't it?

Willam: I live in Notting Hill. You live in Beverly Hills. Everyone in the world knows who you are. My mother has trouble remembering my name.

Anna: Fine. Fine. Good decision. Good decision. The fame thing isn't really real, you know. Don't forget I'm also just a girl...standing in front of a boy...asking him to love her... Good-bye. 

アナの最後の台詞だけは、どうしても和訳したい。

アナ: ええ、いいわ。良い決断ね。本当はね、名声って架空のものなのよ。忘れないで。私はただの女の子。好きな男の子の前に立って、愛してほしいとお願いしているだけの… さよなら。 

 スキャンダルが巻き起こったときに激怒したり、辛辣なウィット℗を披露してきたアナの「素顔」がここで初めて示される。

ぼく:おい、ウィリアム、ちょっと顔貸せよ。どうしてアナをフッたったんだ!

思わず義憤に駆られて、勝手に映画に出演してしまった。残念なことに、上記の台詞はDVD盤ではカットされている。

カットしてはいけないのは、フラれたアナが、ひとりノッティングヒルの小さな公園のベンチで泣く場面だろう。雲の上のスターであっても、下町の公園で泣く普通の女の子になりうるから、ハッピーエンドの説得力が増すのだ。 

 3. 「敵対者の反転」をプロットに入れる 

ほのぼの恋愛コメディーに仕上げたいからといって、いくら何でも妨害者がゼロでは、映画は面白くならない。妨害者が登場するなら、助力者も登場しなければならない。助力者はノッティングヒルの地元民とすべきだろう。親友宅のあるケンジントンを巻き込んでもかまわない。

何と言っても『ローマの休日』のリメイクだ。ウィリアムの下層生活圏を表現するのに、パパラッチから逃れるウィリアムとアナを、土地勘のあるノッティングヒル住民が皆で助けるという筋書きは最初に思いつきそうなものだが、どうして排除されているのだろう。

地元民は秘密を厳守して、二人を守ろうとするが、そこへ妨害者が現れる。自分なら、ここでアナ親衛隊を登場させるところだ。例のハリウッドの柄の悪い元彼が裏で金を出していてもいいし、アナを絶対視する熱狂的な親衛隊でもいい。アナにふさわしい理想の男性を勝手に選定済みなので、親衛隊たちは続々とノッティングヒルに引っ越してきて、ドジな騒動を繰り広げる。ウィリアムの恋の行く手を阻もうとする。

ところが… 最後の最後で、2.のアナの涙を目撃した親衛隊リーダーが方針を一転、ウィリアムに加勢して、散ってしまいそうだった恋を、最後ギリギリのところで結びつけるというシナリオが、自分の脳裡には浮かんだ。それっきゃないのでは?

 4. ウィリアムをしっかり男性化する

 猫っ毛で高校まで「ヘナチョコ」と呼ばれていた逸話はまだしも、「こいつは全然男らしくない」というのが率直な感想だ。ただし、これはヒュー・グラントが悪いのではなく、脚本家の問題だ。

冒頭からして、街角での衝突という思春期コメディー的すぎるきっかけで、大女優を家に呼ぶことに成功すると、玄関で大女優の方からウィリアムにキスしてくるという展開は、思春期男子的のご都合主義がすぎはしないか。男性中心主義の匂いがプンプンして、男性の自分ですら楽しめない。レビューの中に、ウィリアムの優柔不断ぶりを指弾する女性レビューが散見されるのも頷ける。

英国インテリアのチェスターフィールドのソファー上から、寝る段取りになった時、変人の同居人が「手遅れになるかもしれないぜ」とレイプを示唆するのに、ウィリアムはよくそのまま眠れるものだ。そして、その次の瞬間には、大女優の方からベッドに誘いにきてもらえるとは! 何て「イケ好かない」男性中心主義!

そこは、ウィリアムが慌てて移動すべき場面だ。変人の同居人の不穏な行動を抑止すべく、アナに貸した部屋の入口へ移動して、番犬よろしく廊下で毛布にくるまって眠るのが男だろう! そして、トイレに立とうとしたアナが、真っ暗闇の廊下でウィリアムを踏んづけてひと騒動。そこからその保護行為が好意に変わって、シーツとシーツの間の行為になるという移行で行こう、とどうして思いつかないのか。

何だか、恋愛映画が恋愛映画らしくないせいで、自分も興奮してきた。やはり 2.の場面で、無防備な少女になって「愛してほしいとお願いしているだけ」と告白するアナを、どうしてウィリアムは優しくハグできないのだろう。

興奮のあまり、脚本家だけではなく、ヒュー・グラントも悪いような気がしてきた。

ぼく:おい、ヒュー・グラント。どうしてハグすべき相手をハグすべきときにハグせずに、別の映画のプロモーションで別の女性をハグしたりするんだ!(と手袋を投げつける)

投げつけた手袋の意味は知っているな!

と勝手に映画に乱入して、嫉妬交じりに自分が決闘を申し込むシーンは、残念ながらDVD盤ではカットされている。

 *

と、ずいぶん勝手にパラプロットを書き込んでしまったが、実はこの映画にケチをつけたいわけではなく、この映画が大好きで、映画なのになぜか愛しくてたまらないほどなのだ。3回も連続して観るなんて、自分にしてはとても珍しいことだ。

スピリチュアルな方々の口癖を真似れば、こんな感じだろうか。

(会話主表示以外の)ゴチック部分にエネルギ-を込めました。それらを虚心にじっと見つめてください。そうすれば、ブログ主が幸福感に浸っている様子がありありと伝わってきます。

ゴチック部分を追加しておこう。

初対面の別れ際、ウィリアムが大女優のアナにいった言葉。

How heavenly 

オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』のラストそっくりの設定で、インタビュアーに扮したウィリアムの問いに応えて、アナが答える台詞。

 Indefinetely(字幕:「永遠に」) 

ひょっとしたら、必死になって集中して取り組めば、自分も「ノッティングヒル級」の恋愛小説が書けるかもしれないような気がしてきた。コメディータッチのウェルメイドでありながら、芸術性の高い細部と哲学的洞察(例えば、愛とは何か)を織り込んだ恋愛小説を、ぜひとも真剣に考えてみたい。

最後に、自分が一番好きだったシーンと主題歌を引用しておこう。 

(劣化加工したこの動画の1:13:18から)

実はウィリアムの親友マックスの妻ベラは、ウィリアムの昔の彼女だ。ベラは階段から落ちて障害を負い、車椅子生活を送っている。階段を登れない妻のベラを、夫のマックスが抱え上げて昇るのを、「元彼」のウィリアムがじっと見つめている数秒。

他の観客は気にも留めないところかもしれないが、その数秒に自分は芸術性の濃縮を感じてしまう。三人の会話で、ちょうど「運命の女性とはもう会えない」とウィリアムが愚痴をこぼした直後だ。

昔の彼女が、階段から落ちて障害を負うという過酷な運命を生きている。しかし、運命の伴侶と出逢って、二人でその苛酷な運命を乗り越えて、他でもない階段を昇りながら二人が笑っているのだ。正直に言うと、美男美女のハッピーエンドよりも、自分はこの数秒の方に美しさを感じてしまう性格だ。いいな、本当に。

まあ、何というか、笑ってしまうくらい、繊細で感じやすいのだ。

She maybe the face I can't forget
The trace of pleasure or regret
Maybe my treasure or the price I have to pay
She maybe the song that summer sings
Maybe the chill that autumn brings
Maybe a hundred different things
Within the measure of a day

 

She maybe the beauty or beast
Maybe the phantom or the feast
May turn each day into a heaven or a hell

 

She maybe the mirror of my dreams
The smile reflected in a steam
She may not be what she may seem inside her shell

 

She who always seems so happy in her proud
Who's eyes can be so prouder than so proud
No one's allowed to see them when they cry
May comes a need from shadows of the past
That I rememmber till the day I die
She maybe the reason I survive
The why and when for I'm alive

 

The one I care for through the rough in many years
Me I'll take her laughter and her tears
And make them all my souvenirs
For where she goes I've got to be
The meaning of my life is

SHE SHE SHE

正直に告白しよう。今朝、主題歌が上のゴチック部分にさしかかったとき、こらえきれなくなって、自分は号泣してしまったのだった。

新世代たちが転回点を廻れば

ドライブ好きのはしくれとしてどうしても行きたかった角島に、数年前に愛車を走らせて遊びに行った。下道しかないので、柳井からでも数時間はかかった。青い海の上を走りながら焼きつけた絶景も素晴らしかったが、ドローンで撮影したこの動画は、ちょっと美しすぎるのではないだろうか。思わず旅情に誘われてしまった。

しまなみ海道とは異なって、一本の橋でひとつの島だけをつなげる贅沢な橋の使い方は、知る限りでは上の周防大島や、沖縄の古宇利島で見られる。

古宇利島にはまだ、というか、どういうわけか自分はまだ沖縄にすら行ったことがないので、初恋味のサトウキビや紅芋アイスを好きなだけ食べられる極上プランで行ってみたい。よ、気前良すぎの太っ腹!と称賛されるときに備えて、先にダイエットしておこうか。とばかりに、今晩も妄想が止まらない。

車で走ったら、絶対に気持ちの良いこれらの橋の上を、車で走らない若者が増えているという。若者の車離れが深刻なのだ。しかも深刻なのは、車離れだけではなく、新聞離れや恋愛離れやお酒離れも顕著なのだとか。

 いま、若者に何が起きているのかを、今晩は考えてみたい。

 それはどの本屋にも売っていない珍しい雑誌だった。路彦は雑誌を買いにわざわざ品川まで出て、駅周辺をうろついた。正確に言うと、捜したのは雑誌ではない。その販売を請け負っている路上のホームレスの姿を捜したのである。「品川の彼」はすぐに見つかった。 身なりを整えた50代くらいのホームレスが、駅から出てくる群衆の流れに向かって、雑誌を頭上に掲げながら、雑誌名と値段を高唱している。後でわかったことだが、300円の雑誌代のうち半額がそれを販売したホームレスの収入になり、彼らの社会復帰に寄与するのだそうだ。 

上の引用部分は、自作小説からの抜粋だ。ビッグイシューは実在する超有名なソーシャルビジネス事例だ。駅の近くで販売員を見かけたことがある人も多いのではないだろうか。

ソーシャル度が世界で最も高い化粧品メーカーの一つ、「ボディショップ」の店員たちとコラボしている動画を、このブログでも紹介したことがあった。

そのビッグイシューも著者に名を連ねた『ルポ 若者ホームレス』の内容が、かなり衝撃的だ。 

ルポ 若者ホームレス (ちくま新書)

ルポ 若者ホームレス (ちくま新書)

 

 そのようなホームレスの中に、若者が増えているという。ここでいう若者の定義は、15~39歳。ローティーンは入らない。50人の若者ホームレスにアンケートを取った結果、意外にも正社員経験者が8割もいた。ブラック待遇や職場の人間関係や健康問題など、想像がつきやすい理由で路上へ転落する若者も多いが、社会問題として早急に是正すべきなのが、派遣業態の抑制だろう。いわゆる「派遣切り」で路上へ放り出される労働者がかなり多いのだ。

日本の異常な派遣企業優遇については、上の記事でこう書いた。直感的に言って、とんでもなく異様な不幸事が進行しているのは、間違いない。

これらは特定の企業のブラックな文化で済む話ではない。90年代に波及し始めた新自由主義的な「雇用身分社会」の大問題として捉えるべき話だろう。90年代後半から行われてきた段階的な「規制緩和」は、日本を世界一位の非正規労働の国にしてしまった。

(…) 

2位アメリカの5倍というグラフの尖がり具合も衝撃的だが、より正確に人口比で計算すると約12倍。こんなわかりやすいグラフからも、グローバリストたちに絞め殺されようとしているこの国の悲鳴が聞こえるような気がする。  

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(画像引用元:http://lingvistika.blog.jp/archives/1059565517.html

【各派遣会社のピンハネ率】
<調査概要>
・ 調査期間:2015年1月10日~1月25日
・ 調査対象企業: 一般社団法人 日本人材派遣協会(JASSA)の登録企業全部
・ 調査サンプル企業数: 560社
・ リストアップ事業所数: 841拠点
・ 調査方法: インターネットを使い該当情報の有無を各社ホームページ上で確認

<調査結果>
・ マージン率の公開率: 19.1%(公開企業が107社、非公開企業が453社)
・ 全体平均マージン率: 26.8%
・ 位下位10%を除いた中間平均マージン率: 26.6%
・ マージン率最大値: 50.0%(旭化成アミダス株式会社 IT事業グループ)
・ マージン率最低値: 11.6%(株式会社インテリジェンス 九州支社)

ホームレスは自堕落というのは、根拠の薄い「神話」だ。上のルポでは、自衛隊出身ホームレスが5%いたという。「派遣切り」で路上へ放り出された人々の中には、帰る家のないスーツ姿の人もいたという。大晦日のテレビ局は、必ずここに中継をつなぐのを恒例にすべきだろう。

 大晦日の夜、その人はスーツ姿で都内の炊き出しに並んでいた。

 背中には大きなリュック。片手で重そうなトランクを引いている。

 並んでいるのは150人ほど。この日は年越しそばが振る舞われたのだ。

 炊き出しの列に似つかわしくないスーツ姿の男性になんとなく注目していると、彼は年越しそばを受け取った瞬間、よろめいた。一緒に炊き出しを訪れていた山本太郎議員が駆け寄る。リュックが相当重かったようで体勢を崩したようだ。

 とりあえず落ち着いておそばを食べられる場所に山本議員が付き添ったものの、スーツ姿とたくさんの荷物が気になり、炊き出しに来ていたお医者さんに彼の存在を告げると、生活相談・医療相談ができるブースに案内されていった。あとで伝え聞いたところによると、30代の彼はその前日、初めて野宿をしたのだという。

さて「ホームレス」という言葉で表現される問題には、「仕事がないこと」と「家がないこと」の二つが含まれている。

一つ目の「仕事がないこと」については、この新書が良い。 

本書では、誰もが無業になりうる可能性があるにもかかわらず、無業状態から抜け出しにくい社会を「無業社会」と呼んでいる。

(…)

つまり、日本社会では、一度、無業状態になってしまうと、人間関係や社会関係資本、意欲を失ってしまいがちなのである。

無業社会 働くことができない若者たちの未来 (朝日新書)

無業社会 働くことができない若者たちの未来 (朝日新書)

 

 「ニート」という呼称とそれへ向けたバッシング現象については、こちらの新書が詳しい。ちなみに「ニート」の定義では除外されている職業訓練中の人々が、無業者では含まれている。

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

 

それにしても、これも官僚の悲しき習性というべきか、厚労省は所管内の問題を小さく見せることに腐心している。若年無業者の数を2011年度で約60万人だと報告したところ、OECDにその約8倍の約480万人が定義上該当するのではないかと指摘されてしまっている。480万人! 大阪市と神戸市を足しても、約420万人。それに尼崎市を足せば、だいたい480万人に近くなる。日本中の若年失業者を合わせると、大阪市と神戸市と尼崎市の器からあふれてしまうのだ。
そして、一番恐ろしい数字に『無業社会』の共著者は言及する。若者たちが定年まで働いたとき国に納税するプラス金額と、働かなかったとき生活保護などでもらうマイナス金額とのギャップが、一人あたり1億5千万円だというのだ。したがって、最大値を取ると、480万人×1億5千万円=720兆円の式が成立する。日本の国家予算は100兆円前後だから、若年無業者の問題は、まさしく国難なのだ。 

 面白いデータが引用されている。

 親の家にとどまるしかない若者が増えています。25~34歳の人たちのなかで、親元に住んでいるのは、イギリス、ドイツ、フランスでは一割強、スウェーデンではたったの4%であるのに比べ、日本では四割近くになります。日本では若い人たちが独立し、結婚し、子どもをもつための良好な賃貸住宅が少ない。

平山洋介「住宅のセーフティーネットをどう構築するか」『議会と自治体』第136号)

 北欧では「福祉が住居に始まり住居に終わる」とも言われ、先進国では住宅整備が福祉の基本だという。ところが、日本のワーキングプアの約75%は、低廉な住宅供給がないこともあって、実家に幽閉されたままなのだという。どうして、日本だけここまで後進的なのだろうか?

日本の住宅事情の貧しさ(異様に地価が高い)については、この記事に書いた。

住宅事情の専門家の間では、「空き家バンク」による活用を推奨する論客が多い。しかし、話をそこで終わらせてはいけないというのが自分の考えだ。

海外でランドバンクを成功させた地方自治体は、成功するランドバンクの特性をこのように列挙している。

  1. ランドバンクと税滞納差押過程が結び付けられること
  2. 再生計画や土地利用計画に基づいた事業
  3. 物件の取得、譲渡などの考え方、優先順位などが透明性を有し、市民の信頼を得ていること
  4. コミュニティ諮問委員会の設置、住民団体との協働
  5. コミュニティプログラムとの整合性 

 つまりは、関連する他の制度群との連携性が成功の鍵なのだ。そして、連携すべき他の制度群が、下記のように日本の諸問題と結びついてはじめて、有効な提言となりうるのだろう。

 2015年の野口悠紀雄の近著を読んでいて、やはり処方箋は「それ」しかないだろうと感じた。「それ」とは、リバース・モーゲッジと相続税と介護制度の連携だ。

若者無業者らの福祉は住宅問題をまず最初に考えるべきだ。そう藤田孝典が強調するとき、そこで見落としてはならないのは、各論の最新の意匠を口にするだけでなく、それぞれの社会政策がどのように連携しながら社会を動かしていくかを、多視点から捉えられる思考と動態視力なのだと思う。

普通に考えて、何かがおかしいのは間違いない。

日本の住宅のうち、2013年にすでに1/8の家が空き家になっている。2033年には1/3が空き家になるという。どうして、貧困者が住宅不足に苦しみ、住宅不足が貧困を生み、それらが少子化を加速させている現実を、政府は手をこまねいて見ているのだろう。

実際、NPO法人の方が、はるかに機動的に問題に取り組んでいる。 

若年無業者白書2014-2015-個々の属性と進路決定における多面的分析

若年無業者白書2014-2015-個々の属性と進路決定における多面的分析

 

何と、クラウドファンディングで資金を集めて、政府に代わって「若年無業者白書」を出版したのだ。Ready For を利用したらしい。

自分は、これまで数え切れないほど、NPO系やソーシャルビジネス系のリーダーたちを、ブログ上で採り上げてきた。そして、これらの人々の中から、社会を大きく動かすリーダーが何人も出てくるにちがいないと確信している。ひとことで言うと、社会の改善意欲と問題解決能力が、旧世代より桁違いに素晴らしいのだ。

自分の読書遍歴の中で、その断層がどこにあるかを考えているうちに、それがプラグマティズムとの出会いであることに気付いた。 若者の定義は15歳から39歳とされることが多いらしい。いわば、ローティーンは含まれていないことになるが、若者問題であれ何であれ、ローティの存在をそこで忘れてはならないだろう。 

 自分がローティをとても面白いと感じたのは、上に掲げた屈指のローティ論に負うところが大きい。いま読み返して、実に懐かしく面白く感じた。渡辺幹雄にはロールズの著作もあるので、この二人に詳しいのは当然だとしても、フランス家のフーコーデリダニーチェポパークワインなどにも精通していて、その明晰に整理された博識が、詳細な注の中で炸裂している。一流のアカデミシャンは本当に凄い。

自分が上の記事で言及したバーンスタインにも、邦訳なしの時代に精密な読み込みをした上で、ローティ批判を抜き書きし、最終的にはローティのフーコー理解について「ローティには、この辺のところが理解できていないのである」と断言できてしまう。この本との出会いは、自分の現代思想読書の中で、幸福な思い出になっている。

 文体の活きが良いところも好きだが、今晩は渡辺幹雄の明晰な整理を再体験しておきたい。ローティの「左翼健全化プログラム」をまとめ直そう。

1. 左翼健全化プログラム1:ラディカルを辞めること

渡辺幹雄はローティのこんな言葉を引いている。

公共的に討議可能な妥協は、共通のヴォキャビュラリーによるディスコースを求める。 その手のヴォキャビュラリーは、リベラルな社会がその市民に求める道徳的アイデンティティを 記述するために必要なのだ。

この項目を超訳したい。要するに、デリダドゥルーズのような超難解な哲学の心酔者たちは、ジャーゴンを振り回して格好つけると市民に迷惑がかかるので、熟議空間ではなく仲間内でやってね、ということだ。あと、ハーバーマスはくよくよ深く悩みすぎ、もっと軽く考えないと政治問題は解決しないよ、とも言っている。

2. 左翼健全化プログラム2:「哲学=理論化」思考を止めること

現代の学界内左翼は、抽象のレヴェルが高まれば高まるほど既成の秩序に対して破壊的になる、と考えているようだ。概念的な道具立てが網羅的で珍奇であるほど批判はラディカルになる、と。

 この項目では、渡辺幹雄の軽妙な文体をお楽しみいただきたい。

「文化系左翼は、六〇年代左翼から」「民衆に権力を」(Power to the people)のスローガンを受け継いだ。しかし、権力の移譲をどう行うつもりなのかを、そのメンバーが問うことは稀であった」(…)

 では、学界内左翼はなぜにこの手の問題をスキップできるのか? それは、彼らが「哲学的抽象」のヴォキャビュラリーで語ることに酔いしれているからである。哲学的抽象の幻覚作用は、まさに「魔術化」の作用を持つのだ。「ブルジョワ文化」「システム」「後期資本主義」「他者性」「差異」「権力」等の呪文的な概念は、具体的で詳細にかかわる問題を消してくれる魔法の杖なのだ。

 3. 左翼が直面する本当の問題

 上記の1.2.の健全化計画が完了したなら、渡辺幹雄は、具体的な悪が見えてくると書き進める。具体的な悪とは「貪欲さ」「利己心」「憎しみ」「傲慢」であり、それを克服する力としての「希望」「想像力」「行動力」、さらには「幸運」が見えてくるというのだ。

はっきり言うと、この最もわかりやすい説明こそが、「政治―倫理」的転回そのものだ。左翼のサブ政治に、これ以上哲学的に付け加えるものはないはずだとローティは論じる。それへの反論を私はまだできずにおり、その必要を感じずにいる。

世界はまだら模様であり、それぞれのひとつの模様の中で、ゲームのルールは異なる。まだら模様は水紋のように静かに動いている。現代思想における「政治―倫理」的転回で変化したのは、何より、「個人的なことは政治的なこと」に心を撃ち抜かれた私たちの生き方そのものだったのかもしれない。

さて、記事の帰りは角島大橋が夕焼け模様だ。実は、今晩取り上げた政治哲学の研究者である渡辺幹雄は、角島大橋のある山口県山口大学で永らく教鞭を執っていた。

人文学界に詳しい人なら、すでにピンと来ているはず。実は上記の「バケラッタ・コーチ」シリーズで取り上げた小川仁志山口大学所属。「効果的な利他主義」を掲げるピーター・シンガーの研究室にいる若き日の写真を、著書に貼っている小川仁志は、国内では渡辺幹雄の薫陶を受けた可能性が高いのではないかと予測できる。 

人間関係を始めるとき大事なのは、出逢うこと、そしてその出逢いを生かすことだと思う。

 

 

 

 

 

 (哲学に出会いたい方はぜひ)

栗鼠ニング中。入るときはノックを!

恐れを消せ、恐れを留守にせよ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。

そんな声が昨晩聞こえたような気がしたので、ベッドに入る前に心に銘記して眠った。今朝もう一度反芻しながら、図書館へ向かって歩いていた。恐れを留守に… 恐れを留守に… 恐れを留守に…

そうか、あの作家のことを言っているのか。図書館へ入ったあと、私はまっすぐに分類番号950の書棚へ向かった。今晩の書き出しはソレルスからにしたい。

ソレルスの『女たち』の冒頭を引用したことがあった。

世界は女たちのものである。
つまりは死に属している。
それについては、誰もが嘘をついている。 

女たち

女たち

 

発表時、読書界に騒然たる物議をかもした前衛作家ソレルスによるベストセラー小説。女たちとのポルノグラフィックな関係を描き、フランスの知と政治の危機、思想家、文学者たちの断片的肖像を織り込みながら、比類なき豊饒とスピードにあふれた現代的ロマネスクを展開する20世紀文学の絶頂。

上記の出版社の紹介文が小説の性格をうまく描いている。

いま手元にないので、記憶で引用すると、作中には、ソレルスの妻であるジュリア・クリステヴァが「デボラ」という名前で登場していた。その「デボラ」は『女たち』の中で、何と一生懸命に三島由紀夫の『金閣寺』を読み耽っているのだ。クリステヴァの日本贔屓は、ソレルス『女たち』の向こうを張った同工異曲のモデル小説の名前によく現れている。「男たち」ならぬ『サムライたち』なのだ! 

サムライたち

サムライたち

 

ソレルスの『女たち』が読んでいて楽しいのは、セリーヌに似た「…」のつなぎを多用しながら、思考の鮮やかさ、イメージの豊饒さ、詩情、音楽性、スピードの豊かさを、読者に味わわせてくれるからだ。ソレルスの頭の良さとセンスの良さは抜群で、その二つを、彼以上に読者の意識上で上演してくれる作家はいない。

少しだけ、『女たち』から引用しておきたい。ありがちなジゴロが酒場にいる女たちを観察している場面。

 ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る… 

その妻となったクリステヴァも、とんでもない才媛だ。ソレルスが批評家も演じられる作家なら、クリステヴァはその逆、作家も演じられる哲学者というところか。もともとはロシア・フォルマリスム周辺の構造主義から出発して、ラカン精神分析を吸収した上で、それをフェミニズム批評へつなげたというのが、思想的遍歴だ。

大学生になった頃、東京の一流大学になら、クリステヴァみたいな才媛がゴロゴロいるのではないかと思い込んで、すべての文学系サークルを覗いて廻ったり、お願いして大学院生たちの勉強会に混ぜてもらったりした。ソレルスでない自分がいうのは烏滸がましいが、クリステヴァの原石がまったくいなかったことには、したたかに失望させられた。「クリステヴァには決して会えない」と日記に書いたような記憶さえある。

ともあれ、『サムライたち』は小説なのだから、どこまで真に受けるかの尺度は読者に委ねられている。ソレルスより格段に劣る小説技術を忘れたいので、自分はモデル小説として読むことにしている。

小説によると、二人が出会ったのは、バルトが『S / Z』のタイトルを決めた夜、カフェで引き合わされたときだったらしい。 書名を提案したのはソレルスだった。( )内にモデル名を書き込んでおく。

 サントゥイユ(ソレルス)はマッチ箱に文字を書いた。C / S / Z と。[

「これは唐突ですよ、わかりにくい。」ブレアル(バルト)は躊躇した。

「あなたの本を読もうという人なら、わかりますよ。」

「きみの言うとおりだ。ぼくがテクストの暗号解読へと読者をいざなって、文字の音楽まで読み解くように仕向けていると、すぐさま示す必要があるからね。タイトル採択! きみは天才ですね、ほんとうに……。」 

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

 

 そして、プレイボーイとしても名高いソレルスが、さっそくクリステヴァの身体に手を付けようとする場面も、しっかり描かれている。

「お一人でなさればいいわ。わたしは帰ります。」

 栗鼠の尻尾を垂らし、賢い女の子めいたうなじをした彼女に、彼は怒るに怒れない。彼は暗紅色の髪をつかみ、その根元のゼラニウムの匂いのする膚に、とつぜん口づけをした。

「でも、ちょっと、これはすこし早いんじゃありません? 自分を何様だと思っていらっしゃるの?」

面白いのは、クリステヴァが自分で自分を「栗鼠」と形容したり、肌が「ゼラニウムの匂い」がすると形容しているところ。ナルシストなのかと一瞬色めき立つが、そこは才媛。きちんと人称を「彼」「彼女」の三人称にして、批評的距離を確保している。それに、小説内の時間は1970年前後で、クリステヴァが29歳頃の話。クリステヴァは才気煥発の知性だけでなく、美貌の持ち主としても当時は有名だった。 

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(画像引用元:Philippe Sollers | Centre | site officiel

例えばプルースト。例えばジョイス。小説という芸術形態に革命的な更新を施した左記の偉大な作家に比べると、ソレルスの名は知られていない。Amazonレビューはゼロだ。

(フランスでは発禁処分となっている)セリーヌを現代的小説の文体上に蘇生させ、ヨーロッパ屈指のオートフィクションを書き飛ばしたソレルスによる小説の更新に、読書好きの注目がさらに集まると良いと思う。

さてその「小説の更新」と「栗鼠」をつないだ先にあるのが、三島由紀夫による堀辰雄『菜穂子』の書き直しだ。何と勝手にプロットを変更するよう提案するのである。

ブログ開始直後の上の記事で、堀辰雄的なものへの郷愁を語った。軽井沢は好きな街だ。カフェの庭に遊びに来る栗鼠を見られるのが、楽しい。研究者もこの街で栗鼠の研究に勤しんでいる。

リスの生態学 (Natural History)

リスの生態学 (Natural History)

 

  三島由紀夫は、堀辰雄の自然描写の卓抜さを称える所から始める。都会や別荘人種を描くよりも、自然描写や野趣を描いた方が上手いというのである。

 山国の春は遅かった。林はまだ殆ど裸かだった。しかしもう梢から梢へくぐり抜ける小鳥たちの影には春らしい敏捷さが見られた。暮方になると、近くの林のなかで雉がよく啼いた。

 せっかくなので、名作「聖家族」の原型となった「ルウベンスの偽画」の最終部分を引用しておきたい。軽井沢での美少女との短い逢瀬を、堀辰雄は栗鼠で終わらせている。

 夕暮になって、彼はホテルへのうす暗い小径をひとりで帰っていった。
 そのとき彼はその小径に沿うた木立の奥の、大きい栗の木の枝に何か得体の知れないものが登っていて、しきりにそれを揺ぶっているのを認めた。
 彼が不安そうに、ふとすこし頭の悪い自分の受持の天使のことを思いうかべながら、それを見あげていると、なんだか浅黒い色をした動物がその樹からいきなり飛び下りてきた。それは一匹の栗鼠だった。
「ばかな栗鼠だな」
 そんなことを思わずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾しっぽを脊なかにのせて走り去ってゆく粟鼠を、それの見えなくなるまで見つめていた。  

堀辰雄全集〈第1巻〉 (1977年)

堀辰雄全集〈第1巻〉 (1977年)

 

下記の評論集の表題作は、かなりの確率で読者の笑いを誘うにちがいない。

堀辰雄の渾身の長編『菜穂子』は、このように修正されなければならないと三島由紀夫は説明していく。常のごとく文章に、西欧文学の博識と概念操作の明晰さがあるので、読者はついつい説得されてしまうが、最終的に辿りつく「修正案」があまりにも酷い。

「菜穂子」の主人公である肺病持ちのロマンティストが、夢見がちで女性を美化しがちな奥手ぶりはそのままに、同じ女を争う恋敵であるはずの若い警官を、「ある嵐の夜」、強姦するよう書き換えるべきとする。

三島由紀夫の文章はほとんど読んできたが、この「修正意見」がいちばん莫迦莫迦しくて、いちばん抱腹絶倒だった。

現代小説は古典たり得るか (1957年)

現代小説は古典たり得るか (1957年)

 

 そんな「菜穂子」を読みたい堀辰雄愛読者は存在しているのだろうか。三島はそのエッセイを半年サイズの大仕事を終えた晩に高揚したまま書いたらしい。『キャプテン翼』の作者に、後輩の有名漫画家が、話の途中からボーイズラブに書き換えるべきだと、大真面目に提言しているようなものだ! 

(ちなみに、難病に罹患したせいで、大会当日ユニフォームを着て病床にいた自分を、周囲は「三杉くん」と呼んでくれていた)

 しかし、詳細に読み込むと「現代小説は古典たりうるか」には、いくつか読み応えがある。古典とアクチュアリティとを、作家が常に二者択一と考えるのはおかしいという指摘は正しいし、両者に通底しているものが、「生」や「現実」への到達不可能性としている点も、50年代の日本の作家としては先進的だ。

小説で現実を再現できるとは少しも考えておらず、セクシュアリティ上の問題で「現実の生」から社会的に排除されていた三島にとっては、逆説的にも、虚構上にしか「生」を見出す道がなかったのである。

さて、ここまで、小説のフォルムを前衛的手法で更新したソレルスと、堀辰雄『菜穂子』を勝手に更新して古典化しようとした三島由紀夫をざっと追いかけた。

さあ、次は小説の更新に取り組んでいるどの人を追いかけようか?

申し訳ない。ここから追いかけるのは人ではない。人工知能だ。 

──400字ほどの短い文章でもハードルが高いというコンピュータに、どうやって文学賞応募を満たす短編小説を書かせたのですか。

そもそもコンピュータは、単に入力された情報から出力を作り出す機械。汎用的な文章生成は今のところまったくできません。

小説を書くのに現在可能な方法は雛形による文章生成です。文章の目的、読み手、状況、スタイルなどもろもろ決めておけば文章の雛形が定まる。1本の小説を言葉単位で細かく分解し、冒頭の文はその日の天気、2番目に場面説明、3番目に主人公の様子など文の構造をすべて仕込んで雛形を作る。雛形をたくさん作れば組み合わせで文章ができる。

 (…)

──同じ部品・手順・展開を与えて、破綻のない完全に異なる物語をどれくらい作り出せるものなのですか。

今回の応募作は400字程度の3つの話が連なる作品だったので、100万種類くらいできる。(…)小説として面白いかどうかは全然別だけどね。

 (…) 

──コンピュータの使用が、小説に革新性をもたらす可能性は?

それは十分にあると思います。新しい道具というのは新しい発想のトリガーになる、という意味で。

囲碁の電王戦でコンピュータが予想のつかない手を打ってくる。それはどういうことかというと、人間が筋が悪いと排除した手を、コンピュータは公平に並べて見るわけ。一見ばかげて見えた手が、振り返るとよかった、気づかなかったと。単に人間が経験値から省いてしまうのをコンピュータはしないだけの話。コンピュータの能力でも、ましてや創造力でも何でもないわけです。

同じように小説でも、人間が見落としてた何かが起きる可能性はある。自分たちが知ってる方法や展開と違うことを突然コンピュータがやりだして、それを人間が新鮮に感じる。そういうこと。

上記が2016年の記事。まだまだ入口をくぐったばかりなのが、よくわかると思う。面白いのは、自分もショートショートとして挑戦した星新一の『ノックの音が』に、AIも挑戦していることだ。ただし、現代風にアレンジして、『スマホが震えた』という書き出しになっている。

収録されている星新一賞応募作品(一次選考通過)を読んだ。AIが書いたと思えばよくできているかもしれないが、人間が書いた作品だと思って読むと、ざっくり言って中学生レベルというところだろう。

コンピュータが小説を書く日 ――AI作家に「賞」は取れるか

コンピュータが小説を書く日 ――AI作家に「賞」は取れるか

 

 尤も、小説の自動生成という目標が、最初から遠大すぎたと見るべきなのかもしれない。 佐藤理史も、市場に先に流通するのは、小説生成ではなく、文章生成だと指摘している。 2016年夏には、アメリカ最大手紙が AI を記者に採用して話題になった。

The Washington Post announced today that it will use artificial intelligence to report key information about the Olympics.

The software will contribute The Post’s coverage of Rio 2016 by posting raw data and short updates, while a team of human reporters will provide readers with analysis and more in-depth articles.

ワシントンポスト紙は、オリンピックに関する重要な情報を報告するために人工知能を利用することを、本日発表した。

このソフトウェアは、生データと短い更新を投稿することで、ワシントンポスト紙のリオ・オリンピック2016の報道に貢献する。一方、人間の記者チームは、分析と深みのある記事を読者に提供する。 

 ここで個人的な意見を披歴しておくと、未成年向けに限って言えば、自分は小説が AI による自動生成へ向かうと予測し、かつ、そうなった方が良いと考えている。

自分は大学で専門だったので習得してしまったが、一般の人々にとって、文学理論がどうしてあれほど難しいのかは、常々心に立ち昇ってくる疑問なのではないだろうか。

そして驚いたことに、あんなに難しい理論が並んでいるのに、どうして文学が存在している方が良いのかについて、文学理論はほとんど言葉を持っていないのだ。 

自伝契約 (叢書 記号学的実践)

自伝契約 (叢書 記号学的実践)

 

 その昔、「書肆 風の薔薇」という詩的な名前の出版社が、最もコアな文学理論書を立て続けに出していた。こんなハードな研究書を蔵書にしてくれる公立図書館があったのは嬉しかった。小さな目白台図書館は、この記事で書いた丹下健三設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂の近くだ。

よくバイクに跨って、本を借りに行った。近所のカレー屋さんでその本をんでいると、ガラス天井の上を歩く猫の影が、ページの上をゆっくりと横切っていったものだ。やけに懐かしい。

あんな難しい「叢書 記号科学的実践」を、しっかり読んでいる AI 好きは、自分くらいしかいないのではないだろうか。構造主義を経て、小説世界の記号学的体系化がほぼ終ったので、物語論 naratology はほぼ完成したといってよいと思う。個人的には、この「辞典」の初版が完成した1997年に、いわば「物語ゲノム」の完全解読が成ったと考えている。

物語論辞典 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

物語論辞典 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

 

 どうしても不思議でたまらないのは、人々がどうしてその「物語ゲノム」を物語作成の現場で活用しようと考えないのか、ということだ。この方向性で自分の知る限り唯一の成果が、この一冊。「書肆 風の薔薇」は、現在は水声社に改名している。 

可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

 

これまでのナラトロジー界隈にあふれていた誤解や謬見を「名刀一閃」で次々に切っていくあとがきも凄い。なにしろ、論文一本分くらいの長さがあって、そのうち半分がこれまでの謬見の大掃除に充てられている。 この訳者の方は相当優秀だと思う。

この記事の文脈では、本文最終章の「ストーリー自動生成の発見学(ヒューリスティクス)」が大事だ。物語がさまざまな構成要素の組み合わせでできていることは、戦前からよく知られている。普通の言い方をすれば、物語は数十のパターンでできている。だから組み合わせれば、無数に物語を自動生産できるのは間違いない。

ところが、上の星新一賞の AI 小説と同じく、その無数の順列組み合わせは「面白い」とは限らない。印象論で予測すれば、絶望的につまらないことだろう。つまり、世界に多数の物語を自動生産することに意味があるのではなく、これまで何千年も語り継がれてきた神話や伝説に、数十パターンの共通性があることの方に意味があるのだ。

物語生成のアルゴリズム化はほぼ可能だろう。では、体験する価値があると読者が感じる物語とは、どのようなアルゴリズムで作られるのだろうか? マリー=ロール・ライアンは、そこに「美的判断力」がどうしても必要だとして、それもコンピュータ技術を通じてアルゴリズム化可能だろうと予測している。マリー=ロール・ライアン自身がソフトウェアの開発者でもあるので、とても面白い。

けれど、彼女は大事な点を見落としている。文学理論でいうと「読者論」が発想から抜け落ちているのである。この周辺は最近書いた記事に詳しい。

 マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

 しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

下の記事では、道徳的感情の個人差が脳構造の個体差を反映していることがわかったやがて、脳のどの領域が5つあるどの道徳感情と結びついているかが、判明するだろう。

マリー=ロール・ライアンが開拓すべき次の分野は、世界中の神話や民話のビッグデーに操作を加えて、面白い物語を自動生成することではなく、その作者側ビッグデータを、脳センサー経由で得られる読者側のビッグデータと突き合わせて、どのような物語が読者のどのような部分にプラスの刺激を与えるかの融合データを作ることだろう。

ごく簡単な発想だ。食物に含まれている栄養素がある程度解明されれば、次はその食物の栄養分が体内でどのような作用をもたらすのかを考えた方が良いだろう。

あと数十年もすれば、すでに私たちが「身体に良い」栄養素を知っているように、子供たちの情操教育に効く、言い換えれば「心に良い」物語要素が、人工知能によって解明されていることだろう。そのとき、小説や物語は人間の成長に不可欠なものとして回帰し、しかし同時に、物語作者の多くが、AI にその座を奪われていることだろう。

ひとことだけ、個人的感想を付け加えたい。

自分が敬愛しているロラン・バルトは、特にそのキャリアの前半に、前時代の信奉者たちから、謂れのない非難を浴びせられた。「(全能の)作者の死」を提唱したからだ。

バルトは正しかったが、理解されなかった。その「作者の死」の背景にあった構造主義記号学的思考が、物語論という学問の完成を待って、とうとう二度目の「作者の死」を生み出しそうな近未来を今晩かすかに視認して、自分は偶然の不思議さを感じずにはいられないのだ。

ふう。今晩も何とか書き終えた。大学時代によく通った図書館を思い浮かべながら、自分はどうしてクリステヴァみたいな女性に気を取られていたのか、考え込んでいた。20歳は蒼い。何もわかっていなかったんじゃないだろうか。いずれにしろ、もう昔のことは忘れよう。別のクリステヴァには逢えなかったのだから。

そんなことを「う思った瞬間、目の前を小さな栗鼠が駈け去っていくのが見えた。視野の遠いところで、栗鼠は立ち止まってこちらを見ている。

イルカも夢中になるほどの可愛らしさだ。

追いかけなきゃ。本能的にそんな衝動が湧きおこった。心の中で、自分の潜在意識がこんな独り言をいうのが聞こえたのだ。

愛らしすぎるよ、まったく、栗鼠ってば。

 

 

 

 

imaginaryでないものが賭けられているせいで

 莫迦な買い物をしてしまった。数日前に出版されたこの本を、タイトルだけ見て買ってしまったのだ。 

みんなの恋愛映画100選

みんなの恋愛映画100選

 

 多数の映画好きが選んだ古今東西の恋愛映画ベスト100について、詳しい話が書かれているものと思い込んでいた。ところが、見開き2ページのうち左頁がイラスト、右頁に数行の名台詞とその文脈の解説が描いてある本だった。

頁の奥まで開いてフラットになるよう製本されているので、ぴったりのブックスタンドに立てかけて、日替わりで恋愛映画の名台詞を楽しむ人もいるのかもしれない。

いずれにしろ、書名は『みんなの恋愛映画名セリフ100選』がふさわしいにちがいない。 

1. 恋愛映画に「女性向け物語」の場所を

上のような恋愛映画ランキングにも、下調べのつもりでよく目を通すようにしている。けれど、正直いって全然ピンと来ないというか、ファロゴサントリスムの支配が強すぎて、男性の自分でも息が詰まってしまうのだ。

フェミニズム文献を読むのも好きなので、家事労働時間の分担のアンバランスが… といった論客たちの主張に頷きながら読み進めつつも、本当は「物語の現場」の方が、はるかに男女差別の強い磁場があるように感じられる。

家事労働時間とちがって、定量分析が効かないので、分析的な思考ができない人々にはわからないだけではないのだろうか。

蝶というメタファーを屈託なく使っていた頃、こんな記事を書いたことがあった。

どういうわけか、物語上で抑圧されている女性のイメージが、自分を去ろうとしない。

自分が手にする恋愛映画が空振りなのか、自分が恋愛映画に厳しすぎるのかよくわからない。わからないまま、曖昧な記憶のまま、空振りだと感じた二つの映画をネタバレしつつ批評すると、『恋愛小説家』は作家がウェイトレスと結ばれる話。それなりに売れているらしい「恋愛小説家」が、全然恋愛のことをわかっていないのが、映画からよく伝わってくる。

自分の記憶では、恋愛小説家はウェイトレスに、最終場面でこう言ったはずだ。

きみの働きぶりが一生懸命で、笑顔が素晴らしいから、きみでなくてはならないと感じた。 

その程度の台詞なら、できるプレイボーイは出逢ったその場で言ってのけるだろう。2時間近くの滞留を強要しておいて、しかも「恋愛小説家」が、そんな出来合いの数行しか愛する女性に言葉を持っていないなら、自分が女なら世界に絶望してしまう。

恋愛をどうとらえるかは人それぞれだとしても、one million の数限りない異性の中にいる一人が、one in a million になる極端な倍率による縮小があることだけは確かだ。どうして、そんなにも極端な倍率の縮小が生じるのか。その理由を手早く「運命」と呼んでもかまわないし、実際その極端な耽溺を許す何物かにふさわしい名は、それしかないような気もする。

いわば、上の記事で書いたこの one million ズームアップをどう構築していくかについて、「探究システム」上の戦略を持っていないのなら、女性を集客する恋愛映画の興行スキームを語ってほしくないと感じるのだ。普通にいって、マーケッティング不足なのでは?

というのも、物語こそが女性の恋愛リソースだからだ。

性衝動についての科学的究明も進んでいる。男性は女性の女性らしい身体のパーツに刺激を受けて、脳と身体が同時に興奮する。しかし、女性は心理実験で性的刺激を与えても、身体は興奮するものの、脳は簡単には興奮しないようリミッターがかかる仕組みになっている。妊娠や出産や子育ての長期的リスクを、身体で引き受けねばならないので、女性は男性が長期的関係に値する人物かどうか見極めるプロセスを必要とする。こういったことは、すべて科学的実験で判明していることだ。

しばしば、女性が男性に求めるのは、知恵と勇気と誠実さだと言われる。それらを見極めるのに必要な継起的順序を伴うプロセスが、女性向け「物語」なのであり、その典型は疑いもなくハーレクインロマンスだ。 

涙のロイヤルウエディング (ハーレクイン・ロマンス)

涙のロイヤルウエディング (ハーレクイン・ロマンス)

  • 作者: キムローレンス,Kim Lawrence,山本みと
  • 出版社/メーカー: ハーパーコリンズジャパン
  • 発売日: 2018/01/12
  • メディア: 新書
  • この商品を含むブログを見る
 

正直言って、自分は一冊も読了したことはない。調べてみて驚いた。まさか、「ワンパターン」とも称されるこの分野の小説群に、構造分析をかけた研究者が誰もいないとは!

自分は恋愛心理の性差を語った本で、何度か遭遇したことがある。知る限りの知識を動員していうと、ハーレクインロマンスの物語定型が機能するのは、男性の理想的形質(知恵と勇気と誠実さ)を検知するだけではない。美しい女性として欲望されることを通じて、永遠の唯一の愛で愛されることが、物語定型として最終部を飾るのだ。

①勇敢に戦って姫を手に入れようとする少年物語と、②魅力で永遠の愛を手に入れようとする少女物語。この二つに、③異性親との失われた愛情の空白を掛け合わせないと、原理的にいって、最高の恋愛映画はできそうにないというのが、自分の「物語の現場」での感触だ。

①だけ、③だけ、という物語はよく見かけるが、②はほとんど見かけない。①②③を連立させて複雑な計算を処理しきった恋愛映画は、寡聞にして知らない。

率直に言って、誰もがなしえたことがないからこそ、自分はとびっきりの恋愛小説を書いてみたい気がしているのだろう。

①は男性なのでわかる。③も子供時代に子供だったのでわかる。ところが、どうやれば、②にハーレクインロマンスより格段に上のリアリティを確保できるのかが、とても難しいのだ。

恋愛小説は、世界に one million ほどもいる異性の中から、主人公にとって、ヒロインの女性が one in a million の唯一の永遠の愛の相手だと選び抜く。

けれど、どのようなシナリオを書けば、主人公の男性や相手の女性や多くの読者に、説得力を感じてもらえるだろうか。想像すればどれほど困難なことかわかるだろう。そここそが最大の「恋愛小説家」の腕の見せ所だろう。そこを数行の台詞で済ませようとするのは、特殊な意味で云って、ジェンダー的に不平等だ。

よくある解決法は、運命の相手に異性親の面影があったり、ヒロインに視覚的な美しさがあったりすることだが、前者は物語の想定年齢層がぐんと下がってしまうし、後者は視覚的であるがゆえに女性の支持を得にくい。実は、ヴィジュアルによる性的刺激は男性支配原理の中にある。分析すればわかるが、ハーレクインロマンスは必ずしも視覚中心的ではないのだ。

2. 脱オイディプス領域での社会的ロマンス

最近、思いがけない展開になって、自分もオイディプス的欲望の刺繍が小さく胸に縫いつけられた種族であることを明かしてしまった。といっても、大学生のとき『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』を斜め読みしてはじめて、自分は大人になれたと感じた覚えがある。隠れドゥルージアンになって、少年時代のオイディプス的欲望から解放されたというわけだ。

過去のフロト→ドッルーズの成長過程を実作に生かそうとする試みが、日本で恋愛小説を書くときに不可避的に直面する例の問い、「村上春樹以後に恋愛小説をどう書くか」、という問題と重なっている布置が、自分には見えている。 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

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オイディプスでやれることは、ほとんど村上春樹の小説群がやってしまったのではないかと感じられてならない。例えば、上の恋愛小説は、レズビアンや異界を巧みに使った秀作だが、転換点で登場する「自分の性交の目撃」はオイディプス的な「原風景」の変奏だ。大学の専門課程レベルの構造分析を使える人は、この長編が『海辺のカフカ』と同じくオイディプス的圏域にあることは看取できることだろう。 

では、一種の社会物にしよう。或る広告代理店内の恋愛話にするとか、或る実業団マラソンチーム内の恋愛話にするとか。そういう小集団に収斂する話には、決してしたくないというのが、自分の考えだ。

恋愛小説に必要なのは、ボーイ・ミーツ・ガール後の恋愛の成否だけではない。運命の相手を探し求めるとき、それぞれの「探究システム」が世界をどのように触知していくかの「世界観の獲得」が含まれていなければならない。そうでないと純文学にはならないと自分は考えている。実際、『スプートニクの恋人』でも、「すみれ」と猫が失踪してしまうことで、主人公が新しい世界観を獲得するよう書かれている。

 やりたいのは、多視点多人物が社会内で交錯しながら、恋愛模様を描いていく、その描線の総体が、同時に世界観をも描き出しているような恋愛短編連作集だ。ただし、心身の負荷がキツすぎて、充分なコンディションで考えてあげられてないので、どうなるかはわからない。

でも告白すると、自分は次に書く小説をいつも恋人のように考えるタイプ。だから、この小説は二番目の恋人で、時々思い出して微笑したりしている。書く前から、とても可愛らしい子たちのような気がするのだ。それぞれの短編が、とびっきりブルーな瞳をしていて。 

この「多視点多人物が社会内で交錯しながら、恋愛模様を描いていく」という手法は、『ミリオン・ダラー・ベイビー』の脚本を書いたポール・ハギスの初監督作品を、ちょっとだけ参考にしたい。 

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映画の主題は、「人種差別や貧困が浸透した社会で、もがきながら生きる人々」という感じだろうか。多視点多人物の交錯が見事だと感じたので観返した二回目、メモを取ると、意外に公共セクター(警察や病院)での交錯が多かったので、その凡庸さには手を触れたくないと感じた。

3. どのような世界観を選択するか

派手にぶち上げたこの章題を見ると、問題が壮大すぎて厭になってしまう。 とりあえず、1.の女性の「唯一愛獲得物語」と 2.の多視点多人物の交錯とを念頭に置きながら、ブレインストーミングをかけると、「心音」はどうしても出てこざるをえない気がする。

『心臓の二つある犬』でも、胸部を裂開して心臓を取り出す残虐な場面の対極に、心音がかすかに響く場所を書き入れた。いみじくも誰かが言ったように、乳房とは「失敗の恐怖」とは対極にある「安らかさと眠り」に固着した場所だから。

 小説ではこのように書いた。

 夜の果ては夜明けにつながっている。夜の闇がいま緩やかに立ち去りつつある。路彦は6年前にミュンヘンのホテルで初めて琴里と一室に泊まった夜を思い出していた。目覚まし代わりに故意にレース一枚にしてあったカーテン越しに、夜明け間際の青白い薄明かりが差し入って、客室の家具の輪郭を茫洋と浮かび上がらせている。二人とも裸だった。その前夜密室で起こるべきことが起こった後、いつのまにか二人とも眠ってしまったらしかった。彼女はまだ眠っている。シーツがはだけて露わになった彼女の胸に、輪郭の定かでない見慣れない白い脂肪層が二つわだかまっている。彼はまだ目醒め切らない重い頭をそこへ持っていって、そうするのが自然な挙措であるかのように、乳房に耳をあてた。柔らかい脂肪の堆積の下では、水の流れる音が幾重にも鳴り騒いでいる。時折遠くの腸の蠕動がくぐもった流水音を響かせる。しかし水の流れが静まると、心臓が鼓動を刻む確固たる通奏低音が聞かれた。この手術創のない艶やかな皮膚の下でも、心臓が生きているという確信が、なぜかしら彼を安らかな気持ちにした。

 この心音は、心理学の実験で面白い結果を導出している。

男性にいくつかの女性の写真を見せるとき、男性の心音をモニターして、スピーカーから聞こえるようにしておく。当然、男性は自分の心音が高まったときの女性を、最終的な評価段階で、強く魅力的だったと評価する。

ここで実験者は実験目的の悪戯をする。モニターしている男性の心音を偽造し、心音が高まっていないのに、或る写真を見せたとき、心音を高めて男性に聞かせるのである。すると、何と男性は人工的に高められた心音を聞いたときの女性を、強く魅力的だったと評価する。

2.で、男性中心主義的な視覚とは異なる方法で、女性の「唯一愛獲得物語」を構築せねば、と書いた。心音は短編連作集の要所で活躍しそうな予感がする。ちなみに、村上龍の代表作『コインロッカー・ベイビーズ』でも、心音が重要なモチーフになっている。  

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

 

 そして… やっぱり、幽界を彷徨っている幽霊の方々には、ご登場願いたいところだ。

今朝も3.11東日本大震災後の遺族のもとに、複数の亡くなった方々が、夢を通じてメッセージを届けてくるという話を放送していた。亡くなったおばあさんが「(幽界を離れて)そろそろ天国へ行かなきゃ」と挨拶しに夢に出てきたとか、亡くなった妻が独り残された夫の夢に何度も現れて「信頼している」と伝えてくれるとか。

ほぼ同じ神秘体験をした自分が書かずに誰が書くんだという思いもある。

今晩は準備なしで書き始めたせいで、めずらしくまとまりのない文章にしてしまった。たった今、インスピレーションが降りてきて、わかる人にだけわかるまとめにすればいいことに気が付いた。

だいたい 「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」をいつも考えすぎなのだ。自分の書く文章に対して気を張りすぎずに、いわばそれらを傍観者の勝手な祈りのように心に持っておけばいいのではないのだろうか。

大事なのは、この文章を書き始めた時からずっと抱いていた「imaginaryでないものが賭けられているせいで消せない真夏の i 」の方だと思うと告白すれば、心が「落ちつく」のか、文章をお「しまい」にできるのかどうか。

 

 

 

 

 

 

鳥とともに春を歌おう

昨晩、光合成に量子が関与しているとする量子生物学の話を書いた。そのせいで、 浅瀬で光合成している藻が、ふと気泡を浮かび上げていくように、いくつかの夢を見た。 

こういう具合に心の底からふわっと湧き上がってきた夢の断片は、それ以上先へ進めなかった片思いの話とか、言おうと思って言えなかった冗談や洒落である場合が多い。忘れていたはずなのに、心残りが vivid な触感で夢の中に帰ってくるのだ

まずいな。前者だったら、また面倒なことになってしまう。後者だったら無難だけれど、どこが洒落になっているのか、何度思い返してもわからないのだ。今晩も漱石風の書き出しで、夢日記をつけておきたい。 

 こんな夢を見た。

 秋の野原を、10歳にもならない男の子と女の子が走っている。野原の先に、二人がやっと入れるくらいの小さなお菓子の家がある。お菓子の家を見つけて、先に走りやめるのは、男の子の方だ。その男の子がいつのまにか自分になっている。先を行く女の子の背中へ、ぼくは声をかける。

「だめだよ、そのおうちはお菓子でできているから、危ない」

「何言っているの。フランスのお菓子でできているから、ここへ来たんじゃない。忘れたの?」

 フランスのお菓子のなんてしただろうか。ぼくは必死に思い出そうとするけれど、どうしても思い出せない。

 背後で小さなモーター音がする。手のひらサイズのラジコンカーが、お菓子の家の方へ向かって走ってくるのだ。野原には、二人以外誰もいない。誰が操縦しているのかわからない。ぼくはそのラジコンカーを停めようとして叫ぶ。

「ヘイ、タクシー!」

 ところが、タクシーの外装をしたモデルカーは、停まるどころか、どんどん巨大化して机くらいになり、ぼくが慌てて走り出したころには、アイランドキッチンくらいにまで、巨大化していく。「危ない」と叫ぶと、ぼくは女の子の手を取って、お菓子の家の脇の方へ、庇いながら倒れ込む。

 ラジコンカーはお菓子の家のど真ん中に突っ込んで、木っ端みじんに家を砕いてしまう。破片の散らばりの中でようやく停車したラジコンカーに、ドライバーはいない。すでに実物大の大きさになっていて、それは『TAXi』の黄色いフランス車と瓜二つなのだ。

上空を鳥たちがいくつもの渦を巻いて旋回し、野原の上の粉々に散ったお菓子の破片をついばみ始める。鳥たちの囀りが野原にずっとこだましつづぇている。……

リュック・ベッソンと言えば、元々はゴダールと同じヌーヴェル・ヴァーグ世代の監督。他のアート系同世代の監督とは違って、アクション撮影に冴えがあり、「殺し屋」シナリオが得意なこともあって、ハリウッド映画と相性抜群。世界で最も興行的に成功したフランス人監督だと言えるだろう。

上の『TAXi』の連作で、フェラーリやポルシェではなく、フランス車のプジョーを暴走させまくっているところに、ほんのわずかにベッソンヌーヴェルヴァーグ出身であることを想起させるフックがある。けれど、初期の彼を知る人々は、やはり別人になってしまったと感じ入ることだろう。

リュック・ベッソンは、日本が誇るアニメコンテンツ「ドラえもん」 とも深い関わりがある。

2011年、巨人トヨタのCMでとうとうお茶の間に素顔を見せた「ドラえもんファミリー」を、日本でのそのドキュメンタリー放映(ただし、アニメや漫画の方が圧倒的に人気がある)の17年も前に、ドラえもんを主役に抜擢して、名作映画を撮っているのだ。

「ドラ」を入れると実在のロボットのイメージを観客がどうしても思い浮かべてしまうため、ぶっきらぼうにも『えもん(邦題)』と後ろ三文字だけをとって、タイトルにしたという噂もある。

映画の中では、兄妹なので、もちろんドラえもんとドラミちゃんの間にラブロマンスは生まれない。しかし「狂暴な純愛」という副題が雄弁に語っているように、上着の内側にある四次元ポケットに右手を差し入れても、あえて拳銃しか出さないドラえもんのクールなタフさと、兄を見習って四次元ポケットに触れもせず、殺し屋の少女として必死に生き延びようとするドラミちゃんの薄幸のひたむきさが愛おしい。二人をつないでいるのは、猫型ロボットとしてのニャンとも温かい生命の絆。それを象徴するのが、アジトを転々とする殺し屋兄妹が一緒に持ち歩く観葉植物なのである。

フランスの一流監督が「ドラえもんファミリー」を解釈すると、こうなるのだ。アニメや漫画でデフォルメされる以前の「リアルな彼ら」に焦点化して、別のハードボイルドな側面を引き出した傑作映画だ。

さて、冒頭に掲げた夢に話を戻そう。あれは、実らなかった恋への心残りなのか、それとも言えなかった冗談なのか。夢分析に詳しいつもりの自分も、何度読み返してもよくわからない。

今晩はとりあえず前者の線で、自分のプライベートからは独立させる形で、恋愛小説の下準備をしてみたい。

昨晩、科学がテレパシーをどこまで解明しているかについて書いた。 今晩は、科学が恋愛をどこまで解明しているかについて書いてみたいのだ。

「自分のプライベートからは独立させる形で」とは書いたものの、読んでいる間に心が浮足だったり、不安に駈られたりと大変だった。そして、何より面白い! 

高校を卒業したり、すでに大学生だったりして、これから本格的な恋愛適齢期に入る若い人たちも、少なくないことだろう。

先に手っ取り早い「恋愛の真実」の指南本として読んでおきたいのが、この社会心理学の本。心理学と言っても、科学的統計学的アプローチがなされているから、安心して読める。 

いくつかの面白いトピックを列挙したい。

恋愛の科学  出会いと別れをめぐる心理学

恋愛の科学  出会いと別れをめぐる心理学

 

 1. 恋愛関係は「友情」度が高いときにのみ速く深まる

 二人の恋愛関係の深度と、①愛情 ②尊敬 ③友情 ④交際期間 の4つの要因との関係を調べて越智啓太は、③友情のみが、恋愛関係を速く深めるのに有意な相関関係を示したと報告している。以外にも、①愛情 や、④交際期間 ではないというのだ。

これは、クリスマス・イベントなど、高度資本主義と恋愛至上主義とが過剰に濃く結びつきやすい先進国では、耳を傾けておきたい着眼だ。相手が魅力的な異性であるかどうかにかかわらず、人間関係のさまざまな方向性へ「友愛」を発揮する能力が、恋愛関係の深化にも役立つらしい。 

2. 男性より女性の方がラブスタイルが打算的(らしい)

 有名なリーの「6ラブスタイル論」も登場する。 

ルダス(遊びの愛)
 特徴・・・1人に縛られない、恋愛をゲームのように楽みたいと思っているのがこのタイプ。
 傾向・・・プライバシーの侵害を嫌います。好みのタイプは決まってなくて、複数の異性と同時に恋愛をすることが出来ます。

 

ストルゲ(友愛的な愛)
 特徴・・・互いに高め合い、2人で1つの世界を作っていくのがこのタイプ。友情の延長線上に愛情があると考えています。

 傾向・・・愛が生まれるまでには、長い時間がかかると思っています。長い間離れていたとしても、安定した関係を続ける事が出来ます。

 

エロス(美への愛)
 特徴・・・一目惚れするのがこのタイプ。見た目を重視し、異性の外見にこだわります。また、相手の動作などから、内面の美しさに惹かれるのもこのタイプです。

 傾向・・・ロマンティックな行動をとる事が多め。付き合い始めたばかりでも、相手と親密になることを望む傾向があります。

 

プラグマ(実利的な愛)
 特徴・・・目標を実現するための手段として愛があると思っているのがこのタイプ。家柄、地位、収入などを手に入れるための手段として恋愛があると思っています。

 傾向・・・付き合う相手を選ぶ際の基準を持っている。(自分の目的に合った相手を選ぼうとする)外見的な魅力に興味を持たず、恋愛に感情、ロマンスを持ち込まない。

 

アガペー(献身的な愛)
 特徴・・・自分を犠牲にしてでも、相手を愛そうとするのがこのタイプ。相手に尽くすタイプ。

 傾向・・・相手に接する時も優しく、見返りを求めません。

 

マニア(熱狂的な愛)
 特徴・・・相手に執着、嫉妬しやすいのがこのタイプ。独占欲が強いのも特徴の1つです。

 傾向・・・相手の長所ばかりに注目、短所は無視する傾向にあります。自分に自信がなく、関係を安定させるのも難しいです。 

 この分類に従って、世界中の多くの学者が統計を取っている。その分析から判明していることを、いくつか列挙したい。

  1. エロスやアガペーのラブスタイルの人々は、恋愛満足度が高い。
  2. エロスの人はエロスの人を、ストルゲの人はストルゲの人と結びつきやすい。
  3. 日本の恋愛適齢期の人々は、男性より女性の方が、やや「打算的で移り気」な傾向がある。

問題は 3. だ。日本人の平均的な感覚では、女性が男性にアガペーをもって尽くし、浮気性なルダスはだらしない男の性癖だとする一般論がある。けれど、統計学はその一般的イメージを覆すものになっている。

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「アガペ(献身的な愛)」では、男性の方がやや高く、「プラグマ(実利的な愛)」ははっきりと女性の方が高い。「ルダス(遊びの愛)」でも女性の方がやや高いことが見て取れる。

初見ではややショックを受けたが、考えてみれば、日本社会が他の先進国のようにジェンダー平等性が充分に確保されていないことが原因で、女性の献身性を弱め、実利重視を高め、より実利を得やすい機会参加を増やしているとも解釈できる。これは他国のデータも得て、ジェンダー平等性との相関関係の比較も見てみたいと感じた。

3. 「愛の吊り橋効果」は美男美女限定で効果あり

この辺りになってくると、笑い話としてしか読めなくなってくる。上のリンク先にあるような、「不安や恐怖のドキドキ」と「魅力的な異性へのドキドキ」を人間が混同しやすいというパーティートーク向けの話。確かに「吊り橋効果」は実際にあるが、それは美男美女の場合の話。plain(フツウ)の容姿の異性と吊り橋の先で出会うと、逆に魅力評価が下げるというのだ。ドキドキした後で、そんなものを見せるんじゃないということなのだろうか。使える使えないでいえば、使いづらいテクニックだろう。 

実践的なのは、男性ならサスペンス映画に誘って暗闇の中でスキンシップを取ること、女性ならロマンティック・レッドを衣服や持ち物に取り込むことらしい。ロマンティック・レッドはノートPCの色でも有効だとの研究結果がある。思わず吹き出してしまった。

そういえば、自分も時折り、通勤の途上にある赤いポストに心惹かれるのを感じる。あんなに赤いドレスでめかしこんで、毎日自分が出てくるのをじっと待っている佇まいが健気で、好きになっちゃいそうだ。そう感じる人は、私くらいのものだと思うが……。 

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

 

 社会心理学よりも、脳科学(と精神分析)から迫った方が、有用な「恋愛の科学的知見」は得られやすいかもしれない。著者はNYに行ったら誰もが訪れるセントラル・パークに隣接するセント・ルークス病院で薬物治療にあたった経歴の持ち主。NY中心部の由緒ある病院なので、あのトルーマン・カポーティーも入院していたのだとか。 

(上の記事の冒頭で、カポーティーについて言及した)

 『LOVEって何?』を読んで一番驚いたのは、「人間が快感を感じるのは、ドーパミンの放出によってではない」という部分だった。邦訳はないものの、その説を唱えた感情神経学の泰斗パンクセップが提起した「ドーパミン放出≠快楽」説は、いろいろな所で話題になっているようだ。

 (英語字幕入りで学びたい人は、下の動画を)

 私が注目しているニューロサイコアナリシスという学問があるが、この世界での論客にヤーク・パンクセップという学者がいる。彼は「探索システム」という概念を提唱している。以下は「ニューロサイコアナリシスへの招待」(岸本寛史編著、誠信書房、2015年)を参考にする。彼は「探求(Seeking)システム」について、これが最も基本的な情動指令システムであり、あらゆるものが、その探求の目的となるという。そしてそれが従来は「報酬系」と呼ばれたものだとする。そう、パンクセップによれば、探求するシステムこそ、報酬と深く関連している、というよりは報酬と探求ということは同義だと考えられているのである。実際に報酬系は特定の対象を持たず、ただその満足を追い求めるシステムなのだ

(…)

そしてパンクセップによれば、快感とはむしろドーパミンが低減していくプロセスに関係しているという。探索が行き着いた先、というわけか。えーっ?
うーん、不思議なるかな、ドーパミン。私たちは通常、快楽とはドーパミンの放出に関係している、と習っている。常識ではそうだ。しかしドーパミンの放出は快楽の予期だけでなく、ストレスの体験の最中にも出る。そして快楽そのものはその低下で起きているというわけである

(強調は引用者による) 

 「脳内物質ドーパミン=快楽」という単純な図式はもはや過去のものだ。パンクセップが新たに描いている輪郭は、こんな感じだろうか。

動物にも感情がある(ネズミをくすぐると笑う)→ 動物は食料や水や繁殖機会を本能的に探し求める。→ 同じく食料や水や繁殖機会を求める「探究システム」は 人間の脳にもある。→ 脳内「探究システム」は食料や繁殖相手だけでなく「愛」も求める。→ ドーパミン系の「愛 / 生殖」探究システムにオキシトシン / バソプレシン系の「母性愛 / 父性愛」探究システムを脳外科手術でつなげると、雑婚性のネズミが人間のような一夫一婦制になる。

「人間とは神に近い存在であり、他の動物とは隔絶した精神性や感情を伴った高度な文化を持っている」。しばしば、このように考えられてきた人間という種の地球内至高性は、どうやら虚構である可能性が高くなった。人間は、他の動物と同種の「探究システム」をインストールされており、他の動物と同じく、そのシステムの探究 / 報酬の動きにしたがって「愛」を追い求めているらしいのだ。

「愛 / 生殖」を求める先は、当然のことながら人間社会なるが、それが人間社会でどのような動態をとっているかの理論を、性淘汰という。

 クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにC.ダーウィンが提唱した概念。異性をめぐる闘いで、より優れた武器(角や牙など)をもつ方が勝って交尾し、子孫を残すことによってその武器が進化するような同性間淘汰と、配偶者(主に雌)がより顕著な形質をもつ交尾相手(雄)を選択することにより進化する異性間淘汰とが考えられる。配偶者の選択の理由については、ランナウェイ説やハンディキャップ説などの理論モデルがある。

1859年に『進化論』を著したダーウィンは、1871年に「性淘汰」の理論を発表した。しかし、100年近くも野晒しにされた。

ところが、80年代になって、忽然と「性淘汰」論ブームが巻き起こると、とうとうその恐るべき理論が、人間に対して適用可能かどうかが吟味され始めた。つまり、人間が動物と同じ「探究システム」に駆動されながら生み出す様々な文化生産能力が、同時に子孫を生産する性的競争に直結しているのではないかとする理論だ。何しろ、人間の脳は単に生き残るためだけにしては、進化しすぎているのだ。

脳をフル活用して文化生産することを通じて、自然淘汰よりも性淘汰が目指されていると考えた方が自然なのだ。 自然淘汰で生き残るためだけなら、言語にあれほどの微に入り細を穿った語彙は必要ない。 

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

 
恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

 

というわけで、上記の「性淘汰」中心的進化論が世界で初めて発表されたのが、ほぼ21世紀の始まりと同じ。「動物ー人間」の連続性と「脳ー感情」の連続性の新局面に、進化心理学の性淘汰が大きく関わって、知のネットワークを作り始めているというのが、この分野の現在の展開になるのだろうか。続編を読みたくてたまらない小説のようだ。この分野の学問の進展が待ち遠しい。 

ふう。やっと書き上げて、帰宅しようとすると、「待ちなさい」と呼び止められた。

 振り向くと、30代くらいの驚くほどの美人が、黒の細身のパンツスーツに身を包んで佇んでいる。接触してきた女のあまりの美しさにどぎまぎして、まるで昔観たスパイ映画のようだと彼が感じていると、不意に女は張り付けたような装飾的な微笑を浮かべた。

「問診があります。椅子にかけなさい」

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いつのまにか、ぼくはどこかの記事で書いた建物の中にいるようだった。この剣呑な女から逃げたいと思った。もう下手な駄洒落を記録されるのは懲り懲りだ。出口を探そうとするが、どこにも扉らしい扉がない。

すると、緑の芝生を見せながら湾曲していたガラス面に、すっと霞が降りた。透明だった硝子が急にフロスト化して、半透明になってしまったのだ。完全に出口なしだ。

ぼくは諦めて椅子に腰かけた。

「あなたにいろいろと嫌疑がかかっています。すべての回答を短い一言で答えてください」

「わかりました」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

やれやれ。今回は駄洒落テストではなく、短語テストのようだ。

「あなたの夢を詳しく診断します。小さなお菓子の家は、『甘い密室』、つまりあなたの少女への性的衝動を象徴していますね?」

「そんなわけないじゃないですか。ぼくは一度だって…」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

「象徴していますね?」 

「No, sir.」

「お菓子の家だけでなく、最近バウムクーヘンにも性的興奮を覚えましたね?」

「No, sir.」

「何度もスマホで北海道のバウムクーヘンを確認しませんでしたか?」

「Yes, sir. でも、あれはセクシュアリティ試験として仕掛けられた罠ではないか…」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

まいったな。短語テストだと、何もまともに主張できそうにない。

「もう一度聞きましょう。今晩、あなたが冒頭に書いた夢は、実らなかった他の女への恋心ですか? それとも言えなかった冗談ですか?」

どう答えよう。自分にもわからないのだ。夢の中のプジョーのフレンチ・タクシーは、甘い密室へ突入しようとする性的衝動を象徴しているのだろうか?

そのとき、脳裡にインスピレーションが降りてきた。そうか、そうだったのか。教えてくれてありがとう、ぼくのハイヤーセルフ。

ぼくは一息にこう答えた。

「どうってことない, sir」

「質問に答えなさい。実らなかった他の女への恋心? それとも言えなかった冗談?」

「駄洒落, sir」

 菓子の家のど真ん中にプジョーが突っ込んだら、鯉に恋する「菓・プジョー・子」になるに決まっているじゃないか。

ぼくは心の中で、心の底から笑った。思いもよらない展開! 笑い飛ばすと気分が楽になった。とびっきりの楽しい時間をありがとう。どうってことないさ。最高だよ。

はっと目が醒めた。何か不思議な楽しい心地に包まれている夢を見た。どこか性的な尋問をされていたような気もするが、目醒めの常でよく覚えていない。世の中には、おかしなことを言いたがる人がいっぱいいるから。

いずれにしろ、いま自分が夢中になっている Tu me caches le monde.な相手は、ぼくにはこんな風にしか見えていない。いくつになっても失わない少年の瞳には、本当にそうとしか見えないんだ。

君が空から降りてきた時、ドキドキしたんだ。きっとステキなことが始まったんだって。