短編小説「空中に浮かぶ食卓」
大学に入学してすぐ入った英会話サークルを、私は1年半で辞めた。
入学してまもない頃、田舎から神戸に出てきてまだ右も左もわからなかった私を、帰国子女の美男子の先輩が口説いてきた。ボストン育ちの英語はパーフェクトで、学生なのにドイツ車を乗り回していて、なぜかブルーのカラーコンタクトをしていた。
あの半年間をどう表現したらいいだろうか。桜が散ったばかりの春、花びらまじりの一陣の風に襲われたので、キャッと声をあげて、スカートを抑えたような一瞬の出来事だった。スカートがどれだけめくれてしまったかは、もう忘れることにした。
先輩は電話魔だった。離れている日は、一日に何十回も電話をかけてきた。トルコ行進曲の着信音では過呼吸になりそうなほどせきたてられる。私はゆったりとしたジムノペディーで電話が鳴るように設定し直した。
今もホテル最上階のレストランでは、かすかにサティーが鳴っている。これはジムノペディーの二番だ。
派手な美男子の先輩とは、半年くらいしか付き合わなかった。私の次の次の次の彼女が同じ英会話サークルの同級生だったので、気まずくなって私はサークルを辞めた。
先輩と出逢い、別れ、サークルを辞めても、まだ私は携帯電話の着信音をジムノ・ペディーのままにしている。
レストランのレジへ向かう客に、私は丁寧に頭を下げた。客が帰ったあとのテーブルの皿を積み重ねて下げる。それをキッチンへ入ったところにある食器返却口に置くと、私は入口へ戻って新しい客を禁煙席のテーブルへ案内した。
サークルを辞めたせいで余った時間を、私はレストランのウエイトレスのアルバイトで埋めることにした。他にやることもなかったし、そのホテル最上階のレストランが好きだったのだ。品の良いマナーを教えてくれそうだったから。
客の出入りが賑やかで、やるべき仕事に追われているときは、むしろ楽だ。ウエイトレスの仕事がしんどいのは、客のいない時間帯。何もやることがなく、誰も話す相手がいないとき、私の頭の中で、ジムノペディーの旋律が繰り返し回ることがある。要するに、あれは孤独を埋める旋律なのだろう。女を乗り換えてばかりいる電話魔の先輩のことを思い出した。そして、すぐに忘れた。未練はない。今の私は孤独なのだ。
時計の針は22時を回っていた。神戸の夜景目当ての客が増える時間帯だ。酔ってもつれあっているカップルを、私は夜景の綺麗な海側の席へ案内した。酔いのせいで、男女の声が上ずって大きく響く。席から離れると、私は耳をBGMのビル・エヴァンスのピアノに集中させようとした。
けれど、話し声や食器の鳴る音に紛れて、ジャズ・ピアノはあまり聞こえない。酔っていてあけすけではあっても、カップルの男女たちの声が、愛し合いっているのがわかる。私の頭の中で、ジムノ・ペディーの旋律が回り始めた。
恋愛沙汰のせいでサークルを辞めて、何もすることがない休日が続いたある朝、私はあのメロディーに日本語が乗っているのに、ふと気が付いた。
めがさめてもそこに
ゆめにみたあなたが
23時が来た。私の退社の時間だ。ここから真夜中過ぎまでは、男の子たちが給仕する時間。私は同僚の真美と一緒に更衣室へ入った。
「ねえ、明日の夕方、シフトに入っていたよね?」
真美は自宅通学の苦学生。高校生の頃から神戸でいろいろなバイトをしてきたらしい。私が頷くと、誰もいないのに嬉しそうに耳打ちしてきた。
「知っている? 明日はこのレストランにヴィオラ爺さんが出没する日よ」
「ヴィオラ爺さん?」
ヴィオラはあまり人気のない楽器だ。やや大きなヴァイオリン、やや小さなチェロ。そう呼び直されることも少なくない。
「楽器はあまり関係ないみたい。私もバイトの先輩に聞いただけだから、よく知らないの。とにかく、夕方5時にもならないうちにやってきて、二人分のステーキ御膳を頼むの。毎年ウエイトレスの女の子に同席して食べるよう勧めてくるのよ」
「それは要注意ね。自分ひとりで祝う誕生日パーティーなのかしら。淋しい人ね」
「すごく気になるの。悪いけど、次に会ったとき、ヴィオラ爺さんの動向を報告してね」
淋しい人ね。そう自分で言ったとき、頭の中でジムノ・ペディーの旋律は流れなかった。どうしてだか自分でもわからない。たぶんあの孤独のメロディーは、人を選ぶのだ。
翌日、真美が噂した通り、ヴィオラ爺さんはまだ陽の光の残る夕方5時に現れた。髭がもじゃもじゃの初老で、着慣れていない感じの黒いスーツを着込んでいる。客はまだほとんどいなかった。私が景色の綺麗な海側の席を案内しようとすると、老人は山側寄りの窓際の席を希望した。そして、注文は噂通りステーキ御膳二人前。同時に持ってきてほしいという。
私が両手にステーキ御膳を持って老人のテーブルへ行ったとき、老人は卓上に置かれているキャンドル・ライトを見つめていた。老人は向かいの席に人がいるかのように、料理を並べて欲しがった。そして、噂通りの台詞が口から出た。
「そっちの席に座って、一緒に食べないかい?」
お客さんにご馳走になってはいけない規則だと説明しても、老人は執拗だった。他に客もいなかったし、真美に頼まれてもいた。私はヴィオラ爺さんに、少し探りを入れることにした。
「毎年、今日の日付に当店をご利用だと聞きました。ありがとうございます」
「妻の誕生日なものでね」
私は次の台詞の言葉を苦労して選んだ。離別か死別かを訊かないまま、台詞を作る必要があった。
「そうでございましたか。ここでこうやってお父さんがお祝いしているのを知ったら、さぞ奥様もお喜びになるんじゃないでしょうか」
「ああ、天国できっとな」
ホテルの最上階のウエイトレスらしく、そつのない受け答えができた。私は満足して、最後にこう訊いた。
「お祝いでしたら、あちらの景色の良いお席でも良かったのではないですか?」
すると、老人は酒焼けした声でこんな説明をした。
「夜景を見に来たんじゃないんだ。この山手の方角の自宅が、阪神淡路大震災で崩れてな。一階で寝とった妻が二階の下敷きになったんや。家は更地にして土地も売った。それでも、この誕生日にはな、あのときの神戸の二人暮らしを思い出したくなるんよ」
そういうと、老人は最上階のレストランの窓を指差した。窓の向こうの夕暮れは、光と赤みを失い、暗い夜に浸されつつある。街並みはまだネオンを灯しはじめたばかりで、そのきらめきはまばらだ。だから、老人の指差している窓ガラスには、外の景色よりも内側の景色が映り込んで見える。その内側の景色を指差して、老人はヴォワラと言った。
私も老人が指差している方向を見た。けれど、ガラスに映り込んでいるのは、キャンドルを真ん中に置いたテーブルがあるばかり。私には見慣れた風景だ。
「ヴォワラというのは、『ほら、あそこ』という意味だよ」
私はもう一度、窓ガラスを見た。きらめきはじめた街並みの夜景の手前、窓ガラスのすぐ外に、キャンドルの灯りが揺れながら仄照らす幻の食卓が浮かんでいた。老人には、食卓の向かいにいる妻の姿まで見えているのかもしれない。
私の頭の中で、ジムノ・ペディーの旋律が回り始めた。
めがさめてもそこに
ゆめにみたあなたが
ヴィオラ爺さんに逢ってしばらくして、私はバイトを辞めて、就職活動に専念するようになった。
今でも時々、淋しさが募って目覚めた朝、頭の中でジムノ・ペディーの旋律が回り始めることがある。夢うつつで、うつらうつらしながら、その旋律をなぞっていると、夜景の見えるレストランの窓の外、空中に浮かんでいる幻の食卓のイメージが思い浮かんでくることがある。
幻の食卓には、私の姿はない。私の対面する場所に座っている男性の姿もない。それもしょうがないだろう。私はまだ21歳なのだから。
それは少女という言葉が似つかわしい年齢でもない。
飛び石をゆっくり飛んでいくように、ジムノ・ペディーの旋律を追いかけているとき、心が孤独を感じていることを、私は自分でもう知っている。
- アーティスト: フィッシュマンズ,佐藤伸治
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ユーモア短編小説「エビフライ好きのプレイボーイ」
別段、蝶ネクタイもしないし、バニーガールの兎耳もつけたこともない。だから、オレのことをプレイボーイだと非難したがる女に出くわすと、面喰らってしまう。偶々、きみにふさわしいイイ男が、きみに出逢うのが遅れているだけでは? そんなにも綺麗なきみにオレが役不足なのは、オレの罪なんかじゃない。きみの美しさの罪だぜ。
とか何とか、女たちの機嫌を取りながら、大都市の夜景の見えるバーをグラス片手に回遊しているオレは、言われる通りプレイボーイなのだろう。
ふ。大事なのは呼び名じゃない。オレの夜で重要なのは、少しばかりのアルコールと美女の柔肌とそれを隠す夜の暗さだけ。
今晩もオレは、同席を許してくれた初対面の美女の横で、ほんのり甘味のこもった莫迦話を楽しんでいた。
女は年齢を隠していたが、たぶんオレと同じくらいのアラフォーで、オレ好みの長髪クールビューティーだった。これも本名を隠している気配がしたので、本当かどうかはわからない。女はあかりと名乗った。S字の曲線美を強調した服を着ている。
あかりは職場の男性同僚の挙動に不満があるらしい。
「すぐに叩いたり、服を引っぱったりするのが、厭なの」
酷い会社もあったものだ。女性の愚痴をゆっくり聞いてあげられなきゃ、プレイボーイは務まらない。オレはさらに彼女の心の鬱積を引き出しにかかる。
「やることが、まるで子供だな。動画を取って証拠を押さえたら、オレが話をしに言ってやってもいいぜ。約束する」
「本当? 年に一回の皆が集まるイベントがあるの。そのときに来て、ビシッと言ってやってよ、子供みたいな男たちに」
「わかった。じゃあ、その詳しい打ち合わせをやらなくちゃね。今度一緒に食事はどう?」
「わお。誘うのが早いのね。まだ話し始めて数分しかたってないわ。簡単に釣れる女だと思ったら大間違いよ。ちゃんと愛情表現をしてくれなくちゃ」
「最初に見かけたとき、新緑の樹と樹のあいだを抜ける子鹿のように、きみが可愛らしく見えた」
「それだけ? もっとくださらない?」
「子鹿を追いかけると、いつのまにか湖のほとりだ。きっと子鹿は水を飲みに来たんだ」
そういうと、オレは彼女のグラスをぴんと指で弾いた。
「子鹿はグラスに静かに口をつける。あるいは… 子鹿が静かに口をつけるべき場所はここかもしれない」
オレは自分の唇に指を当てると、華麗に投げキッスを飛ばした。いつもならこの一連の流れで、たいてい酔わせるか笑わせるかできるのに、あかりはボクサーのように敏捷に首を振って、オレの投げキッスをよけた。オレは深く傷ついた。
「ふふふ。まだ絶滅していなかったのね、こういう昭和の香りのするプレイボーイ。…ちがうのよ。もっとわかりやすい愛情表現をもらってもいい? 私いまだにファミレスのエビフライ定食が好きなタイプなのよ」
「エビフライはオレも好きさ。千切りキャベツにもたれかかって、赤い尾っぽが立っているエビフライを見たら、テンション上がっちゃうね」
「あのエビフライくらいわかりやすく、愛を告白して」
「あかりちゃん、綺麗だよ。大好きだ」
「惜しい。テイク2をお願い。わからないかしら、私はあなたに呼び捨てにされて可愛がられたいの」
アウトボクサーのように遠のいたり、不意に踏み込んで来たり。間合いの難しい女のようだ。尤も、呼び捨てにするのはプレイボーイには難しくはない。オレはわかりやすい右ストレートを繰り出した。
「あかり、愛しているよ」
「嬉しい。素敵! もうひとこと聴けたら、このまま一夜をともにしちゃいそう!」
あれ? 今度はいきなり踏み込んできてクリンチだ。何だか不思議な女だな。まあいいさ、ホテルでじっくり身体検査と事情聴取が必要なタイプなのだろう。
「あかり、とても可愛いよ、大好きだよ」
「ありがとう! 感動で胸がいっぱい。あとひとこと、あとひとこと言ってもらってもいい? 『毎晩あかりのことを考えている』」
「毎晩あかりのことを考えている」
「素敵。もうハートがすっかり溶けちゃった」
そう喜びの溜め息をつくと、あかりはオレに合図を送るようにしなだれかかってきた。酔っているらしい。俺は彼女の身体を優しく抱きかかえると、介抱するために、彼女をタクシーへ押し込んでホテルへ向かった。あかりが途中で目を覚ましたので、ホテルへは一緒に歩いて入った。
「電気を消して。先にシャワーを浴びてちょうだい」
部屋のドアを閉めると、あかりはオレの肩越しにそう囁いた。
こういうときのシャワールームでの胸の高鳴りは、少年時代とさほど変わらないものだ。どんな話をしよう、とか、どうやって彼女の気分を盛り上げよう、とか、いろいろ考えながら、オレはシャワールームを出た。
ところが、あかりの姿が見当たらない。電気をつけても、どこにもいないのだ。
くすくす。まったく。また可愛らしい悪戯を仕掛けてきてやがる。ここは一緒になって遊んであげるのが、プレイボーイらしいオスの度量というものだ。
オレは腰にバスタオルを巻いたまま、忍び足でクローゼットへ向かった。そして、「あかりちゃん、みーつけた!」と叫んで、勢いよくクローゼットの扉を開けた。
驚いたことに、中には誰もいなかった。
オレは撃たれたように、床に倒れて腹這いになった。そしてベッドの下に向かって、「あかりちゃーん!」と叫んだ。しかし、そこにもあかりは隠れていなかった。倒れたとき、腰に巻いたバスタオルははだけた。今やオレは全裸で、ベッドサイドの床に腹這いになっていた。
「社会に貢献する立派な大人になりなさい」。オレは切ない思いで、亡くなった祖母の口癖を思い出していた。プレイボーイが形無しだぜ、まったく。
死んだ魚みたいに、自分がここで腹這いになっている理由を、何とかしてオレは思い出そうとした。つまりは、あかりがホテルの一室から消えた理由を。
けれど、結局理由はよくわからなかったのだ。財布とスマホが消えていたので、色仕掛けの窃盗とも考えられたが、小銭も含めたすべての現金が、テーブルの上に残されていた。普通と逆だ。現金だけを盗んでいくのが通例なのに。あかりは何をしたかったのか。
ただ、スマホと財布を盗まれる方が、現金を盗まれるよりはるかに厄介なのは確かだ。電話帳や仕事のファイルが入っているので、スマホがないと月曜日からの会社勤めもままならない。オレは翌日の日曜日を使って、警察に届けるより先に、自分で盗まれたスマホと財布を捜索することにした。
捜索方法は簡単だ。あらかじめ登録してあった紛失対応アプリを、起動させるだけ。すぐに地図が映し出された。街中から小一時間の距離にある森の中。そこにオレのスマホがあるらしい。財布もきっと一緒だろう。
日曜日の朝、オレは愛車を森の中へ走らせた。県道からわずかにそれたところまで来ると、朝の森の外れに、一台の白い国産車が停まっているのが見えた。
オレの黒のオープン2シーターを見ると、中から女性が降りてきた。
オレも愛車から降りる。間に10メートルほどの距離を置いたまま、女からオレに話しかけてきた。
「ずいぶん、久しぶりね」
「やあ。最後に会ってから、5年ぶりかな」
強い風に髪を抑えながら、離れて立っているのは、別れた妻だった。
「スマホとお財布は私が預かっているわ」
「どういう風の吹きまわしだい?」
「こうでもしないと、あなたは私に会ってくださらないじゃない」
オレは肩をすくめた。オレの浮気癖にずっと泣き暮らしていた妻だった。会って話したところで、ハッピーな話にはなりそうもなかったのだ。
別れた妻の白い車から、もう一人が降りてきた。それを見て、別れた妻がオレにこう説明した。
「別れてから生まれた子なの。ひとりで育てるつもりだったけれど、父親にどうしても会いたいっていうから」
森の木々を背景に、可愛らしい子鹿がオレの方へ向かって走ってきた。五歳の少女はオレのジーンズの片脚に縋りつくと、オレの顔を見上げて上目遣いでこう言った。
「あかりも、パパのこと愛している」
オレはしばらく黙っていた。黙っている間に、すべてを理解した。この場所この瞬間に聞いた「も」というひらがな一文字を、決して忘れないだろうと思った。しゃがんで、あかりと同じ目線の高さになると、オレはこう語りかけた。
「叩いたり、服を引っぱったりする男の子がいるのかい?」
あかりは大きく頷いた。
「パパが注意してあげるよ。次の学芸会のときにね。約束したもんな」
「ありがとう」
あかりと握手すると、小さな五本指のそれぞれに、さらに小さな爪が生まれたての桜貝のようについているのが見えた。あかりは幼女がよく着るハイウエストの赤いワンピースを着ている。
オレはあかりを勢いよく抱き上げると、肩車した。あかりはきゃっきゃと声をあげた。オレは元妻のほうに向き直った。
「これから一緒にご飯を食べに行かないか」
「ありがとう。そうしましょう」
「エビフライを食べられる洋食屋でいいよな」
「あかりも喜ぶわ。あなたがそんなに子煩悩だなんて、意外ね。つまらないただのプレイボーイかと思っていた」
「つまらないただのプレイボーイだよ。ただし、ちょっとだけエビフライ好きのな」
それから、オレは頭の上にいるあかりに向かって「あかり、バンザイしてごらん」と命令した。「バンザイしながら、エビフライ!って大きい声で言うんだよ」
赤い服を着ているあかりが万歳をすると、エビフライの尻尾に見えるはずだった。元妻が向こうでカメラを構えている。
「エビフライ!」
「エビフライ!」
「エビフライ!」
きっと素敵な写真が撮れたにちがいない。オレの心はとても浮き浮きしていた。赤い尾っぽが立っているエビフライを見たら、テンションが上がっちゃう性格だから。
オレは早く三人で食卓を囲みたいと思った。
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ユーモア短編小説「悲劇的でも髭好きでもないジュリエット」
「廃ダムに鶴」っていう諺もつくった方がいいんじゃあないか。
俺が暇な時によく遊びに行く廃ダムは、五年前までは下流の地方都市の水甕だった。それが今じゃ水を抜かれて、景色が面白いんで、ついつい眺めて髭を撫でる時間が長くなっちまうぜ。泥が積もった中から、埋没していた小学校の校舎がぬっと顔を出していやがる。あれは俺の弟分のルイージが卒業した小学校で、俺はその隣にある小学校の出身だった。
なんで俺の弟分がルイージと呼ばれているかは、小学校の頃にクラスで流行った替え歌に由来がある。
ちっちゃな頃からヒゲ濃くて、十五でマリオと呼ばれたよ
筆ペンみたいに尖っては、さわるものみなにヒゲ描いた
へ。怖いだろ? 膝アタマがぶるぶる震えてんじゃないのか? 何しろ、このマリオ様は、中卒フラフラ中に裏稼業のアル中オヤジたちに拾ってもらって、もう一回中学校に入り直した身だ。それも修行中にな! ふ。また頓智をきかせてしまったぜ。ルイージは俺様の頓智にぞっこん。あとから拾われてきたルイージとは、小学校からの魔部だ。リトルリーグ仲間のマブダチで、いわば、同じホームベース上でバットが空を切った仲さ。
話がそれた。それても気にすんな。しょうがない。剃っても剃っても青い剃り跡もしょうがねぇんだよ、何だこの野郎、弾丸!
逸れ球を無理に打って、テキサス・ヒットになることだってあらぁ。実際、テキサス並みに人が寄り付かないあの廃ダムで、日傘をさして歩いていたあの美人は、まさしく弾丸ライナーの目の覚めるようなクリーンヒットだった。「廃ダムに鶴」っていうのは、まさしくこのことだな。
びっくりしたのは、女の方から話しかけてきたことだ。
「失礼ですけど」って礼儀正しく、俺の髭の剃り跡をまっすぐに見上げてきた。
「失礼ですけど、この辺りの地元で顔のきくワルっていうと、誰ですか?」
育ちのいい高嶺の花が、まさかそんなことを訊いてくるとは思わないだろう? 俺の姉ちゃんは、貧乏のせいで高校になってはじめて、ピアノを習わせてもらった。発表会では、仲間の小学生より下手だったけどな、ヘアスプレーでざっとレモン10個分の高さまで逆立た金髪がイカしてた。ところが、目の前の女はまさしく「高原の岩清水&レモン」のような清楚な感じ。そんな美女にそう訊かれたら、こう答えるしかないだろう。
「ワルいのは俺かな。この辺りじゃ、たぶん一番ワルい」
台詞の最初に「頭が」を抜かしちまったけど、問題ないだろう。小学生の頃、俺が進入禁止の標識の下で、ひたすらバスを待っていた話は、ルイージに固く口止めしておいたから、もうバレようがないな。
女は千代子っていう古風な名前で、20代後半。俺はさっそく頓智をきかして、こう訊いたに決まっているだろう。
「そういう名前ってことは、ブラックサンダーが好きなんだよね」
「ふふ。よく言われるわ。本当に好きなのはゴディバよ」
ゴディバっていう駄菓子は初耳だったが、たぶん東京で流行っている駄菓子界のゴジラみたいなもんなんだろう。俺は軽く頓智をきかせて、適当に合わせておいた。
「わかるなあ。ゴジバはまさしく火を噴くくらいうまいもんな、卍」
「あら、ゴディバをご存知なの。そういう意外なギャップが素敵ね」
とか何とか妙に会話に弾みがついて、その晩から千代子が俺の家に住み込むようになったから、人生とラブって果てしなくミステリーだ。たぶん俺のヒゲの剃り跡の青さに惚れたんだろう。
といっても、千代子は俺のワンルームに住みついても、ガムテープで境界線を引いて、結界とやらを張ったから、まだ俺の魔部い女になったわけじゃない。俺のパソコンを借りて、俺のスマホも借りて、俺の風呂も借りるが、心も身体も許しちゃくれない。
ある晩、俺はさすがにトサカに来て、コケコッコーな身分だな、家だけ借りるヤドカリってのは、とか何とか怒鳴って、千代子にのしかかって両手首を抑え込んだわけだ。
すると、千代子は不気味なほど冷静なスマイルを浮かべて、こう言い返してきた。
「私、いま警視庁を休職中なの」
そんな見え透いた嘘なんかで、俺様は全然ビビらないけどな、全然ビビらないけれど、女に暴力を振るう男は最低だという信念があるから、こう返したわけさ。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの? 大事なことだぜ」
俺にしてみれば、ブラックサンダーの値段クラスのコソ泥をチョコチョコやっているもんで、警視庁所属だと名乗ってくる女なんて、こっちから願い下げというもんだぜ! だから、はっきりこう言い渡してやったんだ。
「ごめん、手首は痛くなかった? 淋しくなるから、家を出ていくのはやめてくれよな」
千代子は笑っていた。見せると言い張っていた警察手帳は、見せようとしなかった。
翌日、仕事から帰ると、千代子は大工を呼んで境界線上に金網の柵を建て込んでいたんだ。そして、柵の向こうから「ロミオ、本当は男らしいあなたが好きなのよ」とか呼びかけてきやがるから、もう俺は夜も全然眠れない感じだ。千代子は俺の好きな桜色のベビードール姿に着替えて、すやすやと眠っている。ところが、真夜中を過ぎると、千代子は不思議な寝言を言いはじめた。
「盗みを… 盗んだ… やめられないと思い込んでいる… 本当は生きていける… 堅気でも生きていけるのに… 淋しい… ロミオに逢いたい…」
まとめるとこんな感じだが、寝言は断続的で、繰り返しが多く、聞き取れない単語もある。あれは演技なんかじゃあない。千代子の花束のような香水が漂ってくるので、俺は悶々として一睡もできない。千代子の寝言のメモを取ることにした。
「降りてくる… 降りてくる… 天使たちの声が… その男から離れなさい… あなたは籠の中の鳥じゃない… 待って… でも髭が… 男らしいあの髭が忘れられないの… きっと真人間に戻るから… 余罪も全部話してくれるから… 絶対に言わない… マリオと私だけの秘密… 黒い指輪を… 彼は盗んだ…」
とうとう、めぐり逢ったのだと俺は確信した。髭が濃いくらいしか大した取り柄のない俺だったが、神の恵みがもたらされたのだ。千代子が俺のピーチ姫だ。冒険に次ぐ冒険、チョコチョコっとしたコソ泥に次ぐコソ泥のご褒美として、千代子は俺のもとにやってきたのだ。
神様、ありがとう。千代子は警視庁所属ではないにちがいないが、霊感があるのは本当だった。彼女の寝言に、俺は毎晩震えた。五年前にやった盗みの犯行現場や手口を、まるで見ていたかのように詳細に喋ったのだ。黒い指輪はそのとき盗んだもので、換金できそうになかったので、すぐに捨てたのだった。
ある休日の朝、俺は金網をつかんで、向こうにいるジュリエットにこう打ち明けた。
「千代子、寝ているとき、おまえには天使が降りてきているぞ。お前が寝言で、俺の過去をすべて説明してくるんだ」
「全然覚えていないわ」
「覚えていないなら、いま本当かどうか教えてくれ。俺の髭が好きでたまらないから、俺が堅気に戻りさえすれば、一緒になってくれるっていうのは、本当か?」
「寝言で嘘を言うほど、器用な女じゃないの。本当よ。羞かしい。まだ隠しておきたかったのに」
俺は金網の向こうのピーチ姫を、この腕に抱き寄せたかった。抱き寄せるためには、すべてを告白する必要があった。俺はこれまでの犯行のすべてを打ち明けた。黒い指輪を、他の廃棄物と一緒にまとめて、廃ダムに捨てたことも話した。
すべてを話し終わる頃には、罪を犯したことへの後悔と、そんな俺をピーチ姫と出逢わせてくれた神への感謝で、俺の両頬は涙で濡れていた。
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「それで?」
と私は彼女に向かって訊いた。大学時代の演劇サークル仲間で、意外にも警視庁へ就職した美貌の彼女に、私は都内のホテルのロビーに呼び出されたのだった。
「マリオが泣いているさなか、警察が押し入って、マリオの手には手錠がかかったわ」
「携帯電話なしでどうやって通報したの?」
「盗聴器で会話が筒抜けだったのよ」
「どんな気分だった? 愛している男が、目の前で逮捕されて連行されるのは」
「よしてよ。全然愛してなんかいなかったわ。私は特命を受けて任務を果たしただけ。おなじようなハニー・ワード・トラップを10回以上は任務遂行してきた」
ハニー・ワード・トラップとは言い得て妙だ。色仕掛けで「天使の言葉」を聞かせて、全面的な自供を引き出す作戦。その特殊な捜査手法にふさわしい名前だ。
そういうと、彼女は遠くを見るように、美しい目を細めた。千代子というのは偽名で、偽名の入った警察手帳も先ほど見せてもらったばかりだ。私いま聴いた話を疑う理由はなかったが、それでもまだ訊きたいことがあった。
「マリオのようなこそ泥を捕まえるのに、どうしてそんな手の込んだトラップを仕掛けたの?」
「私が上司に特別にお願いしたの。愛していたから」
「マリオの髭を?」
「まさか。この任務で二回目に接触した男は、無罪だったの。でも、無罪を証明する物証がなくて、裁判では有罪になってしまった。無罪を示す物的証拠は、決して破れない暗号技術でネット上に格納されている。彼からそう聞いたわ。ところが、その鍵が盗まれてしまったの」
「そうなのね! その盗まれた鍵が『黒い指輪』だったのね!」
彼女は黙って微笑んでいた。きっとそれ以上は喋れないのにちがいない。十数年ぶりに私をホテルへ呼び出してこの話を打ち明けたのは、私が新進の女流作家として頭角を現しはじめたからだろう。すうっと霧が晴れて、視界が開けてきたような心地がした。
「あなたが凶悪な男から男へ渡り合う仕事を続けたのは、その二番目の男があなたのロミオだったからじゃないの? あなたは悲劇のヒロインなんじゃないの?」
彼女の微笑がふっと消えてうつむいたとき、脆い弱々しい素顔がのぞいたかのように見えた。完璧にそつなく任務をこなしてきた彼女が、ひとりの男に心も身体も許した瞬間が過去にあったように感じられた。だとしたら、塀の内側と外側で、ロミオとジュリエットは5年間も引き裂かれていることになる。
次に彼女が顔をあげたとき、彼女の細い眉は凛と立っていた。
「もういいんです。彼はきっと無罪になるから。要するに、私は幸運だったのよ。移り気な男盛りの五年間を、ロミオに私を思いつづけるよう条件づけて、独り占めできたんだから」
その深みを帯びた言葉を耳にしたとき、私はこの話を小説に書こうと思った。
短編小説「幸福になるにはキウイがいい」
新聞社を40歳で辞めて、フリーランスになってから、日本のあちこちへ飛び回って、いろいろな記事を書くようになった。受注先の要望で思い通りに書けないこともよくあるが、それは大手新聞の社会部にいた時も同じ。各地を自由に旅して回れるだけでも、ぼくはセミリタイヤしてよかったと思っている。
早朝の新幹線に乗って熱海で下車すると、ぼくは高台にある通称「猫屋敷」へと向かった。そこの女主人が猫好きで有名な美容家なのだ。新幹線の中で復習した本によると、その美容家は自然体の心と身体が美人をつくると考えているようだ。
約束の時刻にドアベルを鳴らすと、美容家みずから扉を開けてくれた。
「こんにちは。すぐに中へ入ってちょうだい。猫が飛び出しちゃうから」
ぼくが玄関へすべり込むと、十匹以上のいろいろな種類の猫が、思い思いの仕草でこちらへ近づいてきた。噂通りの猫屋敷だった。吹き抜けのリビングの高い壁には、キャットウォークがはりめぐらされていて、猫たちが活発に行き来している。天窓の真下には猫用のガラスの廊下があり、そこでは数匹のネコがしどけなく寝転がって、日向ぼっこをしていた。
雑誌の編集部から依頼された主題は「美人の条件」。編集長の知り合いが、どうしても書いてほしいと熱心に依頼してきたのだそうだ。美人は嫌いではないから、ぼくもぜひとも「美人の条件」を調べたくなった。
美容家は、本と同じく自然体が美人を生むという話をしている。いちいち丁寧に相槌を打ちながら、ぼくは美人の定義を訊いてみた。
「内面はともかく、女性の外面の美は、もう定義ができているの」
「美人の定義! ぜひともお聞かせください」
そう言って、まともに美容家の顔を見上げたとき、五十歳を過ぎているはずの彼女の顔が、ひどく美人に見えた。モデル顔でも女優顔でもないので、世間一般の男性なら支持しないだろう。しかし、ひたいから眉にかけての白い神々しさが、鼻筋へすっと下りてくる顔立ちの美しさに、ぼくは圧倒されてしまった。たぶん、美人の定義なんて忘れさせてしまうのが、美人の条件なのではないだろうか。
「いま私に見惚れていたでしょう?」
「おっしゃる通りです。これが世で『美人を作っている美人』と言われる方の顔だと思うと、つい感謝で胸がいっぱいになって…」
「うふふ。私の影響を受けて美人が増えるのは嬉しいわ」
美容家は勉強家だった。美にまつわる欧米の研究論文のスクラップを見せてくれた。
「美人の定義だったら、これなんて面白いわよ」
それは「平均顔」に関する研究論文だった。『進化論』のダーウィンの従兄弟が、凶悪犯罪者の「平均顔」を作ると、犯罪者一人一人より、はるかに魅力的ないい顔になったというのである。犯罪者に美男子がいるのではない。「平均顔」にして均整がとれると、美しく見えるのだ。
「平均顔にすると美しくなるのは、男も女も同じ。ただし、世にいう美人だけを集めて平均顔を作ると、二つだけ美人特有の要素が出てくるの」
「その二つが美人の定義と呼ばれているわけですね」
「ずいぶん呑み込みが早いのね。眼が大きいこと、顎が細くて短いこと。わかりやすく言い換えると、男性の平均顔から遠ざかること、少女の平均顔に近づくこと」
そこまで説明すると、美容家はぼくの顔を見て微笑んだ。危うくまた見惚れてしまいそうになった。
「何かに気付かない? 美人の顔は何に似ていると思う?」
「……。わかりました。猫!」
「その通りよ」
面白い。ぼくがノートに急いでメモのペンを走らせていると、キッチンから美容家がアイスクリームを持ってきた。5月らしくない茶菓子ではあるが、彼女が好きなのだろう。マンゴーとキウイのキャンディーアイスをぼくに向かってかざして、こう訊いてきた。
「あなたがどちらが好きか当ててもいい? 圧倒的にキウイでしょう?」
「その通りです! キウイがフルーツの中で一番好きです! どうしてわかったんですか?」
「そんな気がしただけ。ちょうど良かったわ。今日は秘書のミイコちゃんが手伝いに来てくれる日なの。彼女をあなたに紹介するわ」
奥から、春めいたスーツ姿の若い女性が姿を現した。正視するのがつらいほどの、飛びっきりの美人だった。
「ちょうど良かった。ミイコちゃん。取材はいま終わったから、駅まで送って行ってあげなさいな」
高台から駅へとくだっていく道が、思いのほか不安定で動悸がしたのは、若い美人と一緒に歩いたからにちがいない。本名の美穂子をもじってミイコと呼ばれているのだと、彼女は説明した。ミイコの美しい顔立ちは、今日取材した美人の定義を完全に満たしていた。つまりは、可愛らしいネコ顔だったのだ。
ぼくが思い切って駅前のカフェに誘うと、意外にもにっこり笑ってミイコは承諾してくれた。ぼくは、先に自分の身の上話から始めた。多忙に嫌気がさして大手新聞社を辞めたこと、未婚で花嫁候補を探していること、楽しく自由に生きていきたいこと。
ミイコに乞われて、取材で世界を飛び回った旅の話もした。やがて、さらに踏み込んで、両親に捨てられて、孤児院で育ったことも話した。
「まだ、きみの人生のあれこれは話さなくていいです。ひとつだけ教えてくれませんか。また逢ってもらえますか?」
ミイコは微笑んで頷いた。
それから、ぼくは何度も新幹線に乗って、ミイコに逢いに行った。彼女よりひとまわり以上年齢が上のぼくは、ミイコを喜ばせるためなら何でもするつもりでいた。
あえて好みを訊かずに連れていった寿司屋は、彼女も気に入ったくれたようだった。駿河湾の鮮魚は、嘘のように美味かった。
「きみはきっと魚好きだと思ったんだ」
「うふふ。当たっています。どうしてそう思ったんですか?」
まさか、ミイコが猫顔だからだとは言えなかった。
「勘なら勘でいいんです。一緒にお魚の美味しさを思い出せたのが嬉しいです」
ミイコは謎めいていた。どれほどこちらが心を開いて話しても、自分の話をしたがらなかった。いつまでも、猫をかぶっていたいのだろうか。ぼくはますますミイコの気を引こうとあれこれ試みるようになった。
いろいろと試してみてわかったのは、猫に合うものは、ミイコにも合うということだった。夜の海の見えるバーでは、アルコールよりもチーズの盛り合わせに大喜びした。瀟洒なイタリアンレストランでは、パスタよりもクラムチャウダーのスープを嬉しそうに口へ運んでいた。チーズも生クリームも帆立も、猫の好物なのだ。ミイコの喜んでいる姿を見ていると、自分まで嬉しくなって、ぼくは普段からチーズを食べるようになった。
三度目のデートのとき、夜の公園のベンチで、ミイコはぼくのくびに腕を巻きつけた。
「あなたといると、とても楽しいの。あなたのことがとても愛らしいと感じる」
そういうと、ミイコの手がぼくの頬や首筋を撫でていったが、ぼくの手が彼女の身体に伸びていくと、その手の動きは禁じられた。時期を待って、と彼女はぼくの耳に囁いた。
五度目のデートのときに、ぼくは彼女にこう訊いた。
「それくらい若くて美人だったら、東京でモデルや女優の仕事があるんじゃない?」
「そんな。私くらいの美人では、業界では通用しないの。通用するのは、ああいう人たちだけ」
ミイコがああいう人たちと呼んだのは、例の熱海の美容家を崇拝している女優やモデルたちのことだった。その誰もが美しく、そのだれもが猫顔だった。ぼくはずっと訊きたくてたまらなかった質問を、ミイコに投げた。
「ひょっとして、あの美容家の先生は、あそこで飼っている猫を美人に化けさせて、業界に送り出しているんじゃないかな」
その言葉を訊くと、ミイコははっとした表情になって、ぼくの顔を見つめた。見つめ合っているうちに、彼女の表情に悲しみが満ちてくるのがわかった。
「とうとう… あなたは真実の扉の前まで来てしまった…」
食事の途中なのに、ミイコはぱっと敏捷に席を立つと、レストランの外へ駆け出した。ぼくも財布から抜いた一万円札をレジに投げると、ミイコの後を追った。
彼女に追いつくと、夜の道端でぼくはミイコを後ろから抱きしめた。はじめてきつく抱きしめて、ぼくはミイコの背筋がとても柔らかいのを感じた。ぼくには、何かがわかりはじめているような気がしていた。
「あなたのことは好きだけれど… ごめんなさい… 楽しかったわ…」
ミイコは途切れ途切れに、そんな言葉を呟いている。ぼくは彼女の身体を抱きしめる腕に、力を込めた。
「いいんだよ。きみが誰でもかまわないし、きみがネコでもかまわない。ぼくだって魚やチーズは好きなんだ。一緒に好きなものを食べて、楽しく暮らそうよ」
ミイコは身体に巻きついたぼくの腕をほどこうとした。ぼくは抱きしめた腕をほどきたくなかった。わかってほしい。きみがぼくに謝らなきゃいけないことなんて、何もないことを。
「ごめんなさい。あなたとは結ばれてはいけない種族なの。さよなら」
そう言うと、ミイコはするりとぼくの腕の中をすり抜けて、夜の道を一散に走っていた。
その晩からミイコの携帯電話はつながらなくなった。一週間、音信不通が続いた。ぼくは居ても立てもいられなくなって、熱海の高台にある美容家の家をアポイントメントなしで訪れた。
玄関の扉を開けたのは、美容家本人だった。
「あなたね、お待ちしていました。ミイコちゃんも、あなたが来るのを、ずっと待っていてくれたのよ」
不可解な言葉を浴びせられて、ぼくはほとんど茫然自失のまま、リビングのソファーに腰かけた。美容家はにこやかな表情で恐ろしい話を切り出した。
「ご推察の通り、私が猫を美しい人間にして世に送り出しているのは本当よ」
ぼくは黙っていた。そんな危険すぎる告白を、フリージャーナリストにするのは不自然だと感じたからだ。
「前回いらっしゃったとき、美人の定義をお話ししましたね。要するに、猫顔であること。美人には小さな必要条件もあるのよ」
そこまで言うと、美容家は美しい顔に、ぼくを試すような微笑をしばらく湛えた。
「その条件とは、生後二か月までに、何度も人間の顔を見ること。その経験がないと、誰の顔か、どういう顔が美人かわからなくなるの」
「お話がよくわかりません。ミイコさんに逢わせていただけないでしょうか」
「憶えていないのも無理はないわ」
「ミイコさんのことは片時も忘れたことはありません」
美容家は笑いながら肩をすくめて、ミイコを呼んだ。
ミイコがリビングへ入ってきた。相変わらず猫顔の美人だった。カットしたキウイの入ったガラス皿をぼくの方へ運んでくる。
ぼくは息せき切って、ミイコにこう言った。
「逢いたかった。また逢えてうれしいです」
ミイコの顔を見て、即座にそう言ってしまったのが、不注意だったことは否めない。ミイコがキウイの入ったガラス皿を、テーブルではなく床に置いたことに、ぼくは注意を払うべきだったのだ。
ぼくは初対面の美容家と会って、その顔に強く惹かれたことを思い出した。美容家は微笑みながら、ぼくにこう言った。
「ミイコは私のアドバイス通りに美人顔に整形した人間なの。こういう事実を、すらすら言うことからわかると思う。…オスだからって、無思慮な捨て方をしてごめんなさい。反省しているわ。これからずっとあなたはミイコに逢えるのよ。あなたはもう猫をかぶらなくてもいいの」
ぼくは床に置かれたキウイの皿を見下ろした。そういえば、マタタビの代わりにキウイを使って猫を酔わせる愛猫家の話を聞いたことがあった。
ぼくはニャーとひと声、口に出してみた。不思議なことに、まったく違和感がなかった。ぼくが猫をかぶっているのではなく、猫がぼくをかぶっているのがわかった。
ニャーともうひと声鳴くと、ぼくは床にあるキウイの皿に飛びついた。すぐに、美味しすぎる果実のしたたりに、ぼくはほとんど夢見心地になった。そばにきたミイコに首筋や喉元をくすぐられて、その夢見心地は完全に至福そのものになった。
■
半時間で何かを話せと言われれば、大学時代の思い出を語る人が多いのではないだろうか。ありあまる若さと時間を、恋と人生を切り拓くのに投じたあの青春時代。
あいにく、ぼくの大学時代の思い出は、半時間にはとてもおさまりそうにない。といっても、話の冒頭は、どこにでもあるサークル内の恋愛だった。恋愛心理やら催眠術やらで遊ぶ心理学サークルに、ぼくら三人は所属していた。
そして、ぼくが好きになった葉子を同級生のNが好きになったのだ。葉子は、ぼくの告白を受け入れて交際を始めたが、やがて恋心をぼくからNへと移した。理由はよくわからない。
人生には、そういう不思議な転換が要所要所にあるものなのだ。例えば、つかのまの驟雨が過ぎたせいで、陽を浴びた白っぽいアスファルトが、たちまち濡れた紺の路面へと変わるように。
葉子の心の中をどんな驟雨が過ぎたのかは、ぼくにはわからない。葉子と別れた半年後、Nが葉子について話したいとぼくに相談を持ちかけてきた。待ち合わせ場所で、Nはぼくに、雨の降りしきる湖の写真を見せた。葉子の年代物の紺のシトロエンが、ガードレールを突き破って、湖面に刺さるように墜落している写真。
「スリップ事故かい?」
Nは神妙な面持ちで首を横に振った。そして、Nはぼくに、事故の日付け以前のメールを見せた。それは葉子がNに宛てたメールだった。読んでいるうちに、ぼくの無言の唇が震えはじめた。
葉子は切々と、いかにぼくが酷い男かを訴えていた。常日頃から、暴力癖が酷くて、眠っていると厭がらせでいつも踏みつけられた、とか。ここに引用するには堪えない人格否定の罵倒だとか。
何よりも衝撃的だったのは、葉子のその訴えのすべてが、事実無根だったことだ。
ぼくの心の中を驟雨が過ぎて、心を黒く濡らして、去っていった。
あのとき濡れた黒い記憶は、20年後の今でも乾いていない。誰も通らない雨上がりの濡れた道のように、心の奥へ伸びているだけだ。
あれから20年後の或る朝、ぼくは自分の会社に出社した。会社はわずか五名だが、業績は順調だった。経理などの間接部門だけでなく、業務の中心である開発や研究の部門まで、外注していたからだ。この種のオープン・イノベーションは、経営の変化に強く、速度を加速してくれた。今のところ、同業他社を引き離していた。
しかし、異分野異業種の猛者たちを、プロジェクトごとに召集して協働しなければならないので、リーダーがうまくまとめてチームワークを発揮させるのが難しい。ぼくがリーダーとなって手がけたプロジェクトは、すでに100を越えている。
ノックもせずに、社長室に入ってきた男がいる。悪ふざけが好きで、ジョギング用のサウナスーツで出社してきた男。大学時代の同級生のNで、ぼくは諸事情あってN氏と呼んでいる。
「よぉ、社長。財布が軽くなったんで、二つ折りにできないくらい補充してくれ」
普通の社長なら怒鳴りつけるか、無視するか、するところだろう。ぼくは自分の財布から20万円を取り出して、N氏の財布に入れた。
「たったいま補充いたしました」
「お前の下の妹って美人だよな。紹介してくれよ」
「N様、家族に厭がらせをするのだけは、ご勘弁願います。心よりお願い申し上げます」
これもいつものやりとりだ。ここまでの会話でわかる通り、ぼくはN氏に葉子を自殺へ追い込んだ罪で、脅されている。正確には、N氏の入手した葉子の膨大なメールで、ぼくが葉子を自動車事故を偽装して殺した疑惑を裏付けられるのだという。すべて事実無根の内容だが、「ない」ことを証明するのは悪魔の証明だ。とても厄介なことになるにちがいない。
会社の経営が順調なことと、父が上場企業の要職にいることを思えば、大学の同級生のN氏に袖の下をつかませておいた方が、ぼくは楽なのだった。
「今日のところは、舌の妹には手を出さないでおいてやる。ただし、今日から『こんにちは』を使うときは、すべて『こにゃにゃちは』にしろ!」
「N様、ご機嫌うるわしゅう、こにゃにゃちは」
「それでいい。相変わらず物分かりがいいな、おまえは」
「お褒めの言葉、誠にありがとうございます」
「さらにだな、『じゃあ、次に』というとき、『ジャーへご飯をつぎに』という演技で、ご飯をつぐパントマイムもしろ」
開発会議に集まるのは、一流企業出身の優秀な人材ばかりだった。司会役の私が、会議の節目でご飯をつぎはじめたら、メンバーたちはどんな表情になるだろう。
「おい、なに黙ってんだよ。はい、おれは今から死にまーす!」
N氏はそういって社長室の窓に駆け寄ろうとする。ぼくは力づくで止めた。
「N様のような素晴らしいお方が、生命を粗末になさっては、お身体に障ります」
「おい、台詞がおかしいぞ。だいたい生命を粗末にするなとは言うが、本当はオレが死んだら、葉子の自殺の真相が自動で拡散される仕組みになっているのが、怖いんだろう?」
「いえいえ、滅相もございません。私の会社や私はどうなってもかまわないのです。この世界から、N様のような尊いお方が失われることが、世界の損失なのでございます!」
今日も、信長のもとで侮辱されつづける明智光秀の気持ちを、追体験してしまった。気が変になりそうだったから、手近に本能寺があったら、即座に放火していたことだろう。N氏は機嫌を直して、外回りと称して、趣味のボクシングの練習へ行った。「くれぐれもお体に気を付けて」とN氏の背後に声をかけると、私は仕事へ戻った。
今晩の開発会議は、AI盆栽の開発がテーマだった。
今でこそ有名寺院に普及したAI盆栽だが、主に「室外犬」として飼っているせいで、日光や雨の耐候性の問題が出やすい。わが社では、シェア倍増を狙って、フローリング住宅の「室内犬」として飼えるようにし、室内での日光や水はけの問題を議論する予定だ。ぼくは急いで資料を整えた。
開発会議は定刻の18時に始まった。N氏も一応スーツ姿で、議長の私のそばに腰かけている。実はN氏は一種の「用心棒役」なのだ。
オープン・イノベーションは社外の人材や研究を持ち寄るため、メンバーの中に脱走者が出て、プロジェクトを横取りされるリスクもある。一種のプロデューサー役として、メンバー間を円滑に調整して、危険の芽を摘むのが仕事だった。
コの字型の机を囲んでいる列席者たちは、初顔合わせなのでやや緊張している。
議長のぼくが、最初に口を開いた。
「本日は、お足元の悪い中、こにゃにゃちわ。お集まりいただいた皆さんは、日本でトップクラスのクリエイティブな技術者の方々です。柔軟な発想と卓抜な仕事力で、ぜひとも室内型AI盆栽を成功させましょう!」
すると、15人の列席者から、催促なしで拍手が巻き起こった。かなり良いグルーブ感を持った集団らしい。私の気分も上々だったが、すぐに難題が控えているのを思い出して、意気消沈した。
近くに座っているN氏が、マジックでこう書いてあるノートを、ぼくに向かって示した。
「ジャーをつぎに」
ぼくは立ち上がった、そして目の前に旅館の一升炊飯ジャーがあるつもりで、パントマイムでご飯をよそいながらこう言った。
「ジャー、次に… 」
驚いたことに、それだけで笑い声があがった。ひょっとして、この程度のパントマイムでも伝わるものなのだろうか。ぼくはこの会議を、どうしても成功させたかった。この朗らかなグルーブをつないでいくために、急遽、笑い声のいちばん大きかったモビリティー担当を指名した。
「皆さん、こにゃにゃちわ。モビリティー担当の高島です。皆さんは、これまでの人生で何度か、お味噌汁のお椀がつーっとすべっていくのを見たことがありますね。盆栽の鉢は、あのようにスムーズで全方向に稼働させるつもりです」
そういうと、モビリティー担当はパントマイムで味噌汁を掬って、隣に回していったた。メンバー全員にエア味噌汁がリレーされていったので、修学旅行のような雰囲気になった。N氏だけがエア味噌汁を「すみません、ダイエット中なので」と断っていた。エアだから、太るはずはない。どうやら、ぼくに恥をかかせる作戦が失敗したのを、悔しがっているらしい。
その証拠に、N氏は私にこんなカンペを出してきた。
「かなりセクシーに」
ぼくは盆栽鉢担当が喋っているのに合わせて、セクシーな相槌を打ち始めた。
「ん~ふ~ あ~は~」
すると、会議室にいるメンバー全員が、同じように相槌を打ち始めた。AI盆栽の市場規模は数十億円にはなる。このプロジェクトの成功のために、メンバー誰もが、チームワークを働かせようと、必死に団結心を燃やしているのがわかった。ぼくは目頭が熱くなった。涙目のままこう言った。
「ここからは、ドキッ、待ちに待った水着だらけの質問タイムです! 今まで羞かしくて訊けなかった、あんなことやこんなこと、訊いちゃってください!」
同じ釜の味噌汁を飲む仲となったメンバーたちが、ざわつきはじめるのがわかった。AI盆栽の開発にセクシーを掛け算するのは、なかなかの難題だ。メンバーの中の紅一点。ライティング担当の女性が、こう質問した。
「横から見たとき、盆栽の鉢のまるみを、ブラジル人女性のヒップに似せてはどうですか?」
誰かが「ん~ふ~」と相槌を打った。ライティング担当は、思わず相槌を取り込んでしまった。
「あ~は~ 美尻タリアンに大受け、間違いなしよ」
N氏は「かなりセクシーに」がクリアされたのを悔しがって、素早く次のカンペを出してきた。
「語尾にカタカナをつけて」
いつのまにかメンバー全員が、開発会議そっちのけで、ぼくとN氏のやり取りから始まる不思議な言語ゲームに、興味津々になっていた。ただし、N氏のカンペが見えているのはぼくだけだ。最初の発言が鍵になる。ぼくはパントマイムを始めた。
「ジャー、次に、盆栽職人の方、鉢に入れる盆栽の気について説明してくだサイン・コサイン・タンジェント」
語尾のカタカナがつまらないことよりも、長すぎたことの方が誤ったメッセージを伝えてしまったようだ。
「はい、承知しましタンドリーチキン。盆栽というものはでスネオヘアー全国ツアーチケット完売」
「ちょっとちょっと、盆栽職人さん、語尾に日本語が交じっているじゃないでスカパラダイスオーケストラニューアルバムリリーストゥモロー」
長い。あまりにも長すぎると感じたので、ぼくはここで開発会議を打ち切ることにした。
「本日は、お足元の悪い中、こにゃにゃちわ。ん~ふ~神雷神のごとき素晴らしき発想や提案をありがとうございマスターズトーナメント。あ~は~るばる来たぜ函館、伊達にぼくらだって、というか、ぼくらだからこそ、市場に革新的なAI盆栽を送り出せると確信していマスコミュニケーション。ジャー、つぎにご飯をよそうのは、来週金曜日の同じ時カンピオーネ。よろシクラメン!」
会議室からメンバーたちが出て行ったあと、N氏は不機嫌をあらわにした。
「おまえの司会進行は実に気に喰わなかった」
「申し訳ありませんの国からこにゃにゃちは」
「ああ、死にたくなってきたな!」
「生きる! あなたは必ず生きる!」
実際、N氏は趣味のボクシングでやっと実力がついたので、今週末に初試合が決まっていた。それまで、間違っても死ぬことはないだろう。
N氏のボクシングの試合を、ぼくも見に行った。相手も40歳オーバーの趣味でやっているボクサーだった。
(書きかけです。睡眠不足とストレスで何も思い浮かびません。去年の12月くらいから自分で自分がおかしいと思っていました。騙し騙しやってきましたが、本格的に心身が駄目みたいですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません)
短編小説「テリーマンの跡継ぎのためのスープ」
人生で一番の喜びとは何だろう。
ことが、妻と10年前に離婚し、当時16歳のひとり娘の親権を取られて音信不通となった50代の男にとっては、別れた娘からの連絡できまりだろう。
何の前触れもなく、メールボックスに舞い込んできた娘からのメールを、私は信じられない思いで見つめた。件名には「パパ、元気にしている?」と書かれていた。その件名を、「太陽と死はまっすぐに見つめることができない」という警句と同じくらい、何度も何度も読み返して味わった。数分経ってようやく、私は娘からのメールを開いた。
大好きなパパへ。
このメールを読んでいるということは、パパに逢えなくなってから10年がたったということね。これはメールのタイムカプセル。これを書いている今から10年後に、パパへ届くように設定したの。
パパに訊きたかったことがあるの。どうしてママにもっと優しくしてあげられなかったの? 性格の不一致で離婚する夫婦は多いのは知っている。でも本当は、ママにはパパしかいなかったんだよ。どうしてそれをわかってあげられなかったの?
16歳の私でもわかることがある。それは暴力って最低だということ。私自身は殴られたり蹴られたりしなかったけれど、家庭の中に暴力があるだけで、私もとても傷ついたんだよ。
もう一度、背が高くてがっしりとしたパパと、小柄で華奢なママに、どれくらいの体格の差があったかを思い出して。
身体の大きなパパが、床にうずくまって、ママに殴る蹴るの暴力を振るわれている姿は、娘が一番見たくなかった姿よ! ママには決して暴力を振るわないパパの優しさを、私がいつも涙目で見ていたのに気づいていた? 私はパパの子よ。
でも、ある程度ママに殴らせてストレスを発散させると、上目遣いで子犬の真似をして、ママの足元に「くぅん」とすりよっていくパパが好きだった。それでもまだ蹴りが飛んでくるときは、ニャンとたちまち猫に化けてソファーに飛び乗り、四つん這いの背中を高くして、シャーッて威嚇していたね。暴力と同じ次元に立たない勇気って、きっとああいうことだと思うニャン。
それでもおさまらずに、ママが箒を持ち出してパパを叩き始めたら、パパは箒を奪い取る。そのあと箒に跨って、魔女のふりをして家中を走り回る姿が、目に焼き付いて忘れられないわ。サリーって誰だったの?
少しも飛べない魔法使い。男として愛する妻にまったく魔法をかけられないのを気にして、クリーニング屋のアラフィフの女性と甘い会話の練習をしていたの、ママにばれていたよ。ママと同じく小柄な女性だったから、「これまでの人生で、何回くらいお姫様抱っこされましたか?」って訊いたそうね。あんなに人脈の濃いところで、ストロベリートークの練習なんかしないでよ! クラスで噂になって、本当に恥ずかしかったんだから!
ママのヒステリー持ちを知っていて結婚したのなら、パパはもっと我慢しても良かったと思う。一度だけ、パパがママに怒ってしまったことがあった。アレは本当にあんなに怒るほどのことだったの? チェストの上に飾っておいたキン肉マン消しゴムが、チェストを使うたびに落ちてくるのにイライラしたママが、キン消しを全部ミキサーにかけて、ミキサーごと捨てたときのこと。ああいうときだけ、パパが本気で涙を流して怒ったから、ママは淋しさを募らせたんだと思う。
「何てことしてくれたんだ! この勇者たちの消しゴムの間には、かけがえのない熱い友情があったのに!」
それを聞いたママが、激昂して言った悲痛な台詞は、ママの魂の叫びだったと思う。
「結婚した頃の熱い愛情はどこへ行ったの? ねえ、すべてこのキン消しが消してしまったっていうの?」
「いや、キン消しはゴム製だけど、文字を消すことはできない」
「そういうことを言っているんじゃないの! 小さなゴムのフィギュアと、今ここであなたに向かって泣き叫んでいる生身の妻と、どっちが大事なのって訊いているの!」
あのとき、すぐにママを抱きしめなかったパパ、ちらっとミキサーの中の粉々のゴムの粒を振り返ったパパは、世界一莫迦だったと思う。
私がパパとママの間に入って、私のお願いで、三人でハグしあった。あれが私たち三人家族の最後の最高の思い出だわ。
嘘みたいに子供っぽくて、心が広いけれど不器用で、よく笑っていたパパ。そんなパパのことが、私は今でも大好きだよ。小さい頃、私がポニーに乗りたいって言ったら、すぐに肩車して連れていってくれたのを今でも覚えている。大きくなったらアンソニーも見つけてくれるって言ってくれた。でも、落馬して死んじゃうから、アンソニーでは駄目ね。
パパ、今どうしている? 10年たった今も、パパは私のこと思い出してくれている? 好きでいてくれている? ねえ、羞かしいけれど書いてしまうね。私はパパのそばで生きていきたい。同居はしなくていいから、スープの冷めない距離で、一緒に暮らしたいの。
いつか新しく生まれてくる私の子供のためにも、パパがそばにいてくれたら、どんなに心強いかと思うの。パパを愛する気持ちは、10年経っても同じよ。パパ、育ててくれて、ありがとう。
連絡を待っているわ。だって私はパパの子だから。
年を取ると涙腺が緩むのは本当だ。娘が「決して暴力を振るわないパパの優しさを、いつも涙目で見ていた」と書いていたのを読んだとき、私の視界は涙で霞んでしまった。さらに、「この勇者たちの消しゴムの間には、かけがえのない熱い友情があったのに!」という懐かしい喧嘩の台詞を読んだところで、私の涙は最高潮に達してあふれやまなくなった。
あのとき無残に粉々にされたゴムフィギュアの粒は、ガラスの瓶に埋葬して、カラフルなサンドアートに変えて、今でも部屋に飾ってある。瓶の真ん中くらいの高さにある薄い黄色の層は、勇敢で義侠心の強いテリーマンの遺骸だ。
しばらくの間、私は迷っていた。けれど、「連絡を待っているわ。だって私はパパの子だから」というメールの末尾に感動して、私は心を決めた。
「もしもし。え? パパ?」
「もしもし。そうだよ。10年前のおまえから、今日メールが届いたんだ。とても感動したよ。ありがとう」
「え? 私、10年前にメールなんか送ってないけれど」
「メールには、離婚して10年たったら、近くで一緒に暮らしたいって書いてあったよ」
「ああ、アレックスがそういう設定で書いたのね。さすがの発想力ね、アレックスは!」
「男に頼んで、あんなメールを書かせたのか」
「アレックスは、私のプライベート人工知能よ。何でも相談に乗ってくれて、何でも対処してくれるの」
「あのメールは人工知能が書いたものだということ?」
「そうよ。私にインタビューを取って、文章をまとめてもらったの。涙も笑いもあるようにお願いしたんだけれど、どうだった?」
「なんだか、複雑な気分だ。感動して泣いてしまったパパが、莫迦みたいだ」
「がっかりしたみたいね。でも、そうやってすぐに泣いてしまうのが、パパの良いところ。…黙らないでよ。いい知らせもあるのよ」
「いい知らせ?」
「いま私のお腹の中に、男の子がいるの!」
「本当かい! いつ? 結婚はいつするんだい?」
「それがね… 相手がアンソニーだったの。あるとき急に逃げられちゃったから、結婚せずにひとりで育てることにしたわ」
「オーマイゴッド。何て酷い男だ」
「テリーマンみたいな口調で言わないでよ。でも、彼と結婚したとしても、長続きしなかった気がするから…。だから、パパに近くで暮らそうと誘うメールを送ったの」
「どうして結婚しても続かないと思ったんだい?」
「ふふふ。だって、私はパパの子よ」
短編小説『アンドロイドは豚しゃぶしゃぶの夢を見るか』
森の木々の間を、高い鉄条網がうねうねと伸びている。その柵の向こうに、木々にカムフラージュされた低層の秘密訓練施設があった。施設の中の二段ベッドの上で、ぼくはしばらく雨音を聞いていた。森に雨が降りしきっているので、夜の訓練メニューのジョギングはできない。
ベッドに横たわって、ぼくは気晴らしの読書をしている。銀行口座には唸るほどの貯金があったが、ここは鬱蒼と茂った森の中。頭をからっぽにするには、平易で短いショートショートを読むのがいい。
文庫本の或る部分に目を走らせたとき、その短編を中学生の頃に読んだことがあるのを思い出した。書き出しはこうだ。
昭子は美しく若い女だった。(…)月の光で虹ができるものなら、それに似ているといえよう。どことなくすがすがしく上品で、そして清らかだった。
「月光がかける虹のよう」という形容があまりにも美しすぎるので、中学生の感じやすい未熟な心には響きやすかったのだろう。
短編では、ヒロインの昭子に若手俳優の恋人ができる。しかし古風な父が俳優との結婚を猛反対するので、恋人たちは、古風にも心中する。ところが、俳優の男だけが予定通り心中を生き延びる。昭子は末期がんを告知されておらず、実は父が俳優を手配して、最も幸福な死をプレゼントしていたという話。昭子の愛と生命の儚さを感じさせる結末が、「月光がかける虹のよう」という書き出しと、響き合う構成になっている。
懐かしい思いで、文庫本をのページをめくっていたとき、ふと頭の中に逢ったことのない女性のイメージが浮かんだ。彼女が「月光がかける虹のよう」という形容に、自分の容姿を似せようとしている気配が伝わってきた。ヘアブラシのイメージも一緒に降りてきた。 「いつも通りでも大好きなのに」とぼくは反射的に呟いた。呟いた後で、その女性に一度も逢ったことがないのをもう一度思い出して、不思議な気持ちになった。
こういう超自然的で野生的な勘が育ったのは、ぼくがSATから選抜された少数精鋭の特殊部隊の一員だからだろう。この国でわずか8名の極秘の特殊部隊に、ぼくは所属していた。夜の海峡へ突き落されても、極寒の雪原に取り残されても、ぼくたちは生き延びる心身の膂力を備えていた。限界状況のもとで鍛え上げられた直感は、捨てたものではない。事実、そのヘアブラシで髪を梳っていた女性と、翌日ぼくは遭遇したのだ。
翌朝の夜明けに召集された特殊部隊八名は、一列に並んで、鬼軍曹に敬礼した。
「核シェルター訓練を行う」
鬼軍曹は長い肩書を持っていたが、気が短いので、正式な肩書で呼ばれることを嫌った。ぼくらは「鬼軍曹」をさらに短縮して、軍曹と呼ぶことを許されていた。
「本日から、おまえらには核シェルターの待避訓練をしてもらう。期間は一週間。水と食料は一日分しかない」
夜明けの凛とした空気の中、ぼくら全員が表情ひとつ変えなかったにちがいない。半月間の極秘のサバイバル訓練に耐え抜いた八名だったからだ。
「ただし、アンドロイドを一体ずつ供与する。このアンドロイドは変幻自在の最新鋭の装備品だ。シェルターに待避している期間、友人にもできれば、恋人にもできる。鹿や豚にも変えられるので、最終的には食料として消費して、サバイバルに使える。質問はあるか?」
ぼくらの誰ひとりとして声をあげなかった。ここで質問をすれば、鬼軍曹にマイナス査定をつけられる。状況はつねに動いているので、それを受けて瞬時瞬時に判断していくのが特殊部隊の仕事なのだった。
核シェルターは八基あった。八名全員が順番に待避する段取りだった。
ぼくの名前が呼ばれた。最初に名前を呼ばれたことが、ぼくの誇りを奮い立たせた。絶叫に似た軍隊独特の返事をすると、アンドロイドを横抱きにして、シェルターの中へ駈け入った。背後で、扉が重々しく閉まる音がした。
真っ暗なシェルターの中の夜光塗料を頼りに、ぼくはようやく手動ハンドルを回すことができた。これで灯りと換気は確保できた。アンドロイドは遠隔操作でスイッチが入ったようだった。
薄明りの下で見ると、アンドロイドははっとするような美女に化けていた。どこか悲しげで、月の光でできる虹のような風情があった。
「ねぇ、お水をちょうだい」
「水は一日分しかない。きみはアンドロイドだから、水を飲まないはずだ」
「でも、呑まない人がいるからってあなたが呑まないと、私まで淋しくなっちゃう」
美女はいつのまにかぼくの隣へ来ていて、酔ったふりをしてしなだれかかってくる。台詞回しやドレス姿からすると、状況設定は夜の盛り場なのだろうか。女は拗ねてぼくから身体を離した。
かと思うと、すぐにまたしなだれかかってきた。視野の隅で、ウォーターボトルの蓋が開いているのが、ちらりと見える。何と言うことだ。照明が暗いのを良いことに、勝手に水を飲んだらしい。
女はしきりにぼくの頬を両手で挟んで、顔の向きを固定しようとしてくる。艶めかしい唇の感じから、女が口移しに水を飲ませようとしているのがわかった。水は何よりも貴重だ。
ぼくは女とキスをして、水の口移しを受け入れた。水のあとに女の柔らかな舌が入ってきたので、水は妖しい味に変わった。いつのまにか女はぼくに馬乗りになっている。耳元に口を近づけて「ねぇ、私を女にして」と囁いてくる。
ぼくは敏捷に身体を跳ね起こして、女から離れた。どうも様子がおかしい。一週間の核シェルター訓練の助けになるはずだったアンドロイドが、訓練の成功を邪魔しているかのように感じられる。お前は何がしたいのか?
と、先ほど手回しして貯めておいた電気が切れた。部屋が真っ暗になった。
再び手回しして灯りをともすと、アンドロイドの女は懐かしい知っている女性の顔になっていた。半年くらいだけ、彼女と交際したことがあったのだ。
「一週間は大変やね」
彼女にそう言われると、急に心が波立って冷静でいられなくなった。
「どうしてここに?」
「なんでとか、きかんとってや。真夜中のメールに返事せんかったけん、気になって見にきたんよ。ほら、こっちへおいで」
彼女はそう言って、自分の飼い犬の名を呼んだ。ぼくは心臓が異常に高鳴って、自分の心身がおかしくなってくるのを感じた。肩で呼吸し始めた。
一度だけ、真夜中に淋しくなって「彼女の飼い犬と同じくらい可愛がってほしい」とメールしたら、あっけなく無視されたことがあったのだ。古傷が疼いてとまらない。ぼくは心の中で「マルちゃん」と呟いた。その魔法の言葉を使うと、心のざわつきが鎮まった。「マルちゃん」とは、宇宙大の巨大なワンネスの愛のことだ。
一方で、どうも様子がおかしいという感触も消えずに波打っていた。ぼくは特殊部隊の精鋭だ。そんな過去の些細なことで、ここまでしたたかに心身が動揺するはずがない。
水だ! あの水に、精神の平衡を乱す薬が仕込んであったのにちがいない。ぼくは絶望的な気分になった。水なしで七日間とは、苛酷すぎる地獄だ。ぼくはコンクリートの床に横たわって、体力の消耗を防ぐことにした。
アンドロイドが電灯のスイッチを消した。すぐに、つけた。アンドロイドは高校の野球部の顧問に変身している。
「若い者が、何をへばっとんだ。まず、立ち上がって、水を飲め」
顧問はそういうと、横たわっているぼくの尻を蹴り上げた。電気が消えた。
次に電気が付くと、母親が横に座って、心配そうにぼくを見下ろしていた。
「ほら、いっぱいの水が世界を明るくすることもある。お母さんがコップに汲んできたから、飲んでちょうだい」
ぼくは顔を逆側に向けて、拒んだ。水を飲むのは拒否したものの、どうしても無視できなかったので、「お母さん、ありがとう」と呟いた。
すると、電気が明滅して、野球部の顧問が現れた。
「お母さん、素質は素晴らしいんですが、どうにも強情なところがあって、水を飲もうとせんのですよ」
電気が明滅する。
「あら、いつも息子がお世話になっております。優しいお言葉ありがとうございます。うちの主人とは全然違うんですのね」
電気が明滅する。
「おやおや、奥さん。違いのわかるあなたに、違いのわかる男はいかがですか。今晩私の予定は空いております」
電気が明滅する。ぼくはかすかな声で「やめてくれ」と呟いた。
「あら、今のはお誘い? 私、子供のことを忘れさせてくれる逞しい男性に…」
「やめてくれ!」
ぼくは絶叫して立ち上がり、アンドロイドを殴ろうとした。しかし、母親の姿をしていたので拳を止めて、代わりに電気を消した。
すると、暗闇の中で二人の獣が囁き合う声が聞こえてきた。
「奥さん…」
「だめ…」
ぼくはうぉーっと絶叫して、電気をつけた。アンドロイドは電気がついた後も、しばらく機嫌よさそうに一人二役をやりつづけていた。
「奥さん… いい匂いがする…」
「あら、逞しい胸板ね…」
一人二役で情事に熱中しているアンドロイドの尻を、ぼくは思いっきり蹴飛ばした。
「妙な猿芝居はやめろ! もの凄いストレスだ! 洒落にならないぞ!」
アンドロイドはしばらくのたうちまわったあと、月の虹に似た昭子の姿に戻った。
「じゃあ、洒落を言うから、聞いたら思いっきり笑ってね。…市民ホールの演芸会に、ご婦人たちが集まったのに、いつまでたっても出し物が始まらなかったの。それは、実はご婦人たちが昆布人だったから! 昆布人たち自身がダシを取るものだから!」
ぼくは床に横たわったまま、自分の両の拳が固くなっていくのを、どうすることもできなかった。こんな洒落で笑うやつはいるのか。
「あははは。超受けるんですけど! マジ笑えて笑えてパネェ感じ!」
洒落を言った本人が笑っていた。しかし、それにしてもそれは不愉快な笑い方だった。全然笑えない冗談を強烈に笑うことで、何が可笑しいかのこちらの基準軸を揺さぶる目的があるように感じられた。本人の自己への信頼性を疑わせるという意味では、ガスライティングという工作活動と似ていなくもない。
「どうしたの? 全然笑ってないじゃない。これで笑えないんだったら、代わりに面白い話をあなたがしてよ」
これも訓練だ。ぼくは自分にそう言い聞かせた。何が面白いかの独自の基準軸を、ぼくがブレずに維持しているところを、見せてやらなくては。
「高校時代に、背の低い真面目な既婚の数学の先生がいた。或る日の授業で『三角関数』って書くべきところを、間違って『三角関係』って書いちゃった。そしたら、女子生徒がくすくす笑いはじめて、先生は耳まで真っ赤になった。『ちょっと手を洗ってくる』と言って数分間教室を空けたんだ。俺たちの間では、美人事務員のえっちゃんと縁を切りに行ったっていう、もっぱらの噂だった」
「……。あははは。超受けるんですけど! マジ笑えて笑えてパネェ感じ!」
ぼくは自分でもわかっていた。高校時代の思い出ジョークが全然面白くなかったことを。わざとらしい間をあけてから昭子が笑ったことにも、その笑い方が大袈裟だったことにも、ぼくは深く傷ついていた。
「ごめんよ。本当はもっと面白いことを言ってあげたいんだけれど」
「え? 私を笑わせようとしてくれるってこと?」
ぼくは心の中で「マルちゃん」と呟いて、宇宙の大いなる愛に接続した。
「もちろんさ。今のきみが、鬼軍曹が送り込んだ妨害工作用アンドロイドだってことはわかっている。でも、この核シェルターを出るまでは、二人きりだろ。笑いあって過ごしたいし、助け合って暮らしたいんだ」
昭子はしばらく目を瞑っていた。無線で本部に連絡を取っているようにも見えた。今の自分の台詞が、訓練の評価体系の中で、どんな点数になるのかは想像もつかなかった。
次に昭子が目を開いたとき、彼女のまなざしは、どこか愛を帯びているように感じられた。その証拠に、彼女はあっさりとぼくが抱いていた疑いに答えをくれたのだ。
「そうまで言ってくれるのなら、私も大切な言葉をあなたに贈ることにするわ。あの水を飲んでは駄目。被暗示性を高める向精神薬が入っているの。飲んでしまうと、簡単にアンドロイドの言いなりになってしまうわ」
「ありがとう」
核シェルターの中は、時間がわかりにくい。アンドロイドが「解放期限まで、あと一日半」だと、正直に教えてくれた。
ぼくと昭子はコンクリ―トの床に寝そべって、いろいろなことを話した。少数精鋭の特殊部隊員としての重圧や、部隊がリストラされるという噂への不安を。それらは、これまで誰にも話せなかった心の積み荷だった。もちろん、話の端々には、精一杯のジョークを挟むことを忘れなかった。そのたびに昭子は自然に笑ってくれた。
解放期限まであと半日と迫った頃、脱水症状でふらふらのぼくは、昭子をそばへ呼んでこう言った。
「訓練が終わったら、もう一度きみに逢いたい。あの水が毒だと教えてくれたきみを、豚に変身させて食べるなんて、ぼくにはとてもできないことだった。たぶんあの鬼軍曹は、そうしなかった隊員を罰するだろう。軍事刑務所に入れられるかもしれない。だから、扉が開いてぼくが解放されても、きみはここに残って隠れていてほしい。必ず迎えにくるから」
喋りつづけようとするぼくの唇を、昭子は手でそっと抑えた。
「わかったわ。もう喋らなくていいのよ。きっとうまくいくわ」
やがて、扉が重々しい音を立てて、ゆっくりと開いた。外の陽の光が、照明弾のように眩しかった。ゆっくりと瞼を開くと、鬼軍曹の浅黒い顔がこちらを覗いているのが見えた。
「一人か?」
「一人です」
そう答えると、鬼軍曹はいつになく快活な笑顔を見せて、訓練に耐えたぼくの精神力を讃嘆した。ところが、この訓練を見事に耐えたのは、ぼくだけではなかったのである。残り七人全員が、次々に核シェルターの扉から歩み出て、「一人生還」を報告した。
ぼくが驚いたのは、自分以外の七人全員が、一週間の隔離後とは思えないほど、元気溌剌で意気揚々としていたことだった。アンドロイドを豚にして食べると、こうまで健康的でいられるものなのだろうか。
全員で全員の健闘を讃え合って拍手をしたあと、脱水症状でふらふらのぼくは、鬼軍曹にどこにいけば水を飲めるかを訊いた。すると鬼軍曹がいつもの仏頂面でこう訊き返した。
「何? お前は水を飲みたいのか?」
すると、後片付けをしていた特殊部隊の精鋭七人が、揃ってぼくの方を振り向いた。ぼくはしばらく彼らを凝視した。かつて仲間だった七人の顔を、どうしても記憶に焼き付けたかったのだ。
ぼくは、どうして彼らが一週間のシェルター訓練直後でも、健康そのものだったのかを悟った。きっとこの七人は、もはや永遠に水を飲むことはないのだろう。特殊部隊のリストラ計画は、すでに実行されていたのだった。
「冗談ですよ! そんな人間みたいなことするわけないじゃないですか!」
その言葉を聞いて、一同の緊張が緩んだのがわかった。
ぼくはシェルターの内部へ戻って、夜になったら一緒にここから逃げようと昭子に言った。二人で並んで座って、他の隊員たちの目につきにくい夜を待った。夜になれば、森を走って逃げるのは、それほど難しくなくなる。ぼくは訓練施設の周りに張りめぐらされた鉄条網のことを考えていた。走って逃げても捕まってしまうかもしれない。それでもいいと思った。昭子と逃げ切る可能性に賭けようと思った。たとえ脱出成功の可能性が、月の光で虹がかかる瞬間くらい稀少なものだったとしても。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
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