最後の皿が洗い終えられるとき

 いくつもの挿話を、それぞれの重心を揃えて積み重ねて、或る高みに達する種類の小説がある。10枚くらいの同じ種類の皿が、卓上にきれいに積み重なっているさまをイメージしてほしい。

約20年ぶりに再読したこの小説は、それとは違って、いろいろな種類の皿を洗って、大きな水切り籠のあちこちに一見不規則に並べていく小説なのだと思う。

最後の息子 (文春文庫)

最後の息子 (文春文庫)

 もちろん小説中の「ぼく」が皿洗いのバイトをしているわけではない。「ぼく」はおそらく20代の上京青年で、「閻魔ちゃん」という一風変わった名のオカマの家に転がり込んだ居候の愛人だ。「閻魔ちゃん」は同性愛者向けのバーを経営していて、そこにいる常連客の一人が公園で何者かに殺されるなんていう事件も起こるが、小説が描き出すのは「閻魔ちゃん」と「ぼく」の愛情関係。しかし、その描き出し方が一風変わっている。

2人の生活の要所要所をビデオカメラで撮影していて、その断片的な再生映像を観ながら、「ぼく」がコメントを添えていくというスタイルなのである。

100枚に満たないこの小説を読んで、最初に感じるのは叙述の時間操作の巧みさだ。ビデオ映像が断片的であれば、当然その間隔を好きなように飛ばせるのだが、作者は叙述を巧みに操って、主題的な横滑りも駆使して(つまり「Aについて語り、Aと言えば」と別の話を接合するやり方で)、読者に1つずつ情報を開陳していく。特に冒頭部分、時系列を操作しながら知識ゼロの読者に誘導をかけて、1つずつ情報を渡していくさまは巧みだ。

そこで語られる内容は、しばしば食事や料理に関する話題で彩られつつも、若い「ぼく」がいかに我が儘で甘えん坊な依存心の高い青年であるか、そして愛人として養われている「ぼく」自身がそれをどれほど無力で惨めなものだと自覚しているか、の二面性だ。

そこには初期の吉田修一が頻用していたモチーフの「どのように見られているか」「どのように見せるか」がすでに顔を出しており、(もちろん、その2つを満たすからこそビデオカメラが用いられているのだが)、それらが結合した結果、上記の二面性はこのような挿話になって出現する。

「閻魔ちゃん」から店の内装資金として300万円を銀行から引き出しておくよう頼まれると、「ぼく」は「閻魔ちゃん」が「ぼく」にその資金を持ち逃げする愛憎劇を期待していると見て取り、高級ホテルへ逃げてバスタブを札束風呂にして浸かる場面を撮影する。(その場面は事後に見られる)。それからすべての一万円札をドライヤーで乾かして、帰宅する。
「我が儘で甘えん坊」⇔「無力で惨め」の主人公の二面性と、「見る」「見られる」の視線の往還が、一枚の皿の上に綺麗に盛り付けられていて、挿話としてなかなか美味でもある。

読者は小説の外で、そのような小説上の情報を作者にfeedされて、次々に賞味していくわけだが、小説内では、料理を出す人が「庇護者」であり、食べる人が「子供」を象徴していることに注意してほしい。実家の母も「閻魔ちゃん」も無類の料理上手で、小説終盤で母は「私には男一人を飢え死にさせる料理の腕がある」と、自分が「庇護者」であることをわかりやすく宣言する。

読者が料理を平らげながら感じ取ってほしいのは、作者の人間観察力の鋭さだろう。それがあるから主人公の二面性と視線の往還をひとつの挿話に書き切れるのである。皿の譬えを続ければ、食後の皿の表だけではなく、他の人はやり残しがちな皿の裏までしっかり洗う手が届いている感じ。そして、作者はその皿を積み重ねるのではなく、大きな水切り籠のそこここの任意の場所に置いていく。

したがって、その作者の手つきを観察する読者は、コース料理の時系列とは異なった皿の配置を見せられることになるのだが、個々の皿(細部)に輝きがあるのでその配列作業も絵になる。しかし、コース料理はいつか終わる。

ちょっとした喧嘩が原因で「閻魔ちゃん」は自宅を出ていなくなり、「ぼく」だけが家に取り残される場面で小説は終わる。置き手紙にはタイトルを含むこんな一節がある。

アンタをアンタの家の最後の息子にする権利も、責任も持てないわ。
それを読み終わったあとに「ぼく」がやることと言えば、日記上の「閻魔ちゃん」という表記をすべて戸籍上の男性名に書き換えることと、「腹が減っています」と声に出して呟くことの2つのみ。

どうしてここで小説が終わるのか、おわかりだろうか。「閻魔ちゃん」と「ぼく」の愛人関係はおそらくそこで終わってしまったのである。謎めいた源氏名から、婚姻不可能な戸籍名で、その存在を書き換えられることによって。

そして、誰もいない部屋で「ぼく」が空腹を訴える最終行を書いたとき、作者が鮮やかに最後の皿を裏返して、すべてを洗い終わったことに、読者は気づくだろうか。

親や愛人のように、無償で料理を提供するような「庇護者」はいなくなった。「最後の息子」は反転して「息子の最後」となったのである。とうとう我が儘で甘えん坊な「ぼく」が、子供のままでいられる猶予期間を終えたことを思い知らされたところで、この「成長小説」は最後を迎える。

細部に光るところの多い見事なフルコース料理だと思う。

個人的な思い出を少し。この小説は確か文學界新人賞受賞作だったはず。100枚以内が当時の規定だったので、どうしても小説が小粒になりやすい憾みがあった。

文芸誌掲載直後、或る作家と話す機会があって、まだ吉田修一という名前も覚えていなかったが、「今度の文學界の新人は例外的にすごく良いですよね」と同意を求めたことがある。作家は「確かに巧いね」と同意しつつ「強度がまだ足りない」という趣旨の話をされた。

枚数制限からくるサイズ上の小ささは不可避的にあるとしても、これは芥川賞受賞作よりも断然優れているというのが、20年ぶりくらいに読み返した感想だ。作家が処女作でしか書けないような温度の高さと密度の濃さがあり、そののちの主題的展開を予告する瑞々しい細部に満ちている。

当時から今まで、どういうわけか酷い人生を送ってしまった自分にとっては、暗転する以前に読んだこの小説が何だか眩しく感じられる。