太平洋の飛び石3つ

人は自己正当化の欲求からはなかなか逃れにくいもので、人は回顧するとき、自分の歩んできた人生を「あれで正しかったんだ」と結論づけたがったり、それを証明するのに情熱を燃やしたりもする。

そういった自己正当化とはまったく別の物語だと思って聞いてほしいが、若い頃に熱心に読んだ現代思想がさまざまな要因により変質し、別の物のようになってしまったことの当惑が、数十年後の今も依然として自分を去らない。折からの個人的な倫理的関心の高まりもあって、どのように思想書を読み進めて、そこから自分の考えを深化させるべきか、標識を見失ってしまったように感じたこともあった。

そんな折り、ラクラウが亡くなった。

一般的な人々に現代思想の書棚がどう見えているのかわからないが、ユーラシア大陸系(主にフランス系)の(ポスト)構造主義的の現代思想の獰猛な影響力が伝播しきったあと衰微していき、2010年以降のサンデル・ブームでプラグマティズム系のアメリカ政治哲学が本棚を占拠しはじめた、というような、2大勢力の動向くらいは目にしたことがあるだろう。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 この2大勢力の間に、どのような思考の飛び石を配置して、往来できるようにすればよいのか、というのが、思想分野における自分の関心だった。

個人的に有力な飛び石の配置は、ローティー、ラクラウ、バーンスタイン

まずは2005年くらいにローティー関連本を手に取り、ローティーがいうところの「プラグマティズム的転回」の諸相を確認しようと試みた。そのとき圧倒的な分析密度と情報量に魅了されたのが、この本。最近文庫化されたようだ。

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

 

 ラクラウは通常は「ポスト・マルクス主義」のカテゴリーに入る。有名なシャンタル・ムフとの共著だけでなく、その理論的補強版の単著(と思わせて共著者あり)のこの本なんかに当たると、デリダの両極同時依拠型の(例えば、薬でもあり毒でもあるpharmakonを前景化する)思想的特徴を、うまくマルクス主義的思想の非本質化に適用しているさまが伺える。

現代革命の新たな考察 (叢書・ウニベルシタス)

現代革命の新たな考察 (叢書・ウニベルシタス)

 

古典的マルクス主義がしばしば、経済的観点から労働者階級のアイデンティティを本質論的に決定づけるのに対し、ここで対極にある唯我論的立場は自分のアイデンティティを素朴に自己決定する。ラクラウはその両極のどちらにも立たず、両極の間を往還する流動性の内にこそアイデンティティが存在しうるとし、そのように流動的でなければ、政治的プロセスは動かないとする。(前掲書第4章を参照。批判への回答文なので論旨を把握しやすい)。

あ、ここで思想好きが跳躍できるような場所に、ラクラウが飛び石を置いてくれているなと感じるのは、よくあるデリダの反本質論に対する「非政治的」という批判に対し、「デリダ的でなければ政治的たりえない」かのように、彼がコインを鮮やかに裏返してくれている点だ。そうか、こんなデリダの現代的な生かし方があったのか、という感想。

http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/docs/kss/vol23/vol2304yamamoto.pdf

上記論文中でも、危険視されやすいラクラウのポピュリズム論が、(デリダの名前は登場しないものの)デリダ的な両極依拠型のものであることが指摘されていて興味深い)。

ローティーとラクラウは、共通して「アンチ基礎づけ主義」を主張している。

手すりなき思考―現代思想の倫理‐政治的地平

手すりなき思考―現代思想の倫理‐政治的地平

 

 そこからバーンスタインはローティー的「アンチ基礎づけ主義」を批判することで、さらに私たちを次の飛躍先へと連れて行ってくれる。

一章まるごとがローティー批判に充てられるのだが、ただしそこでバーンスタインが批判しているのはローティーの主張が故意に非プラグマティックだったり、「いかがわし」かったりすることで、私たちを政治的実践から遠ざけている部分。その次の章では、しっかりと手のひらを返して、ローティーの可能性の中心の擁護に回る。

詳細は論旨明快な本書を読んでもらいたいが、バーンスタインとローティーは実際に大学時代の同級生で、その後も交友関係が続いているらしい。印象論で語れば、頭の良い悪がきの同級生を誠実な学級委員長がたしなめているような感じで、その倫理的な言動に感心させられつつ、この分厚い哲学書を読み終わった後には、ソクラテス以来の「人はいかにして生きるべきか」という根源的問いへと逢着するように書かれている。知る限り「最高の教科書」の1つだろう。

ロールズ以降の政治哲学研究者の中には、例えば「レヴィナスは神学的なのでその他者論は採らない」と眉を顰めるような発言をして、アメリカ⇔フランスの間にある断絶を強調する研究者もいて驚かされるが、(他者論はレヴィナスだけのものではないし、私見では、リベラリズムの基底を考えるとき「偶有性」と「他者性」は不可欠)、バーンスタイン的倫理と呼ぶべきか、自らが職業として選んだ没入対象を、ある種の「政争の具」に貶めずに生きていく態度、そのような環境を生み出して維持するような誠実さには、心が動くところがある。

元々自分が興味を引かれたのはバーンスタインが「現代思想の倫理ー政治的転回」を果たしたと評されていたからだが、その後やその周辺の思想の諸相は、不勉強もあって、3つの飛び石以外の地理的布置はよく見えない。

ただ、この分厚い思想書がひょっとしたら個人的な「倫理ー政治的転回」を回るのを手助けしてくれて、自分の人生の地図に新たな描線を書き加えてくれたかもしれないという思いはあるので、巷間(反知性主義的観点から)言われるような「文学や思想は役に立たない」というtrivialな悪口には聞こえないふりをして、これからも思想書を読みつづけていこうと思う。