イタリアの椅子に酔わされて

今朝起きてから、あなたの身体が一番多く接触した固体は何だろうか?

たいていの人は衣服が最初に来て、次に来るのが、椅子ということになるだろう。椅子の歴史を調べる機会が偶然過去にあったので、「椅子史」における2つのエポックメイキングな作品を学ぶことができた。どちらも1950年代初頭の作品。

1つは、アルネ・ヤコブセンの「アント・チェア」で、合板の成形技術の進化により、背もたれと座面を同じ板で成形できるようになった。いたるところでレプリカを見かける。おそらく世界でもっとも有名な椅子なのではないだろうか。

 もうひとつがマルコ・ザヌーゾの「レディ」で、ウレタンなどの新素材の開発により、それまでの木椅子にはなかった革新的な座り心地の柔らかさを実現した。

www.moma.org

ニューヨークのMoMA美術館が記録しているのは、イタリアトリエンナーレ金賞受賞時のvividな赤で、作品名はLady。その最大の売りが、新触感の柔らかい身体接触を可能にしてくれることと書けば、当時の愛好者がこの椅子に女性の身体への接触に似たエロティックな「酔い」を感じていただろうことは、容易に想像できる。エロスが生まれうる領域は、異性との性器結合箇所を遥かに越えた、ほとんど世界大とも言えるほど広大なものなのだ。

そんな「酔い」について書き始めたのは、ここでトリップホップについて触れたとき、「トリップ感」や「酔い」を鍵言葉にすれば、ひょっとしたら語りたいことを語りやすそうだと考えたから。

tabularasa.hatenadiary.jp

或る社会学者によれば、人間は「内在系」と「超越系」に分類できるらしい。日常をつつがなく安心して暮らせれば幸福なのが前者。日常的な幸福では幸せになれず、功利主義的な価値体系を越えたところに幸福を求めるのが後者。自分は後者だと思う。

20代そこそこの頃、chill outと呼ばれるようなトリップ体験を求めて、新宿や六本木のクラブハウスに出入りしたこともあったが、徹夜で暴れてはしゃぐ高校生たちを目の当たりにして「もう俺も若くないな」と、やるせなさを感じただけだった。マリファナを回し喫いしている若者たちがいたのも、そういった場所から足が遠ざかった理由だった。密閉型のヘッドホンでしかるべき音楽を聴いていれば、トリップするのがさほど難しくない身体感覚の持ち主なので、自分はやがて音源探しに傾斜していった。

意識(サイクロン)の中心―内的空間の自叙伝 (mind books)

意識(サイクロン)の中心―内的空間の自叙伝 (mind books)

 

 こういったトリップの研究に生涯を捧げたのが、ジョン・C.リリー。麻薬のケタミンをがぶがぶ摂取して、身体感覚を変容させる「アイソレーションタンク」に何日も浸かりながら、あれこれと変性意識の実験を繰り返した。しかし、常人が真似できる、もしくは真似したい種類の取り組みではないだろう。

となると、自分の場合は、合法のトリップ体験を与えてくれる酒を選ぶことになる。酒のことを知りたくて、西欧の難解な酒評論家の本も随分読んできた。20世紀後半以降の酒評論の世界では、いっぱいのカクテル作品が導く「酔い」は、バーテンダーではなく「呑む者」の意識の変性にあるとされるようになった。最近ちょっとした行きがかりで、近代の酒評論について調べていたとき、私より若い研究者が「酒評論をもっぱら<酔い>に焦点化してしまうと、その酒を呑む者の職業や性別や人種などの社会的属性への考察が抜け落ちる」と書いているのを読んで、ちょっと頭が痛くなった。他メディアの波及により変容した人々の飲酒習慣を捕捉することは喫緊の課題かもしれないが、人々が酒を愛し、繰り返し酒を呑むのは、<酔い>によってそういった諸々の社会的属性を忘れるためなのではないだろうか。

酒の核心には<酔い>があるというのが、酒好きな私の信念だ。体質的に酔わない人がいることは承知しているが、できれば酒に酔うのが好きな人に酒評論や酒研究に取り組んでほしいと思うのは、贅沢な願いなのだろうか。

すでにお気づきの人もいるように、すぐ上記の2つの段落で、私は大きなミスをしてしまった。昨晩慣れないカクテルを呑んで酔ってしまったせいで、そこに14回出てくるべき「文学」という言葉を、誤って「酒」と書き間違ってしまったのだ。申し訳ないが、そのように読み替えて読み直してほしい。

酔いの程度を微醺にまで下げれば、人は椅子の肌触りや柔らかさに酔うこともできるし、イギリスの港町のダウナーなロックに酔うこともできる。ここでいう<酔い>を表現する言葉で、自分が真っ先に思い出すのがこの映画に出てきた言葉。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和。

ゴダールの映画だが、言葉の主は映画監督のオリヴェイラ。人は溢れかえる映画的記号に酔うことだってできる。しかし、オリヴェイラが「説明不在の」と限定をつけていることに注意したい。事前に与えられる説明や背景知識に囚われてはいけない。固定観念の色眼鏡は外さなくてはならない。事物が事物として持っている様々なtextureを感じ取る鋭敏な感覚が、芸術作品に「酔う」には不可欠なのだ。そして、その酔いは快楽やエロスにきわめて似ている。

その鋭敏な感覚を陶冶するには少しばかりの研鑽が必要だが、インターネットの普及により、芸術作品に接触できる機会は格段に増えた。頻度に気を付けながら接触しているうちに、自分の子供が大きくなる頃までには、必ず子供に簡単な鑑賞の方向付けをできるようになる。

そのように世代から世代へ受け渡される無数のバトンをイメージしていると、自分を育ててくれた純文学については、自分から若い人々にバトンを渡せたらとも想像してしまうのだが、いい年齢になっても夢を書きつけてしまうのは、きっとまだ酔いが醒めきっていないせいだろう。

 

 

 

(5/10分)