三島由紀夫の彼方へ

自分を理解している文芸評論家として、生前の三島はこの人の名前を挙げていた。全集の二度の編纂に携わった田中美代子が、三島研究の第一人者であることは疑いない。

三島由紀夫 神の影法師

三島由紀夫 神の影法師

 

 本が届いたので、自分のいくつかの断片的論考の答え合わせをするつもりで、昨晩目を通した。

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この辺り、またしても記憶だけで書くが、その序文の中で三島は、日本浪漫派を批判的に乗り越えようとする大岡信に対して、自分は「その滑り台を逆に滑り降りてしまった」に似た表現で、つまりは「ドンデン返し」に似た表現で、逆に強く魅了されたことを告白している。日本回帰を主題とした『絹と明察』は、皇軍必敗を祈念した(!)日本浪漫派の情念と深く関わっており、だからこそ三島の割腹自殺の主題群のすぐそばで書き上げられたのである。

「滑り台」の暗喩は記憶で書いたものだが、『鏡子の家』執筆中に書かれた『裸体と衣装』の中に、同じ記述が見つかった。

読者はたちまち、昭和十年代の精神的デカダンスから、自覚せざる敗北の美学へ、言葉の自己否定へ、デマゴギーへ、死へ、といふ辷り台を一挙に辷り下りることを強ひられる。

記述対象は大岡信『抒情の批判』で、そこで大岡信が批判しているのとは逆の方向性に、三島が日本浪漫派への方へ再接近したことも、田中美代子が丁寧に読み取っている。

その辷り台を辷り下りたのは、三島当人だけかもしれない。(…)

大岡はここで(…)むしろその辷り台を辷り下りることの危機を警告していたのだから。

 ただ、このときに逆向きに転換した思想遍歴が、『絹と明察』の核心にある「ドンデン返し」に直結していることには言及されていない。田中美代子が指摘するように、「聖戦哲学研究所」出身の「岡野」は、三島の小説にしては珍しくfirst nameを持っていない主人公である。まだ汲み尽くしていないもののありそうな小説だが、大岡信『抒情の批判』受容によって日本浪漫派への再接近を果たした彼の思想遍歴の繁栄を読むという拙論は、三島研究のこの局面を一歩前へ進められたかもしれない。

 『神の影法師』がやはり社交辞令なしの絶賛に値すると感じたのは、『太陽と鉄』の文脈付けの正確性と、終章の「単性生殖」に関する記述の奥深い踏み込みぶりが素晴らしいからだ。「三島は」と頻繁に書かねばならないのを避けるために、「彼は」という三人称を頻用しているせいで、どこか恋文めいた熱が籠っているように感じられたのも、好印象だった。全集だけでなくこの評論も「決定版」だろう。

『太陽と鉄』は、作者本人が「告白と批評の中間領域」にある言語群だとした詩的エッセイで、三島贔屓のドナルド・キーンらの取り巻きも、どう読むべきかを持て余し気味だった難解な作品だ。田中美代子は正確にも、三島が29歳の時に書いた短い『ジャン・ジュネ』に、その源流があることを解き明かす。三島はこう語っていた。

 ジュネは主観的な隠語で小説を綴った最初の男である。

 ジュネの汚辱の本能と汚辱の体験は、通念では決して代置できない一種の純粋体験であったから、彼は通念による表現をあきらめ、自分の血肉と化した隠語を用いて、孤独な表現上の純粋さに達したものと思われる。(…)彼は小説家であるより先に詩人であった。

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 私も上記の記事で、三島ミスティシズムが『ジャン・ジュネ』からメキシコ転回と『獣の戯れ』を経て『太陽と鉄』へ至ることを跡付けたが、それが「正解」だったことより、三島の核心を自分以外にきちんと読解できていた先人が存在していたことの方が嬉しい。数え切れないほどの白紙の答案や誤答を、これまで見せられてきたので。

終章の「単性生殖」も、並の女流文芸評論家からは抜きん出た分析に満ちている。三島は稲垣足穂を絶賛して、(自らは相手から辛辣な批判を受けながらも)、「男性の秘密を知っているただ一人の作家」として、「自らの愚行」を理解できる唯一の人間だと、生前述べていた。「女性でありながら」と書くと語弊があるが、その完全な理解に最も近い人間が、(稲垣足穂でもない他の男でもない)女性だったことに、率直な驚きを禁じ得ない。

 田中美代子は、三島論の終章を非ヘテロセクシャルの「単性生殖」幻想で締め括ろうとする。そして、またしても『ジャン・ジュネ』を召喚するのである。

ジュネの永遠の少年らしさは、野獣の獰猛な顔をした天使を思わせる。(…)ジュネは単性生殖をする。(…)泥棒と男色と裏切りとの彼のいわゆる聖三位一体のために、服務する。

 澁澤龍彦がその含意を知りながら注意を振り向けた短編『仲間』を、終章の幕切れに引用したところも見事だ。「仲間」は、文学的には何も拾うところのない、ほとんど手遊びで書いたような短編。ただし「エロティシズムの大家」澁澤龍彦の注目があったという脈絡で目を通せば、誰が読んでも『仲間』=ゲイ仲間としか読めなくなる作品でもある。

 田中美代子の『決定版三島由紀夫全集』の最後の月報は、『仲間』が「3人」であることを述べて、その結語としている。驚くべきことに、田中美代子には3がわかってしまう!(ただし3人目が「精霊」であるという解釈には、私は懐疑的だ)。

この3という数字が、実は三島文学を読解する上で、欠かせない鍵なのである。

 わかりやすく三角形に図示すれば、「エロスとタナトスの絡み合い」とかつて述べた両極を、頂点B「愛する / 愛される」、頂点C「殺す / 殺される」と言い直して、正三角形の底辺の両端とすれば、3つ目の頂点Aは「見る / 見せる」である。

三島偏愛の自作『憂国』は、Aの天皇からのまなざしが不可視なので、辺BCが際立っている。同工異曲の匿名ポルノ「愛の処刑」は、美少年の目前での切腹という筋書きなので、辺ACが中心線だ。

田中美代子が最後の最後で頂点Aを見失ってしまったのは、『獣の戯れ』を解釈する際に、誤って隣の引き出しを開けてしまったからだろう。隣の引き出しとは『午後の曳航』。その小説について、三島は澁澤龍彦にほとんど告白に近い手紙を送っている。

 ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボオドレエルのいわゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです。

 ここでの「殺し」とは少年たちによる継父殺しだから、田中美代子が『午後の曳航』にオイディプス・コンプレックスを読んだのなら理に適っている。しかし、『獣の戯れ』の3人は、フロイト的三角形ではなく、あまりにも三島的な別の三角形を形成していると読むべきだろう。では、どんな?

隣の引き出しに入っていた手紙であるにもかかわらず、そこに「死刑囚にして死刑執行人」という三島固有の強迫観念を、私たちはまたしても読まされたところだ。

やがて逸平を殺す「死刑執行人」であり、かつ、その罪で「死刑囚」となるだろう幸二。幸二と優子との不倫愛。そして、その不倫愛の性的狂態「獣の戯れ」を、失語症で状況理解力の乏しい夫の前で演じられるかどうかが、『獣の戯れ』の中心線だ。そこで失語症の夫は、不倫愛を犯す妻とかつての部下を「見ている」。

優子の唇は幸二の唇を闇やみくもに押し、ために二人の歯はぶつかり合った。こんな衝突のあとに肉の融和が来た。優子は進んで舌をさし入れ、幸二は温かい柔和な淀みの中に優子の唾を呑んだ。この間彼の耳は間断ない滝の響きに占められていたので、時がどれだけ移ったかわからなかった。

(…)逸平はこの時紛う方ない微笑を顔に浮べていた。それは出獄後の幸二がはじめて見た逸平の微笑と寸分変わりのない彼の新たな特質の表象で、今それが何を意味していたか、幸二にははじめてわかった気がした。

やがて、この三島的三角形は、接吻から発展して「失語症の夫の前で不倫愛の性交をするかどうか」にまで高まり、幸二が失語症の夫から「死。死にたい」という一言を引き出したことをもって、性交と殺人とが入り交じったグロテスクな劇を見つ見られつするクライマックスへと到達するのだろうが、『午後の曳航』と同じく、その凄惨なクライマックスは小説中で故意に省かれる。代わりにこんな謎めいた言葉が、無期懲役の女囚となった優子から洩れるのである。

本当に私たち、仲が好かったんでございますよ。私たち3人とも、大の仲良しでした。

そう、3人は「仲間」だったのである。頂点A「見る / 見せる」と 頂点B「愛する / 愛される」と頂点C「殺す / 殺される」が作る三角形が、『獣の戯れ』でその聖三位一体の全貌を現していたことは間違いないだろう。

『獣の戯れ』の次に三島的三角形の全貌が現れているのは、その4年後に書かれた「月澹荘綺譚」という短編だろうか。小説を要約する。

戦前の或る若き侯爵が、茱萸(ぐみ)の実を摘んでいた精神薄弱児の少女を見て、下男に少女をレイプさせ、それを熱心に観覧する。やがて侯爵は不審死するが、その死体の両目は抉りとられ眼窩には赤い茱萸の実がぎっしりと詰め込まれている。

レイプ、観察、死。頂点Aが際立って前景化されているものの、愛と死とまなざしの錯綜する三島的三角形の全貌はしっかりと描き込まれている。

そのような周縁的な著作から拾い上げるだけでは物足りないという人は、最高傑作の『春の雪』で、「清顕と聡子の間にある愛」「病気による清顕の夭逝」「二人を見守っていた本多」作っている三角形を思い浮かべてもらってもかまわない。

頂点Aをなしていた本多はとうとう最終巻『天人五衰』では80歳となり、若き恋人たちの交情を覗く老残の窃視者として三角形の頂点Aを形成しつづけ、あえなく逮捕されるのである。

自分がいくつか書いてきた批評的スケッチを、三島研究の第一人者の分析と照合しながら、「三島的なものの解明」という巨塊を、少しだけあるべき方向へ前進させてみた。

「作者の肉声」をふんだんに取り込んできたので、作家論的批評が好きな人には心地よかったかもしれないが、スケッチを終えて、恐ろしいほどの徒労感に襲われていることを告白したい。

カフカの『変身』は、作家の伝記的事実に照らせば、「お金にならない文学ばかりにかまけて、この穀潰し虫!」という家族からの罵倒に由来する。「ブルームフェルト、ある中年の独身者」という短編で独身男が2つのボール(だけ)に付きまとわれ、『城』の主人公Kがついに城に到達しないのは、婚約者がありながら未婚で生涯を終えたカフカの「性的不能」の反映だともされる。嗚呼、これらの作家論的読解の絶望的なつまらなさよ!

冗談じゃない。そこに「カフカの小説を読むこと」は決して存在しない。どこかで語ったように小説を酒に譬えれば、「酒による酔い」の得がたさを語るべきはずの場面で、酒瓶のラベルを読み上げるのは、プロの酒評論家のするべき仕事ではないと思う。ラベルは誰にでも読めるように書かれている。

(いや、酒のラベル好きが嵩じてラベル収集を趣味にする人がいたっていい。ただ、「ラベル収集」と「酒による酔い」が別物であることは認識しておいてほしいと、ささやかに願う。ちょうど文献学と文学が別物であるように)。

ここまで作家論的批評のスケッチを描いてきたのは、とりわけ三島に関しては、どういうわけか不見識だらけ、誤解だらけ、不真面目だらけの作家論的批評を、少なくともこの作家に限定した範囲では、終わらせてしまいたいと考えたからだ。

小説において、図式性や劇的構成度や諸要素の制御力が並外れて高く、それらを語る「作者の肉声」などの二次テクストがふんだんに残存し、伝記的事実の氾濫にも事欠かない。確かに、三島由紀夫は最も作家論的批評を誘発させやすい作家だが、『神の影法師』は、すでにその領域の多くを終わらせてしまった。田中美代子がしきりに「彼は」と書いた方角に、もはや三島由紀夫を作家論的に生かす新たな道はなくなってしまったことを、再確認しておこう。

もし現在も尚、三島を読むことにアクチュアリティがあると考えるなら、「彼の方角」を二文字に縮約して、作家論的批評の「彼方」へ向かうほかない。「決定版」として多くのものを終わらせた『神の影法師』が伝えようとしているのは、ここを「出発点」にしなさいとする更なる批評の旅への誘いであり、そう解釈できるだけの度量が後に続く者に求められているという前提であるように感じられてならない。

 

 

(6/3分)