カフカの「実真」から「可能性の中心」へ

「時間と空間について私たちが固定観念を抱いている」とする時空の哲学が数多く存在する。

時空の哲学 - Wikipedia

昨晩このように書いた部分が、作家論的批評が好きな人々の不興を買ってしまったようだ。

カフカの『変身』は、作家の伝記的事実に照らせば、「お金にならない文学ばかりにかまけて、この穀潰し虫!」という家族からの罵倒に由来する。「ブルームフェルト、ある中年の独身者」という短編で独身男が2つのボール(だけ)に付きまとわれ、『城』の主人公Kがついに城に到達しないのは、婚約者がありながら未婚で生涯を終えたカフカの「性的不能」の反映だともされる。嗚呼、これらの作家論的読解の絶望的なつまらなさよ!

冗談じゃない。そこに「カフカの小説を読むこと」は決して存在しない。どこかで語ったように小説を酒に譬えれば、「酒による酔い」の得がたさを語るべきはずの場面で、酒瓶のラベルを読み上げるのは、プロの酒評論家のするべき仕事ではないと思う。ラベルは誰にでも読めるように書かれている。

(いや、酒のラベル好きが嵩じてラベル収集を趣味にする人がいたっていい。ただ、「ラベル収集」と「酒による酔い」が別物であることは認識しておいてほしいと、ささやかに願う。ちょうど文献学と文学が別物であるように)。

 ひょっとしたら、批評的なパースペクティブにおいても、時間と空間について、私たちは固定観念を持っているかもしれない。いや、持っているはずだと信じて、マキャべリストの自分はその固定観念を積極的にバネとして使う場合もある。

時間的な固定観念とは、ヘーゲル的な単線的進歩史観。先にあったものより後に来たものの方が「進歩している」と考えてしまう錯覚を、私たちは抱きがちだ。このブログにしばしば登場してきたロラン・バルトやロブ=グリエは、先行する巨人サルトルとの対抗関係 / 補完関係にあった。パースペクティブは数直線ではなく、少なくともx軸とy軸のある平面的なマッピングで把握しなければならない。

サルトルの世紀

サルトルの世紀

 

 (書名が象徴的だ。面白くて2度熟読しているうちに、ちょっとした記述上の瑕疵を発見して嬉しくなり、BHLの訳者でもあった人に、2005年頃?にメールを差し上げたような記憶がある)

フランス・イデオロギー

フランス・イデオロギー

 

空間的な固定観念とは、「欧米」より日本が劣っていて、「欧米」が日本を認めれば民族的自尊心が満たされるがごとき日本特殊的な思い込み。「欧米」と日本をさまざまな観点から比較すると、その優劣の分布はまだらだ。当然「欧米」も一枚岩ではなく、文芸批評的に見れば、フランスは脱作者的、ドイツは親作者的。翻訳大国の日本と比べれば、文芸批評後進国に見える国も少なくないことだろう。

「決定版」として多くのものを終わらせた『神の影法師』が伝えようとしているのは、ここを「出発点」にしなさいとする更なる批評の旅への誘いであり、

 このように、ランソン流の19世紀的作家論に対して、20世紀の諸批評が継起的に発生する進化版であるかのように書いたが、歴史的根拠はしっかりあるものの、修辞学的な表現にすぎないことは積極的に認めたい。後者の卓越性を必ずしも主張しているものではない。発想の柔軟さが身上なので、個人的には、21世紀に19世紀的な作家論をやるのも人の好き好きだと思う。文学と文献学の境界について話しても、わからない人にはわからないし、その境界を絶対に越えてはならないという法はないだろう。

最初の引用部分で、カフカの作家論批判を書いたが、それはなるべく短く書くためで*1、念頭に置いていた『カフカ解読』は、「このミステリーが凄い」と言いたくなるほど、読んでいて興奮させられる文芸評論だ。膨大な資料を丁寧に読み取り、カフカの伝記的事実と作品を鮮やかに結びつけて不条理の霧を吹き飛ばし、生き生きとした等身大のカフカ像を蘇らせている。

カフカ解読 (新潮選書)

カフカ解読 (新潮選書)

 

親作家的なドイツでも翻訳出版された。なぜかネット検索では出てこないが、カフカに縁のある文芸賞を受賞したはず。

www.eurobuch.com

坂内正は昭和5年生まれ。ということは、「さすがは昭和一桁、仕事熱心だこと!」と敵のルパンからも賛辞を贈られたあの銭形警部と同世代ということになる。海外作家の翻訳小説について書いた文芸評論が逆輸入され、異国の地で文芸賞を受賞した例は、他にほとんどないのではないだろうか。

tabularasa.hatenadiary.jp

時間的尺度による優劣も空間的尺度による優劣も固定概念であり、世界は無数の諸要素がまだらに点在し、それらが生成しては消滅する、壊れた万華鏡だ。パースペクティブを改めなければならない。

蓮実重彦は「フローベール研究をするのに日本人であることが障害にならないか」と問われて、「相手にすべき研究者は世界に20人程度で、その20人との勝負であるにすぎない」という意味のことをどこかで語っていた。

その批評手法が作家論的であれ、批評対象の作家が外国人であれ、真剣にやりさえすれば、照準のくっきり合った「世界」が見えてくる。そしてその「世界」は、努力次第では、決して到達不可能な雲の上の存在ではない。そこへ向かって文芸評論家が自分を駆り立てないことを正当化している理由は何だろう?

「世界」の側に立っている人々は、世界水準への到達可能性の高さをよく知っている。

日本語ができるできないにかかわらず、外国人による優れたミシマ研究がこれまでにいくつも邦訳されている。これが最も著名な評論になるだろうか。

 中期の重要な大作『鏡子の家』が、英訳仏訳がないために未読なのは、ユルスナールにとっては不利に働いている。ということは、日本人が真剣にやれば、作家論的批評であっても、ユルスナールに伍するような世界水準の三島読解が可能でないはずがない、と書いたところで、自分が嫌悪を寄せているのは、要するに「不真面目な作家論」だということが判明してしまった。

困ったことになった。

第一人者に喰らいついて部分的には良い勝負をした局面もあったが、こことここで書いた批評的エッセイが、どうしようもなく不真面目であることは、率直に認めなければならない。

tabularasa.hatenadiary.jp

三島由紀夫全集を読破したのは19才の時。まともな文学研究の手法も知らないまま、メモも取らず、ただ好き放題に読んだだけ。そして、あれから四半世紀もたった今。古すぎるその記憶だけを頼りに、資料を手元に揃えきらないまま、論を書き進めている。

そのような論述環境の非研究者的なルーズさだけにとどまらず、自分が少年時代に心酔した三島由紀夫を、作家論的観点から、エロ・グロ・ナンセンスの狂人であるかのように描出してしまったこと*2や、尊敬している第一人者に部分的に卓越することを顕示するかのように書いてしまったことが、ひどく悔やまれる。よほどの事情がない限り、あのようには書かないのだけれど。

というわけで、いささかの自己嫌悪とともに、あの2つの記事に書いた三島読解の新機軸の「所有権」は、積極的に放棄したいと思う。使いたい人がいればクレジットなしで使用してかまわない。あんなことを書くために、自分はこれまで研鑽を積んできたわけではない。

今日の昼、知人と立ち話をしていて、少年時代にお会いしたことのある法学者が、大学生の頃から、地方都市の「杉丘市」で仲間数人と憂国忌を開催していたと聞いた。可能性の中心は別の場所にありそうだ。

「作者の中心から、可能性の中心へ」。これは今後容易には変わりそうにない自分の批評軸であり、時代や状況の変化に伴って、屋根の上についた風見鶏のように方角を変えたとしても、それは変節ではなく、アクチュアリティを追い求めつづける不変のベクトルだからだろうと想像してみる。

少年時代に、ほとんど父にも似た存在として自我形成の一翼を担った貴重な存在に、おそらく自分は「作者の中心」についてとは、まったく異なる言葉を返すことになるだろう。他人はどうあれ、それが自分の選んだ道だ。

*1:一晩で手のひら返しをしたように見えるかもしれないが、私個人が作家論的批評を支持しない理由は依然としてある。それについては別時に述べたい。ただそれを一般化したくはないということ。

*2:(『憂国』≒「愛の処刑」≒)「宝田明天皇ならすぐに死ねる」という三島の発言を、数日前に見つけてしまった。矮小化したがる勢力には格好の手榴弾だ。飛んできたら投げ返さなくては。

スター☆デラックス 宝田明

スター☆デラックス 宝田明