頑張Tを着た魂

人々が豊かでサステイナブルな生活を送るために、とりわけ日本が高止まりしているフードマイレージを減らしていこうという運動がある。何となく賛同しているつもりの自分は、「地産地消」の食事が多くなるよう心がけていて、下記で触れたホテルに滞在したときは、グァバ・ジュースばかり飲んでいた。シンガポールは観光客数世界4位の都市。高温多湿の気候を除けば、ホテルも街も過ごしやすかった。

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グァバは人によっては好き嫌いがありそうな熱帯の果物。甘味が苦手な人は、健康に良いグァバ・ティーを試してみると良いかもしれない。

グァバ・ティー数杯を飲みながら、気分良く読み飛ばせそうなのが、このインタビュー集。

グアバの香り――ガルシア=マルケスとの対話
 

ガルシア=マルケスといえばラテンアメリカ文学の「マジック・リアリズム」を代表するノーベル賞作家。つい身構えそうになるが、このインタビュー録は稀に見る読みやすさだ。 玄人より素人に近いポジションで語られており、親友が聞き手になっていることもあって、ガルシア=マルケス自身もとてもリラックスしているせいだろう。

打ち解けた雰囲気でのインタビューには、もちろん彼の作品世界に欠かせないバナナの話も登場するが、文学観や自作について語っている中で、自分はフォークナーからの影響を指摘されることが多いが、誰も指摘しないヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ婦人』の方が影響力の強い存在だった、とか、自己ベスト小説は世評の高い『百年の孤独』ではなく『族長の秋』で、そこでは独白を語らせながら独白なのに複数の声を響かせることができた、とかいう最先端の文学現場の話は読み応えがある。世界性を勝ちえた小説家は、往々にして世界文学に通暁しているものだという実感を、また新たにさせてくれる。

そんな読書に没頭したのち、ふと顔を上げて、飲み干されたティーカップを見ると、グァバ・ティーがなくなっている。次のグァバ・ティーを入れてこなければと考えて、高校時代に作ったオリジナルTシャツを思わず想起してしまうのは、或る高校の出身者に限られた連想だろう。

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ここで語った或る高校のランニングの掛け声は、オリジナルTシャツに書き込まれて、その高校の生徒たちに愛用されている。通称を「頑張T」(ガバティー)と呼ぶらしい。単なる駄洒落ではない。誰も気づいていないと思うが、ここまでの文脈にきちんと「頑張T」創始者の痕跡を織り込んでおいた。

高校時代の1つ上の先輩に、在学中から大人物だと感じさせるところが多々あった人がいた。とはいっても、政治家に立候補したり、松下政経塾へ入ったりなんていう、その後の骨太な経歴は想像できなかった。「人々に何を見せたら喜ぶか」という発想から、こういうのがあった方が面白いと考えて、先輩が創り出した「頑張T」。その発想は根本のところでは今もさほど変わっていないのかもしれない。

冒頭で、観光立国でもあるシンガポールで、自分が持続可能なドリンクスタイルを堅持したことを紹介したが、あれは先輩の著書名に触発されて書いた逸話だ。

観光につける薬―サスティナブル・ツーリズム理論

観光につける薬―サスティナブル・ツーリズム理論

 

 (余談だが、いま観光の分野で気になっているのはこの本。詳細を知らないままの第一印象では、この人は建築家ではないもののブルーノ・タウトの再来のように見える。ちなみに、一昨日の記事で引用した坂口安吾の「日本文化私観」は、ブルーノ・タウトに対抗した文化的エッセイだった)。

デービッド・アトキンソン 新・観光立国論

デービッド・アトキンソン 新・観光立国論

 

 さて、美術部でもないのに何となくデザインセンスに自信のあった自分は、2代目「頑張T」のデザイン担当を申し出て、当時の街唯一のオリジナルTシャツ作成業者へ何度も足を運ぶこととなった。確か印刷屋が経営多角化して出した小さな店だったと思う。あれから四半世紀。まだ現存しているのには驚きと喜びがある。

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自分が小説を書いているのを知ると、仲良くなった印刷屋の社員や女子大生のアルバイトたちが、印刷屋の社長さんを紹介してくれた。或る小説家の同級生だったのだという。「きみはもっと女を知らなきゃいけない。あの富田は女に対して…」などという下世話な忠告をもらったりもした。友人の筆名は早坂暁といった。

早坂暁原作で、名匠山田洋次監督がメガホンを取ったのが『ダウンタウン・ヒーローズ』。旧制松山高校の後身である松山東高ではなく、隣の大学附属中学校の講堂がロケに使われたはず。講堂の名は「章光堂」といい、安部能成が命名した可能性が高いとか。

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その前後に附属中学校の生徒会長を務めていた自分は、建築好きだったこともあって、章光堂の屋根裏にこっそり登ってみたことがあった。鳩の糞だらけの汚い屋根裏だったが、恐ろしく古い木造建築であることは、中学生ながらも想像できた。調べると、大正8年竣工の建物だったらしい。

www.iyoirc.jp

ここで「杉丘市」という街に刻まれている歴史について語った。 

またしても、喜劇王三谷幸喜の話。国営放送局のサイトで、彼が熱を帯びた口調でお気に入りの演技スタイルや脚本について語っているのを読むと、そこで私たちは「伊丹十三」と「早坂暁」という固有名詞にまたもや遭遇することになる。Synchronicity, synchronicity, synchronicity.と3回呟いておこう。

www.nhk.or.jp

 上記の自分の記事で、伊丹十三江藤淳がほぼ同い年であることに触れたが、早坂暁も同じく昭和一桁世代だ。

 自分の中で、この街が、神へ、死者へ、水を捧げる街なのだと想像し直して、深夜の仕事帰り、星を見上げながら無人の街路を歩くことがある。同じ思いを抱いて、これからも歩いていくことだろう。

 上記のようにあの記事を結んだのは、いささか感傷的すぎただろうか。

江藤淳の主著『成熟と喪失』は、「父の喪失と母の崩壊」を伴った戦後社会が、戦中派の目にどのように映り、それ以後をどのように生きていくべきかを問うた作品だった。

今は亡きレジェンド江藤淳については、「フォニイ論争」を振り返ったり、『なんとなく、クリスタル』は認めたのに『限りなく透明に近いブルー』には激怒したその落差を批評したり、といった応接が絶えない。

今晩は、しかし、まだ手元のカップにグァバ・ティーが残っているうちに、governability について語っておきたい。月曜社によるフーコーの「統治性」概念と区別するために、self-governabilityと呼ぶことにしよう。和訳すれば「自治可能性」となるだろう。

統治性ーフーコーをめぐる批判的な出会い

統治性ーフーコーをめぐる批判的な出会い

 

教科書になるのは、やはりこの本しかないと思う。

 自分はM2本をすべて読破しているM2ファンなので読み通すのは楽しいが、読み慣れない人の中には、宮台真司の本を難しく感じる人もいるかもしれない。ただ、「茶髪の風雲児」系政治家が或るM2本を読んで、「まったく何が書いてあるか分からなかった」と言っているのを聞いて、そこにあるだろうリップサービスを割り引いたとしても、この国の行方に不安を感じずにはいられなかった。丁寧な注を参照しながら、ゆっくり読んでいけば、決して難しい本ではない。

例によって積極的に引用に頼りながら、自身の興味の線に沿って、箇条書きでまとめていく。

 ・「民主主義自身が調達できない、しかし民主主義に不可欠な前提」があるので、エリートがパターナリズム父親温情主義)的に民主主義を設計するしかない。

・しかし「グローバル化による様々な共同性の空洞化」が「卓越者の公的貢献動機=社会への価値コミットメント」を怪しいものにする。

・「社会が国家を道具とする」近代では国民国家(nation-state)の形が必要だ。国民共同体(nation)への価値コミットメントは、自生的だろうが注入的だろうが事実的な歴史であるほかなく、論理的な正当化だけでは済まない。(→注入的に事実的な歴史を作っていく必要がある)

・日本特殊的な問題として、データにみられるように「圧倒的な自治マインドの不在」がある。しかし、知識人がその日本特殊性に対して「こうあるべき」だとする「べき論」をいくら語っても有効性はなかった。

・社会秩序を支える「内発性=内なる光」は、その埋め込み主体を人だとして教育を重視するより、埋め込み主体を社会だとして社会化を重視すべき。(社会化不全に抗う社会設計)。

・結論。民主主義の中軸は自治にあり、自治の中軸は<参加>と<包摂>にある。それを実現する最も有効な手段は、先進国で日本でだけ普及していない住民投票制度である。

少しはわかりやすくなったか、また不当にわかりやすくしすぎていないか不安なので、興味を持った人はぜひ本書に当たっていただきたい。

このようにまとめたのは、江藤淳が最晩年に行きついた「治者」という概念が念頭にあったから。 戦中派という「事実的な歴史」を背負って「治者(≒エリート)」として文壇に君臨し、国家にコミットしようとしつづけながらも、江藤淳は戦争を知らない戦後世代の中から、再帰的に国家へのコミットメントを引き出す術を知らなかった。だから、フォニイ論争にせよ、『ブルー』への激昂にせよ、常に不機嫌で苛々している表情を人々の記憶に残すこととなった。

怒りは二次感情だ。自分が抱えている悲哀や無力に、どうしようもなくやりきれなくなって噴出する感情。だが、人が人について人に語っても、社会が大きく変わる予感はしない。江藤淳という人について語りつづけるのではなく、江藤淳の怒りの源泉に何があるのかに触れた上で、この社会をどう変えていくのかについて、アーキテクチュアルな制度設計の観点から、私たちは思考を深めていく必要があるだろう。

 『私たちはどこからきて、どこへいくのか』が、宮台真司の集大成であるとのレビューがネット上に散見されるが、たぶんそれは違っている。映画評にせよ文化的洞察にせよ、この一冊には到底収まり切らない途轍もない巨人であることは疑いない。本書にある縦横無尽の思想的歴史的批評的饒舌を経て、ようやく逢着した結論が住民投票制度では、「大山鳴動して鼠一匹」ではないかとの揶揄も見かけた気がする。 それも違うだろう。self-governableであるためには、人々が透視可能で対処可能な範囲に区画を設定する必要がある。だからこそ、国民投票制度より先に、住民投票制度の必要が謳われているのである。

ターミノロジー上では、パーソンズは「内発性」、同じものをエマソンは「内なる光」と呼んでいるそうだ。

手元のグァバ・ティーが尽きた。ごく個人的には、心の中でこっそりと、同じものを「頑張Tを着た魂」と呼ぶことを許してもらえたら嬉しい。