完璧な絶望が存在しませんように

 ニューヨークは摩天楼の都市。「摩天楼」とは skyscraper の和訳で、Hollywoodを誤訳した「聖林」とは違って、名訳の部類に入るのではないだろうか。

ニューヨークへ渡って、water scraper(あるいは water squeegee) の出てくるPVを撮ったアーティストがいたのを思い出した。少年時代に流行していたこともあって好きで追いかけるように聞いていたが、留守番電話に残された「I will catch you.」(またかけ直す)のような平凡な慣用句に、恋愛上の意味を読み込む異化効果を面白がることができたのは、非英語圏のリスナーに限られたのかもしれない。やがて、ニューヨークは彼女から遠い存在になった。

ただ前身のバンド時代に、歌やダンスの弾みで下着が見えてしまうのを注意されて、「何でそんなことを気を付けなければいけないの? 猫がそんなこと気にしている?」と反論したという野良猫伝説はこのPVでも健在で、太平洋を渡って世界最大の都会まで辿りついてしまった野良っぷりの強度が、どこか愛おしさを感じさせる。

野良猫だから、家出もするし、盗みもする。昨晩の記事の丹生谷貴志を真似ていえば、サザエさんの魚を失敬して彼女を裸足で疾走せしめたのも、この野良猫の仕業にちがいないと断言してもよい。そのような野良っぷりを描いて、名曲「フレンズ」に次ぐ完成度に達した楽曲といえば、「Moon」に指を屈することになるだろう。

壊してしまうのは一瞬でできるから

大切に生きてと彼女は泣いた

 家族への帰属意識が薄いせいだろう。大切に生きなさいと必死に諭そうとする「ママ」を、野良猫は「彼女」という三人称で突き放しながら見ている。

このシングルのリリース後に、曲中に「先輩…」という幽霊の声が紛れ込んでいるという噂が広まったために、曲はますます注目を集めた。lunatic の語源となった「Moon」のことだから、何があっても不思議はない。そのような連想や不安を誘った要因は、しかし、岡田有希子の自殺、それに続く青少年の後追い自殺が社会問題になっていた時代背景の方が、強かったかもしれない。

…何の話をしていたのだろう。ニューヨーク、猫、幽霊。そうだった。ここで語った「『レキシントンの幽霊』を読む」に、まだまだ書き足りないことがあるという話だった。

 おそらく白昼夢だと思うが、テニスをしているような気分になって、このブログを書いていたときがあった。何かを書くと、状況からそれに対する反応が浮かび上がって、それに対してまた次のショットを返す、という具合で、見えない幽霊とテニスをしているかのように。

あんな風に「レキシントンの幽霊」を読解したら、また「漱石=猫」主義者(作中の一人称をすべて作者と同一視したがる種族)が「プライバシー暴き」だと騒ぎ立てるんじゃなかろうか。もしそうなったら、処女作の「僕」が敬愛するデレク・ハートフィールドがどんな作家だったか思い出してみな、という台詞で、「漱石=猫」主義者たちのコートのネット際へ、そっとフェイント・ショットを落とそう。そう考えていた。

 大切にしているものであっても、壊されるのが一瞬であることを、自分は身に染みて知っている。

昨年12月、仕事上の付き合いのあったAが、さりげない雑談を装って、「本当は村上春樹のことをどう思っているんですか?」と訊いてきた。言説分析に覚えのある自分に、よくぞそんな無防備な訊き方をしてきたものだと感心した。

たったそれだけの言葉遣いから、Aは知らないどこかで「私の村上春樹に対する見解」を耳にしていて、「本当は」の「は」は区別強調だから、それを「嘘」だと勝手に感じているということまでわかってしまう。彼が何かを壊そうとしていると感じた。

彼が装ったのと同じくらいのさりげなさで、「好きとか嫌いとかいう次元では言えないですね。その次元以上の重要な存在です」と回答した。私の「知らないどこか」では、どう伝わったのだろうか。いずれにしろ、その発言の内容が当時も今も本当なのは動かせない真実だ。

作者だからといって、小説中の登場人物の言動すべてに責任を取らねばならない義理はない。できることなら、自分の知らない人間たちや知らない世界を描きたい。それでも、登場人物たちそれぞれの性格に合わせて、自分の中のさまざまな属性を分配し、彼らに自分の考えを語らせる瞬間というのは、小説を書いているプロセスで何度も発生する。自分の人生上のポリシーが露出しているのは、例えばこんな細部。

「へっ。老いぼれの泌尿器科医ふぜいに、心臓の何がわかるって云うんだ。お前だってそう思うだろう?」

 目上の人間をことさらに粗略に扱って、不遇な若者同士の連帯感を育もうとする遣り口を、路彦は研修医を二年間務めあげてこのかた、すっかり嫌いになっていた。上司の医師や患者や病院職員との複雑な人間関係を遣り繰りするうちに、詰まるところ役に立つのは、裏表のない正確な言葉だけであることを思い知ったからである。いつもは学生じみた陰口の共犯を唆されるたびに、話題を転じるか黙るかする彼が、このときばかりは一息に返答した。

「きみが歯学部増設派の回し者だということはわかるみたいだ」

きっと「『レキシントンの幽霊』を読む」には、まだまだ書き加えるべきところがあるだろう。しかし、その書き加えるべき言語群の土台は、今晩、あるいはこれまですでに、動かしがたい強度で語ってきたような気もする。ひょっとしたら、自分の文章が完全でないせいで、真意が完全には伝わっていないのかもしれない。

このエッセイを「風に訊け」という言葉で締めくくったのが、とりわけ不完全だったように感じられる。より正確には「風の歌を聞け」と書くべきだったのだろう。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 ほとんど完全に絶望的な窮境に陥っている人間に対して、まったく係累もないのに、比喩以上の意味で完璧な絶望が存在しないことを教えられるとしたら、世界にそれ以上の素晴らしい贈与、素晴らしい倫理はないのではないだろうか。 

贈与を受けた側は、ほぼ間違いなく、受け取ったものをバトンに類比しうるものだと考えて、それを同じく、後につづく絶望的な窮境に陥っている人間へつなごうとするだろう。たとえそのプロセスが完全ではないにしても、一瞬で壊されうるような fragile な宝物が人から人へ手渡されていき、それが一次元的な線状ではなく二次元的な「面」を形成するような波及力を生み出していけたら、と希望的観測を綴らずにはいられない。この世界が少しでもマシな相貌を取り戻すことを祈らずにはいられない。

この記事の中盤で語ったAは、一瞬であっけなく私との紐帯を壊してしまったが、Aは自殺しそうになった彼を救ってくれた或る人物のことを、私に教えてくれもしたのだ。不思議なことに、その人物は私に対してもほぼ同じ内容の善行を施してくれた。Aとの出会いがなかったら、信じがたいほどのこの難局を、自分が突破できていたかどうかは疑わしい。

世界で角突き合わせている数限りなき人々や物事。ひとりの人間やひとつの物事にすら、相反する複数の性質があるので、世界は計算不可能な多数性に満ちていて、ほとんど出鱈目にしか見えない。

確たる根拠はなく、というか、自分のこれまでの人生経験だけが、自分の中ではその強固な確証となっているというしかないが、 私たちが大切にしているものを一瞬で壊してしまったり、壊されてしまったりするような絶望的状況への転落を、私たちは必ず避けることができる。別の道を歩むことができる。そう確信している。

自分の中では「完璧な絶望が存在しないように」という一節は、直喩から形を変えて「完璧な絶望が存在しませんように」という祈願文となって、魂に響いている。「完璧な絶望が存在しない」ことを、説得力を持って語りうる人間の数は、それほど多くないかもしれない。

Aはあれ以来、他の知人に対しても完全な音信不通となってしまったという。彼には幼い子供がいたはず。かつてのように死の瀬戸際へ接近したりしていなければいいのだが。冬が来る前までには、家族水入らずで秋の Full Moon の美しさをゆっくりと味わえるような幸福な夜が、彼に訪れていると良いと思う。