ドゥルーズ製のマドレーヌ

男にとっての「運命の女」をフランス語で Femme fatale という。谷崎潤一郎が『痴人の愛』のナオミがその好例だが、実在の日本人女性でサロメ級の域に達した人は少ないかもしれない。

ここでちょっとだけ名前に言及した毬谷友子が、自分の中ではファム・ファタールに最も近い舞台女優で、夢の遊民社の後期傑作『贋作・桜の森の満開の下』で客演をしていたのを観に行って圧倒された。呪術で人を殺せる美しい姫と妖怪の中間のような役回りで、少女のようにはしゃぎまわったかと思うと、主人公の背後へ回って鬼の面をかぶると、地獄から来た女怪のような声音で主人公を問い詰めていく場面に震えた。素敵すぎて夜眠れなくなりそうだ。(まもなく音楽アルバムまでリリースされるらしい)。

自分の中では、少女+妖怪=化け猫という計算式が成り立っているので、毬谷友子ツイッターの跳ねっぷりが格好いいことに驚きはない。美しき化け猫が怖いもの知らずなのは自然ではないだろうか。

学生時代、自分は私大生だったのに、友人に誘われて、あれよあれよという間に、伝説の駒場小劇場で作演出で芝居を打ってしまった。駒場小劇場とは野田秀樹が東大在学中に学生寮の食堂を改造して作った小劇場。自分が演劇に最も熱中したのは、ちょうど夢の遊民社の解散前後のことで、野田秀樹は回し舞台のような装置が届くと、深夜までずっとその舞台装置でひとりで遊ぶのだという。これは、高校の先輩で野田MAPに呼ばれた人から実際に聞いた話。天才とは、とことんまで没入対象と遊ぶことができ、その遊びを楽しめる種族なのだと実感した。

もう少し時計の針を遡って、舞台女優にファム・ファタールを探すと、この人になるのではないだろうか。晩年のナレーションの仕事しか知らない人が多いかもしれないが、1960年の三島由紀夫演出『サロメ』でサロメ役を務めたのは岸田今日子だった。おそらくファム・ファタール系の日本女性は生得的な「女怪」性を備えている。その女怪的な存在感があるからこそ仕事が尽きることなく続き、例えばフィンランドの妖精(妖怪)ムーミンと接続したりもするのだろう。

 他にも、ゴダールにとってのアンナ・カリーナや、『うたかたの日々』のコランにとってのクロエなども、ファム・ファタールに数えられるかもしれない。しかしここで「突然」話題を変えて、ここは2つの作品において「壁」がどのように表現されているかを追ってみたい。

最初にゴダールの「壁」を観たときは、度肝を抜かれた。(0:38から)

 

共産主義全体主義国家の「行き詰まり=壁」を、何と人々が壁に吸い寄せられる演出で表現している! この映像は途中で切れているが、愛を知らない「共産党員」全員が次々に壁にぴたぴた貼りついていってしまうので、主人公とヒロインは楽々と通路の中央を通って逃げおおせることができてしまう。凡庸な監督なら、ラストの逃亡を盛り上げるために、銃撃戦やアクションを盛り込みたがる場面だろうに。

コロンブスの卵のような発想というべきか、莫迦莫迦しくて誰もやろうとしないようなことをやりきってしまうと、ゴダール的高みに達しうるという好例かもしれない。

ボリス・ヴィアンの恋愛小説『うたかたの日々』も、最後に「壁」を登場させて、小説を終わらせている。肺に睡蓮の咲く病気にかかって死んだクロエを、その難病のせいで極貧になったコランが粗末すぎる葬儀で送り出した後、こんな最終行で小説は終わる。

ちょうど都合よく、使徒ジュール孤児院の十一人の盲の娘たちが歌を唄いながらやって来た。

11人は大きな塊だ。「そこ」で語られていた声は、孤児院の娘たちの声でかき消され、語っていた「そこ」も盲目の彼女たちのために空けてやらねばならない。小説を終わらせるべく迫りくる「壁」の表現としては、出色の巧さだと思う。

さて、この記事でニューヨークの壁にぶつかった野良猫の話をした。表題曲のコンセプトが、やや非英語圏のリスナー向けだったことが、壁のひとつだったのかもしれないことも。

ニューヨーク経由で世界的作家になった村上春樹は、アメリカ的なものが骨の髄まで入っている。最新作の『騎士団長殺し』上巻の冒頭では、主人公が画家のアトリエを借りるとき、画家の息子が「もしきみに貸しつづけられない事情が生まれたら『短い通知』で知らせるかもしれないが」と告げる場面があったように記憶する。

「短い通知」は英語で「short notice」。「突然」と訳すのが普通だ。この世界的作家は、厳しい鍛錬の果てに、きっと頭の中で日本語と英語の両方で文を紡ぎながら小説を書く技能を習得したのではないかと思う。

「ニューヨークの文豪」の話には続きがある。大江健三郎の小説のどこかで、ニューヨークのホテルで三島由紀夫と会って、安部公房の話をした逸話が語られていたように記憶する。三島は安部公房の小説を称賛しながら、「素晴らしい戦車を組み立てるが、ようやく動き出そうとするところで、小説が終わってしまう」というように批評したらしい。

しかし「壁」をどのように表現するかに限っていえば、ここに書いた『鏡子の家』での勝鬨橋の跳ね上げによっる壁よりも、安部公房出世作の方が興趣が深いだろう。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 自分は高校生のときに読んだ『仮面の告白』に人生を変えられたと感じているが、ほぼ同じ時期に発表された『壁』の方が、不思議な挿絵の魅力も相俟って、現代の若者にはアピールしやすい純文学かもしれない。例によって新潮文庫惹句を引用しておこう。

ある朝、突然自分の名前を喪失してしまった男。以来彼は慣習に塗り固められた現実での存在感を失った。自らの帰属すべき場所を持たぬ彼の眼には、現実が奇怪な不条理の塊とうつる。他人との接触に支障を来たし、マネキン人形やラクダに奇妙な愛情を抱く。そして……。独特の寓意とユーモアで、孤独な人間の実存的体験を描き、その底に価値逆転の方向を探った芥川賞受賞の野心作。

安部公房には、ノベリスツノベリストのロブ=グリエ『消しゴム』『迷路の中で』の影下にある『燃え尽きた地図』という傑作もあるが、彼の名を世界的な高みへ押し上げたのは、名作『砂の女』。昆虫採集に着た主人公が蟻地獄の砂の底に落ちて、砂の底にいる女と暮らす羽目になり、何度も逃げ出そうとするうちに、いつしか苛酷な砂だらけの環境で女と生きていくことを選ぶ、という筋立て。「ミイラ取りがミイラになる」を変形した「昆虫取りが砂の女につかまる」話だと要約できるかもしれない。そして、男を砂の底へ引き込んで、彼の運命を変えてしまう女が…ファム・ファタール岸田今日子なのである。自分が生まれる前の映画だが、彼女以外に適役の女優はいなかったにちがいないとなぜか確信してしまう。

さて、冒頭から、谷崎潤一郎村上春樹大江健三郎三島由紀夫安部公房という文豪たちの名前を点綴してきた。これらの世界的な固有名詞とともに、「壁」を乗り越えて世界性を獲得した日本語文学に、どのような共通性があったのだろうかという問いを、密かに考えていたのである。

優等生が書きがちな模範解答は、オリエンタリズム、世界文学への精通、寓意性、アイデンティティ模索の主題、エロティシズム、同時代パラダイムへの返答能力responsibility、といったところになりそうだ。どの世界的作家も、これらの六つの属性のうち、二つ以上の属性を備えている。間違った回答だとは言いづらい。

しかし、それは正反対なのだと告げるごく少数の人々がいる。上記のような「傾向と対策」めいた属性の小説内での備給は、凡庸きわまりない営為でしかなく、文学的価値とは無縁なのだと。そのごく少数の人々とはドゥルーズ蓮実重彦のラインのことで、後者が「凡庸さ」の対極にある概念としてあげるのが「愚鈍さ」。蓮実重彦の著作ではわかりにくいので、ドゥルーズを潤色しながら説明すると、思考は主体が意志的に行うものではなく、(マドレーヌを契機に湧出したプルーストの無意志的記憶と同じく)(主体のような何かに)思考することを強いるもののすべてを思考したり、思考することを強いられる主体のような何かのすべてを思考したり、というような無意識的思考がある。その無意志的思考こそが、愚鈍たるものの代表なのである。

 小説の現場に即して言い換えれば、書くことを強いる何者かのすべて、書くことを強いられる何者かのすべてを、書く現場で(引き受けつつ、もしくは否応なく)体験することが愚鈍なのだと言えるだろう。このようなエクリチュールの諸相について語る言葉が、最近めっきり少なくなってきたような気がして、思わずここに書き加えてしまったが、上記の5人も多かれ少なかれこの体験を経てきているにちがいない。

ノーベル賞候補だった三島由紀夫は、選考直前の『宴のあと』に出てくる政治家が左翼だったという理由で遠ざけられ、穏当な日本の美を謳う川端康成が受賞した。『宴のあと』は『憂国』の前年の作品である。三島が左翼? 世界はどうしようもなく出鱈目だ。

ごく少数が語るあの体験こそが、先に挙げた「世界的作家の六属性」などより遥かにスリリングで何物にも代えがたい体験だというのが自分の意見だ。他の誰が何と言おうと、「少なくとも自分だけは宿命として」という限定句を付けた上で、こう書きつけておきたい。

だから書くだろう。