「見たまえワトソン君、これが神々の戦いなのだよ」

コナン・ドイルが売れない開業医で、その暇に飽かせて小説を執筆するようになり、「名探偵シャーロック・ホームズ」を生み出したことはよく知られている。いわば「ホームズ以前」は有名だが、「ホームズ以後」にスピリチュアルの世界に深く傾倒したことは、あまり知られていないのではないだろうか。

その前段として、世界的な物理学者オリバー・ロッジの書いた「霊界通信」である『レイモンド』がベストセラーになったことが大きく影響したとされている。戦死したロッジの息子の陸軍少尉レイモンドが、霊媒を通じて、霊界で見聞したことを父に伝えた記録書。霊媒の向こうにいる霊がレイモンド本人だということを証明するために、家族しか知らない思い出を語って、ロッジが「彼」を本物の息子かどうかテストする内容が面白く描かれている。結果は「本物」。

コナン・ドイルも息子のドイル大尉を戦争で失ったために、それ以降は「スピリチュアリズム伝導の聖パウロ」と称されるほどの熱の入れようで、精力的に講演や普及活動を行ったという。

コナン・ドイル自身が著作中でホームズばりの推理を働かせているように、「霊界通信」のベストセラーやスピリチュアリズムの広がりの原因は、第一世界大戦にあった。どんなことをしてでも戦死者に会いたいという遺族の心情が、スピリチュアリズムにまとわりついていた負の固定観念を振り払って、遺族たちをまっすぐに霊へと向かわせたのである。

第二次世界大戦敗戦国となった日本では、死者たちと通じる神道≒スピリュアリズムが、逆に後景へ退けられることになった。自身は神智学にも関わり、海外へ禅を紹介した第一人者の鈴木大拙は、『霊性的日本の建設』の中で、平田篤胤らの思想系神道を口を極めて攻撃している。

この神道神社神道は思想づけて、政治の表面に乗り出し、皇室すなわち国家と云ふ観念を弥やが上に強調して、帝国主義軍国主義、及び所謂る八紘為思想の先方となり跡押しとなつて、今日までに軍閥のために利用せられ、又それを利用したところのものである。宗派神道家に反して、この方の指導者は何らの宗教的体験を持たないところに、その霊性的自覚より遠ざかること最も甚だしいものがある。 

 しかし、戦後、同じく和辻哲郎にも「狂信的国粋主義の変質者」とこき下ろされた平田篤胤だが、昨今そのアクチュアリティが増しているというのが私の読みだ。悪評ふんぷんたる自民族中心主義は、つづく鹿持雅澄や髙橋残夢らの国学者の系譜を経て、大本教出口王仁三郎にまで行き着いてしまった。

しかし、往時の平田篤胤が情報ネットワークを最大限に駆使して、西欧(この場合はロシア)の侵略に対して、同時代では突出した警戒能力を持っていたことを忘れてはならない。それだけをもって、「日本が世界の中心である」とする虚構を正当化することはできないが、西欧の列強>>>極東の小国という対立図式の上で、心理的防衛機制が強く働いたことは考慮に入れておくべきだろう。

平田篤胤: 交響する死者・生者・神々 (平凡社新書)

平田篤胤: 交響する死者・生者・神々 (平凡社新書)

 

 それらを差し引いた上で、虚心に平田篤胤の遺したものを概観すると、幽冥界(あの世)が現実界と重なって存在しているとする彼の宇宙観は、スウェーデンボルグの『霊界通信』に近似しており、アカデミズムの外で市井の人々が遭遇してやまない怪談話や輪廻転生譚を拾い上げたり、「心」を儒教的な規範道徳に縛られない「弱さ」と「熱さ」のあるものだと定位したりしたところに、現代のスピリチュアリズムにまで達する先駆性が感じられる。

現代スピリチュアリズムの代表的な主題は「引き寄せの法則」らしいが、このブログを書いていて、主題論的な連関の網の糸に引き寄せられていると感じる瞬間が少なからずあった。引用を厭わず跡付けていくので、それらの連関が私をどこへ引き寄せようとしているかを、読者も追体験してもらえると嬉しい。

それを意識したのは、この記事でボリス・ヴィアン『うたかたの日々』の末尾を引用したとき。末尾の後にあるのは、解説。しかし、それは荒俣宏によるものだった。しばらくは恋愛小説のことは書かせてもらえないのかもしれないと感じた。

何だろう、この化物じみた博覧強記は、と呟きながら、自分は荒俣宏の『帝都物語』を高校時代に読破した口だ。陰陽道、神秘学、風水、都市計画…。いわゆるオカルト的なものを総動員して描かれた偽史伝奇ロマンの大作で、特に2.26事件を描いた5巻が好きだった。もちろん荒俣宏には平田篤胤に関する著作もある。

元を辿れば、始まりは2005年。前身のGOD⇔DOGで、私は三島由紀夫についてこう書いて、アポリネールの詩を引用した。

おそらくこちらの道は、あの首からミシマという署名を消すこと、続いてミシマの顔を消すことに通じているはずだ。すなわち、「切り離された首」という主題の歴史的な積み重なりの網の目であの首を捕まえて非特権化し、太陽との主題論的な結びつきの光量を生かして、それをいかなる注視によっても首かどうかすら見分けがたくすること。一歩間違えれば神格化へと頽落しかねないそんな危うい道行きの長さを想像するとき、その想像者の念頭にたえず鳴り響くにちがいない詩句は、アポリネールの「地帯」の断片。

さらばさらば

太陽 斬られた首よ

 ところが、太陽と斬られた首を二重写しに見るモチーフは、ここで言及したリシャールのマラルメ論にも、繰り返し登場していた。アポリネールの詩はマラルメからの引用だったらしい。

そのアポリネールなどのシュールレアリスムダダイズムを含む一連の詩人たち対して、日本で最初に関心を持ったのは、おそらくここで語った花田清輝安部公房のラインを含む集団だったことだろう。

その前衛芸術集団の中には、「芸術は爆発だ」で知られている岡本太郎も含まれていた。なぜこれまで自分が気づかなかったのかわからない。ほぼ半世紀前、日本が近代化を遂げて高度経済成長に乗ったことの象徴として、必ずその巨体を映し出されるのが、岡本太郎による大阪万博の「太陽の塔」だ。

今朝検索をかけていて、驚かされた。シュルレアリスムダダイズムに日本一詳しい塚原史によると、あの「太陽の塔」はアポリネールの詩句「太陽 斬られた首」に触発されて作られたというのである。言われてみれば、塔の頂上にある顔だけが、金色の円盤となって浮き上がっていて、本体から分離されているようにも見えなくもない。

太陽の塔」が建造されたのは1970年。三島由紀夫切腹し、号外の新聞に切り離された頭部の写真が掲載されたのと同じ年だ。文化史的な重ね合わせを実践しながら考えると、「太陽の塔」の切り離された黄金の頭部は、きっとこんなことを考えながら、高度成長していく日本の憂うべき実態を見下ろしていたにちがいない。

こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。(…)

このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。

 では、切り離された胴体はどこに?

ここで引用したブロガーの記事に、私は胴体のありかを教えてもらった気でいる。

自分はこの「カレイドスコープ」が、日本語環境で最も鋭い分析力と洞察力を持ったブログだと信じている。すべての記事を遡って読破した中で、「胴体」を映し出したこの記事に一番心が震えた。

周囲の構築物は無傷に見える。神像の首だけが、飛んできた噴石であのように綺麗な断面で切り落とされるはずはない。何らかの組織が宗教的動機を持って人為的に切り落としたのに違いない。ここにあるのは、誰がどう見ても、神々をめぐる戦いに他ならない。

外国勢力の謀略によって、日本の神々が今まさに殺されつつあるのなら、それを手をこまねいて座視するわけにはいかないと強く感じる。平田篤胤国学が国粋的な輝きを放ったのも、外国勢力への警戒心に圧せられてのことだった。コナン・ドイルを転向させた世界大戦ほどの規模ではないにしても、日本は3.11によって、或る意味では5度目の敗戦を経験した。あの津波の中から飛び立った夥しい「螢」の無念を語りうる言葉がなければならない。平田篤胤の時ならぬアクチュアリティの再興はそこにあるはずだ。

真に偉大な存在は巨大な素数に似ていると、どこかに書いたことがある。彼 / 彼女はどんな約数で割っても、必ず余りが出るのだ。「実存的セクシュアリティの反映」という約数は、三島由紀夫という存在をほとんど完全に割り切ったかのように見えたが、まだ吟味すべき残余が残されている。

三島由紀夫の「奇癖」に属するだろう、未確認飛行物体への熱中、輪廻転生の信奉、阿頼耶識の独自理解のすべてが、その実、カール・グスタフユングを媒介として、現代スピリチュアリズムの領域に接近していることに、誰かの批評の筆が迫らなければならない。ことは三島個人の私事で済む話ではない。晩年の三島由紀夫が、神風連のようなある種の蒙昧主義的な情動(神託に従って謀反を起こし斬首された)にどうして引き寄せられたのかを問う神学的な読み直しが、切迫感をもって待たれているように思われる。それを待っているのは、日本の神々なのかもしれない。

神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘 国体=天皇を護る人々の聖なる敗戦 (5次元文庫)

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笑いたければ笑ってもかまわないが、この半年のあいだ、自分は何度か神の声を聴いたと確信している。自由連想法のように書き飛ばしてきたこのブログでも、自分の筆がどこか別の方向へ引っ張られるような奇妙な感覚を一度ならず感じた。そして今晩ここへ辿りついた。幻聴に似たあれらの神秘体験も、主題論上の重力場の変化も、それが何だとは明示できなくとも、日本の神々と関わりが深いだろうことだけは確言できる。

書いて初めて分かることもある。あれらの主題的連関が、空虚を伴った高度経済成長の果てに、外国勢力による神像の斬首に行きついて、いま自分がどんな地点に立っていて、知らず知らずのうちにそこを出発点と定め、どちらの方向へ身体を向けたのかが、わかったような気がする。

書いて良かった。そう思う。これらを書くよう導いてくれたすべての人にお礼を申し上げたい気持ちで、胸がいっぱいだ。