ヌーベルな青空が見えそう

「20世紀が石油を奪い合う世紀だったとしたら、21世紀は水を奪い合う世紀になるだろう」。巷間囁かれるこのような「予言」に、ライバル=rivalの語源が川での水資源の争いにあることを付け加えれば、水について語ろうとする文章としては、悪くない導入になるだろう。

ただ、Global Village がマクルーハンの予言通り縮んでしまい、世界の情報が瞬時に世界へ拡散される現代では、水以外の悲惨な「スペクタクル」に報道カメラが向けられがちだ。そんな中、悲惨の根源にあるのは、結局は水なのだという結論に辿りついたのが、中村哲という医師。

 ここで語った観光資源を豊かにするための水質浄化よりも、さらに原初的な水をめぐる闘いに医師でありながら、あるいは医師であるからこそ取り組んでいる。

診療所に来る病気の子供たちを診察する→水不足と栄養失調が原因であることがわかる→医師として井戸を掘る→一時的に住民の生活や健康が戻る→大旱魃に襲われて井戸も枯れてしまう→荒れ地を農地にすべく掘削して用水路を引く。

こんなやむにやまれぬフローチャートに流されて、現在は灌漑を引いてアフガンの地に水を流しているという。日焼けが進んで、一見するところ日本人には見えない風貌になりつつ、あるいは、水を争う rival の住民と暴力沙汰になって流血しつつ、現地の人々と協働して献身する姿は、血はともかく少なくとも汗くらいは流さないと、真の国際貢献にはなりえないことを、私たちに苦い良薬を処方するように教えてくれる。たぶん、私たちの方が、洗脳という病気に罹っているのだろう。

医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む

医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む

 

私の視野から見る限り、洗脳の悲惨さの極限は、アフリカの子ども兵たちにあると思う。

「LRAは子ども兵を洗脳するために、自分の手で、肉親や兄弟、親戚を殺させるんだ。」
施設長のJimmyさんはそう語る。

"家族を殺す"事は、脱走を防止するためのLRAによる一つの手段にもなった。時には自分の手で母親の腕を切り落とす行為や、家族の鼻や耳、唇を削ぎ落とすといった残虐な行為も強要された。

そして、子どもたちの「帰る場所」は無くなった。

記事には抑制された筆致でしか書かれていないが、 銃で脅されて、肉親や兄弟を殺すことを強要された子供たちは、罪悪感に苛まれつづけ、自己肯定感を徹底的に破壊されて、きわめて洗脳しやすい「家畜」になるのだそうだ。

自分が子ども兵に関心をもち、この短編で主題の一部にしたのは、亀山亮によるアフリカの戦場を活写した写真に触発されたからだった。

 最近、金子勝が経済学者らしからぬ他分野に渡ったインタビュー集を出していて、そこで思ういがけず亀山亮に再会できたのは嬉しかった。とても興味深い内容の填まったインタビューだったので、断続的に引用したい。

亀山:(…)イスラエル軍に包囲されているために救援隊も入れず、腐った屍臭がする中、パレスチナ人たちが素手で破壊された瓦礫を取り除き家族を探している姿を見て、絶対に写真に残さないといけないと感じました。

亀山:(…)撮影から日本に戻ってくると、多摩川に出現したアザラシのタマちゃんに住民票を出すといったニュースが過熱気味に報じられていました。日本へ逃れてきた難民への認定はほぼ100%拒否しているのにアザラシに住民票を出すという倒錯にうんざりしました。

亀山:(…)その頃、父親が会社でのトラブルから鬱病になり自殺しました。(…)暗室で元気な頃の父の笑顔の写真を大きく引き伸ばしながら、戦場で殺されていく死、平和なはずの日本で自ら選ばざるを得ない死のことを考え、一見、正反対のようだけれども、戦争の恐怖と日本での喪失感には共通項があるのではないかと思いました。 

負けない人たち

負けない人たち

 

 写真であれ何であれ、一流の芸術表現は、その核心部分に批評の回路を通じた政治性を抱え込む宿命から逃れられない。インタビューには、この写真家の眼がその核心を見極めつつあることを予感させる肉声があった。

例えば、文芸批評の世界では、きわめて少数の一流の批評眼の持ち主であるためには、メタファー(暗喩)的であるかメトニミー(換喩)的であるかに、政治性を感受できなければならない。前者が「右」、後者が「左」 。後者についたのは、デリダラカン、バルト、クリステヴァ…。

ただこういった話は、エレベータのない5階建て建築の5階の話。自分の足でそこまで階段を登る人も少ないし、登れる人も少ない。

「大衆の原像」を愛する左派が、もっと低階の人々で賑わうフロアに波及する言葉を、さらに生み出しつづけると良いなと感じる。

誰もが知るように、ジョゼフ・ナイの「ソフト・パワー」が示すような諸芸術の力よりも、経済思想は政治的な意味において、はるかに密接な影響力を持っている。経済思想は、軍事力や経済力のような他国を強制的に動かせる「ハード・パワー」に、ほとんど直結しているといっても過言ではない。

ナオミ・クラインショック・ドクトリン』には、ジョン・パーキンスの『エコノミック・ヒットマン』に譲る部分が多くあるが、その重要な到達点は、シカゴ学派系の新自由主義経済学が備えている「兵器性」を声高に批判している点だろう。

経済思想の「兵器性」が、シカゴ学派がその受賞者を多く輩出しているノーベル経済学賞によって権威づけられていることは間違いない。

ここにもとびっきりの洗脳がある。ノーベル経済学賞なんて、本当は存在しないのだ。1901年にノーベル財団によって創設されたノーベル賞とは違って、ノーベル経済学賞は半世紀以上遅れた1968年にスウェーデン中央銀行が設立した賞だ。

中央銀行群が裏ネットワークで結ばれたグローバリストの牙城であることは、もうほとんど常識だと思う。世界に広がっている紛争の火種の火元は、実は1%「金融マフィア」の際限のない金銭欲にあるのだ。

同時多発テロ以前において、政府が中央銀行を許可していない国は世界中で9カ国ありました。(…)キューバ北朝鮮アフガニスタンイラク、イラン、シリア、スーダンリビアパキスタンの9ヶ国です。

奇しくも、第2期のクリントン政権でアメリカの歴史上最初の女性国務長官になったマデリーン・オルブライトが、1997年4月28日に議会での演説のなかで、"ならず者国家"と呼んで非難した国々と一致するのです。

日本では、学知を飛翔させて、ここまでの広い視野から世界をしっかり鳥瞰できる経済学者が少ないように感じる。経済思想の政治性に精通した学者が少ないのではないだろうか。「政府紙幣」の提唱者でもある丹羽春喜ぐらいだろうか。中央銀行と決定的に対立する「政府紙幣」とは、あのケネディ大統領の暗殺の引き金ともなった国家救済策だ。

謀略の思想「反ケインズ」主義―誰が日本経済をダメにしたのか

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 私たちは幼少期から、利権絡みで故意に歪められた情報環境で育っているので、自分がどんな色眼鏡をかけているかをよくわかっていない。色眼鏡をかけていることすら知らないかもしれない。その眼鏡を取って、井戸水でざぶざぶ洗って、かけ直してみよう。世界の真の姿が見えるだろう。

さしあたり色眼鏡洗浄用の一杯のグラスの水として、「ノーベル経済学賞」を新しい紛い物という意味と創立者の金脈を織り込んで、「ヌーベル中央銀行賞」と呼んではいかがだろうか。その名を聞いて、ヌーベルな視界が開けてくる人々がたくさん現れそうで、ちょっとワクワクしてしまう。