手探りしているRubyが、世界のどこかに

どこかで言及した STUDIO VOICE 誌上の丹生谷貴志の三島論には、「地上にひとつの場所を」というインデックスのついた章があった。そのしばらく後に出た「Airport for Airport」の特集号には「地上にもうひとつの場所を」という副題がついていた。時系列から考えて内藤礼は関係なさそうだが、彼女の作品も含めて、出典はどこにあるのだろうか。

 そこは謎のまま、「空港」の文化的位相に興味があるので、その特集号も熱心に読んだ。自分と同い年くらいのシャルル・ド・ゴール空港に、どこかのフェンスの隙間から侵入した野兎が、いつのまにか繁殖し、滑走路の周辺を走り回っているという話が面白かった。今は動画で見られる。

 「空港でかかっていてほしい音楽」をリストアップしたページには、当然のこと、このブログで何度か言及してきたブライアン・イーノアンビエント音楽の金字塔は含まれていなかった。この雑誌にはベタを嫌う尖ったところがあった。

イーノの代わりに空港でかかっていてほしい音楽の一つに選ばれていたのが、パシフィック231。2人組のサウンドクリエーターのうち一人が、電気グルーブ砂原良徳と空港について対談していた。 

 

そんなことを思い出したのは、蓮実重彦の『『ボヴァリー夫人』論』を手にしたから。出る、出る、と言われながら、何十年も出なかったこの大作が、1972年に執筆され始めたことを、あとがきが明かしている。シャルル・ド・ゴール空港や自分とほぼ同い年だ。

 蓮実重彦ポストモダンの説話論的分析好きとする誤解もいまだにあるようで、『批評あるいは仮死の祭典』から40年以上経っても、蓮実を読める人は一向に増えていないのだなと淋しくなってしまう。以前よりも筆致としてはかなりわかりやすくなっており、「説話論的」なものから「主題論的」なものへ分析が移行することも、作中で明示されてもいるのだが。

この大作については別の場所で語ることにして、少しだけ文芸批評上のターミノロジーを整理すると、「説話論」とは、標準的な訳語では「物語論=narratology」を指す。最近わかりやすい啓蒙書も出たので、読書好きにはそちらを勧めたい。ちなみに、そこでも著者が学会で「詩学」という用語を誤解されたと嘆いていたのに目が留まった。この10年くらいで、あちこちで急速に話が通じにくくなってきたような印象がある。

ナラトロジー入門―プロップからジュネットまでの物語論 (水声文庫)

ナラトロジー入門―プロップからジュネットまでの物語論 (水声文庫)

 

 narratologyが「説話論」と訳されたのは、プロップの『魔法昔話の起源』のように、分析対象が当初は民話や説話だったから。その実践例に挙げたいのは、日本で言うと、民俗学から出発した大塚英志『人身御供論』だ。記憶に頼って書くと、そこにあった漫画『めぞん一刻』(自分の高校時代に大流行していた)の構造分析では、「女が犬との人獣婚姻を経て、男との真の婚姻に至る」という物語定型が読み取れるとしていた。確かに未亡人のヒロインの亡夫は、黒塗りされて顔すら描かれておらず、代わりに夫の名で愛玩されているのは大型犬で、漫画は未亡人が年下の主人公と結婚して終わる。著者は「牽強付会かもしれないが」と遠慮気味な言葉を自説に書き添えているが、勝手にここで正解の太鼓判を捺しておきたい。というのは、漫画のプロットの傍流で、深窓の令嬢がプレイボーイと結婚する過程に、やや変形されてはいるものの、やはり先んじて「犬の婚姻」があり、それが人間の男との結婚に継起的に直結する筋書きが描かれているからだ。その定型のうち、人獣婚姻譚の部分をクローズアップした純文学が、多和田葉子の『犬婿入り』である。

このように、現代の作品から意外性をもって定型との相即性を引き出せれば成功例となる。しかし、実践してみればわかるが、説話論的分析というのは相当に退屈だ。「昔話には、魔物から追いかけられているとき、主人公が3回呪符を投げるという定型があります。ほら、この話でも3回ですね」と言われたところで、こちらは相手に曖昧に頷きながらも、退屈のあまり知性がすやすやと寝息をたててしまうのが関の山だろう。この「3回分析」と『『ボヴァリー夫人』論』との間に、天と地ほどの懸隔があることに、もはや贅言は不要だと思う。いつかゆっくり時間を取って、さらに精読したい。

批評作品自体は読みやすくはなったものの、あまりにも長い全編を通して緊張感が維持されていて、見事だというほかない。ただ、あとがきで、珍しく蓮実重彦が自分の師匠筋への謝辞や家族への感謝を縷述しているのを読んで、或る感慨が込み上げてくるのを抑えられなかった。家族への感謝の中には、先に言及した Pacific231の蓮実重臣宛てのものもあった。

それがどんな対象への言説であってもかまわないので、次作を心から待ちたいと思っていることを、ここに書きつけておきたい。

どこか感傷的になってしまうのは、空港、兎、高校時代という鍵言葉が、脳裡で別の情景をフラッシュバックさせているからかもしれない。

 高校時代に交際していた彼女が空港の近くに住んでいたせいで、自転車で話しながら彼女を送って行ったり、門限まで時間があるときは、空港のそばの防波堤に腰かけて、二人で話し込んだりした。東京行きの最終便が、灯に縁どられた機体をゆっくりと旋回させのを眺めながら。

 彼女が飼っていた最愛の兎が亡くなったことが、交際が始まるきっかけだったと記憶している。つらいから、手を握らせてほしい。そう彼女は言った。あの思春期の一場面が戻ってくるとき、きまって脳裡で鳴る音楽がある。

二人で見た『黄昏に燃えて』という映画が、トム・ウェイツとの最初の出会いだったと思う。四半世紀以上前に見たので自信はないが、ホームレスの主人公とヒロインのどちらか一方が部屋で亡くなっているのをもう一方が見つけたとき、かけっ放しのレコード・プレーヤーの針がレコードの最後の溝(ランアウト・グルーヴ)に当たっては戻る微かな周期的雑音が、もはや誰もいなくなった部屋の静寂を強調していたはずだ。

自分は感傷的な男なのだと思う。レコードは終わってしまった。彼女の愛兎が亡くなって、その空席を寂しがり屋の自分が占め、やがて別れて彼女と音信不通になってしまった。それでも、まだどこかでレコードの針がランアウト・グルーブに弾かれるかすかな周期音が鳴っているのが、ふと聞こえるような気がすることがある。

そのかすかな音をかき消すように、二人の間で孤独と愛情の象徴だった兎が、思いがけない場所で繁殖して、元気にぴょんぴょん飛び跳ねているのを見ると、ふっと唇が綻んで笑ってしまう。何だか心が浮き立つのを感じる。

冒頭で話したシャルル・ド・ゴール空港の兎は見たことがない。しかし、近隣に「ウサギ島」の異名をとる兎だらけの島があって、そこへ遊びにいくことも少なくない。

自分の書いた『心臓の二つある犬』は、犬の腹腔にさらにもう一つの心臓を重複移植する動物実験を主題にしていた。「ウサギ島」あらため大久野島には、第二次世界大戦中には毒ガス兵器の生産工場があった。そこでは多くの兎が動物実験に供されていたという。

彼女は兎の目が動物実験に使用されるのを嫌がって、NO ANIMAL TESTINGの表示のあるイギリス製の化粧品をよく使っていた。そのメーカーの署名を募るページでは、モデル全員が兎のポーズをしている。

 動物実験ならまだしも、毒ガスと同じく、1925年のジュネーヴ議定書(当時の日本の批准はなし)で禁止された細菌兵器を使って、人体実験をしたことまで、歴史には記録されている。客観的な記述が心がけられているが、あまりの凄惨さから、冷静な気持ちで読み終えるのが難しい本だ。

七三一部隊 (講談社現代新書)

七三一部隊 (講談社現代新書)

 

 2015年に殺されたジャーナリストは110人。

2015年に殺された観光保護活動家は185人。

偏愛する映画『カルメンという名の女』の一場面では、先ほどのトム・ウェイツの曲が流れる。

 

「砂嵐」の中で生きている手の影は、つないでくれる手を求め、温もりを求めて、手探りをつづけている匿名の手のようにも見える。不当に苦境に陥れられて苦しんでいる人々が、救いの手を求めている手。孤独に苛まれている人々が、温もりを求めている手。

この地上に、そのような人々それぞれに、ひとつの場所があると良いと思う。そして、兎や他の動植物たちのためにも、もうひとつの場所があると良いと思う。