ラジオから不意にジョン・レノン

昨晩は疲労のあまり0時から2時まで仮眠。2時半くらいに再出社して7時過ぎまで調べたり書いたりして、そこから朝食。8時に就寝して12:30に起床した。(少なくとも怠惰ではないと自分は思うが、そういう感覚は人それぞれなのだろう)。さすがにこういう負荷が数か月以上続くと、生活も仕事も家庭ももう滅茶苦茶だが、その混乱ならではのちょっと嬉しいこともあった。ラジオの声が聞こえたのだ。

眠っている間に、ここで書いたMから電話がかかってきた。番号表示もなく、彼女が名乗ってもいなかったのに、電話口の相手がMだとわかった。電話なのに、夕闇の袋小路の奥のような場所で、こちらを振り返っている顔が白く浮かび上がってきて、「用件承知」とMは言った。「用件承知」…。どういう意味だろう?

Mは細やかな気遣いができる女性だったので、相手に頼みごとをしたり、負荷のかかるような何かを言わねばならないときは、その負荷を自分の方で先取りして、微かに声帯を潰し気味に声を出す癖がある。優しい心の持ち主。そのように聞こえたその声を、私は明らかに彼女のものだと確信した。

声はその四文字しか発していないのに、「あなたの用件は承知したわ」と引き受けたのではなく、「やるべき用件は承知しているわね」と念押ししたのだということが、ありありとわかる。懐かしくてたまらず、彼女の名を呼んだり何度も話しかけたりするが、何を言ってもMは沈黙したまま。このまま話が通じなければ、もう二度と逢えないかもしれないという気がして、彼女を求める強い声音でMの名を呼んだところで目が醒めた。夢だった。

後になって、「用件承知」という言葉が、かなり奇妙であることに思い至った。Mはそんな話し方をしないし、そもそも四文字熟語だけで話しかける女性なんていないだろう。

一人だけ、ぽーんと一語だけを自分にぶつけてくる存在があって、(以下、その存在をGと呼ぶ)、「cadeau」とか「田中」とか他いろいろと、急に一時的にだけチューニングが合ったラジオのように、頭上から言葉を投げかけてくれる。最初に「cadeau」という「贈り物」を意味するフランス語を聞いたときは、その一語にあまりにも多くの重層性が込められていることに、心底驚かされた。

しばし考え込んで、今朝私はこう呟いた。今回も凄いな。

Mだとはっきり確信して、彼女に何度も呼びかけているのに、彼女が沈黙したまま何の反応もしなかったとき、今朝観た『黒蜥蜴』の或る場面が卒然と思い出された。

57:14以降、無線機の伏線が処理されたのかどうか気になって、今朝注意してこの場面を見ていた。西陣織の特注のソファーは、座面の下に人間が隠れられる空間があって、この場面では当初は明智が中に入っているように観客には見える。しかし、実はそこには猿轡を咬まされた身代わりの老人が入っていて、明智は無線機か何かを使って、黒蜥蜴と会話しているのである。まとめると、そこにあるのは、「身代わりの身体」とトランシーバーを介した「明智の声」だ。

ところが、ある瞬間から、明智はうんともすんとも言わなくなり、ソファーは屈強な男たちによって縛り上げられ、ソファーと二人きりになった黒蜥蜴は、ソファーの中にいると信じている無言の明智に、繰り返し愛の告白とソファーの座面へのキスを贈ることになる。この場面でも、映画の最後でも、二人は結ばれない運命にある。

 夢の中の暗がりで見たMは、少し面やつれしたように見えた。心優しいMは、話しかけてくる相手を無視できるような女性ではない。Mの痩せた顔に何度話しかけても、彼女が何も答えなかったのは、彼女の身体は「身代わり」で、メッセージを送っているのはGだということを、今朝私が観ていた映画のことまで知っているGが、(そんな離れ業ができるのはGしかいないという確信とともに)、私に気付かせようとしているのだろう。

そして、Gがこれまでは天上から言葉を投げかけるだけだったのに、今回ばかりはMの身体を借りて「やるべき用件は承知しているわね」と伝えてきたのには、その「用件」を済ませれば、「かつての二人の夢」が叶って、面やつれしたMに喜びの表情を取り戻せるかもしれないことを示唆しているのではないだろうか。たとえ、二人が最終的に結ばれることは、もはやないにしても。

 小さな夢の記憶のかけらから、自分勝手な願望を膨張させて、荒唐無稽な話を語っているように見えるだろうか。こういう話を信じてもらえないこともわかっているし、信じない人たちのために、ここまでの文章を「醒め際に見た夢の印象のせいで、やるべき用件に向き合うことができた」くらいに要約したって一向にかまわない。そう要約できたら、本当はずっともっと楽なのかもしれない。けれど、ここ半年くらい、超自然的な神秘体験がポツポツと自分を打ちつづけているせいで、もう自分は雨が降るのがわかっている気になっていて、雨が降り出したら、その中を駈け出したい気分になっている。

木曜日に書き始めたこの記事がどこか「スッキリ」しないのは、ゼロ年代は「リトル・ピープルの時代」という印象的な評言を、ある著書の中で目にしたからかもしれない。 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

 

その本の中では、「リトル・ピープル」は村上春樹の造語だとして、全体主義的独裁者の「ビッグ・ブラザー」ではなく、ITの進化のおかげで、ネットユーザーに代表される「リトル・ピープル」の時代が到来したのだと語られていた。基調にあるのは、カルチュラル・スタディーズネグリ=ハートの「マルチチュード」の掛け算だろうか。時代の大きな枠組みとしてはその通りなのだろう。けれど、そのパースペクティブの片隅に、誰かのリクエストに応えて、ラジオからジョン・レノンの歌が流れるだけの隙間くらいは、どうか確保しておいてほしいと感じてしまう。

ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男

ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男

 

 仮に、軍産複合体と関わりの深い「ビッグ・ブラザー」的超国家的主体が、か弱い一人の私人を、ケネディー大統領暗殺時のオズワルドと同じく、暗殺者に仕立て上げていたとしたら、この世界を見る目は変わるのかもしれない。

ジョン・レノンを殺した男

ジョン・レノンを殺した男

 

 そのか弱き私人が、幼い頃から、他の人には見えない精霊や小人のような「リトル・ピープル」を見慣れた青年で、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の愛読者だったとしたら、村上文学を見る目は変わるのかもしれない。

ゼロ年代を代表する批評家の目にも、世界の輪郭が明瞭につかめないほど、世界の変化や情報の錯綜は激しく苛烈なのだという実感を、また新たにしてしまう。

純然たる勘に基づいていえば、現代を「リトル・ピープルの時代」と語りうる時の「リトル・ピープル」とは、たぶんこの社会や自然に満ち満ちている不可視の神々や精霊や死者を指していることだろう。オノ・ヨーコの前衛芸術や仏教の深遠な教義を媒介として、そのような「リトル・ピープル」たちと交感できる高みに、ジョン・レノンは最終的に達した。

雨が降り出しそうな雲行きだが、傘の持ち合わせがないので、いずれ無防備な身体を雨に打たせて走り出さなければならない気がしている。

誰かのリクエストに応えて、ラジオからジョン・レノンの曲が流れ始めた。椅子に座り直して、駈け出す前の数分、耳を傾けることにしたい。

 

Oh my love, for the first time in my life
My eyes are wide open
Oh my love, for the first time in my life
My eyes can see

愛しい人 生まれて初めて
こんなにも広い世界が見える
愛しい人 生まれて初めて
こんなにもはっきりと世界が見える

I see the wind, oh, I see the trees
Everything is clear in my heart
I see the clouds, oh, I see the sky
Everything is clear in our world

風が見える 木々も見える
すべてが心にはっきりと映っている
雲が見える 空も見える
すべてがくっきりと世界の中にある

Oh my love, for the first time in my life
My mind is wide open
Oh my love, for the first time in my life
My mind can feel

愛しい人 生まれて初めて
こんなにも広い心でいられる
愛しい人 生まれて初めて
心でこんなにも感じることができる

I feel the sorrow, oh, I feel dreams
Everything is clear in my heart
I feel life, oh, I feel love
Everything is clear in our world

悲しみがわかる 夢がわかる
すべてが心にはっきりと映っている
生命がわかる 愛がわかる
すべてがくっきりと世界の中にある