密猟者たちから生き残るための「犀角」

 (結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である

 ふと萩原裕幸の秀歌が頭をよぎったのは、どうしてだろう。

 「ニューヨークの文豪」の話には続きがある。大江健三郎の小説のどこかで、ニューヨークのホテルで三島由紀夫と会って、安部公房の話をした逸話が語られていたように記憶する。三島は安部公房の小説を称賛しながら、「素晴らしい戦車を組み立てるが、ようやく動き出そうとするところで、小説が終わってしまう」というように批評したらしい。

そうか、この記事でニューヨークの文豪たちの交流に言及したからか。その後、大江健三郎の小説だけでなく、三島由紀夫の書簡からも、その交流の様子を推定できるのを見つけた。三島由紀夫は『午後の曳航』の英訳者ジョン・ネイサンに、こんな書簡を送っている。

ニューヨークでは大江君が同じホテルにいたので、一度一緒に飯を喰い、いろいろ日本の小説家の悪口などを言って、楽しい午後をすごしました。パーク・アヴェニューの僕の好きな飾物店へ案内したら、彼は革製の大きな犀を買ってしまい、奥さんに怒られるのではないか、と心配していました。でもいかにも大江君らしい買物でした。 

Japan Unbound: A Volatile Nation's Quest for Pride and Purpose

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ジョン・ネイサンの『三島由紀夫―或る評伝ー』を、いま読み終えたところだ。『午後の曳航』の翻訳後、ジョン・ネイサンは『絹と明察』を英訳する約束になっていたところ、それを断って(よりによって)大江健三郎の『個人的な体験』の翻訳にスイッチしてしまった。この手紙の時点では、三島はまだその「裏切り」を知らずにいたのだが、手紙を受け取ったジョン・ネイサンが、その日付けがノーベル文学賞が他の作家に渡った2日後だったことに注目しているのは、たぶん正しい。三島はどうしてもノーベル賞が欲しかったので、なるべく多く英訳作品を送り出したかったので、翻訳者のご機嫌を取ろうとしたのだ。

しかし、保田与重郎天皇などの日本特殊的問題に取り組んだ『絹と明察』が、より早期に英訳されていたとしても、それがノーベル賞レースで三島の加点ポイントになったとは考えにくい。そもそもあの小説の核心は、自分が下の記事に書くまで、ほとんど知られてさえいなかった。

さて、ジョン・ネイサンは『午後の曳航』の翻訳時に、ある箇所の描写が把握しにくかったらしく、三島に教えを乞うたらしい。

確かにちょっとわかりにくいが、同じ主題論的系譜は『鏡子の家』にも顔を覗かせている。こんなブログを読んでいるはずはないことを承知で、海の向こうのカリフォルニアで大学教授を務めているらしきジョン・ネイサンに、挑戦状を書きつけてみたい。(おそらく氏は正解されるだろう)。 

挑戦形式はセンター試験の国語と同じマーク式。フランスのバカロレアの哲学よりも、はるかに簡単。センター試験と同じく、高校卒業程度の難易度に仕上げているつもりだ。もちろんブログ読者もぜひ挑戦してほしい。

 第2問

 次の文章は、三島由紀夫の小説『鏡子の家』の一節である。夫と別居した「鏡子」は、自宅の西洋屋敷に同年代の20代の個性的な若者たちを招き入れて、毎夜サロンの女主人をつとめている。その客の一人である「清一郎」は、「鏡子」と最も思想的に共鳴する商社マンで、世界の崩壊を信じているのに社内政略結婚を決めた。今日、「清一郎」は「鏡子」の家の近くの森の向こうで結婚式を迎えることになっている。本文はそれに続く部分である。これを読んで、後の問いに答えなさい。

 (…)鏡子のこれからやることは一つも決っていない。もしかしたら美容院へ行くだろう。それも寒いから止すかもしれない。この間誂えた洋服の仮縫に行かなければならぬ。いやが上にもウェイストを引き締める必要。そこへ行くのも止すかもしれない。止せば止すで、いづれ誰かから電話がかかるだろう。誰かが映画か音楽会へ誘いに来るかもしれない。誰かが突然駆け込んできて、鏡子の膝に縋りついて、恋人に捨てられた嘆きを愬えて泣き叫ぶかもしれない。毎週一人づつ他人の妻を落とそうと狙っているあの新顔の青年が顔を出すかもしれない。あの人の唯一の夢は嫉妬深い良人に射殺されて、色男の誉れを残すことなのだ。鏡子が五人も新らしい客を紹介したあの産婦人科医が、また戯れの電話をかけてよこすかもしれない。「誰か新らしいお客さんはいませんかね。いつでも処分して差上げますよ。どこからも苦情を持ち込まれたことがないでしょう。私以上の安全確実な医者はありませんから」

 ……ああ、森のむこうには各人一つきりの人生しかない。しかしこちら側、鏡子のかたわらには、人生は数知れないほどあって、しかもそのどれもが洗濯が利くのである。

 鏡子は一人でいるときには、テレヴィジョンもラヂオもレコードも聴こうとしない。この沈黙、この午下りの怠惰のなかで、ぬくぬくと身を温める硝子ごしの太陽のなかで、冬の蠅のようにじっとして、性的な幻想にとじこもっている。

 鏡子もかつては花嫁の初夜を知っていた。この記憶はただひたすら滑稽だった。しかし他人の結婚の細目を想像するよすがにはなった。想像上では他人の結婚のほうが重要だ。

 冬の日もこうしているとかなり強い。それに部屋の一隅には瓦斯ストーヴが燃えている。藤いろの希臘風の仕立てのネグリジェの上に、濃紫のキルトした繻子のガウンを来ただけの姿であるのに、胸もとはほのかに汗ばんでいて、鏡子は香水と汗との入りまじったあるかなきかの匂いの立ち昇るなかで、寝起きの気倦さを徐々に珈琲が解きほぐしてよくのを感じる。

 展望の彼方を区切る常緑樹の森を又ちらりと見る。丈の高い落葉樹は森の上辺に繊細な枯枝の網目をひろげている。『あそこで行われようとしていること、そして私の胸の汗』……鏡子はこの汗と香水の蒸発が、式場で祝詞をきいている清一郎の鼻腔にかすかな匂いを伝えても、不自然ではないと思った。そしてこんな想像から、瀆神のたのしみを味わった

 問1. 傍線部「そしてこんな想像から、瀆神のたのしみを味わった」とあるが、この場面の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

① 親友の「清一郎」が近くで結婚式を挙げている様子を想像しながら、神聖や厳粛からかけ離れた自慰行為に耽ることで、婚姻の神を冒涜して楽しんでいる。

② 本来想像を慎むべき親友の「清一郎」の初夜の様子を事細かに想像し、それをただひたすら滑稽なものと考えることで、婚姻の神を冒涜して楽しんでいる。

③ 親友の「清一郎」の結婚式の式や参列人の厳粛な様子を想像しながら、それを寝間着姿のまま性的な幻想と重ねることで、既成道徳や倫理の神を冒涜して楽しんでいる。

④ 親友なのに招待されなかった腹いせに、「清一郎」の結婚式を想像しながら、それを寝間着姿のまま性的な幻想と重ねることで、友愛の神を冒涜して楽しんでいる。

⑤ 夫を追い出して別居し、癖のある頽廃的な若者たちを招き入れて、世間の幸福な家庭とは程遠い猥雑な想像に耽りつづけることで、家の守り神を冒涜して楽しんでいる。

 

正解はどれだろうか?

 

正解は①だ。

 

サロンの女主人として、他人の色恋沙汰を聞くことが習い性の鏡子。寝間着のまま一人、つまりは孤独な寝室の延長線上にあって、「性的な幻想」「胸元の汗ばみ」「胸の汗」「瀆神のたのしみを味わった」と畳みかけられれば、答えはもう自慰行為しかない。しかし、それをきわめてわかりにくく婉曲に書くのが三島流で、ジョン・ネイサンが『午後の曳航』の翻訳時に作者に問いだたしたのも、冒頭のこんな描写。

その体のあちこちにオー・デ・コロンをこすりつけてから、床に入るのが母の習慣だったが、時には鏡の前に横坐りに坐って、熱に犯されたようなうつろな目を鏡に向けて、登の鼻にまで匂う香りの高い指を、あちこちへ動かさずにいることもあった。

 この場面では、覗き穴から少年の息子が裸の母を覗いている。またしても香水が登場しているのに加えて、「鏡」「熱に犯されたようなうつろな目」といった描写があるので、直接名指されていないものが何かを読み取るのは、『鏡子の家』のそれよりもずっと難度が低そうにも感じられる。

これが「名訳」をもって鳴る翻訳者でも読み取りにくかったのなら、『鏡子の家』のあの場面の性的含意に気付いた人は、ほとんどいなかったのではないだろうか。

鏡子の家』には、実は市川崑監督で映画化される予定があった。モノクロで『金閣寺』を映画化したとき、白黒では金閣寺の美しさを表現するのが難しかったためか、市川崑は卓抜なアダプテーションを施して、あの「芸術家小説」を「父と子との対立の物語」に書き換えた。もし『鏡子の家』を映画化するとしたら、もはや跳ね上げ不可能な勝鬨橋を合成で跳ね上げたりするよりは、上記の場面を冒頭に持って来た方がはるかにクールなのではないだろうか。

さて、この記事の冒頭、ふと萩原裕幸の秀歌が頭をよぎったのは、別のごく個人的な理由だったのかもしれない。

(結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である 

萩原裕幸の歌に、通常の意味論的感覚に立った解釈を加えることは危険だ。ただ個人的には、この歌が話者の「求婚失敗」をユーモラスに定型詩にしたものだと解釈するのが好きだ。求婚に潜むナルシシズムを指摘されて、炎天下を物陰で涼もうとする不動の犀のように、そこここで、その日一日じっと動かずにいる求婚失敗者。自分の「求婚失敗」の逸話は、この記事に書いた。

市川崑監督による三島由紀夫金閣寺』の映画化は、金閣寺側の要望もあって、『炎上』というタイトルとなったという。吃音でしか喋れない青年僧が、放火の直前に買う娼婦を演じた19歳の中村玉緒の存在感が新鮮だった。信じがたいことに、うぶな新人女優のような風情があったのだ。映画では、小説が終わった先まで描かれていて、刑事が放火犯の母親が鉄道に飛び込んで自殺したことを犯人に告げる場面もある。その鉄道自殺の逸話は、少年時代の自分が、両親から何度か聞かされた実話と同じだった。両親も私も、金閣寺に放火した犯人と同じく、舞鶴市の出身だ。

舞鶴」「炎上」「求婚失敗」「犀の一日」と鍵言葉が、今晩の新たな星座戦を描くと、何だかやりきれない気持ちになる。それは「一日」より遥かに長い時間、犀のようにほとんど動かないことを強いられてきたからかもしれない。

その角を奪って「犀角」という漢方薬とするために、犀たちが密猟者に殺される事件が後を絶たないという。その「犀角」は漢方薬として効能があるかどうか、意見が分かれているそうだ。常識で考えれば、効能のあるなしに関係なく、密猟して犀を殺してはいけないのは、確かだ。

しかし、もし自分が、比喩的に云って、常識の通じない密猟者を相手にしなければならないような生を強いられているのなら、せめて生き残るための敏活な才覚を私に与えたまえ、神よ。