12号室の女流作家

酒を飲めない未成年の少年が、背伸びをして「酔いどれ詩人」に憧れるなんていうのは、どこにでも転がっているありふれた話なのだろう。

この記事に、自分が高校生の頃にトム・ウェイツに遭遇した体験を書いたが、出会いのきっかけは酒に憧れたからではなく、中学校の頃に愛聴していたSIONに由来していた。どうしてあんな玄人好みのジャズ・ベースのロックを、音楽も何もわからない中学生が夢中になって聴いていたのだろう。

Mmm… クロージング・タイム

酔いどれトムのブルースを聴かせて

Mmm… クロージング・タイム

午前三時のピアノの音色を

「酔いどれトム」の ラスト・ネームがウェイツで、曲名の「クロージング・タイム」がトム・ウェイツの処女アルバムと同じ名前で、SION自身が和製トム・ウェイツと呼ばれている、なんていう蘊蓄を誇らしげに書きつけるには、自分も年を取りすぎた。SIONファンで、それを知らない人はいないのではないだろうか。

午前三時を過ぎても、ん? まだ自分を見守ってくれている年少の友人がいるらしく、えみりん、何でこんな時間まで起きているのさ。若いからって無理ばかりしていては駄目だよ。きみは普通の人より、ちょっとした微熱くらい正義感の温度が高めだから、危ない目に遭うんじゃないかと思って、ずっと心配していたんだ。身体だって、ずいぶん疲れているんじゃないのかい。ゆっくり、おやすみ。

ひょっとしたら、昨晩の「鍵穴を抜ける蝶」を読んで、小説の発想が不自然に綺麗すぎるし、何より短すぎると感じて、心配してくれているんだろうか。わかっているよ。ぼくのルーツが根差しているのは、あんな美少年が出てくるような小綺麗なもんじゃない。どちらかというと、象の墓場みたいに社会からは見えにくい場所。見捨てられた場所。

私はこの土地でくらすのが恐ろしいのです。線量計をもらったけれど、なんで私にこんなものをくれるの? シーツを洗う、まっ白だというのに線量計が鳴る。食事のしたくをしても、パイを焼いても、鳴ります。ベッドを整えても、鳴ります。なんで私にこんなものをくれるの? 子どもに食事をさせながら、泣くんです。「ママ、どうして泣いているの?」

 息子は血液の病気です。でも、病名は口にするのもいや。この子と病院にいて、この子は死ぬんだわと思う。それから、そんなふうに考えちゃいけないってわかったんです。トイレで泣きました。どの母親も病室じゃ泣きません。トイレや浴室で泣くんです。明るい顔をして病室に戻ります。

「ママ、ぼくを病院からつれて帰って。ここにいるとぼく死んじゃうよ。みんな死んでるんだもの」

 どこで泣けばいいの? トイレ? あそこは行列よ。私のような人たちばかりなんですもの。

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

 

 30年前のぼくが15歳で大学病院に入院していたとき、やっぱり泣き叫ぶ子たちは実際にいたんだ。家に帰りたい、どうして帰してくれないのかって。泣き叫んでもどうしても帰宅させてもらえない子もいて、たぶんその子たちは二度と家に帰れない運命だった。それくらい難病の進行した子供たちだった。

入院中は時間があり余っている。大学病院を探検するのって、楽しいんだよ。よく訪問者用の白衣を着込んで、ベビーベッドが集められた病室へ入って、難病の赤ん坊たちを眺めて過ごしたもんだ。

ステロイドを投与されたせいで、顔も身体も数倍に膨れ上がった5歳くらいの赤ん坊もいた。あの子はたぶん30歳になっても赤ん坊のままだったと思う。ひときわ大きなアクリルケースの中にふんぞりかえって、たぶん一日中寝ているだけの数年間を生きてきた。アクリルケースの両側には、おむつ交換できるように手を差し入れる口が開いていて、ぼくはよくそこへ手を突っ込んだ。赤ん坊の手のひらをくすぐってあげたかったんだ。くすぐると、膨れ上がったムーンフェイスの真ん中に集まっている目や口が動いて、本当に嬉しそうに笑っている顔になるんだ。病気で何もわからない赤ん坊でも、自分の皮膚に触れられるのがあんなに嬉しいもんなんだね。自分の皮膚に接触してくれる愛情をあんなに求めているもんなんだね。

 一日中眠っているのに、くすぐると笑顔になる赤ん坊たち。えみりん、でも、そんな難病の赤ん坊が集められた病室を訪れる親は、数えるほどしかいなかったんだよ。これは本当の話。チェルノブイリ事故でできた「遺棄乳児院」の話をこの間どこかでした。あれと似たような光景を、30年前のぼくは見ていたのかもしれない。悲しいことに、今後のこの国では、どこにでも転がっているありふれた話になるんだろう。

ごめんね、昔話が続く。15歳のとき長期入院していたあの病棟のことを思い出すと、どうしてもSIONの「12号室」が頭の中で鳴り響いてしまう。歌詞が自分の実存に直接響いてくる感じ、どういえばいいのか、これわかるなあ、こうだったな、と臓腑に沁みわたる感じになる。

(長い曲だから、抜粋した歌詞を載せるよ)

そこは動物園だった みんな変な形をしてた

仲間ですよと紹介された こんがらがって涙が出てきた

こんな変なやつらの 仲間でも友達でもないと

その日もベッドの中で じっと息を殺していると

誰かが布団の中に 手紙をつっ込んでいった

よかったら12号室の私のところに 遊びにおいでと 

彼女は微笑んでいた ベッドに体を起こし

ものすごいきれいだった 泣きたいくらいきれいだった

彼女と話したその日から 少しずつだけど

誰かの問いに応えたり 誰かに話しかけられるようになった

彼女は全てを持っていた 白く長いはずの二本の足を除けば

彼女は美しかった 彼女は美しかった

 昨晩きみに話した「鍵穴を抜ける蝶」は、あれを小説の隠喩と呼ぶには過剰な美しさがあって、あれでは駄目なんだ。もう少し近づけたい、何とかして、きみみたいな魂のきれいな女の子に、ぼくの考えている小説をわかってもらいたい。

 ほら、12号室の女性が見知らぬ少年に宛てた手紙。

あれがぼくがあってほしい小説の隠喩になっているような気がする。孤独、神経衰弱、落ち込み、悩み、そういう小さな殻の中に閉じ込められて、重みで潰されそうになっている人たちに、ある日会ったことのない誰かから手紙が届く。その手紙を読んで、ほんの少しだけ苦しい状況がましになる。ましにしようという気持ちになれる。自分の言葉が、本当にそんな前向きな変化のきっかけになってくれたらって。こういう気持ちは、本当にそう思って書いているんだよ、えみりん。

 でも、12号室の彼女自身は身体障碍があって、宛先の誰かに手紙を届けに行くことはできなかったはず。歌詞には書かれていないけれど、誰かが気をきかせて「伝令役」を買ってくれたんだと思う。

ここでもきっと同じことが起きているんだよね、えみりん。満足に動けないぼくのために、えみりんや仲間たちが「伝令役」を買ってくれて、その無償の献身が幾重にも積み重ねられて、ぼくの小説がああいう「手紙」に化けるかもしれない奇跡を生み出してくれたんだよね。ぼくはそう思っている。

本当にありがとう。こんな年になって、きみたちには教えられてばかりだよ。仲間の皆にも、ぼくが本当にありがとう。そう言っていたって伝えてほしい。こんな奇跡を作り上げられるのなら、今後のきみたちの人生に乗り越えられない壁があるはずない、とも。元気で。