「Whoが」遁走しているのか?

「解放」という一語だけでは、誰が解放されたのかはわからない。それは解放ではなく逃走なのかもしれない。わからないまま、よくわからない解放感に包まれて、「美」について考えていた。

 哲学の世界で美について説き起こそうとすれば、プラトンからということになるのだろう。 プラトンの『饗宴』は最高の学問として「美そのものの学」を称揚し、その問題系は、アリストテレスカントーヘーゲルといった著名な哲学者たちによって論じられ、その系譜には、美を理念の随伴物とするへーゲルに対抗して、芸術を真理の探究よりも高位においたニーチェも加えられるだろう。

それらの美をめぐる批判的継承の連続とはやや離れたところから、ふっとその謎めいた姿を現したのが、ヴォルター・ベンヤミン。 

ベンヤミン 破壊・収集・記憶 (講談社学術文庫)

ベンヤミン 破壊・収集・記憶 (講談社学術文庫)

 

全体像を把握しにくいベンヤミンについて、詳細に書かれたものの中では、この文庫本が好きで、何度も読み返した。この記事でも書いたように、 自分は「日本のベンヤミン」こと田中純に、部分的に影響を受けている。

 美という主題につながる形で、自分のベンヤミン受容を話す気になったのは、自分の創作原理を明らかにせよとの指示を、最近受けたからかもしれない。その返答として、文芸批評については、「構造分析をアクチュアリティにつなげる」旨の簡単な応答を行ったが、小説の創作からこのブログまでを含めた範囲では、ベンヤミンの名のもとに、別の話ができるような気がする。

 上記ベンヤミン本に従って、上手くまとめていけば、ベンヤミンの主要概念のポイントについて、レジュメを作るのはさほど難しくない。

 ベンヤミンの最も著名な「複製技術時代の芸術」における最も著名な概念「アウラ」とは、複製技術によって失われる一回限りの genuine な真正性のこと。しかし、ベンヤミン自身が、そのアウラの喪失を嘆いているのか、複製技術によってアウラを喪失しつつも、同時に勃興する芸術の大衆化に希望をかけているのか、曖昧だ。アウラという術語の「守備範囲」は、読者が追いかけきれないほど広い。

少し脱線すると、同じ論文の末尾には有名な一文がある。

 ファシズムが推進している政治の美学化(…)に対して、コミュニズムは芸術の政治家をもって応えるのである。

 ベンヤミンを参照したかはともかく、三島由紀夫寺山修司も芸術の存在理由を、同じ対抗政治的文脈で捕らえていた。自分がゼロ年代前半、同じく「文学の政治性」に言及したとき、周囲の反応はとても鈍かったように記憶する。当時も今も、どんどん話が通じにくくなっている「知の頽廃」が昂進しているような感じがある。花田清輝のことなんて、誰も憶えてすらいないのだろう。 

 さて、ベンヤミンの主要概念「アウラ」は、断章好きの彼によって、こうも定義されている。

アウラについての私の定義。見られているものが気がついてこちらを見る時のまなざしの遠さ。

 この場合の「見られているもの」とは、人間ではなく物や自然だ。ここに、プルーストのドイツ語への翻訳者でもあったベンヤミンが、かの有名な「無意志的記憶」を自説に呼び込んでいるのがわかるだろうか。体験者がまったく制御できないまま湧出してきた記憶を、ベンヤミンはマドレーヌという物質に内在したものとして捉え直しているのである。

物質に内在する記憶。それはやがて、「街々に内在する歴史の記憶」へと発展していくだろう。

フランス革命がローマの共和制を目標にしたという歴史的事実をベンヤミンは、過去の中にある今の可能性を引き出すこととして捉える。もちろん、帝政以前の共和制ローマに本当に救済が成就し、幸福が実現していたわけではない。だが、そこにはあり得たかもしれない可能性が潜んでいる。フランス革命にしてもしかりである。巨大な断絶で引き離されているふたつの時代が、そのあり得たかもしれない可能性と、これからあり得るかもしれない可能性において直面しあうときに、そのことによってのみ一瞬生まれる認識こそ、ベンヤミンにとっては、アクチュアリティを、そして真の革命的救済の可能性を保証するものであった。それは<過去の引用>。つまり、過去をそのコンテクストから外すこと、過去を中断することである。「過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光が投げかけるものでもない。そうではなく、イメージの中でこそ、かつてあったもの(des Gewesene)は、この今(das Jetzt)と閃光のごとく一瞬に出会い、一つの状況の組み合わせ(Konstellation=星座)を作り上げるのである。言い替えれば、イメージは静止状態の弁証法である」 

 この引用と、引用を含む箇所に付された「歴史の天使」という章題が、自分のベンヤミン受容のほとんどを語っているような気もする。気付いていた人も何人かはいたのではないだろうか。自分がしばしば「星座線」とか「アクチュアリティ」といった用語を使うのは、自分の歴史の捉え方にベンヤミンが残響しているからだ。

無論、ベンヤミン自身の作品群は、あまりにも多彩かつ多数的で、あまりにも謎めいていて、一生かかっても追いかけきれるものではない。その見事な「遁走曲(フーガ)」に時折り耳を傾けながら、自分もベンヤミン以外の多数性にも身体を開いて、自身をも「遁走曲」に仕立て上げていこうとしている。

仮に写真を撮影されたとしても、そこに映っているのは残像でしかないと強がっておこうか。事件の全貌を鳥瞰できる人間がいない限り、写真には映らない天使のように、真実は飛び去ったままだ。


(感情の落ち込みや喪失感から逃げきれなかったとき、繰り返し聞く曲。これを聴きつづけているときの自分は、たぶん一人ぼっちだと感じている)。