蝶の舞う草原へサイクリングに

松山市の道後にどういうわけか英国式の洋館が現れたときには、何となく場違いな違和感を感じた。地元の名士が手がけているホテル事業にケチをつけたくはないし、良質のレストランやカフェは自分もよく利用している。十数年もたてば、地元民にとっては馴染みの風景だ。しかし、初めてあれを見る観光客は、やはり違和感を感じるのではないだろうか。 どうして道後にオールド・イングランド

ホームページを見ると、「明治の香りただよう道後の街に合わせ」たと書いてある。松山で明治を語るなら、明治の勃興を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』を語らずにおくことはできない。夏目漱石正岡子規秋山好古秋山真之…。大学病院の病棟で夢中で司馬遼太郎を読んだ中学生時代が懐かしい。

ただ、綺羅星のような先人たちが残した文化資源を、この街はまだ汲み尽くしていないというのが私見で、オールド・イングランドの意匠は『坊ちゃん』を書いた漱石の倫敦留学と結びつけて、観光客の旅情を喚起するべきなのではないだろうか。

自転車に乗る漱石―百年前のロンドン (朝日選書)

自転車に乗る漱石―百年前のロンドン (朝日選書)

 

 倫敦留学中の夏目漱石は、当時普及し始めた「安全自転車」の一大ブームに文字通り便乗して、現代の小学生が懸命に練習するように、ロンドンで自転車乗りの練習に精を出している。その結果が散々なものだったことも、エッセイでこぼしている。

夏目漱石 自転車日記

松山市といえば、「自転車乗りの聖地」今治とはさほど離れていない。しまなみ海道を渡ってきたサイクリストたちが、余勢を駆って道後温泉に浸かりに来ることも珍しくない。これらの文化資源の網の目を、観光客がにわか探偵となって探索する道筋を用意しておくのも一興だと思う。

 オールド・イングランド夏目漱石のロンドン留学→歴史上初の自転車普及ブーム→同時代ロンドンにいたシャーロック・ホームズ

これらは、実はすべてつながっているのである。こんなに豊かな文化資源を持っている地方都市も、さほど多くないし、生かさない手はないと思うのだが、いかがだろうか。 

漱石とホームズのロンドン: 文豪と名探偵 百年の物語

漱石とホームズのロンドン: 文豪と名探偵 百年の物語

 

 自分にはどこかブリティッシュ好きなところがあって、好きな英詞の洋楽はたいていイギリス発だ。Led Zeppelin もその一つ。北京オリンピックの閉会式で名曲「胸いっぱいの愛を」が次のロンドンへの架橋として、 イギリスの女性シンガーとジミー・ペイジによって演奏されたときは、胸いっぱいの拍手を心中で送ったものだ。

 イギリスでは、カリブ海系の血を引くコリーヌ・ベイリー・レイも気になる女性ミュージシャンだ。ずっと気になっていた。というか、極東の島国からどこか心配性のまなざしを送ってしまう存在だった。

1979年生まれということは、現在『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の沙羅と同じ38歳。2006年の27歳のデビューで、いきなり「Put Your Records on」という世界的な大ヒットを飛ばした。

イングランドのどこかの郊外をサイクリングしながら、肩ひじ張らずに自然体で歌う彼女の歌声には、オーガニックな愛と癒しと哀愁が同時に揃っている新鮮さがあった。ありえないことではあるが、あの少女たちのサイクリングの最後尾に、自転車乗りの下手な漱石が悪戦苦闘しながら走る姿が映っていたら面白いのにと想像してしまう。

歌詞を読み込むとわかるが、母親の家から巣立つさまを歌った「Butterfly」なんかを聞くと、ベイリー・レイが本当に気立ての良い女の子であることがわかる。どこかシングルマザー家庭の印象を感じさせる歌詞の中で、娘が母から飛び立つだけではなく、巣立とうとする娘が愛を注いでくれた母親に「ありがとう、これからは蝶のように自分の人生を生きて」と呼びかけているのだ。

In my mother's house
There's a photograph
Of a day gone past 
Always makes me laugh

母の家には
過ぎ去った昔の
写真がある
いつも笑わせてくれる写真

 

There's a little girl       
Wary of the world    
She got much to learn  
Get her fingers burned  

写真の中の少女は
世界にどこか怯えていて
これからたくさん学ぶところ
指に火傷をしたりとかして

 

An affinity      
Between you and me 
Cause we're family  
Said that I'd be fine  
Give me all your time 
And I left your side  
Like a butterfly

お母さんと私が
通じ合っているのは
二人が家族だから
大丈夫よって私に言い聞かせて
すべての時間を私に注いでくれた
そして私はあなたのもとから
蝶のように飛び立つ

 

Shower me with your love 
All of everyday      
You make the red rose sun 
Shine on me     
Lift me up so high  
Watch me fly away  
Would you live your life
Like a butterfly  

水浴びできるほどの愛を
毎日私に注いでくれた
薔薇を咲かせる太陽のように
日なたの陽光のように
私を立派に育て上げ
巣立つのを見送ってくれた
これからは自分の人生を生きてちょうだい
飛びまわる蝶のように  

ところが事件が起こってしまう。ベイリー・レイが22歳のときに結婚した3歳上の夫が、7年後に薬物の過剰摂取で亡くなってしまうのだ。その突然の恋人の死を歌った曲が、「Are You Here」。「いまここにいるの?」。曲の完成度もボロボロで、艶のあったはずの歌声が哀切に不安定に揺らぎながら、月下香の咲き乱れる庭で二人が横たわっているさまを想像するサビで、あなた以外にもう何も想像できなくなるとベイリー・レイが歌うとき、たぶん彼女は真っ暗なベッドの中で泣いている。最愛の近親者を失うことは、他人には決して追体験できず、想像しかできないつらいことだ。

そのアルバムの後、ベイリー・レイは沈黙してしまった。

こういうことを比較することが適切かどうかはわからないものの、近親者を亡くす場合、子が親を亡くすより、親が子を失くす方が辛いにちがいない。例の巨大広告代理店の若い女性社員の過労自殺は、調べてみると、15年以上前にすでに全面敗訴の「警告」があったらしい。

少なくとも二人を過労自殺に追い込んだ「死んでも(仕事を)離すな」で有名な「鬼の十訓」は、社外にまで普及して、別の金融会社の女性を過労自殺に追いやったりもしている。(下記新書の第一章三項)。或る巨大広告代理店に入社した知人は、入社一年目はエレベーターの使用を許してもらえないので、どの階へ行くのにも階段で往復しているとこぼしていた。

過労自殺 第二版 (岩波新書)

過労自殺 第二版 (岩波新書)

 

 これらは特定の企業のブラックな文化で済む話ではない。90年代に波及し始めた新自由主義的な「雇用身分社会」の大問題として捉えるべき話だろう。90年代後半から行われてきた段階的な「規制緩和」は、日本を世界一位の非正規労働の国にしてしまった。

2位アメリカの5倍というグラフの尖がり具合も衝撃的だが、より正確に人口比で計算すると約12倍。こんなわかりやすいグラフからも、グローバリストたちに絞め殺されようとしているこの国の悲鳴が聞こえるような気がする。

雇用身分社会 (岩波新書)

雇用身分社会 (岩波新書)

 

というのは、過労と低賃金を伴った非正規労働が増えれば、生涯未婚率が上昇し、結婚しても子供を持つ数は少なくなり、その子供にもまともな教育を授けにくくなるからだ。さらに続ければ、少子化が進めば、すでに危機的状況にある社会保障制度を崩壊させることは間違いない。この国家滅亡の問題系の根源は労働問題にある。

あれ? 国を滅ぼしかねないような労働環境の改悪を、どうして日本政府は主導したのだろうか?

残念ながら、主導したのは日本政府ではない。さきほど、「この国家滅亡の問題系の根源は労働問題にある」と書いたのは、嘘だった。申し訳ない。そう書けば少しは格好がつくかなと思って書いたのだけれど、やはり嘘はつけない。まるで格好がつかない酷い惨状だ、この国は。わかりやすくまとめてある下記のリンク先の記事を、よく読んでほしい。

アメリカによる市場開放圧力とジャパンマネー奪取戦略

 というわけで、日本の社会問題のどこをどう辿っても、「対米自立型保守」の立場に立って救国策を考えていくしかないということだけは、今晩も確かになったはず。そして、この先、私たちが歩まねばならないのがきわめて困難な道であることも。

元気が出る話もしたい。

沈黙していたコリーヌ・ベイリー・レイが、「Are You Here」含むアルバム以来6年ぶりに新作をリリースした。プライベートでも近親者の死から立ち直って再婚を果たし、サウンドの質も回復して、以前より多様性に満ちた楽曲を歌いこなしている。

そのような一流ミュージシャンとしての本業以外にも、社会貢献活動にも熱心に力を入れはじめた。安全で衛生的な水を入手できない世界の21億人のための活動や、「売られる少女、焼かれる妻、見捨てられる母」のような暴力を被っている女性を救出する活動にも貢献している。 

ハーフ・ザ・スカイ――彼女たちが世界の希望に変わるまで

ハーフ・ザ・スカイ――彼女たちが世界の希望に変わるまで

 

 個人的に驚いたのは、Led Zeppelin の「長時間労働ラブソング」をカバーしていること。ハードロックからほど遠いジャジーなアレンジだが、ベイリー・レイらしいアンニュイさと憂愁を沁みわたるように聞かせてくれる。

その曲を聴きながら、コンサート会場に飾りつけられていた青い蝶のオブジェをじっと見ていた。

親に子供がいて、子供に親がいて、一緒に過ごせる時間がたっぷりあって、誰もが自由に家の外へ飛び回ったり巣立っていったりするゆとりがある。そんな蝶たちが、この緑豊かな国の草原の上を飛び交っているさまを、夢と知りながら夢想していたのだった。

Been working from seven to eleven every night
Really makes life a drag
I don't think that's right

7時から11時まで毎晩ずるずると働いて
うんざりな人生になってしまった
これでいいとは思えない

 

I've really been the best, the best of fools
I did what I could, yeah
Cause I love you baby
How I love you darling
How I love you, baby
My beloved little girl, little girl

本当に最高に、最高の莫迦になるくらい
やれるだけのことをやってきたさ
それはきみを愛しているから
どれほどきみを愛しているか 
どれほど可愛らしいきみを

 

But baby, since I've been loving you, yeah
I'm about to lose my worried mind, oh yeah

でもきみを愛するようになってから
不安な心がすっと消えていきつつあるんだ