モエ・エ・シャンドンにはまだ早すぎる

もしこのブログが書籍化されるような幸運へ辿り着けたら、書名は『檻々の歌』にしよう。今晩ふとそんなことを思いついた。しかし、そんな願いも空しく、すべてが水泡に帰するかもしれない。世界は何が起こるかわからない不確実性に満ちている。

それにしても、「水泡に帰す」とは厭な言葉だ。 

ちょうどこの動物園の前に立っていた幼稚園の頃、四国から祖父母の住む京都の舞鶴へ帰省する長距離ドライブの中で、よく童話のテープを聞かせてもらった。ところがどうにも「人魚姫」だけが聞くに堪えなかった。可哀想で可哀想で、幼稚園生の自分は、どうしても泣けてしまうのだった。男の子なんだから泣いちゃいけませんって、「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」って、チャンドラーも言っているぜ。あれが泣かずにいられようか。

 遠い遠い海の底に、人魚のお城がありました。
お城には王様と6人の人魚姫が住んでいました。この世界では、人魚姫は15歳になると海から出て人間の世界に行くことができるようになります。
末の人魚姫は、お姉さんたちが見てきた人間の世界の話を聞いて、自分も人間の世界へ行くことを楽しみにしていました。

 ついに15歳を迎えた末の人魚姫が海の上に顔を出すと、そこにはたくさんの明かりをつけた船が浮かんでいました。
 船には王子様が乗っており、人魚姫は王子様をひと目見て恋をしました。
 その時、突然嵐が船を襲い、王子様は海へ落ちてしまいました。人魚姫は海に落ちた王子様を助け、浜辺まで運びました。
 人魚姫は王子様が目を覚ますまで声をかけ続けました。
 するとそこへ、どこからか娘がやってきたので、人魚姫は驚いて海へ身を隠しました。
娘が王子様を抱き上げると同時に王子様が目を覚まし、王子様は目の前にいる娘に助けられたと勘違いしてしまいました。

 それを見た人魚姫は、自分も本当の人間になって王子様のそばにいたいと思うようになりました。
 人魚姫は魔女のところへ行き、人間にしてほしいと頼みました。
 魔女は、人魚姫の美しい声と引替えに、人間にしてくれることを約束してくれました。
 しかし、魔女が出した条件はそれだけではなく、王子様が他の女性と結婚すると2度と人魚姫には戻れず海の泡になって消えてしまうとも言われました。
 人魚姫は全ての条件を吞み、人間になることを決めました。
 浜辺で人間になる薬を飲んだ人魚姫は、いつの間にか眠ってしまいました。
 しばらくして目が覚めると、傍に王子様が立っていました。しかし、声を出したくても人魚姫は声が出せません。
 王子様は何も話さない人魚姫を自分のお城まで連れて行き、人魚姫を妹のように可愛がってくれました。

 ある日人魚姫は、王子様から溺れた時に助けられた娘と結婚することを聞かされました。
 助けたのは私だと言いたくても、人魚姫には声がありません。

 王子様の結婚式が近づいたある夜、海にお姉さんたちがナイフを持って現れました。
 お姉さんたちは、このナイフで王子様の胸を刺して殺せば、人魚姫は海の泡にならなくて済むと言いました。
 人魚姫はナイフを受け取り、王子様が寝ている部屋へ忍び込み殺そうとしましたが、愛する王子様を殺すことができませんでした。
 人魚姫はナイフを海へ投げ捨て、自分も海へ飛び込み、海の泡になってしまいました。 

 【童話】人魚姫【あらすじ・ネタバレ】 | あらすじ君

いま読んでもグッとくるところがないと言えば嘘になる。どうしても人間になって、どうしても王子様と話したいのに、あべこべに、言葉の話せない魔法にかけられてしまうのが何といっても可哀想だ。これでは永遠に真実に到達しない「魔女裁判」誘発的だ。実際悲劇は巻き起こってしまう。魔女なのだから、もっと気の利いた魔法はなかったのだろうか。

 かといって、これを読んで「水泡に帰す」ることになった人魚姫のために、今の自分が泣いてしまうかと言えば、そうではない。「タフじゃなくては生きていけない」。伊達に年を取ったわけじゃない。今の自分なら、「人魚姫」が、同時にとんでもないハッピーエンドであることを読み取ることもできる。

先に、この記事で書いた「人獣婚姻譚」の物語定型を確認しておきたい。

  narratologyが「説話論」と訳されたのは、プロップの『魔法昔話の起源』のように、分析対象が当初は民話や説話だったから。その実践例に挙げたいのは、日本で言うと、民俗学から出発した大塚英志『人身御供論』だ。記憶に頼って書くと、そこにあった漫画『めぞん一刻』(自分の高校時代に大流行していた)の構造分析では、「女が犬との人獣婚姻を経て、男との真の婚姻に至る」という物語定型が読み取れるとしていた。確かに未亡人のヒロインの亡夫は、黒塗りされて顔すら描かれておらず、代わりに夫の名で愛玩されているのは大型犬で、漫画は未亡人が年下の主人公と結婚して終わる。著者は「牽強付会かもしれないが」と遠慮気味な言葉を自説に書き添えているが、勝手にここで正解の太鼓判を捺しておきたい。というのは、漫画のプロットの傍流で、深窓の令嬢がプレイボーイと結婚する過程に、やや変形されてはいるものの、やはり先んじて「犬の婚姻」があり、それが人間の男との結婚に継起的に直結する筋書きが描かれているからだ。その定型のうち、人獣婚姻譚の部分をクローズアップした純文学が、多和田葉子の『犬婿入り』である。

 

ここでもまた記憶に頼って書くが、「獣との倫ならぬ仮婚」から「運命の男性との本婚」へ至るプロセスで、前者から後者へ移るための物語イベントは、河童の川流れのような「水難による獣の死亡」か「運命の男性が見初めての救い出し」だったと思う。(記憶違いかもしれないが、そうだとしても、これらも私たちの物語定型のいちヴァリアントとして容認を請いたい)。

これらを念頭に「人魚姫」を読み返すと、女性の成長物語である人獣婚姻譚が、これほどまでにあからさまに生きている童話は珍しいと言えるだろう。

人魚という存在そのものが、人+魚の異類婚を象徴している。気を付けなければならないのは、この童話の説話論的観点からの主人公は、脇役に見える婚姻女性であり、彼女は人魚姫と同一人物であるということだ。先ほど「獣との倫ならぬ仮婚」から「運命の男性との本婚」へ至るために、「水難による獣の死亡」か「運命の男性が見初めての救い出し」を伴う、と書いた。人魚は王子様に見出されて「妹」のように可愛がられ、結婚式当日に「水の泡」となって消えてしまう。ご結婚おめでとうございます。人魚姫と婚姻女性が同一人物と考えれば、これが完膚なきまでのとんでもないハッピーエンドだということがわかるだろう。「水の泡」となって消えるのは、妹的な「仮婚」から「本婚」へ至る局面で消えてしまうもの。つまり、人魚姫はその女性の virginity そのものを象徴している。だからこそ、結婚式当日にそれは「水の泡」となって消えてしまうのだ。

隠れドゥルージアンらしからぬオイディプス的読みを施すと、この「獣との倫ならぬ仮婚」は、庇護してくれる父親への娘からの愛情(近親相姦タブー)の置き換えであるにちがいない。

村上春樹は「物語は倍音で読者に響くので使わない手はない」という意味のことを、どこかで語っていた。

すると、この人獣婚姻譚を変形させて、潜在的な女性の成長物語として女性客の大反響を呼んだ映画があるのが、思い浮かんでは来ないだろうか。

 高貴なヒロインにとって身分違いの下層の若者は「異類」の一種。禁じられた恋だ。主題歌の背景で流れるダイジェスト映像には映っていないが、沈没したあと海上で漂流するヒロインを若者は最後まで庇護しようとし、最終的に自分だけ海中へ沈んで亡くなる(水難による獣の死亡)。オイディプス的に読み直せば、この映画は、結婚した女性が、幼少期に絶対的な庇護をくれた父親の愛を忘れないと熱く告白している映画なのである。

さて、現在の自分は酒を呑まないが、若い頃はパーティー・ドリンカーで、さほどお金はないのに、ここぞというイベントごとには、モエ・エ・シャンドンを奮発して仲間と呑んだりしていた。そういうとき、仏文出身の自分は、Moët et Chandonって、どういう意味だよ?とよく友人に聞かれたものだ。Moët は「口をきけない」とか「無音の」を表す muet に近いから、飲んだ人が無言になるほど美味いという意味だよ、とかいい加減な冗談を言いながら、シャンパンの泡に口をつけたりしていた。そうか、あれは人魚姫の酒だったのか。

泣かないでくれよ、幼稚園生の私。きみはまだほんの子供だから知らないだけさ。タフになりさえすれば、どんなに悲しい話だって、祝杯を挙げられるくらいの微笑ましい話に変えられるようになる。

もう少し努力するつもりだ。チャンドラーの「ギムレットにはまだ早すぎる」をもじって言えば、「モエ・エ・シャンドンにはまだ早すぎる」から。

檻から出て人間に戻り、祝杯の水泡にキスする日まであと少しだ。きっと。