ワンダフルな平行世界
飼い主のペット・ロスも大変だろうが、ペットの飼い主ロスはもっと大変だろう。be at a loss という表現も、元を辿ると、狩猟で猟犬が獲物の痕跡を見失ったときの様子からきているらしい。その言葉が生まれたのは15世紀のこと。獲物ならまだしも、飼い主を失ったら、本当の迷子になってしまう。その不安や行き場のなさのニュアンスは、21世紀の今でもその熟語の用法に受け継がれている。be at a loss を「途方に暮れる」と訳した日本人が誰かは知らないが、名訳なのではないだろうか。
そんなことを考えながら、午前中のルーティンワークのBGMにこの曲を流していた。
曲調はミニマルといえるほどシンプルなので、歌詞の強さでヒットした部分が大きい曲なのかもしれない。
ひとつ残らず君を
悲しませないものを
君の世界のすべてに すればいい
あ、これは詩才豊かだぞ、と感じて、作詞家の名前を調べると、自分も何冊か読んだことのあるあの詩人の作詞であることがわかった。
自分のもとを去っていく女性へ「幸せに」くらいは寛容な誰もがかける言葉だろうが、その漢字交じりの3文字を、同じく漢字交じりで31文字にまで拡大できるのは、凡才の書き手が持ちえない大胆さゆえだろう。
銀色夏生---その瞳の奥にある自由 (【責任編集 銀色夏生】文藝別冊)
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さらに高等テクニックが用いられていると感じるのは、次の一行。
窓を曇らせたのは なぜ
上記の短編小説もどきでも、二人の疎隔を表すのに硝子を用いた。歌詞のこの部分にぐっとくるのは、自分が場面設定に硝子を持ち込むのが大好きだからということもある。けれど、一般的に言って、物書きは「字」に対するフェティシズムを持っているものだ。
ル・クレジオが原作の或る映画で、崖下の足の届かない海を必死に泳ぎながら、少年が波間に漂う柑橘系の果実を数十個かき集めようとして苦闘する場面があったように記憶する。自分も波に翻弄されながら、少年が必死で果実集めに取り組むのは、その数十個の果実の一つ一つに、アルファベットが刻まれているから。海を泳ぎながら果実を集めている少年は、象徴的な意味では、作家になろうとしていたのだった。
同じく「窓を曇らせたのは なぜ」という歌詞でも、熱烈に待たれているのは、窓を曇らせた後に、そこに指で書かれる文字だ。
硝子に隔てられた恋人たちは、声を届けられないので、ガラスを曇らせてそこに指文字でメッセージを送る。いろいろな映画の中で、何度も見たことのある場面。もっともよく使われるのは「LOVE」の鏡文字だろうか。
しかし銀色夏生は、曇ったガラスに女性の指を触れさせない。男性の元を去りつつある女性の心の中にある真情を、ただ水蒸気に変えてガラスを曇らせ、それを見つめる女とそれを背後から見つめる男の静止した構図と、見通しを失ったガラス面しかない方が、別れの場面に似つかわしいと考えているのだろう。なぜ、と問う男は、自分から去っていこうとする女性の気持ちがわからないし、わからないからこそ、彼女は去っていくのだろうから。
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現代思想でこのような「途方に暮れる」状況を、或る意味で理論化したのはグレゴリー・ベイトソンだ。ベイトソンと言えばダブル・バインド理論。このような設例で紹介されることが多い。
1. 親が子供に言葉で「こっちへ来い」と言う。
2. 子供が親の所に行くと、親は子供を突き飛ばして遠ざける。
3. 子供が混乱して立ちさ去ろうとすると、逃げるなと退出を禁止する。
4. そして「こっちへ来い」と言う。
これでは子供は「途方に暮れる」だろう。発話メッセージとメタレベルのメッセージとの間に矛盾があり、その矛盾に直面しつづけるよう強制されている状況だ。ベイトソンが、このような人間関係が母子間にある場合、精神分裂病を罹患する要因となるというのも頷ける。
しかし、ベイトソンのダブル・バインド理論が精神分裂病の発生機序を探る理論だとする巷間行き渡っているらしき通念は、いささかその射程を短く見積もりすぎている。
ベイトソンは人間のコミュニケーションが種々のモードを転換しながら行われており、そのモード転換がそれぞれの(メタ)論理階型のコンテンツの意味を変化させることはもちろん、論理階型の伸びやかなジャンプアップやジャンプダウンにこそ、ユーモアや学習の起源があると説いているからだ。
ユーモアについてはこんな設例を考えてみた。
「Aくんったら先輩の怒りを買って、100円の焼きそばパンを奢らされたんだって」
「先輩の怒りを100円で買ったというわけね。他のものを買えばよかったのに」
慣用句のレベルにある「先輩の怒りを引き起こした」という「買った」を、字義通り解釈するレベルの「購入した」にジャンプダウンさせているので、そこにユーモアが発生しているというだけのこと。全然難しい話ではない。
小説好きの自分は、すぐにここで、そのような(メタ)論理階型のジャンプアップダウンのまたとない訓練として、言い換えればコミュニケーションやユーモアや学習の訓練として、メタフィクションの読書経験の効用を考えてしまう。
フィクションの手練れたちがどれほど凝りに凝ったメタフィクションを戦略的に展開しているかは、上記の自分の20代の愛読書を参照してほしい。そこまで行かなくとも、いっぱしの虚構莫迦なら、上記のダブル・バインドの設例だって、精神分裂病の発生原因としてではなく、別の虚構の発露だと読み解くことができる。
親の心内の言葉を、こんな風に補ってしまえば、精神分裂病ではなく、一種の禅問答めいた修行論になる。
1. 親が子供に言葉で「こっちへ来い」と言う。
(「とうとうその時が来た。お前に我が家に伝わる一子相伝の暗黙知を教えてやろう」)
2. 子供が親の所に行くと、親は子供を突き飛ばして遠ざける。
(「何だ、そのざまは。それでは、護身術の秘法はまだ習得できぬぞ。Don't think, just feel it! 」
3. 子供が混乱して立ちさ去ろうとすると、逃げるなと退出を禁止する。
(「一子相伝と言ったであろう。これはおまえの運命だから逃げられないのだ」)
4. そして「こっちへ来い」と言う。
(「またしてもその時が来た。教えようとしているのは暗黙知であるから、言葉にできないのじゃ。早くそれに気付け、わが息子よ!」)
ベイトソンの柔軟性とや優しさを感じさせるのは、ダブル・バインドに限らず、メタ論理階型を自在に往還することを学ぶことこそが、生きることなのだということを、『ソフィーの世界』と同じく、少女との会話形式で披露しているところだ。
D:ルールを変えるときは、ちゃんと言ってちょうだいね。
F:そういう具合にはいかないのさ。チェスやトランプみたいなゲームだったら、ルールについて説明したり、プレイをやめてルールを変える相談をすることも自由にできる。ゲームから出るのも入るのも思いのままだ。しかし、トランプ・ゲームの外にはどんなルールがあるんだろう。ルールを決める時のルールはどうなっているんだろう。D:……?
F:いいか、肝心なところだぞ。パパとおまえの問答の目的は、その「ルール」を発見することにあるんだ。それが「生きる」ことなんだとパパは思う。生きることの目的は、「生きるゲーム」のルールを発見することにある。いつでも変わっていって、決して捉えることのできないルールをね。
会話形式でベイトソンと示唆的な議論を繰り広げた少女は、実はベイトソンの実の娘で、再版された『精神の生態学』の序文にも登場している。
今の時代は、思想家が到達した考えの要点を簡潔にまとめたテキストや虎の巻が好評であるようだが、その種の企画は人間の知のステップスを戯画化するものでしかない。グレゴリーの後期の書き物には、その種の要約を受けつけない、流動性と遊びの精神にあふれている。死後、彼の思想も、ポストモダニズム、社会構成主義、オートポイエーシス第二次サイバネティックス等の名を冠したパッケージの一部に収まりはした。こうした、いわばブランド派思想のゆゆしき点は、それを「着用」するわれわれが、その種の要約にはもりきれない、原典のテクストの輝きと豊かさを目の当たりにする機会がごっそり失われてしまうところだ。
どこに少女が登場したか、気付いただろうか。実は、この序文の筆者こそが、グレゴリー・ベイトソンの実の娘であり、学術的研究家にまで成長したメアリー・キャサリン・ベイトソンその人なのである。これはちょっとした感動話ではないだろうか。
この感動的な結末を記事の結びにしようと考えていたのだが、なぜこの記事を書き出したのかをふと思い出したので、もう少し続けたい。
昨晩、「Aは真実」「Aは全部嘘」「Aは嘘だけど、深い理由がある」の三つの矛盾するメッセージを受け取って、論理階型は同じではあるものの、このトリプル・バインドにどう対処すべきかを思い悩んで、ロスに直面しつつ「途方に暮れる」思いに沈んでいた。
そしてベイトソンを再読しているうちに、その柔軟性と遊び心に触発されて、知らず知らずのうちに膝をポンと叩いていた。蒙が啓かれる啓蒙の音がした。
「可能性の数だけ平行世界がある」かのごとき、エヴェレットの多世界解釈を信じており、「わくわくエネルギー」で平行世界間を移動できると説くバシャールを半ば信じている虚構莫迦は、このような考えに至ったのである。
「Aは真実」だけがある並行世界へ移動してしまえばよいだけの話なのでは?
念のため、at a loss の語源で loss に直面していた犬に、こう訊いてみた。
「Aについての命題はいくつ必要だと思うかい?」
犬は即座にこう答えた。
「ワン!」