知る→Can I ?

 本人が悪いわけでもないのに、死後も「ひっぱた」かれたり、数コマの漫画の中で論破されたりと、草場の陰で多忙かつ不遇の立場を送っているのが、丸山真男だ。

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(4コマ漫画は以下のサイトから無料ダウンロードして、誰でも引用して拡散できるよう配慮されている。http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/japan-taboo)。

おそらく2017年の新書ベスト1であろう著作の内容については、以下のサイトでその概要を知ることができる。ちなみに自分は、上記4コマ漫画の中では、「反丸山」の立場だ。

記事を読んだら、ぜひ書店へ立ち寄って、『知ってはいけない』を手に取ってほしい。え、これって本当なんじゃろか?と思わず声が洩れてしまうほど、章題だけでも凄い文言が並んでいるのだが、そのどれひとつとして、「嘘・大袈裟・紛らわしい」からはほど遠いところにある実証的かつ衝撃的な知見ばかりだ。

第1章 日本の空は、すべて米軍に支配されている
第2章 日本の国土は、すべて米軍の治外法権下にある
第3章 日本に国境はない
第4章 国のトップは「米軍+官僚」である
第5章 国家は密約と裏マニュアルで運営する
第6章 政府は憲法にしばられない
第7章 重要な文書は、最初すべて英語で作成する
第8章 自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う
第9章 アメリカは「国」ではなく、「国連」である 

 さて、丸山真男は元々思想史が専門なので、戦後約70年経ってようやく矢部宏治が成し遂げた外交文書に基づいた偉大なる実証的分析が、丸山がなすべき仕事だったかどうかは疑問が残る。

自分が育った小学校を訪れると、かつて遊んだ鉄棒や雲梯や運動場が、縮小コピーをかけたかのように小さく見えることがある。同じように、21世紀の現在から振り返ると、丸山真男という「知の巨人」が、時代の寵児であり東大法学部教授という知の頂点にいた思想家としては、案外背丈が小さく見えてしまうのも確かだろう。

その理由は、ひとことで言えば、そういう時代だったのだ。

もちろん、有名なサイデンステッカーの丸山への酷評に基づいて「基本的に何を言っているかさっぱりわからず、日本国内以外ではまったく通用しない文章」だと断定してもかまわないと思うが、丸山真男の文章は思想家のそれとしてはさほど読みにくいとは言えず、圧倒的数的優位の「戦後派」と大衆の反権威主義をかさにきた吉本隆明に、「喧嘩」で大敗したにもかかわらず、海外への翻訳点数は丸山真男の圧勝だった。

丸山真男の主要な業績についての客観的視座からの論文としては、米谷匡史の「丸山真男の日本批判」(『現代思想』1994年1月号)が良いのではないだろうか。記述は客観的だが、当時存命していた丸山真男を意識して書かれている部分も散見されて面白い。

巷間、丸山批判としてよく俎上にあがる「西洋の物差しで日本を測定して合わないものを批判しているだけ」という進歩文化人批判の文脈にある矮小化も、実は主として吉本隆明による喧嘩応酬上の「創作」に起因しているようだ。

実態は少し違う。最初期の「超国家主義の論理と心理」においても、確かに西欧の近代に範を取ってはいるものの、 なされているのは明治を肯定した上での昭和の否定だ。(むしろその典型的な批判に読まねばならないのは、知的にも劣位にあった戦後の日本で、西洋を摂取しうる能力者と非能力者との間にあった、権威的金銭的資源の格差だろう)。

 そこで描かれる「近代」は、普遍史的な発展段階論における近代として想定されており、可能性としての日本の近代からの退行として超国家主義が批判されている。

 米谷匡史が丁寧に跡づけている丸山の日本思想の推移はこうだ。

単線的な発展段階論にもとづいたファシズム批判 → 伝統から近代への進化過程で、前者の抵抗性が失われ後者の反動性が横溢する逆説的問題への思考 → 「つぎつぎになりゆくいきほい」に代表される(やや矛盾や限界のある)日本の「古層=執拗低音」の剔抉(中途挫折)。 

 丸山の思想が、戦争直後に熱狂的に迎え入れられた「超国家主義の論理と心理」以来、それにふさわし複雑化と進化を遂げていたことは、ほぼ間違いない。無論、それらが戦後社会で過大評価されていたことや、丸山自身の完璧主義からくる寡作もあって、真に「日本のサルトル」とは言い難い部分があるにしても、あの時代のトップランナーとしてはずば抜けて誠実で俊敏な論客だったように感じられる。

 米谷匡史は丸山真男の思想への批判の足がかりとして、戦前のいわゆる「近代の超克」路線へのコミットメントの少なさを挙げている。そのポスト・モダン的なありようが容易にプレ・モダンと野合してしまう難点に対して、丸山が「日本はいまだ近代に達していない」との立場から、近代化貫徹のみによって抵抗したことに、(近代主義者でありながら)近代批判の種子も胚胎していたのにもったいない、という趣旨の批判を行っている。

その周辺について、そういえば過去にこんな記事を書いたのを思い出した。

丸山真男が、単線的発展段階論を克服して、複雑な諸領域の交錯として思想史を再構成しえたなら、それは簡単に視野に入っただろうことだし、敗戦を真近に控えた1942年にそのようなポスト・モダン的妄言に酔っていた十数名より明らかに優っていたことが、ただちに批判材料になるとも思えない。

むしろ、丸山真男個人の思想の是非よりも、時代の「知」や「権勢」の布置のダイナミズムを読む方がはるかに面白く、ブルデューの文化社会学に近い場所からアプローチしたこの新書の方に、自分は圧倒的な読み応えを感じてしまう。 

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)

 

丸山真男からは離れるが、戦前に丸山らを「容共教授」「学匪」などと激越に糾弾して、敗戦とともに自殺した蓑田胸喜(「狂気」との漢字もあてられた)の学歴と到達年次(蓑田は4年遅れの東大卒だった)をもとに、社会での権威的金銭的資源の争奪戦でのポジショニングが、思想上の「逆張り」を生んだ、とする分析はとても面白い。思想という「様々な意匠」が、自身の人生上の来歴を差異化し正当化するために選択されると言い直せば、現在にも充分に通じる話だ。(「新しい教科書をつくる会」周辺のネオ・ナショナリズム系論客の経歴を参照せよ)。

 このような知識社会学的知識人論的観点に立つと、インターネットが普及してデジタル・ネイティブのネット民の連携性が高まり、情報格差の縮小や高等教育の普及が進んだこの国で、言論のありようが大きく変容しているのが見えるのは自然なことだ。

矢部宏治が、先の丸山真男批判につづけてこう書く言葉を、自分はその文脈に置き直して、全面的に肯定したい。

 丸山のように飛びぬけて優秀な頭脳を持つ必要も、際立って高い社会的地位を持つ必要もありません。

 ただこれからは私たちはできるだけ、「頭で思ったこと」ではなく、「調べたこと」を持ち寄って、重要な問題をみんなで話し合っていきましょう。

 おそらく、そこから新しい時代がはじまります。

その章の最初で、矢部宏治は、自身が編集者として世に送り出した孫崎享の名著『戦後史の正体』の冒頭を、こう紹介している。

「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも八月十五日とはいいません。かならず九月二日という答えが返ってくるのです」

 続けて矢部は、「世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である八月十五日には何の意味もない」と述べる。世界の常識では、日本が降伏文書に調印してポツダム宣言を受け入れた9月2日が「対日戦勝記念日 Victory over Japan」であるのに、無条件降伏の印象を緩和するため、あるいは敗戦の事実を否認するかのように、関連の薄い8月15日を、敗戦ではなく「終戦」記念日と呼んでいることに言及する。

この思想的位相は、加藤典洋敗戦後論』や白井聡『永続敗戦論』と同じだ。

もし自分がひとこと付け加えるとしたら、世界の常識からいうと八月十五日には何の意味もないとしても、戦後を生きる日本人としては忘れたくない意味があること。

敗戦後の焼け野原の日本を思想的トップリーダーとして牽引して、この国を近代化すべく尽力した丸山真男の命日が、やはり八月十五日なのである。

もう一度『知ってはいけない』の章題を再読してほしい。この国にあるべきものがないもの尽くしで、ほろりと涙がこぼれそうになってしまう。日本は近代国家ですらないのだ。丸山真男的な何かは時代の移り変わりとともに終わったとしても、「近代、未完のプロジェクト」は道半ば。折り返し地点にすら達していない。いまだ実現していない丸山真男の夢と同じ夢を抱きながら、私たちは進んでいかなければならない。

『知ってはいけない』で日本の「占領状態」を「知る」段階に達した人は、ひとこと「Can I ?」(できるだろうか)と自問してほしい。この国でこれからも生きようとする人にとっては、本当はこの新書のタイトルは「知るっきゃない」なのだから。その問いへの大勢の「同志たち」からのほとんど即答に近い回答は、きっとこうだ。

「やるっきゃない」

 

 

 

(夢が実現すると良いと思う)

Whenever I
Try to tell you everything I feel inside
The words get in the way
And through my heart has tried
Lu lu lu lu lu
I wish that I could sing it to you now...

 

A love song
Like the one I hear before the morning comes
In my dreams it always sounds so clear and strong
Lu lu lu lu lu
I wish that you could hear it too somehow

 

Whenever I
Try to show you all the love I feel inside
It never seems enough and tears just fill my eyes
Lu lu lu lu lu
I wish that I could say it better now

 

I guess I want to say that love remains
No matter how time fades away

 

I love you
I love you
Lu lu lu lu lu
I wish that I could sing it to you now
I wish that I could say it better now

 

Love, love, love I sing to you
Love I bring to you