とびっきりのスマイルに間に合えば

何であれデザインが好きな性格だが、あまりブランド物に凝ったことはないし、この記事で紹介した現在の愛車も one million under だったから、デザインが好きで買ったものの、偽物をつかまされたのかもしれない。

それでもディーラーへ出向くと、噂通りの心憎いほどのとびっきりのスマイルで、マンゴージュースをご馳走してくれたりもするから、やはり車は本物なのだろうか。グァバとかマンゴーとか南国系のフルーツの甘さに好みがあるので、ジュースの美味さが本物であることはよくわかる。まあ、それで充分だろう。

じゃじゃ馬の妹は、南国へもアフリカへも兄の自分より先に旅をしていて、モンゴルの平原で馬を乗り回すほどの乗馬好き。神経の太い豪胆な活発さがあるので、涙脆くて繊細な自分とは正反対の性格だ。

修学旅行先で撮ってきた写真の中に、バスの車中で、中学生の妹がいわくありげな表情で瞳を閉じて、唇にポッキーをくわえている一枚があった。てっきり、ポッキーを異性同士が両端から食べ始めて、キスすれすれのスリルを楽しむゲームの光景かと思いきや、妹はバスの車中で深い眠りに落ちて、揺さぶっても起きなくなったらしい。悪戯で口にポッキーを差し込んでも目覚めなかったので、あえなく写真の被写体になってしまったのだとか。

そういえば小学校の頃からどこでも深い眠りに落ちる癖があって、子供部屋が同じだった小学生時代、兄貴の自分はよく悪戯を仕掛けたものだ。一番面白かったのは、寝顔に落書きをする悪戯。おでこにマジックで漢字一文字を書き入れるのが定番だった。もちろんその漢字とは「肉」。小学生だけがする朝の集団登校のとき、友人に驚かれたと聞いて、腹を抱えて笑ってしまったが、時効だ。憎まないでくれ、妹よ。

 或る漫画キャラクターがおでこに「肉」と記している箇所は、スピリチュアリズムでは、俗に「第三の眼」とも言われるきわめて重要な部位。人間の心身のバランスを取るのに、とても大事な場所だ。この記事がうまくまとめてくれている。

記事の筆者が、「第三の眼」だけに着目するだけでは駄目と強調しているのは、「第三の眼」という俗称は、7つのチャクラのうち第六チャクラに相当し、それが第二チャクラ(丹田)との相関性が高いとされているからである。

スピリチュアリズムが苦手な人もいるだろうから、医学的な見地から再確認しておくと、そこにある松果体は幸福ホルモンのセロトニンや睡眠ホルモンのメラトニンの分泌に大きく関与している。

数年前の自分はとんでもない量の電磁波を浴びたせいで、松果体がおかしくなってしまい、各種のホルモン分泌値が激減して、ゾンビみたいになってしまった。社会人として仕事を続けられなくなるかもしれないと思って、散々ネットで情報を探し回った体験が、「裏真実」に目覚める覚醒のきっかけになった。さまざまな方法で松果体をいたわることで、第六チャクラに関わりの深い「勘」は、以後かなり戻ってきた。

レクサスを糸口に話を続ければ、書名にその自動車メーカー名を含むニューヨーク・タイムズ系のジャーナリストの約20年前の著作が、「グローバリズム礼賛」に終始しているのは、1%グローバリストたちによる自集団利益誘導のプロパガンダだったのにちがいない。そんな勘も働くようになった。

 ちょうど昨年来、アメリカ大統領が1%グローバリストの完全代理人ではなくなったせいで、その偏向報道ぶりが国境を越えて周知されつあるところだが、

 それ以前でも、ジャーナリスティックな勘を磨いた情報強者の論客なら、黄金のM型アーチ理論(マクドナルドを有する二カ国は戦争をしない)が荒唐無稽な謬説であることくらいわかるはずだ。

悪評喧しい「近代の超克」の荒唐無稽性だって、そのアメリカ版たる『歴史の終わり』が、ネオコン系の人脈に近いフランシス・フクヤマによって書かれたという事実だけでなく、彼が同じく荒唐無稽な『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンティントンの弟子であり、しかも師匠は師匠で(この記事で書いたように)「最終解決強制収容所」に似たFEMAを創設したという事実だけで、彼らの思想が(悪魔のという形容詞句をつけたくなる)プロパガンダにすぎないことはわかるはずだ。

そのFEMA創設という蛮行を、ハンティントンはNSCでのかつての上司Bとともに行ったわけだが、今ここに招来してしまった恐ろしい固有名詞ブレジンスキーは、堂々と講演の中でこう発言している。彼によるFEMA創設の事実と重ねながら拝聴すべき驚異の発言だ。

 全ての人類史で初めて、人類は政治的に目覚めてきています。これは完全に新しい現実なのです。人類史の大部分において、過去100年間に到るまで、この様な状況になったことはありません。そして過去100年の間に、世界全体が政治的に目覚めました。そしてどこへ行こうとも、政治は社会活動の参加の問題であり、そして、ほとんどの人々は大体世界で何が起こっているのが分かっているのです。世界的な不正、不平等、尊敬の欠如、搾取につい意識的に気が付いているのです。人類は今では政治的に目覚めているのです。世界の主導権の多様化と大衆的な政治的な目覚めという2つの状況が組み合わさると、近年の世界の指導権力であるアメリカ合衆国を含めて、いかなる主要な強国にとっても困難な状況を作り出すのです。

 人類史上初めて、それは全ての人類史上初めてなのです。ほぼ全ての人類は政治的に目覚めているのです。活性化しており、政治意識が強く、相互作用しています。政治的に警告されておらず、混乱、動揺、希望、で相互作用していない世界の最奥のコーナーでは、人類愛のポケットが、少しだけあります。そして、これらの新しい大国、古い大国は、前例の無いいくつかの点で、別の小説の現実に直面しているのです。かつてないほど、彼らの権力の致命率は高くなっている間に、世界の政治的に目覚めた大衆を支配する能力(コントロール)は、歴史的低水準にあるのです。私は一度、あえて辛らつに言います。私は、ほめられて、イギリス外相は、これを繰り返しました。次のようにです。すなわち、これまでの時代では、100万人の人々をコントロールする事は簡単だったのです。文字通り、100万人の人々をコントロールすることは、物理的に100万人を殺すよりも簡単な事だったのです。今日では、100万人をコントロールするよりも100万人を殺す方が限りなく簡単なのです。コントロールするよりも簡単なのです。そしてもちろん、それは、直接の武力行使を伴うものです。

 (強調は当ブログ記事筆者。引用元動画はコチラ)

ブレジンスキーの講演が行われたのはCFR、ハンティントンの論文が掲載されたのはCFRの機関誌『フォーリン・アフェアーズ』。アメリカの「覚醒」した大衆が、CFRとどのように「対話」しているかは、この動画が教えてくれる。

暗い話が続いてしまった。

と、ここで年少の友人たちから「論旨を更新(re-fresh)したまえ」との暗号が届いた。何だ、驚いたよ、いきなり。それも仕方ないか。いつだって、ラブ・ストーリーは突然だ。「imaginative な物書きなら、何を書くべきかは imaginable なのではあるまいか?」と「想像する」の派生語で畳みかけられているような気もするが、暗号の解号ルールを知らずに読んでいるので、それが正しい意味なのかどうかはわからない。

…そうか。今晩、印象的な英単語を少し多めに囁くべき夜に自分はいるということか。そしてそれはたぶん、夜空と星々が静かすぎるせいなのだろう。

 

こういう晩はいつのまにか虚構の中に迷い込んで、恋愛小説の主人公のような台詞を囁かないように注意しなくては。以前も喋っている間に知らず知らずのうちに虚構の中に迷い込んでしまったことがあった。現実と虚構との境目をつい見失ってしまうのが、自分の悪い癖だ。でも今晩は大丈夫なはず。

 

そういえば、ここまでの書きかけの記事で、それと知らずに one million という言葉に英語と日本語の双方で二度言及していた。

 

恋愛をどうとらえるかは人それぞれだとしても、one million の数限りない異性の中にいる一人が、one in a million になる極端な倍率による縮小があることだけは確かだ。どうして、そんなにも極端な倍率の縮小が生じるのか。その理由を手早く「運命」と呼んでもかまわないし、実際その極端な耽溺を許す何物かにふさわしい名は、それしかないような気もする。

 

倍率が急速に縮むとき、one in a million の異性は縮むのではない。抵抗しがたい力で自分を抑え込みにきて、ちょうどキスするときの眼前の相手のように、急拡大した圧倒的な存在感でこちらへ覆いかぶさってくる。きっと、そういうときに囁かれるフランス語が Tu me cache le monde.(きみがぼくから世界を隠す ≒ 世界できみしか見えない)なのだろう。

 

恋が世界を隠してしまうなら、「永かった、とても永かった」、そう呟きたくなるこれまでの経緯こそが運命だったとしても、それも後景へ隠してしまうべきだろう。もっと早くあなたと…

 

偽の死亡宣告のもとで、20代を放縦に燃やし尽くしたせいで、そのあと辿りつくべき場所へ向かって、自分は気の遠くなるようなあいだ苦闘に苦闘を重ねざるをえなかったので、ずいぶん焼きが回ってしまったことは否定できない。もはや fresh とはいえない flesh を imaginary でない現実の空間へ運んで、そこで微笑み交わす相手と初めて出逢ったなら、出逢ったのはまさに初めてなのに、思わずいつか伝えるべき場所で伝えようと準備していた台詞を唇から洩らしてしまいそうだ。

 

「こんなろくでなしのぼくに会うのを、ひとり明るく美しく、ずっと待っていてくれてありがとう」

 

そう呟いてしまったあとになって、それが状況にふさわしい台詞だったかどうかを慎重に吟味する余裕もなく、ただひとことが自分へ返ってくるのをひたすら待っている自分に気付くことになるのだろう。

 

 「Well done」

 

OK。恋愛小説のクライマックスをあれこれ考えるのは、これくらいにしておこう。きっと時間はまだまだ充分にある。手を伸ばせば互いの手と手がつながる距離で、とびっきりのスマイルを交わし合うのに足るくらいの時間は、きっと充分にあるはず。

 

 真情の失せた imaginary でしかないものを、双方が同時に双方から掛けない限り、この i は永遠に消えないのだから。