愛だろ、愛

本人が影響を受けたと公言しているジャン=ピエール・リシャール(と未邦訳の誰か)についても、デリダによる完膚なきまでの批判からリシャールを救いたいとどこかで蓮実重彦が記していたことを知りつつも、彼は絶対にリシャールで割り切れるような存在でないとの確信は揺るがない。

(…)

というわけで、「リシャールに影響を受けたというのは嘘」「ドゥルーズの『差異と反復』との関連を探ってくれ」という走り書きには、未邦訳のフランスの文学者との影響関係も含めて、探索を続けていくべき道筋としての確かさがありそうだ。

本邦初、時代を画する括目の蓮実重彦論の書き手としては、フランス語が堪能で、フランスの現代思想に通じていて、文学にも一家言を持っている人物が最適のような気もするが、いかがだろうか、というのが、今晩のフレンチのメインディッシュだ。  

おかしいな。今日も早朝の5時から、こうやってキーボードに向かっているというのに、少しも朝の目覚めが「フレンチ天丼的」じゃない。はっきりわかるように宛先を書いてメッセージ入りの壜を流したつもりなので、日々の仕事(例えば、休日なしフルタイム)の傍らでさえブログ日参更新主義を墨守すべきと主張する方なら、数時間で軽く書き飛ばして、パブリック・ドメインに素晴らしい論考を贈与してくださるはずなのだが。

世にはいろいろな性格の人間がいるものだ。

常人ならいざ知らず、常に状況からポジティブなものを引き出そうとしてしまう自分は、こういう一種の「逃亡」を貸借対照表に正確に計上して、事態がより円満な解決に向かうことに資するのなら、それも悪くないと感じてしまう性格だ。鳴かぬなら、なるべく早く、いっそ今日終わってしまえ、トラブルよ。 

批評あるいは仮死の祭典

批評あるいは仮死の祭典

 

 さて、蓮実重彦の批評をどう文脈づけるかという主題に話を戻すと、同じ問いは、リシャールとドゥルーズとの間の振幅をどう読み解くか、と言い換えられそうだ。

「処女作はその作家のすべてを孕んでいる」というよく聞く箴言が、蓮実重彦のような巨大な存在に該当するかどうかはともかく、その処女作でドゥルーズとリシャールが同じく論じられていることに、注目せずにおく手はない。

 自分の世界観を変えた一冊を言えと言われたら、たぶんこの一冊になるのだろう。蓮実重彦の処女作『批評、あるいは仮死の祭典』。読んだのは20歳か21歳で、ニューアカ・ブームの残滓漂う当時では、遅い方だったと思う。

今朝読み返して、これは凄い、抱腹絶倒の面白さだというのが最初に来た印象だった。

各文学者への論考とインタビューから成るこの一冊は、後年気配を消すことによって、相手からご機嫌な饒舌を引き出すことに徹するようになった名インタビュアー蓮実重彦の面影はない。

世界最先端の綺羅星のような知性たちに、胸を借りるような衒気いっぱいの意気込みで、正面からぶつかっていっているのだ。おそらくその辺りの事情には、上記拙記事に書いたこのような事情があるのだろう。

 実は天沢と蓮実重彦は東大仏文の同級生。二人とも、フランス系知識人の登竜門と言われる難関のフランス政府給費留学生に選ばれている。フランス政府が留学費用を負担してはくれるものの、当時の渡仏は何と一ヵ月の船旅だった。

 実際、ドゥル―ズの回答文をもらった翌日、おそらく帰路もベトナム号で、蓮実重彦は帰国の途に就いたらしいのだ。そのような胸を借りる「出稽古」の戦績を簡単にまとめてみよう。

ドゥルーズ

(問いがあまりにも難解なので、なぜそのような問いになるのかを、蓮実重彦が先に一方的に喋る。→ 後日ドゥルーズが書面で回答する。両者の間の雰囲気には緊張感がある)。

「あなたの問題は大そうむつかしく、大そう難解です」

 

ロブ⁼グリエ:

(インタビューは快調。対等な感じで話が弾んでいる)。

「(バルトを疑似科学的に信奉する人々が腹立たしいという蓮実の発言を受けて)、まさに、そのとおりだ」

 

フーコー

(とにかくフーコーが饒舌。乗っているフーコーに、蓮実重彦が「フーコー的な思想上のトポスは『図書館』と『劇場』の間に『砂浜』が広がっているのでは?と問うと)、

「これは非常に興味深い問題であり、かつまた質問の方法というか、それを述べる方法は大そう聡明にして巧妙でもあり、これに答えざるを得ないわたしとしては、当然のことながら困惑してしまう」

 

バルト:

(バルトが礼儀正しく控えめでエレガントなのが目立つ。『テクストの快楽』出版前なのに、バルトを記号論側ではなく解釈論側へ引き寄せて「愛の人バルト」を蓮実が引き出そうとすると)、

「まさにおっしゃるとおりです。あなたの炯眼ぶりには驚き入るほかありません。これは大変な批評です」

 べらぼうめ、何という化物なんだ、この35歳は。

  さて、蓮実重彦の批評を、リシャールとドゥルーズとの間の振幅のうちに、どう文脈づけるかという問いを再びここで問うと、実は答えは以外にも明確なのだ。『批評、あるいは仮死の祭典』の諸論考、諸インタビューの中で、最も初期に書かれたのは、「批評、あるいは仮死の祭典」と名付けられたリシャール論なのである。

ところで、21世紀から見たバルトの世評はさほど芳しくない。そのような死後のバルトをどのように救い出すかについて、蓮実重彦ほど委細を尽くした丁寧な言葉を駆使した人間は、他に世界にいないだろう。

読み返して感動的だったのは、蓮実重彦によるバルト擁護の繊細さだった。「肯定的感性」「浅さ」「犠牲」等々の概念で、誤解の泥にまみれやすかったバルト像を綺麗に拭き上げて、思いもよらない表面の模様を浮かび上がらせる手腕は、やはり「見事」という紋切り型の一語に尽きるだろう。しかし、同時に、その論旨はバルトについてではなくバルトを使って語られており、サルトルの「終わりを語りたがる紋切り型の欲望」からフーコープルースト、バルトとつなぎつつ、バルトの果たした「犠牲」という概念を梃子に、構造主義的言説群が共通して持つ「始原を語りたがる紋切り型の欲望」へ論じ至るさまは、世界的知性だけが描きうる知的高峰へと到達しているように感じられる。 

そして、リシャールとバルトの関係でいえば、リシャールはバルトに乗り越えられた「さらに過去の人」という思想史的位置づけが一般的だ。

後進の人間たちがリシャールを肯定的な文脈で語ろうとするとき、たいてい言及するのは、バシュラールの弟子であるという人脈論的関係の前書きと、その批評のたとえようもない繊細さと、作品年代順を無視した弁証法的統一性のある作家の「進化 / 深化」の物語提示だったりする。

否定的な文脈での言及も一時期は活発だった。

フランス国内の文学史でいうと、以下の書物に収められたデリダによる(ルッセと)リシャール批判が有名だが、リシャール自身はフーコーからの称賛も得ており、デリダの矛先はむしろ構造主義寄りのルッセの方へ向いている。 

エクリチュールと差異 (叢書・ウニベルシタス)
 

 リシャール的な主題論的批評にとって、手痛い批判となったのは、マルクス主義者テリー・イーグルトンによるアメリカ発の批判だったのではないだろうか。

フランスで『言葉と物』が大評判となったように、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』はアメリカの文学研究者の間で聖典のように爆発的に読まれた。それが日本へも飛び火して、わが指導教授を巻き込む形で、文学理論を扱った本がベストセラーになるという空前絶後の珍現象を出現させたことは、ここに書いた。

テリー・イーグルトンはベンヤミン読みでもあるから、もう少し柔らかくてもかまわないと思うのだが、リシャール的な主題論的批評について、こう斬り捨てている。

観念論的・本質論的・反⁼歴史的・形式主義的・有機体論的タイプの批評であり、現代の批評理論のすべてに共通する盲点、先入主、限界をことごとく純粋培養したもの

このようなリシャールの限界に対して、 蓮実重彦が無自覚だったわけではない。「『一体化の批評、対象没入の批評』の領域にとどまる人である点も、かなり明らかな事実であるといえるだろう」とあっさりと記し、リシャールの理論的劣位を認めながらも、なぜ処女作でリシャール擁護に立つのかを、このように述べる。

(…)ジャン=ピエール・リシャールにわれわれが共感を示さずにいられないのは、そこに語られている事実を承認するからではなく、またその企てが遭遇するだろう予見しうる限りの困難さと、その克服の過程で生みだされてゆくだろう新たな困難さとが演じるはずの息をのむドラマに惹かれるからでもなく、書かれている言葉が、周囲をうめつくしている別の言葉の群れに向かって投げかけるに違いない真実と虚言、否認と肯定、連帯と離反の網の目がかたちづくるだろう錯雑したフォルムに魅せられて、すでにリシャールのものでもなく、またわれわれ自身にも属することのない言葉の異様な輝きに向かって疾走しはじめている精神と肉体とを、もはや何ひとつおしとどめる術を知らないからにほかならない。

当たり前だが、読者として愛好する批評家リシャールと合一したい、などという未熟な欲望が語られているわけではない。事態はその言葉の発信者がリシャールであるかどうかを問わない。言葉を書き、読むことの現場では、言い換えれば、エクリチュールとレクチュールの現場では、読み手と書き手が、いつのまにか意識を接して溶融し、誰が書いているのか誰が読んでいるのかわからない没入現象が生じるし、そこに言葉の魔力がある。通俗的に言い換えれば、ライターズ・ハイとリーダーズ・ハイという体験に逃れがたい魅惑があるのだ。

その言葉への魅惑を、かなり前に「酒」の比喩で説明しようとしたことがある。 

 しかし、ひょっとしたら、この辺りの機微が通じない種族、比喩を続ければ「酒に酔えない体質の種族」がいるのかもしれない。「酒の最大の魅惑は酔いにある」がごとき最強にちがいない蓮実―バルト的なテーゼに対抗するかのように、エクリチュールブルデューハビトゥスに近い概念だと説明する人もいて、本当にそんなことが主張可能なのかなと眉に唾をつけたくなる。もちろん、エクリチュールという概念ひとつとっても、バルトとデリダでは大違いなので、概念の多様な提示があってもかまわないとは思うが。状況論的な必要があれば、時間を作って図書館で調べてみたい。文学や批評にまつわるパブリック・ドメイン上の情報を、さらに豊かにさらに正確にすることに貢献してみたい気持ちがある。

さて、処女作をリシャール論から始めた蓮実重彦が、一般にリシャールについて語られるている肯定的文脈を、30代半ばではるかに先に進めたことに、最後に言及しておきたい。

処女作の書名ともなった「仮死の祭典」を含んでいるのは、この一節。

「名づけられないもの、不可能と死の中に身を沈める」とリシャールがいうものは、まさにこの言葉による幽閉者がみずからうけいれる「間断なき失神」のことなのだが、それは、無限の言葉が音もなくからみあい、息をのむような絵模様を不意に織りあげては跡かたもなく消し去ってゆく虚ろな言語空間で、詩人が、批評家が、そして読者までが加担してくりひろげられる壮大な仮死の祭典でもあるのだ。

(…)

 リシャールにおける「深さ」profondeur の主題、あるいは「多孔性」poreux 「浸透性」permeabilite などの副主題がその真の階調を響かせはじめるのは、沈黙が重層化し、死の瞬間があてもなく引きのばされ、愛戯にふける当事者たちが抽象名詞の「愛」へと変貌しつくす過程においてなのだ。

(…)

 愛とは、個人が個人のありのままの姿で存在することをやめ、しかも「一つになった生命の鼓動がそこに続いているというそうした肉体の相互浸透なのである。愛は、一方を相手の中に埋没させることより、二人ともを、もはや名前さえ識別しかねる肉の中にともども埋没させるこっとに秀でているのだ」。

 リシャールがあまりにも繊細緻密にマラルメを読み取るとき、二人の声が相互浸透しているように聞こえるのは、有名な話だ。

上記の引用部分で、後期バルトとほぼ同時に到達した世界的な最先端の地点で、まさしく蓮実重彦自身がリシャールの声と相互浸透しながら語っているのは、そのような相互浸透が「愛」と呼ばれる体験であり、エクリチュールとレクチュールの溶融する場そのものが「愛」となりうることの尊さだろう。

彼らの世評の「理論的劣位」にもかかわらず、自身がドゥルーズのような世界的思想家と30代半ばで伍する知性を持っているにもかかわらず、世界の前衛から追い払われたリシャールに手を差し伸べ、「犠牲者バルト」を繊細な手つきで救い出そうとする蓮実重彦の批評的挙措にあるのは、莫迦げたパブリックイメージの「偏屈老人」とは真逆の、「愛の人」の挙措にほかならないのである。

 

 

 

 

Love is real, real is love

Love is feeling, feeling love

Love is wanting to be loved

Love is touch, touch is love

Love is reaching, reaching love

Love is asking to be loved

Love is you

You and me

Love is knowing

we can be

Love is free, free is love

Love is living, living love

Love is needing to be loved