辞書をめくって decency を

普段から、知らないうちに口笛を吹き始めていることが多い。「口笛を吹くと蛇が出る」からやめるよう注意されることもあって、自分は口笛を吹いているときに蛇に遭ったことはないものの、その俗諺が本当なのかどうかは気になる。

蛇が出る小説にそのような描写があるかどうか探してみた。

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)

 

 ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。

 (…)

 蛇を踏んでしまってから蛇に気がついた。秋の蛇なので動きが遅かったのか。普通の蛇なら踏まれまい。

 小説の一行目でもう蛇を踏んでいるので、この小説には口笛を吹いている余裕がまったくなかった。考えてみれば、そもそも女性はあまり口笛を拭かないものだ。

『蛇を読む』は女性の芥川賞受賞作の中では、世界観と文体の完成度が群を抜いている。新人なのにすでに老成している部分もあって、文芸ジャーナリズム上では、女性らしさを前面に出す典型的な女流作家としての印象が強調されるきらいがあるが、(大人気作『センセイの鞄』など)、本当は自分がここで未熟なパロディを披露した内田百閒と系譜がつながっている作家だと思う。

遺憾ながら、こちらの修士論文の序論によると、川上弘美については、先行研究が少なかったり、その読み方や解釈が混乱したりしているようだ。いわゆる「川上弘美論」は一冊しか上梓されていない。

この理由の一つは、男性の文芸評論家や研究者が、「男性作家を論じないと元気が出ない」かのようなファロゴサントリスムに支配されているせいもあるだろう。世に流通している小説の数の男女差、評論の数の男女差、文芸評論家の数の男女差を定量的に分析すれば、対抗すべきファロゴサントリスムを知るはずの希少な種族が、自分たちの足元すら見えていないことが露わになってしまうのではないだろうか。誰かやってみては?

その論文のどこかに、「未婚女性+異類」という図式が示されていた。その物語図式は、プロップの『魔法昔話の起源』が「男の子物語定型」なら、このブログで何度か言及した「女の子物語定型」に関わりが深い。

川上弘美の小説に感じる「頭が良い」「感覚が良い」「品が良い」という読後第一印象はその通りだが、さらに進んで、古典的な怪異譚に接近しながら、上記の物語定型を崩すことに腐心しているさまも見逃せない。それでいて、俗世間から隔絶したデタッチメントの優雅に浸っているかと思えば、『神様2011』のような震災後文学の傑作を世に送り出す魂の芯の強さもある。 

神様 2011

神様 2011

 

 個人的に好きな川上弘美の小説は、もうこれは何を措いても『真鶴』だ。なぜか三島由紀夫の小説のそれに似すぎている装丁、「礼」という「零記号」の失踪した夫、沖合で炎上する船、……とこう列挙している今でも、感情の平衡が崩れてしまうのを感じる。

目をつむり、両のまぶたいっぱいに日を受ける。まなうらに、瀬戸内の海がうかぶ。波のないあたたかな海の、沖に漁船が何艘もつらなっていた。

 礼。遠いいつか、あなたとも、会えるのね。

 真鶴の夜の海の、さざなみのたつおもてに、燃えさかる船はしずんでいった。何もないところから来て、何もないところへ戻ってゆく。百(もも)のやわらかな声が遠くでひびき、公園いっぱいに光が満ちた。

 このラストシーンは、自分の「個人的な体験」が反響しているような錯覚にとらわれて、何度読んでも涙があふれてくる。思い浮かんでくる海は、真鶴の接している相模湾ではなく、瀬戸内の海。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と同じく、『真鶴』は、舞鶴市生まれの自分の「関係妄想」を強く喚起する、自分にとって生涯稀有の小説なのだ。

どこかで、この小説を「佳作」と書かねばならない状況にあったことがつらかった。レビューに「最高傑作」の四文字がちらほら見えるのが嬉しい。このような生涯稀有の小説を世界にあらしめてくださった作者に、ただひたすら感謝したい。

真鶴 (文春文庫)

真鶴 (文春文庫)

 

 

* 

 

いまさりげなくアステリスクを置いた。「個人的な体験」からつなげて書くと、実は大江健三郎の『個人的な体験』は、ノーベル賞作家の代表作として称賛される一方で、発表当時から、アステリスク記号で区切ったあとの「大団円に似た日常回帰」が不要だと、あちこちから批判を受けてきた。

 通常の審美眼からすると、アステリスク以降はない方が小説としての収まりが良いように感じられる。大江健三郎自身もそのことはあっさりと認めている。

もちろん小説のできとしていまも最後の部分に問題があるなって感じは持つんですよ。  

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

 

 では、三島由紀夫江藤淳亀井勝一郎から批判されても尚、大江健三郎がアステリスク以下の幸福な結末を残すことで守ろうとしたものは何なのだろうか。

大江健三郎の語彙でわかりやすく言い換えると、批判者たちが立っているのは「クライマックス」側、大江健三郎が立っているのは「アンチ・クライマックス」側。そこに政治思想的な対立があることを、大江は亀井勝一郎の経歴を「戦中はナショナリスト、戦後は仏教に深く入った批評家」と語ることで示唆している。

つまり、クライマックス側が右派で、アンチ・クライマックス側が「終わりなき日常」を肯定する左派なのであり、その左派的な倫理を貫徹するために、小説的感興を犠牲にする形であのように作品を仕上げたと仄めかしているのである。

この辺りの事情は、クライマックス側にいた二人、『憂国』の三島由紀夫と『妻と私』の江藤淳がどのような死を遂げたのかを想起するとわかりやすい。政治性は間違いなく芸術作品上を貫通しており、プライベートの「個人的な」事柄にまで貫通している。フェミニズム界隈で声高に言われる「個人的なことは政治的なことである」とは、至言なのだ。

では、三島や大江の作品を右や左で色づけしながら読めばよいかというと、事態はまるで逆だ。

 上記の本では、大江健三郎の『セヴンティーン』に対して、三島由紀夫が「大江っていう小説家は、実は国家主義的なものに情念的に引きつけられている人間じゃないんだろうか」とコメントした事実が記されている。ここで見なければならないのは、「左⇔右」の往還ではなく、「性⇔政」の間にある往還だ。 

『性的人間』という小説を持つ大江は、そのあとがきの中で「人間には政治的人間と性的人間がいる」とした上で、自身を後者に位置付けるのだが、その2つは対立概念というより連続概念だろうというのが自分の読み。

いわばフーコーのいう「生ー政治」ではなく、ライヒ的な「性ー政治」が戦前戦中戦後を通じて大きく作用していただろう可能性の読み取りに強く惹かれてしまうのである。

確か、ナチス・ドイツは、規範道徳によって大衆の性衝動を抑圧しつつ、それをファシズムへ向けて発露するよう大衆に誘導をかけていたはず。それをバタイユが「集団的エロティシズム」と呼んでいたような気もするのだが、数十年前の読書の記憶なので自信がない。

 現在では、「障碍者の息子と共生する良心的な戦後民主主義者」と見られることの多い大江健三郎だが、『セブンティーン』『性的人間』前後の中期は、何かに取り憑かれているかのような桁外れの才能を放射していた。世界文学の最前線で、セックスへの国家管理に抵抗しつつ、同時にファシズムにも抵抗した「性ー政治」の化物として、私は大江健三郎を記憶しておきたい。

ところで、その大江健三郎村上春樹も、どこかで decency という単語を推していたような記憶がある。その英単語が、零記号の読みとは別の文脈にある「礼」に通じている偶然を言祝ぎたい。

『個人的な体験』のアルバイト予備校講師が、最後に「忍耐」という言葉を、贈与された辞書で引こうとしたように、自分もその言葉の真の意味を、新たな構えで受け取ってみたいような気がした。

 

 

 

 

Shed a tear 'cause I'm missin' you
I'm still alright to smile
Girl, I think about you every day now
Was a time when I wasn't sure
But you set my mind at ease
There is no doubt you're in my heart now

きみのことが恋しくて涙が出てしまう
まだ微笑むのは大丈夫
毎日きみのことを考えている
まだ自信がなかった頃
きみが気持ちを楽にさせてくれた
いま確かにきみが心の中にいる

 

Said woman take it slow, and it'll work itself out fine
All we need is just a little patience
Said sugar make it slow and we'll come together fine
All we need is just a little patience (Patience)
Mm, yeah

きみの言う通り
じっくりやれば うまく行くから
ぼくらに必要なのは ほんの少しの忍耐だけ
ゆっくりやれば うまくやっていけるから
ぼくらに必要なのは ほんの少しの忍耐だけ

 

I sit here on the stairs
'Cause I'd rather be alone
If I can't have you right now, I'll wait dear
Sometimes I get so tense but I can't speed up the time
But you know love there's one more thing to consider

階段でじっと座っている
ひとりでいる方がましだから
今すぐきみに会えなくても きみを待つよ
時にはつらくなるけれど 時を早回しにはできない
考えていることがひとつあるのを きみも知っているはず

 

Said woman take it slow and things will be just fine
You and I'll just use a little patience
Said sugar take the time 'cause the lights are shining bright
You and I've got what it takes to make it
We won't fake it, I'll never break it
'Cause I can't take it

きみの言う通り
じっくりやれば うまく行くから
きみとぼくはただ我慢してゆっくりやっていけばいい
ゆっくりやればいい 光が明るく輝きはじめているから
ぼくらには成し遂げる力があるから
ごまかしたり 壊したり
そういうのは このことには許されないんだ

(…)