ダイアモンドは傷つかない

 窓を開けて、と言うなり女は弾かれたようにハンドルに斜めに突っ伏して、白い3連円 のメーターパネルに透明な睡液の糸をぴゅっと吐きつけた。ハンドルが狂って車体が路肩に跳ね上げられ、その縦揺れにやや遅れて、女の唇の端から垂れた糸が、宙空に伸びやかに優美な曲線を描く。しかし女が全身を波打たせて怯える猫のようにずくまったのは一瞬のことで、さつきから、ずっとよ、と言っては幅吐を手で押し戻し、腐った血の臭いが、と唇の端から垂れさがる唾を細い手の甲で拭いあげて、不意の嘔吐の訳を告げ終わるまでには、6年前にユーラシア大陸を共に横断した頃と渝らない、背骨の伸びた気品ある居住まいを取り戻していた。

こんな風に小説の冒頭を書き出したことがある。仏文系純文学では、会話表現を直接話法的に鍵括弧で括ったり、間接話法的に地の文に織り込んだりと、両方を適宜使いこなすのが常套的手法。といっても、技法上の創意工夫より、主題上のこだわりが強く出た書き出しだ。思い入れのある主題とは「嘔吐」。

 この場面を書くためだけに、サルトルの嘔吐、レヴィナスの嘔吐、大江の嘔吐、三島の嘔吐、セリーヌの嘔吐を探索した。邦訳のないセリーヌの嘔吐の調査は難航した。書いたのは(ジャン⁼ピエール)リシャールでござーる。

Nausée de Céline

Nausée de Céline

 

 自動車の中で女の子が嘔吐することは滅多にないだろうし、あったとしても描写すべき場面ではないにちがいないが、二人が乗っている車はフロントにトランクのあるドイツ車ビートル。そのトランクに死体が入っているせいで、冒頭からこのような展開になるわけだ。ドイツの代表的な国民車については、この記事に少し書いた。

 車中に路彦の声が響いている。兜虫(ビートル)はフォルクスワーゲン製で… 作ったのは反ユダヤ主義のフォードに心酔していたアドルフ… あのヒトラー?… そう… ヒトラーが「国民車(フォルクスワーゲン)」を提唱して、ポルシェ博士に設計させた… 国民から大々的に前払いを募って… あまりにも独裁者らしい姦計…  預り金のすべてを軍用ジープの製造に流用した… 騙された国民は?… 時代は秘密警察(ゲシュタポ)のうようよいるナチス政権下だ… 直後、第二次世界大戦のドイツ軍による侵攻… 真新しいジープの群れが隣国との国境を走り越えていった… 

ヒトラーの詐欺に加担したフォルクスワーゲン社は、戦後の60年代くらいまでずっと訴訟を抱えていたらしいよ。戦時中に強制労働させた強制収容所の労働者や捕虜には、今世紀に入っても補償を続けている。まったくnot so long agoな話さ」

滅多にないはずの車中での女の子の嘔吐。

自分には、忘れたいのにどうしても忘れられない悲しすぎる事件の記憶がある。ネット上にまだ残っているかどうか、今から探しに行くことにしよう。

ネット上にあった殺人犯によるブログは、閉鎖されてしまったようだ。その一部を掲載したものなら見つかった。

 2007年に起こったいわゆる「名古屋闇サイト殺人事件」。あれからもう10年もたったのか、との感慨を禁じ得ない。被害女性は亡くなったのに、犯人が生き延びて、遺族の気も知らずに、事件の詳細をあれこれブログに書いていたことに、強い義憤を感じたのを覚えている。

著名なノンフィクション・ライターが書いた本が見つかったので、購入して今ざっと目を通した。 

いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件

いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件

 

 もともと車にあまり強くない利恵が、閉じ込められている閉塞感や車の中の空気の悪さなどが相まって耐えられなくなってしまいつつあった。そのことを神田に告げた。

「吐きそう……」

 それを聞いて川岸は慌てた。とにかく車内で吐かれたくないと思い、車を停められる場所を探した。 

このノンフィクションを推奨するネット記事は、ここで読める。

上記のノンフィクションでも省略されているが、逮捕後の犯人が綴っていたブログには、さらに上記の場面以降の詳細が書かれていた。あれ以降、「車内で嘔吐するかもしれない」が、被害女性が生き残るための唯一の交渉カードとなったのだ。そのカードが何度か出現したのに接して、犯人は「嘘を言ってやがる」「嘘つき姉ちゃん」という罵倒をブログ上で浴びせていた。え? 犯罪被害者の「生命を賭けた嘘」を罵倒する資格が、他ならぬ犯罪加害者のお前のどこにあるんだよ?

 神田と二人になったときに利恵はこう懇願した。

「お願いです。あの運転していた、眼鏡をかけてちょっと汚い感じの人には、死んでも体を触られたりとかレイプとかされたくないです。それだけは約束してほしい」

「ほう」

 そして利恵は目に涙を浮かべてこう続けた。

「私、彼がいるんです」

 おそらくそれが利恵を支えている誇りだった。

 愛する彼のために、どうしても守らなければならないものがある。利恵は心に誓っていたに違いない。そして歯を食いしばって涙をこらえた。

 感傷的な男だと嗤いたいなら、嗤ってもらってかまわない。この後に続く殺害場面の詳細を読んでいて、涙を抑えることができなかった。引用することさえ、とてもできそうにない。腕で首を絞められ、ロープで首を絞められ、40回ハンマーで血しぶきを散らしながら殴打されて絶命するまでの間に、被害女性が残した声だけを記録する。

「殺さないって言ったじゃない」

「お願い、殺さないで。私、死にたくないの」

「ねえ、お願い話を聞いて」

「殺さないって約束したじゃない」

「お願いします。殺さないで」

(ロープで首を絞められながら)

「やめろぅ」

「殺すなぁ」 

…とても文章を続けられそうにない気分だ。

それでも何とか続けよう。彼女の最期の言葉を少しでも生かすためには、続けなければならない。

比較的最近の現代思想の動向として、倫理ー政治的転回と言われる大きな動きがあることを、この記事に書いた。

そこで挙がっている数々の固有名詞のうち、自分に強く響くのは、レヴィナスデリダだ。下の記事で、レヴィナスの主要概念である「顔」について、少しだけ言及した。

「顔は無言で呼びかける」。

実はこれはレヴィナスという哲学者の有名な概念で、顔は特異な個別的存在で、他人の顔は絶対に自分と同化できない他者性そのもの。「顔」から物語を引き出した自分とは違って、レヴィナスは顔が「責任」を呼びかけていると説く。確かに「責任」は英語で responsibility。直訳すると「応答可能性」だ。無防備に露出された「顔」が「殺すな」と呼びかけているから、responsibility が発生しているという見立て。  

 ところが、レヴィナスデリダとの最初の遭遇は最悪だった。当時のデリダは、自分の部屋で思索を練り上げるというより、あちこちに道場破りに出て、それをもってフランス哲学界の序列の階段を駆け上ろうとしていた新進期だった。あのフーコーにさえ噛みついているし、ここに書いたリシャールへの批判も同じの時期の話だ。

 フランス国内の文学史でいうと、以下の書物に収められたデリダによる(ルッセと)リシャール批判が有名だが、リシャール自身はフーコーからの称賛も得ており、デリダの矛先はむしろ構造主義寄りのルッセの方へ向いている。  

自分の理解では、レヴィナス存在論関連のフッサール理解に不徹底な隙間が空いていたので、そこをデリダに付け込まれたという感じだと受け取っていたのだが、午前中の読書で、内田樹によるこのまとめに遭遇して、蒙を啓かれた。例によってきわめてわかりやすいのに、正鵠を射ている要約だ。

 存在論批判をそれと知らずに存在論の語法で行うことの危険。『全体性と無限』のあとに、レヴィナスを嬉々として引用する存在論者たちという逆説にレヴィナスは思い至ったのではないだろうか。『存在するとは別の仕方で』はだから書かれねばならなかった(おそらくその危険性をいちはやく告知したのがジャック・デリダの『暴力と形而上学』の功績なのだろう)。

となると、レヴィナスデリダの対決に気を取られることなく、その周辺の思想的渦から何を引き出せるかを考えなくてはならないだろう。自分の選好に基づいてレヴィナスを語ると、圧倒的に非対称なもとでの「神や死につながる他者性」の概念と、歴史の裁きが無視し侮辱する場所に残る物言わぬ異邦人や寡婦や孤児の顔のイメージに強く惹かれる。

「太平洋の飛び石3つ」で以下のように書いたのは、上記のようなレヴィナスの私的な最良の部分がリベラリズムと接合しているからだ。

ロールズ以降の政治哲学研究者の中には、例えば「レヴィナスは神学的なのでその他者論は採らない」と眉を顰めるような発言をして、アメリカ⇔フランスの間にある断絶を強調する研究者もいて驚かされるが、(他者論はレヴィナスだけのものではないし、私見では、リベラリズムの基底を考えるとき「偶有性」と「他者性」は不可欠)、(…) 

 逆に、レヴィナス以後の場所で考えなければならないと感じるのが、マイナス方向には、レヴィナスの「シオニスト」たる側面の再評価。

プラス方向では、圧倒的に非対称な他者性の概念が、実は対称性にも浸透されているという事実(「顔」が「顔」となるのは対面者が互いに裸出している限りにおいてだ)を出発点にして、「偶有性」を媒介に、どのように複数化し、どのように共同体の制度設計で生かす道があるかを探ること、ということになるだろうか。  

レヴィナス存在論の哲学者なので、共同体論への発展は(バタイユだけでなく)レヴィナスの友人でもあったブランショが受け持っている形だ。読み進めていくべき方向性の一つは、そちらだろう。

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

 
明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

 

 ただし、途中で言及した「名古屋闇サイト殺人事件」のように、現代思想なんか吹っ飛んでしまうような社会の暗すぎる闇に対しては、はるかに実践的な「雪かき仕事」が必要だと考えている。

少し前のニュース番組をキャプチャしながら、あの事件の背景にある社会状況をうまく説明しているサイトを見つけた。

この事件の直後から、自分が注目していたのは、紀藤正樹弁護士の動き。上記の数人のパネラーの意見をいま見比べても、彼の主張が抜群の正当性を持っているように感じられる。

まず、保護法益や法的正義だけの抽象論に終始していないところが良い。さらに、テレビでは触れられていないが、背景にこのような犯罪現場を知り抜いた実践的な思考があることが伺えるのが良い。

「有償犯罪行為の募集」を仮に法的に規制したとしても、適用要件の設定が難しく、隠語などで抜け穴をくぐらられる可能性が高い(立法効果が低い)。さらに、言論の自由の一部を規制することにもなるので、大きな抵抗も予想され、法案成立も難しい(立法可能性が低い)。

紀藤弁護士の云うような職安法の簡単な改正なら、法案成立は比較的簡単だし、(テレビでは触れられていないものの)、過去に類似したケースの成功例もある。

紀藤氏は、2002年の古物営業法の改正と03年に施行された出会い系サイト規制法によって、違法なネットオークションと出会い系の“闇サイト”が減ったことを踏まえて、職業安定法(以下、職安法)の改正による犯罪を
誘発する闇サイトへの規制を提案する。

大崎善生の『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』の冒頭、事件の取材を担当した新卒の女性記者の対応に紙幅が割かれているのは、面白いアイディアだと思う。

東京の大学を卒業後、地元の中日新聞社に入社し、研修期間を終えたばかりのことだ。(…)最初に接したのが〝名古屋OL闇サイト殺人事件〟、つまり本件だった。(…)小椋が上司から命令されたのはインターネット掲示板の監視。掲示板の中には何の根拠もないと思われる、被害者への誹謗中傷や、想像による事件現場の再現など読むに堪えない書き込みで溢れていて、それを見ているだけで本当に気持ちが悪くなった。いつもそうだがなぜこのような掲示板は被害者いじめの方向へ進む傾向があるのだろう。 

 そのように「良識ある」感想を持つことができる新米記者でさえ、こんな大きなミスをしてしまう。

思わず「被害者には油断があったのではないか」と原稿に書いてしまい、それを上司に叱責されてしまったことは特に印象に残っている。

 とりわけ犯人が明確に見えない状況では、大衆は批判の向けどころを見失って、被害者を批判しやすい。これは、社会心理学上の用語を使うと、「認知的不協和の非合理的解消」と呼ばれる現象だ。どこかで啓蒙的な論調でこう説明したことがある。

 しかし、往々にして、犯罪加害者ではなく、犯罪被害者へ非難が集中するという不思議な現象が発生することがあります。それが「犯罪二次被害」となることもあります。

 大枠では「認知的不協和」という概念で考えるのが正しいでしょう。

 たとえば、母親が夜に買い物をしていて暴漢に襲われ、子供が誘拐されたとします。

 すると、「母親が目を離したのが悪い」とか「夜に買物をするのが悪い」などいう世間からの非難が、しばしば加害者ではなく被害者に集中することがよくあるのです。

 母親はきちんと子供を見ていたのに、暴漢に腕力がかなわなかっただけかもしれません。母親が夜に買物をしていたのは、共働きのせいで仕方なかったのかもしれません。

 この種の事件で、加害者ではなく被害者がバッシングされるのは、世間の人々が、認知的不協和を非合理的に解消しようとするからです。

認知的不協和 - Wikipedia

①「子供は守られるべきだ」→②「なのに、子供が誘拐される酷い事件が起きた」→③「事件にストレスを感じるし、ウチにも子供がいるので強い不安を感じる」→④「でもウチは、しっかり子供を見ているし、夜に買物したりしないので、これは襲われた親が悪い」

③が認知的不協和の状態、④がその非合理的解消です。④は、無意識理にストレスを解消する「反射」のようなもので、多くの人々が平気でやってしまう自己奉仕型の偏見の一種です。

「ダイアモンドは傷つかない」というフレーズを、若い頃にどこかで目にした。もしそのフレーズを、「自分はダイアモンドのような先天的な宝石なので、まったく傷つかないほど強い」のような自己愛型の解釈で読むと、鼻持ちならないイケ好かないヤツの妄言にしかならない。

待って。「ダイアモンドは傷つかない」は違う解釈で読むべきフレーズだろう。

本当に宝石のように brilliant に輝いているダイアモンドは、その輝きが自分自身が発光しているのではなく、周囲に満ちている諸々の光が自分を輝かせてくれているというい事実を知っている。そして、周囲の光を反射させて、別の存在を輝かせられることを知っている。宝飾用のダイアモンドに似た種族が、いつも自分を支えてくれる周囲へ感謝を絶やさないのはそのような理由による。宝飾用のダイアモンドを目指す人は、ぜひそちらの道へ進むと良いと思う。

自分が近づきたいのは、工業用のダイアモンド。普通の人なら簡単に折れてしまうような苦難の道行きで、まだ折れずに生き残っているのは、こんな体験の渦中に14年間もいる自分を目撃することで、周囲のダイアモンドの原石たちに、外皮に貼りついた夾雑物をこそぎ落してほしいから。

それが最上のポジティブな学びになると思うのなら、これまで苦しい思いをさせてしまった友人たちに限っては、自分に二次加害を加えてもらってかまわない。常人よりはタフで優しくできているから、それくらい全然平気だ。

この凄惨なトラブルに巻き込まれてしまった人々が、さまざまな人々と出会い、さまざまな出来事を体験することで、魂を切磋琢磨させて、どうか本来のダイアモンドの輝きへ到達しますように。

 

 

[追記]

被害女性を二度レイプしようとした加害者は「被害者は最後まで毅然としていた」と公判で語ったという。この記事に少しでも輝きがあるとしたら、それは最後まで暴力に屈しなかった彼女のダイアモンドの輝きによるものだろう。