デジタル時代の Think, Think, Think!

自分の人生が凄まじい展開を見せていて、眩々と眩暈に襲われることも、しばしば。神々のシナリオは本当に先読みできないことばかりで、ジェットコースターに乗っているような心地だ。

どうやら昨晩、「スリッパの使い方が気に喰わない!」という素っ頓狂な難癖をつけられて、言論者として抹殺されることが決まったようだ。ただ、それも暗号づてに聞いただけなので、それが正しいかどうかはわからない。

ただつらつらと考えてみるに、「スリッパ」問題による言論封殺圧力が、「棄てろ、立派感の追及欲!」を示唆する暗号かもしれない可能性は、考慮しておく必要がある。「限界状況における挫折の中に暗号が潜んでおり、その暗号を解読することによって超越者の存在を確信できる」とはヤスパースの哲学。彼に電話して「スリッパ」がどんな暗号なのか、訊いてみたい。

いずれにしろ、中央の出版媒体によって権威づけられたいという「立派感の追及欲」なしに、立派な活動をしている Truther な人々は、例えば上記記事中の兵頭正俊のようにたくさんいるわけで、あのような生き方に憧れるところのある自分が、あの記事を書いたときと同じく、鹿児島へ旅行したいとの欲望を抱いているのは確かだ。

 三島由紀夫の最高傑作は世評では『金閣寺』と『春の雪』ということになっているが、スリッパと言えば、『金閣寺』に面白い禅問答がある。いま読み返してみると、スリッパではなく靴だったが、意外にも「棄てろ、立派感の追及欲!」にそのままつながっていたので、紹介したい。

南泉斬猫」は(…)むかしから難解を以て鳴る公案である。
  一山総出で草刈りに出たとき、この関寂な山寺に一匹の仔猫(こねこ)があらわれた。ものめずらし さに皆は追いかけ廻してこれを捕え、さて東西両堂の争いになった。両堂互いにこの仔猫を、 自分たちのペットにしようと思って争ったのである。

 それを見ていた南泉和尚は、惣ち仔猫の首をつかんで、草刈鎌を擬して、こう言った。 「大衆道(い)ひ得ば即(すなは)ち救ひ得ん。道(い)ひ得ずんば即ち斬却せん」

 衆の答はなかった。南泉和尚は仔猫を斬(き)って捨てた。
 日暮になって、高弟の趙州(ちょうしゅう)が帰って来た。南泉和尚は事の次第を述べて、趙州の意見を質(ただ)した。

 趙州はたちまち、はいていた履(くつ)を脱いで、頭の上にのせて、出て行った。

 南泉和尚は嘆じて言った。

「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児(こ)も助かったものを」

――大体右のような話で、とりわけ趙州が頭に履をのせた件(くだ)りは、難解を以てきこえている。
 しかし老師の講話だと、これはそれほど難解な問題ではないのである。
 南泉和尚が猫を斬ったのは、自我の迷妄を断ち、妄念妄想の根源を斬ったのである。非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を絶ったのである。これを殺人刀(さつにんとう)と呼ぶなら、趙州のそれは活人剣(かつにんけん)である。泥にまみれ、人にさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩道(ぼさつどう)を実践したのである。

 老子はこのように説明すると、日本の敗戦には少しも触れずに講話を打切った。私たちは狐(きつね)につままれたようであった。なぜ敗戦のこの日に、特にこの公案が選ばれたのか、わからない。   

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

「老師」の解釈に奇異なところはない。惑わすものを殺して自己の絶対的権能を顕示する「殺人剣」があれば、自らの権威を寛容にも犠牲にして「生かす」菩薩道の「活人剣」がある。同じシューズボックス内の物体に関わる「棄てろ、立派感の追及欲!」が後者であることは、論を俟たない。

 個人的には、また吹き寄せてきたな、というのが、第一感の感想。今年の1月からスピリチュアリズムに傾倒している自分は、今生のテーマが「「殺人剣」ではなく「活人剣」の操り方を習得せよ」だと伺っている。これは数日中にメールを書かねばならない展開なのだろうか。

 「棄てろ、立派感の追及欲!」について我が身を振り返れば、ドゥルーズ的な水平性に親和的な自分は、そんな欲求に支配されたことはない。「立派感」を帯びているかどうかより、本当に「立派」であるかどうかが大事で、本当に「立派」であれば、それにふさわしい社会的評価は、或る程度は自然についてくるのではないだろうか。過大評価や過小評価の偏りがつきものだとしても、その高低を云々しつづけるには、人生はあまりにも短すぎる。

というわけで、立派感を追求しようとして書くわけではいささかもないが、2005年くらいに、自分が三島由紀夫の『文化防衛論』をもじって、右派的な思考リソースを用いて「情報防衛論」を考えてみるべきでは、とした問題提起は、かなり当たっていたような気がする。

 そんな感慨を覚えたのは、増補版が新たに出た堤未果の『アメリカから〈自由〉が消える』の新たに加筆されたこの部分を読んだから。 

かつてナチスドイツは、政府が指定する二局以外受信できないラジオを八〇〇〇万台配布し、国民の意識を操作した。

 二十一世紀の情報空間は、オンラインプライバシー規制の外にいる、フェイスブックやグーグルのような、ひと握りの巨大企業が支配する。

 それを誰よりもよく認識し、彼らの情報支配を受けない国の代表と言えば〈フェイクニュースの出どころ〉としてしょっちゅう批判されるロシアと中国だろう。両国ともに国民は、自国のハイテク企業が運営する検索エンジンを使っているからだ。

 最近ではベトナムがあとに続き、SNS検索エンジン国産化に力を入れ始めた。

 ブラジルはNSAがアクセスできないよう、アメリカ国土を経由しない海底ネットインフラの建設を進めている。

 自国の電話会社とフェイスブックの提携を禁じたインドの例が示すように、情報の国取り合戦もまた、今後ますます激化してゆくだろう。 

増補版 アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

増補版 アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

 

 国家の最重要機能であるはずの「安全保障」分野について、軍事防衛しか頭に浮かばない人々は、たぶんどうかしている。エネルギーや食糧や資源など、安全保障の国家的責任が及ぶ分野は多く、当然のことながら、情報分野もそれに含まれる。

2005年頃に自分が「情報防衛論」を提起したとき、期待を寄せていたのは、そのとき次世代ネットワークだと持て囃されていたNGNだった。 

3時間でわかるNGN(次世代ネットワーク)のすべて

3時間でわかるNGN(次世代ネットワーク)のすべて

 

いま手元に参考書があるが、詳しく読んでいる時間がないので、簡単に説明すると、NGNはインターネットと共存するネットワークで、国内の電話回線インフラの発展形であるため、日本人にとっては、NGNが国内旅行、インターネットが海外旅行のようなものになるはずだった。海外旅行(ネット)でないと楽しめないアプリケーションが多々ある一方、国内旅行(NGN)でもそこそこいろいろ楽しめるし、何よりも安全性や信頼性や犯罪追跡性に優れているので、国内旅行(NGN)で済ませられるものは国内で済ませるような社会になるはずだった。

2005年に抱いていた自分の希望の星はどうなったのだろうか?

2006年から7年にかけて、さんざんコラムに書いたり講演で話したりしたのですが、今や自分がNGNをどう定義していたのかさえ、うろ覚えです。 こ のHPのバックナンバーを検索すると

  1. 音声、データ、モバイル等のIP統合。
  2. インターネットにはないセキュリティ、QoSの保証。
  3. 多様なアプリ ケーションを容易に実現。

 この3点がNGNの定義だと私は思っています。」という自分の定義がありました。
NET&COM2007 NGN 間違いだらけのネットワーク作り(472)

 この3点でNGNがどうなっているかをまとめると、

  1. 固定電話はIP電話の普及が進展、しかし、携帯電話は回線交換のままでIP統合は未実現。  
  2. フレッツ光ネクストをNGNサービスの典型とするとIPだけどセキュリティ、QoSがきちんとしており、NGNらしい。
  3. 多様なアプリケーションはモバイル・インターネット、固定インターネットを中心に発展。NGNならではのアプリはTVくらい。 

 ということで、NGNは期待はずれな状況と言わざるを得ません。特にNTTのNGNは光ファイバー主役で考えられていましたが、光ファイバーは完全に モバイルに主役の座を奪われました。ワイヤレス・ブロードバンドが100M時代を迎えたこれからは、ますますこの傾向に拍車がかかるでしょう。 

NGNはどうなったのか?(732)

 キラーコンテンツのはずだったFMCとIPTVは不発。NTTの戦略的展開力の不足をあげつらうのはたやすいが、最大の障害は、安全保障上の問題なのに国家が主導しなかったことだろう。

国産検索エンジンについての古い記事では、官僚の側に「国防」の意識自体は存在したことがうかがえるので、アメリカ初のインターネットに対抗した形の国民向けネットワークの「国防」性を意識できなかったはずはない。

欧州などで検索技術に注目が集まっているのは、国防上の問題もありますが、それ以上に情報社会技術の根本に関わる問題だからです。

 堤未果のいう「情報の国取り合戦」でも、敗戦、もしくは不戦敗を、私たちは喫しなければならないのだろうか。

先日書いた記事で Radiohead の「creep」をカバーしていた Daniela Andrade が素敵だったので、調べてみた。

オリジナル曲のPVも短編映画仕立てで、綺麗な仕上がりになっている。 

Lately I've thought about us,
And my mind plays this game where it trusts,
Every word that you said,

 

My memory serves to save

 

I like this digital age,
Where we're set to be forward in state,
if I could code me a hologram,
It'd be shaped like you,

 

My twentieth first century love,
There's nothing that could get across or between us,
My twentieth first century love,
There's nothing that we could dream of that couldn't be done

 

I drawn a plan with the moon,
It involves outer spacing with you,
We could build our own graves,
And give ourselves names like stars, stars

 

People would fly out to see,
Empty pockets and pay good money,
Cause it's our nature the dish would be king,
Beneath the rainbow curve

 

I'm inside already inside,
I was a bit early,
sorry I was just going to text you,
Can you come over to my place instead?
why didn't you say so,
i don't feel super well,
what's going on?
I think we should talk in person.

 

My twenty first century love,
There's nothing that could get across or between us,
My twentieth first century love,
There's nothing that we could dream of that couldn't be done

「21世紀の愛では、私たちの愛を邪魔するものは何もない」「21世紀の愛では、夢見ることができないものは何もない」というサビの歌詞が、日本人にはどこか切なく響く。楽天的なテクノロジー肯定の讃歌をカナダ人の彼女が歌う背景に、日本人があまり知らないメディア・リテラシー教育の充実があるからだ。

それを裏書きするように、Daniela は第三連で「I like this digital age, where we're set to be forward in state(私はこのデジタル時代が好き。この時代、この国は、私たちに前を向かせてくれるから)」と歌っている。

厳密に言えば、ネットワーク・インフラへの批判的思考とは異なるが、カナダのメディア・リテラシー教育は、国境を超大国と接しているせいで、格段に発達していることはよく知られている。

図書館で本を借りる時間がなかったので、カスタマーレビューを引用する

カスタマーレビュー
5つ星のうち5.0 教育関係者は必読
投稿者yamamoto2008年7月6日

 この本で紹介されるカナダの先進的な事例に大いに啓発されると同時に,考えれば至極あたりまえのことをなぜ日本の教育者がやっていないのかと後悔される.自動車が増えれば交通安全教育が必要になるように,メディアの影響力が強まればそのプロパガンダからの防衛教育も重要になるのだ.
 もし日本で同じようなレベルのメディア・リテラシー教育が行われていたとしたら世の中は全然違っただろう.「自己責任」というコピーに代表される資本主義過激派のプロパガンダに騙されることも少なく,劇場政治がこれほど暴走することもなかっただろう.そして若者が社会や政治へのまともな関心を保ち,まともな政府が選べたはずだ.
 驚くことに,この本は大学院の博士論文に加筆したものだという.白眉は最終章の,教材として扱われる「カルチャー・ジャム」に関する部分だ.この先端的な部分を紹介すれば,他の穏健な部分のレベルがどの程度かも想像できよう.ここでは都市空間がメディアとして対象になる.「カルチャー・ジャム」とは,「広告のメッセージをドラスティックに変える目的でそれをパロディー化したり乗っ取る行為」.この運動の推進者は「アドバスターズ」という雑誌も出し,街頭実践も行っている.
 この活動家たちは,「マスメディア,あるいは都市というメディアを介して発せられる宣伝のメッセージに対抗し,公共の空間において黙殺され続けている不平等なコミュニケーションのあり方を告発する」ために,パロディー広告や街の壁への落書き,さらにはコンピュータへのハッキングまでもやる.そしてその活動が教科書で紹介されている.そして,「誰が都市景観を所有しているのか? 広告主か,あるいはその地域の住民か? 人々が目にするものを,誰が決めるべきなのか?」という問いを生徒に投げかける.(…) 

カナダのメディア・リテラシー教育

カナダのメディア・リテラシー教育

 

 (処女ブログで言及した一流の社会学者の或る本にまつわる話を思い出さずにはいられない。あれから14年か…)。

 フェミニスト風に言えば、個人的なことすべてに政治性があり、あらゆる芸術作品の基底に政治性があり、都市空間のコミュニケーションにも政治性があり、デジタル・メディアの基底にも政治性がある。「どの政党が…」というような世界大国家大の大文字の政治だけではなく、例えば隣人どんな優しさを与え、どんなものをもらって、それをどんな表現に変換するか、といった半径数メートルのささやかなものも含めて。

高度情報社会が私たちに要求しているメディア・リテラシーの習得とは、構造主義以降の現代思想の豊かな資源を、その対象を文学や哲学から、文化や社会全般へわかりやすく噛み砕いて拡大していくプロセスなのかもしれない。そうかどうかもわからないまま、処理せよ(process!)との掛け声に追いまくられて、think, think, think! な時間を過ごしている日々だ。  

村上春樹全作品 1979?1989〈7〉 ダンス・ダンス・ダンス

村上春樹全作品 1979?1989〈7〉 ダンス・ダンス・ダンス