sweet home をちょっと覗き見

 70年代のアメリカのテレビの番組に「ソウル・トレイン」 というノリノリの音楽番組があった。あんな風に自然な躍動感で踊れるのは、アフロな種族に備わった天性の能力なのだろうか。自分はとてもあんな風に踊れそうにない。 

ただ、どうしてだかアフロ犬が大好きで、このブログのアフロ犬が特に可愛らしく感じられる。自分がかつて飼っていたような錯覚に囚われて、つい昔の日付の記事を覗きに行ってしまうほどだ。

この写真の壁飾りは真剣に欲しいな。しかもこちらの動きに合わせて顔が動くのか。絶対に欲しい。どこで売っているのだろう。

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(ペット用の通過穴から顔を出したところ?)

そして、近年似たようなアフロ頭でテレビ出演して、アフロ業界をざわつかせたのが、元朝日新聞記者で、電気代月150円生活を送っている稲垣えみ子。

コラムはこちら。

動画はこちら。

夜は無灯火、冬は火鉢で、電気代は月150円。「誰でもできる個人的脱原発計画」なのだという。

原子力ムラとほぼ絶縁することに成功した意義深い生活スタイルだとは思うものの、あそこまでロハスナチュラルであることは難しい。多くの人々はそんな感想を持つかもしれない。エアコン好きの自分も、見習うのは無理だと嘆息してしまう。

ひとつヒントになるのは、働きかけても「発送電分離」が進まないのなら、「電民分離」を進めてしまおうという動きだ。すでに数多くの大規模会社が「割に合わない」という理由で自家発電施設を導入し、結果的にその自家発電コストとの競争が働いて安いまともな電気料金を勝ち取ったことが参考になる。

電力会社という巨大なシステムから、自分や家族を引き離すこと。それを「電民分離」と呼んで、上の記事で少しだけ言及した。

簡単ではなさそうだから、発送電分離をもう少し調べてみようと思い立って、2冊の本にざっと目を通した。

初心者は、専門用語の少ないこちらの方が読みやすいかもしれない。

電力自由化 ―発送電分離から始まる日本の再生

電力自由化 ―発送電分離から始まる日本の再生

 

 「発送電分離は切り札か」という書名を読むと、一瞬、旧態依然たる電力会社の回し者なのか、と色めき立ってしまうが、この筆者の分析の精細さと専門性は確かだ。巷間、議論がそこで終始しがちな「垂直統合のまま」か「発送電分離」かという二項対立を冒頭で呼び出しておいて、「その対立図式は議論の初歩にすぎませんよ」と軽くいなしている書名なのだ。 

発送電分離は切り札か: 電力システムの構造改革

発送電分離は切り札か: 電力システムの構造改革

 

 著者は、おそらくこの分野の日本第一人者なので、「垂直統合のまま」か「発送電分離」かなどという高校サッカーのような熱い戦いには、クールに構えて加わろうとしない。むしろレフェリーのような立場にたって、無味乾燥とも感じられる冷静な筆致で問題の所在を明らかにしていく。しかし、冷静な淡々たる筆致だからこそ、くすくす笑ってしまうという事態も充分にありうる。

自分が笑ってしまったのは、序章の以下の記述だった。急いでいる人は、私が付けた強調部分に目を通すだけで目を通してもらいたい。

 電気をコメにたとえてみよう。東日本には関東米穀、東北米穀、北海道米穀という3社があり、 それぞれが自らの地域にコメを独占供給していて、これら地域内ではコメは地産地消されている。 また関東米穀には関東水田、関東物流、関東宅配、関東米店という部署があり、一貫供給体制で関東地方の住民のコメ需要を予測してコメを生産し供給している。
 関東、東北、北海道でそれぞれたくさんコメがとれ、供給に問題がない場合には消費者には何も問題がないだろう。また人口が増え続けている場合には、安定供給を行うという面において、この地域供給体制にメリットがある。
 しかし地震津波で東北地方に借りていた関東米穀の水田が被災し、関東地方の消費者に運ぶコメがなく、関東では消費制限がかかったとする。すると、とたんに関東地方は深刻なコメ不足に陥る。関東地方の消費者は関東米穀からしかコメを買えないからだ。関東物流は被災していない関西
地方など関東水田以外の水田からのコメを輸送することができない仕組みになっている。つまり供給に偏りができた場合や、消費者が「別の種類のコメの選択」を望む場合には、画一的な供給一貫体制は大きな危機をもたらす。
 関東物流は自社米である関東水田のコメを大型トレーラーで運ぶための会社であり、関東水田のコメを運ぶためにっくられ、運営されている。したがって、自社以外の生産農家からのコメを運ぶかどうかは、関東物流のトラック運行に都合がよければ「ついでに運んでやるぜ」ということにな る。これを電気の世界では託送という。
 さらに関東物流は東北物流とは親会社が別の会社なので、お互いの地域をまたぐ流通量を増やすという動機がない。関東物流と東北物流はたまに行き来はするが、お互いの親会社の供給テリトリーを守るために接続業務には消極的である。もしもこの物流会社が全国ネットでコメを運んでくれ ていたら、関東地方のコメ不足は解消できた。物流部門が広域で需給調整できるからである。

 東日本には東京水田以外の稲作農家や東北水田や北海道水田など、数多くの水田があり、それぞれにブランドを付け、銘柄を誇るように工夫して生産することもできる。これが生産者の競争となる。それぞれにコストが違うが、それは消費者の選択である。さらに新種米(新エネ)も流通でき る。この点では「とにかく急いで単一ブランドを量で確保」という一貫供給体制は現代の消費者ニーズに合っていない。
 電力の垂直統合型の一貫供給体制をやめて構造改革を行う意味は、物流を水田から解放して需給調整のプラットフォームとし、小売店がさまざまな生産地や生産農家からのコメを「需要家のニーズで」販売するネットワークを提供することにほかならない。そして運輸会社の関東物流がさまざ まな水田と契約してコメを運び、関東米店以外のスーパーにも届けることができるようになる。また、さらに関東物流・東北物流・北海道物流を一体運用させることで流通を広域化、効率化させることもできる。

 そして自由化とは水田と小売店が工夫してブランド米をつくったり、効率的な経営を行うこと、 また関東米店が関東水田のコメだけでなく、東北水田のコメも自主流通米も売れるようにすることであり、さらに新種米(新エネ)のほかにも肉や魚や野菜(ガスやそのほかのサービス)を売って もよいことにする、ということである。それによって消費者の選択肢が広がり、小売店も調達先を 多様化できて商品の安定的な供給につながる。そして何といっても消費者を満足させるためのサービスが向上する。

 垂直統合型と構造分離型はそれぞれの特徴とメリット・デメリットがあるが、今回の大震災被災 による電力供給不足(とコントロール困難であった需給調整)から見たとき、構造分離型と垂直統合型とでは何が違うのかを十分に検証することが重要となる。

 この序章を超訳して要約すると、「食料安全保障の対象のコメで普通にできている簡単なことが、エネルギーの安全保障を振りかざすムラの皆さんには、どうしてできないんですか? 普通にやりましょうよ!」ということになるだろう。確かに、普通の感覚で普通にこんな感想が飛び出してしまう。どうかしてるぜ。

歴史をひもとくと、他ならないGHQが日本に発送電分離を働きかけてた過去があるらしいのだが、詳細は調べていない。 

日本発送電 - Wikipedia

 大事なのは各地域10に分割された電力会社が、実は一本の串で貫かれた「ダンゴ10兄弟」であるという現状の方だろう。その串の名を「電事連」という。 

上の記事で古賀茂明が1999年に「発送電分離」を仕掛けたことに言及した。彼はこの電事連についても、冴えのある裏話を披露してくれている。

 二〇一六年初春、新聞やテレビでは、「電力自由化、どこを選べばお得?」「電力大競争時代」などというタイトルの記事や雑誌が氾濫した。(…)しかし、日本中で夢のような競争時代が訪れると考えたらお間違いだ。

(…)しかし、電力需要の約六割を占めているこの大口契約において、新電力と呼ばれる新規参入組が獲得したシェアは、一〇年経ってもわずか六%程度だった。

 こうした不思議な事態を象徴するのが、福島原発事故後の電力不足への対応だ。原発依存度が異常に高かった関西電力は、原発停止で供給力に不安が生じ、電気料金を二度も値上げした。本来なら供給力に余裕の或る北陸電力などが、関電管内で事業者向け電力販売の営業攻勢をかけそうなものだ。 

 が、そうはならず、関電に余剰電力を「融通」して、関電の供給を助けるといった行動を取ったのである。

 電力業界では、「自由化=競争」とはならないことを端的に示す事例だ。(…)

 これらの疑問に答える鍵が「電気事業連合会」(電事連)と「経済産業省」の存在である。電事連は、大手電力会社が集まって自分たちの利権を守ろうとする団体である。先進国ではありえない地域独占企業の連合体で、存在自体が独禁法違反といえそうな団体だが、任意団体なので、経理内容は会議内容は秘密だ。

(…)電事連の談合組織としての機能は今日も続いている(…)福島原発事故以降(…)大手電力会社が東電抜きの会議を頻繁に開くようになったという。東電には、経産省の役人が現役出向している。電事連の会議では談合の打ち合わせをやったら、東電から経産省に筒抜けになるというわけだ。危ない話をするときは東電を外さざるをえない、ということは、電事連は事実上、東電抜きの談合組織にならざるをえない。  

日本中枢の狂謀

日本中枢の狂謀

 

 10電力会社を串刺しにしていた電事連から、東電が外れてしまったのは、原発事故の道義的責任とは何の関係もなかった。それは単に談合ができなくなるからで、「談合10兄弟」が「談合9兄弟」になった、というだけのことだったのだ。

先行きに困難が予想される「発送電分離」については、まだまだ語りたいことがあるので、稿をあらためたい。

電気代150円はなかなか真似の難しい偉業だ。原子力ムラという巨大システムからどう逃れるかについては、「発送電分離」より先に、むしろ「電民分離」について思考 / 試行を深めておいた方が良さそうだ。

仕事と並行して大学院に通っていた時期、自動車好きで建築好きでもあるので、研究してみたいなと考えていたのが、「スマート・ハウス」の周辺。5年ぶりくらいに検索をかけてみると、さほど進んではいなかったが、重要なブレイク・スルーが二つクリアされているのを見届けることができた。

素人の自分が強調すると変な感じがする。誰でも知っている知識だと思う。住宅建築を設計するときには、光と空気と熱のマネジメントを考えなければならない。この記事に書いた学生劇団の舞台監督だった建築家の先輩は、自邸の屋根裏部分にある太陽で熱せられた空気を、配管で床下へ引っ張って、暖房に使うアイディアをテレビで披露していた。

太陽で暖められた自然な温もりの空気を、子供たちに味わってもらいたくて。 

パリのオルセー美術館も悪くないが、長い間そこに stay し sensitive な子供たちと共生していくのなら、発想が自然にオーガニックになっていくのもわかるし、それを語る寡黙と饒舌が入れ替わりやすい先輩らしい話し方も懐かしかった。番組冒頭で、自分はむしろ、地熱発電の盛んな地方の出身だったらしき彼は、自邸に地中熱を採り入れる発想をするのではないかと想像したくらいだ。 

さて、「スマート・ハウス」の二つのブレイク・スルーに話を戻そう。マーケットが熱くなっているという噂の割には、本もネット記事も散発的な印象だ。その中で面白かったのがこの記事。

「盲点」というよりは「ハードル」といった方が伝わりやすいような気もする。「電民分離」を進めるにあたって、最初のハードルになっていたのが、住宅の電気系統と接続する電気自動車の蓄電池性能だった。

ところがつい先日、裏を探りたい気にさせるものの、大きな衝撃波を波及させたこんなニュース・リリースがあった。

英国のゴーブ環境相は26日、英BBCで「新車販売の禁止により(10年間で)ディーゼル車とガソリン車を全廃する」と語った。26日発表した措置は、排ガスによる都市部での深刻な大気汚染問題や地球温暖化に対応するのが狙い。EVの普及を促すことで、国内での関連技術の開発を後押しする。

(…)

環境意識の高い欧州では、オランダやノルウェーで25年以降のディーゼル車やガソリン車の販売禁止を検討する動きもある。自動車大国のドイツでも昨秋に30年までにガソリン車などの販売を禁止する決議が国会で採択された。法制化には至っていないが、「脱燃料車」の機運が高まっている。 

背景にある電気自動車推進の真の理由が何であれ、これで電気自動車のに加速がつくのは間違いなさそうだ。当然のことながら、中核技術のリチウム電池の高性能化も、さらに進むことだろう。蓄電池の容量は問題なさそうだ。

スマート・ハウスが完成形へ至るまでのもう一つのハードルが、各電源のスイッチングのシームレス化だった。上の東洋経済の記事では、そのハードルをこう説明している。

ところが、積水化学によると、従来のV2Hでは、EVの大容量蓄電機能を十分に生かし切れない難点があった。車から家へ給電する際には、電力会社の系統電力網への影響を回避するため、商用電力を遮断し、瞬時停電が発生する。その結果、家電製品のタイマーがリセットされたり、作動中の家電が止まったりするなどの不都合があった。 

 いわば自宅内に、切り替え時に高性能な変電所をひとつ抱え込まなくてはならないのだが、その変電設備が電源チャンネルを切り替えるときに、「瞬時停電のない」ことが大事なのだ。そのハードルもこの5年の間にイノベーションが乗り越えてくれたようだ。

このようなパワー・コンディショナーにスターリング・エンジン系の発電設備などを簡単に接続できるようになれば、「電民分離」は夢でも何でもない現実的な選択肢になるし、「電民分離」の「電」の部分を極端に絞って、生活水準を半世紀以上前に巻き戻さなくても済む選択肢が生まれる。

発電所は英語でいうと「power plant」。今晩は久々にいろいろと調べているうちに、世界をより豊かな方向へ進められる可能性が開けているのがわかって嬉しかった。ジョン・レノンのこの曲は、本当は「電民分離」について歌ったものだったのではないだろうか。そんな軽口まで叩きたくなる。

さて、ソウル・トレインで始まったこの記事。ソウルとトレインの間に、2つほど英単語が顔を出すような場所を作ってやりたい。2つの単語とは、asylum と runaway。そうすると、Soul Asylum の「Runaway Train」ができあがる。20歳の頃、ギター弾きの友人が練習したいから歌ってくれ、と頼まれて何度か英詞を口ずさんだことのある曲だ。

20年以上経って思い出さねばならないほどの名曲だとも思えないが、この曲の凄いところは、1:06くらいからサビとともに流れる家出少年少女の写真だ。写真は本物の家出少年少女を探すために家族が警察に提出した写真群で、この曲のスマッシュ・ヒットとともに、次々に少年少女たちが見つかったのだ。

runaway train に乗って家出したあとの帰り、home bound train に乗って自宅へ帰り着いた少年少女たちは、元気よく玄関の扉を開け放って「ただいま!」と言い放つことは難しかっただろう。ひょっとしたら、ちょっとした扉の隙間、窓の隙間から、アフロ犬のように顔だけ出して、家の中の様子を窺ったかもしれない。

いずれにしろ、「住宅」という意味だろうと「家庭」という意味であろうと、一人でも多くの子供たちに帰るべき心温かい sweet home があるといいと思う。