湖底のコクトー的流れ星

どのように書き始めようか。

けれど、どんな格好をつけた文飾を駆使しても、自分は自分だ。蟻が永遠に自分の影から逃れられないように。……

思わず下手な比喩を使ってしまった。やれやれ、困ったことだ。そこで、比喩の勉強をしようと思い立って調べていると、比喩の巧い作家としては村上春樹三島由紀夫の名前を挙げるのが、世の中の通り相場になっていることがわかった。

ここ最近は90年代の話ばかりをしている。そういえば、作家ばかりがパネラーになった当時のバラエティ番組で、「静けさ」を表す明喩を、制限時間内でフリップに書くというお題が出された場面があった。真剣勝負で自分も考えてみた。パネラーたちもやらせなしで書いているらしく、回答の比喩の粒はかなり荒かった。

自分が数秒間で考えたのは、「氷結した湖の底のような静けさ」。例によって美と感傷に寄り添った表現だが、自分ではさほど悪くないと思う。いつかどこかで使ってやろう。

 パネラーの比喩が比較されて、誰かが最高得点を獲得した。そのあとに「ちなみに、村上春樹さんは…」と言って司会者が紹介したのが、こんな感じの比喩だったと思う。

 フライパンに油を引いたときのような静けさ。

 どの作品に使われた比喩かは知らないし、記憶で書いているので正確な文言なのかどうかもわからない。ただ、それを聞いたとき、静けさにはやはり「対位法」を使うのか、といった印象論が心中にぽっと浮かんだ。静けさを表現するのに、静かな表現をいくつも積み重ねたら、感覚的に「うるさく」なる。

フライパンは火にかけている料理中はたいてい騒々しいものだ。しかし、その騒々しさを「フライパン」という言葉で一瞬想起させておいて、それを「油を引く」調理前の瞬間へ引き戻せば、「静けさ」が際立つ。なるほど、と当時20代だった自分は膝を打ったのだった。

これもどの作品かは忘れたが、初期の小説で、紀伊国屋のレタスを訓練された兵士に例えた比喩があったのを思い出した。検索するとこれが出てきた。中国語では『舞! 舞! 舞!』という書名になるあの小説。 

 でも僕は紀ノ国屋で買い物するのが好きだ。馬鹿気た話だけど、ここの店のレタスがいちばん長持ちするのだ。どうしてかはわからない。でもそうなのだ。閉店後にレタスを集めて特殊な訓練をしているのかもしれない。もしそうだとしても僕は全然驚かない。高度資本主義世界ではいろんなことが可能なのだ。

 僕は朝のうちに紀ノ国屋に行って、またよく調教された野菜を買った。 

舞!舞!舞!(ダンス・ダンス・ダンス)(中国語) (村上春樹文集)

舞!舞!舞!(ダンス・ダンス・ダンス)(中国語) (村上春樹文集)

 

 紀伊国屋がレタスを売っているわけないだろうと思った人は、漢字をよく確認してほしい。こちらは東京の青山にある高級スーパー。

 引用部分に明確な比喩(明喩)は使われていないが、紀ノ国屋でアルバイトをしている友人を習慣的に車で拾って帰っていた時期があったので、ちょっとした内情を小耳にはさむ機会もあった。

一回の晩御飯の買い物が数万円にもなる高級スーパーでも、社員は必ずしも、というか、決して決して高給取りとはいえない薄給に耐えて、懸命に仕事をしていたようだ。仕事中の社員たちと、客として何度もすれ違ったことがあるので、その言葉に嘘がなかったのは知っているつもりだ。そういう勤勉な社員が、レタスの葉の根元に小さなナメクジがいるとの苦情の電話で呼びつけられて、高級石材を一面に貼り込んだ高級マンションの玄関口で、怒鳴られながら、何度も平身低頭の頭を下げなければならないのだそうだ。バイトから聞いた話なので、話半分に聞いてもらってもかまわないが、Reality bites. 虚構と違って現実は厳しい。

20代までの生命との宣告を受けていた自分は、しかし、そんな現実の厳しさもどこ吹く風、紀ノ国屋から骨董通りへ散歩の足を延ばして、高級家具店めぐりをしてパサージュを楽しんでいた。

 Webを覗いていると、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした椅子に腰掛けてオペラを鑑賞しているところだ、なんていうご機嫌な日本語に出くわしたりすることもあって、ドイツから摩天楼の合衆国へ渡ったあの伝説的なガラス高層ビルの建築家の人気は、この極東の地でもまだまだ衰えていないのだなと感じさせられる。 

 アラサーにもなって、あんな書き出しで記事を書き始めたのは、きっと20代の頃に欲しかったバルセロナ・チェアに未練があったからだろう。

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一人掛けで15万円オーバーは、自分の好きなレンジの買い物じゃない。いつかレプリカが出たら購入を考えようと20代の自分は心に呟いて目を転じ、これなら買えそうだから、好きな部屋に住めたら買おう、と心に決めたのが、この三次元スターのペンダント・ライト。たぶん類似品が多く出回っているはず。

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絵の中の二次元の星はよく見かけるが、三次元のスターは輝きや存在感が違うような気がする。いわゆる作家物ではないが、上記のお店でもパリのアパルトマンが引き合いに出されていることからもわかるように、直観的にいうと、これはとてもコクトー的なライトだ。事実、コクトーのデッサンのラインをハイファッションに織り込んだラインナップでも、スニーカーには星が輝いている。

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 え? またしても、とめどもなく話題が逸れていってるって?

わからないかな、一本の同じ文脈でつながった話をしているのが。村上春樹コクトーは、東西を代表する比喩の巧い文学者なのだ。 

コクトーのずばぬけた詩才については、上の記事に書いた。引用しそびれている礼拝堂の画像を、どこかの旅行者の写真から引用しておこうか。 

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 自分が隠れコクトー好きであることは、この記事でカミング・アウトした。

比喩の巧い作家が比喩の巧い作家を好んで読みそうなことくらいは、誰にでも想像しやすい。記憶だけで書いてしまうと、1996年の対談本で対談相手の河合隼雄は、ある女学生が村上春樹コクトーの主題的共通性で論文を書いたことに言及していたと思う。無名の女学生が根拠にしたのは、初期作品『羊をめぐる冒険』の「☆の斑紋のついた羊」。そこにコクトー・スターの刻印を読んだというわけだ。2017年の現在から振り返ると、鋭い着眼だったのではないだろうか。 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

 

 自分が、村上春樹におけるコクトーからの影響関係に最初に気付いたのは、2002年の『海辺のカフカ』を読んだときのこと。オイディプス神話の一角にLGBTを置いて神話を新しくしようとしているところに、コクトーの『地獄の機械』と同種の趣向を感じ取った。処女ブログにもそのような意味のことを書いた。

それからしばらくして、阿部和重の『ニッポニア・ニッポン』の「鴇」が、大江健三郎の『月の男』に出てくる「絶滅危惧種としての天皇」と重なっており、その文庫本解説の或る文脈が、サルトル『聖ジュネ論』の終章「ジュネ善用の祈り」を踏まえて、「天皇制善用の祈り」を引き出していることと、阿部和重の「鴇殺害事件」がつながっていることを指摘した。

つまり、『ニッポニア・ニッポン』は、上記の記事で言及した『パルチザン伝説』を経由した蓮実重彦文脈と、『月の男』を経由した大江健三郎文脈の両方を「対話的」に引き受けた稀有の文学史的小説だったわけだが、そのようなかけがえのなさには、自分以外の誰も気づかなかったようだ。起こりえたこととすれば、ブログでこの周辺へいくつか言及した自分が「文芸評論家が気付かないことに気付く奴」との栄えある称号を頂戴したことくらい。といっても、それも気のせいだったのかもしれない。

気のせいかもしれないことを怖れず書く覚悟で続ければ、これから村上春樹を研究する後進のために、「村上春樹の対話癖にご用心」という言葉を残しておきたい。

あまり知られていない批評本かもしれない。記憶違いかもしれないが、この本の著者が仕掛けた「探偵ごっこ」に、村上春樹から一種の返答があったことが書かれていたはずだ。

ねじまき鳥の探し方―村上春樹の種あかし

ねじまき鳥の探し方―村上春樹の種あかし

 

 『海辺のカフカ』も、その種の対話が含まれている前提で、読み込むべきだろう。自分がどこかで言及した蓮実重彦対抗の「装置は埋め込まれている」という記述の詳細には、ここでは触れない。上記の拙記事では時間がなくて書き落としたが、蓮実重彦の『小説から遠く離れて』を最短でまとめると、自分の中ではこんな一文になる。

フロイト的三角形から遠く離れて、説話論的観点からドゥルーズ『アンチ・オイディプス』的な「日本的三角形」が露呈しているさまに目を凝らすと、天皇制に関わり深い磁場のもとで、大江健三郎中上健次が闘争線を引いて抵抗しているのがわかる。

今晩考え直していて、2003年の自分も、しっかり読み切れていなかった気がして、ちょっと気恥ずかしい気分になってきたのだ。

村上春樹自身が、どこまでの創作意図をもってあの小説を書いたかは、さほど大きな問題ではない。

周知のように四国の森は大江健三郎の本拠地。『個人的な体験』以降の大江健三郎の反復主題は「障害のある息子との共生」であり、短く書けば「父子関係」となる。その「父子関係」において大江健三郎が「父」の立場に立っているのは明白だが、様々に描かれている「子」のバリエーションのひとつに、ザッカリー・Kという音楽家がいるのをご存知だろうか。

ザッカリー・K・高安(たかやす)
「燃えあがる緑の木」三部作に登場する日系米国人。高安カッチャンの息子。以前「地獄機械」(マキーナ・インフェルナル)というロック・バンドをひきいていた。そのバンドの"Oblivion"(忘却)という曲は、ヒカリの妹マーちゃんのお気に入りという。

ミニ事典本体

ザッカリー・Kが最初に登場するのは、『雨の木を聴く女たち』。連作の中で、主人公は、奔放かつ大胆に引用ばかりを繰り広げるそのロッカーのレコードに接して、新世代の創造の息吹を感じつつも、そのサブカルチャーに深くコミットできない疎隔感を感じる。

海辺のカフカ』の舞台となっている四国の森、オイディプス・コンプレックス、コクトー『地獄の機械』。……

それが自分にとって幸運なことのか不運なことなのかはよくわからない。蓮実重彦の『小説から遠く離れて』の論旨について、一定程度正確な理解を公表していた人物は知らない。

文壇政治的なやや腥い話になる。『海辺のカフカ』というテクスト上でおそらく起こっているのは、蓮実重彦による大江健三郎評価の変化(マイナス→プラス)を前提としないまま、蓮実重彦対抗の文脈で、村上春樹が、大江健三郎による(コミットメント期以降の)村上春樹評価の変化(マイナス→プラス)への「返答」として、主題的接近を図った小説とも読めるのではないだろうか。

主題的接近と言っても、村上春樹大江健三郎と同じような主題で書けばよいと考えたはずもなく、大江健三郎に似ようとしたはずもない。事実、同じ四国の森を描いても、二人の小説群がまったく異なる輪郭を読者に伝えているのは間違いない。

例えば、又吉直樹も絶賛する大江健三郎の代表作『万延元年のフットボール』には、村落共同体が秘めている神話性を梃子に「村ー国家ー宇宙」に通じる革命可能性の追求がった。一方、村上春樹は暴力絡み(それはまたLGBTの発生源ともされる)の父子関係から、個人の内側にある井戸(≒イドid)を媒介に、井戸の底でつながっているユング的な集合無意識へ至った。

異なると言えば、圧倒的に異なる。

しかし、自分が読み直しつつ感じるのは、『海辺のカフカ』で、「共通敵?」の蓮実重彦に対抗言論を組織しながら、コクトー『地獄の機械』を媒介に、12歳年長の大江健三郎の主題論的系譜に「子(≒ザッカリー・K)」としてつながろうとしたときの、村上春樹の孤独の深さだ。大江健三郎が生きた山口昌男的な神話的共同体と、村上春樹が生きたユング的な集合的無意識は、普通に考えれば、思想的懸隔がかなり大きい。それでも目配せを送らずにはいられなかった衝動があったとしたら、それは孤独の深さだとしか言いようがないだろう。

2017年の現在から振り返ると早くも見えにくくなっているが、村上春樹が本格的に世界的な評価を手に入れ始めた時期は、作家のキャリアとしてはかなり遅目だった。現在のように「圧倒的な一強体制」に至ったのは、2010年の『1Q84』を待ってようやくだったとも言われる。

支持派も批判派も誤解ばかり。それでも書き続けなければならないと考え、事実、書き続けたのは、ユングがいう意味での「霊界」にアクセス可能な特異な資質の持ち主だったこともあるが、少数であるとはいえ「壁」を乗り越えて言葉を投げかけてくれる「理解者」に恵まれたからでもあるだろう。

上記の記事で語った丸谷才一には、「新人」村上春樹に対する感動的な逸話がある。

村上春樹の才能を早くから見いだし、村上のデビュー作『風の歌を聴け』を群像新人文学賞において激賞。また、受賞はしなかったが芥川賞の選考においても村上を強く推した。丸谷は村上の受賞祝辞を用意していたが、村上が弔問に行った時にこの幻の原稿を息子さんから見せられた。

丸谷才一 - Wikipedia

丸谷才一村上春樹の間に、唯一無二の絶対的な創作スタイル上の共通性があったとは考えにくい。「壁」っていうものは、いつだって取るに足らない組成成分でできている。初期の村上春樹を受容する側にあった「壁」とは、要するに私小説的な日本文学の伝統から乖離しても尚、英米文学を正確に受容できる能力があるかどうか、といったものだったのだろう。

話題が次々に流れて、何の話をしていたのか、またわからなくなってしまった。若い頃に骨董通りで見つけたライトの三次元のスターの光を感じたいという話だっただろうか。それもあるが、たぶんもう少し広い視野のもとで話をしていたような気がする。骨董好きだけの愛玩物にしてしまうのはもったいない輝かしいものが、この世界にはたくさんあるというまとめでどうだろう。そう断言してしまうと、また話が流れてしまうことになってしまうだろうか。

どうしても星に関するこの話が流れてしまうのなら、この記事が終わるあと数行の間に、読者それぞれの願いを星に託してみてはどうだろう。自分はこの記事の書き始めから、ずっとお願いしている。

返事が来たかって? ほとんど無音で、返事はまだない。まるで氷結した湖の底のような静けさだ。それでもかまわない。明日の晩も同じお願いをするつもり。

 

 

 

(「双子のコクトー」の中でよく聞いた好きな曲。下記の事件の日に買ったCD)。