浸潤し変化せよとクレオールは言う

「高級ブランドでお食事」シリーズは2夜で終わり。ただし、書き足りないことはいくつもあって、その一つが、セカンド・ハーベスト・ジャパンを起業したマクジルトン・チャールズという人の特異な才能だ。経歴からしてとても興味をそそられる。

 創立者のマクジルトン・チャールズCEO(53)は元米軍人で日本にも駐留。神父志願で除隊後、上智大留学時に修道院に下宿し、山谷の路上生活者の支援に携わった。自らも隅田川沿いでの路上生活を15カ月にわたり体験。 

大急ぎで付け加えておきたいのは、自分が「高級ブランドでお食事」シリーズで書いた内容のうち、マクジルトン・チャールズがすでに成し遂げている部分が、かなりあることだ。

Kids Café | こども達の成長をみんなでサポートするカフェ

直営の「こども食堂」をひとつ運営しているし、何より、ボランティアというよりも、ソーシャル・ビジネスの起業家として、イノベーティブな発想を実現しつづけているところが素晴らしい。この人の伝記を書けば、きっと面白いものになること間違いなしだと思う。

まず一つ目が、ビジネスの側面です。食品メーカーや食品輸入業者、または小売店などと接している時、先方は被るかもしれない損害を考慮します。もし届けた食料によって誰かが病気になったら、彼らの扱う商品のイメージは悪くなります。他にも、届けた食料が転売されるかもしれないという懸念もあります。だから私たちはフードバンク事業をビジネスとして捉える必要があります。

もうひとつは、福祉の側面です。フードバンクとして、ビジネスと福祉両方に取り組むことが大事です。他の非営利団体が、企業などがお金を稼いだりお金を節約する手助けをすることは無いでしょう。私たちは片方の足をビジネスに、もう片方を福祉に置いています。 

もちろん、自分が数時間考えて思いつく程度のことは、優れた先人たちがすでに実践していて当然だし、だからこそ、この世界の豊かさを心置きなく愛せるというものだ。

作家の中にも、実際にホームレス体験をして、小説を書いた人がいる。出版社の紹介文から判断すると、たぶんこの小説だったはず。 

 「ゴッホがなぜ耳を切ったか、わかるかい」とそのホームレスの男は僕に日本語で話しかけてきた。ニューヨーク、ダウンタウンのバウアリー。男は、「ここに電話してオレと会ったことを言えば、お金を貰えるよ」と紙切れをくれた。東京のケイコと、パリのレイコと男、恍惚のゲームは果てしなく繰り返される。国際都市を舞台に、人間の究極の快楽を追求した長編小説。 

エクスタシー (集英社文庫)

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 「ゴッホがなぜ耳を切ったか、わかるかい」というのは、たぶん冒頭の一文だったはず。どこか身体毀損に惹きつけられてしまうところのある自分は、村上龍の愛読者で、十年以上前にも傑作小説に条件付き称賛を送ったことがある。 

時に長編小説の構成が竜頭蛇尾であるという揶揄が飛んだりもするが、人々はその四字熟語の上二文字を切り出して、かつて作者が酒盃を傾けていた場と同じくリュウズと読むべきであることをそろそろ発見すべきである。ある小説の主人公が五分遅れた時計を携えて異世界に迷い込み、激しい戦闘の果てに五分時計を進めたように、村上龍が全存在をかけて竜頭をひねり時計を進めていくのを、依然として多くの読者が熱烈に注視しているのも無理はない。なぜなら、その遅れがちな時計はもうとっくに誰かひとりの時計ではないのであり、日本標準時の古陋な時計の竜頭を力ずくでひねって時を進めるのは、紛れもなく龍がなすべき仕事であると誰もが信じているからだ。

これを書き終わったとき、「日本標準時の古陋な時計の竜頭」にあった誤字をさりげなく指摘してくれた人がいたような記憶があって、その記憶を反芻しているうちに隣町から珈琲の香りが漂ってきたが、それは気のせいだろうか。たとえ気のせいであっても、感謝を申し述べておきたい。(ありがとうございました)。

 身体毀損という主題が村上龍の中で極まったのは、この傑作。たぶん10回以上読み通している自分の愛読書だ。 

イビサ (講談社文庫)

イビサ (講談社文庫)

 

海外を放浪する女性が最終的に両手両足を切断されてしまうという破滅的な「旅」の小説だと要約すると、普通の生活を送っている人は怖がってしまうだろうか。身体毀損に執着しつつ、それでもヒロインの手足切断シーンだけは回避して書かないところに、村上龍の血流の温もりがある。たぶんレビューで酷評している読者たちは、マルキ・ド・サドを読んだことがないのではないだろうか。「アクセルを踏み込んでフル・スロットルで書いた」のは事実だとしても、サドの後にサドのように書くのは容易でありながら、サドのように書かずにサド的でないことをどう書くかを自分に欲望させていることこそが、読まれるべきだろう。右足でアクセル板をベタ踏みしていても、作家の左手は巧みなギア・ワークを忘れてはいないのだ。

別の角度からは、ヒロインが正気と狂気の中間地点から出発して、霊能力に目覚めていき、道中の苦難や危機を乗り越えていくのが滅法面白いとも言える。最近自分にも少しだけ霊感が生まれ始めているので、ヒロインの脳内天使ジョエルの周辺を、もう一度読み返してみたい。

イビサ』のどこかにも書いてあったように、実際のイビサ島へ旅しても、あの小説のような破滅的で官能的な何かが待っているわけではない。とはいえ、夏にはEU諸国からのリゾート客が大挙して押し寄せるような島なので、享楽的な遊び場には事欠かない。 6:15くらいから、有名な泡ディスコタイムが見られる。

旅好きなのに、時間かお金か、あるいはその両方が足りない人生を送ってきたので、海外旅行に出かけたことは数回しかない。けれど、外国の旅先の風景や名所や歴史を調べるのには、結構な時間をかけてきたような気がする。ポセイドンの語源となった海藻がランキング外だが、このページはイビサの魅力を上手くまとめていて楽しい。

#1 世界遺産
#2 塩田
#3 バレアレス諸島
#4 格安航空会社
#5 イビサの緑
#6 ヤモリ
#7 レンタカー
#8 ヌーディスト・ビーチ
#9 パエリア
#10 クラブミュージック

現代思想風に言うと、イビサは「クレオール」の島。古代からの海洋交通によって生まれた言語や文化や人種などの混交現象の島だ。

上の記事で岩井俊二スワロウテイル』に言及したとき、誰かがクリストファー・ドイルの映像に似ていると書いていたのを見かけて、とても懐かしい気分になった。当時二人の映画を引き比べて、「日本のクレオール」という概念を思い浮かべていた自分を、ふっと再想起したのだった。

 ハルキ・チルドレンの代表格であるウォン・カーウァイ王家衛)の『恋する惑星』の撮影監督を務めたことで、クリストファー・ドイルは一躍有名になった。「初期ゴダールのような疾走感あふれる映像」というような惹句も、当時聞いたような覚えがある。

確かにクリストファー・ドイルと『スワロウテイル』の間には共通点が多い。日本人だけでなく外国人の俳優も起用されていること、日本語以外の言語も使われていること、監督がミュージック・ビデオ出身であること、そして気付きにくいかもしれないが、双方とも(当時アジア大陸進出を構想していた?)フジテレビの資本が映画製作に入っていること。 海を挟んだ極東アジアクレオール的な異種混交が、どちらの作品にもあることは、間違いないだろう。 

孔雀 デラックス版 [DVD]

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濃紺のハイバックのソファーの青さが忘れがたい『孔雀』や、船上からの揺れやまない映像を巧みに使った『タイフーン・シェルター』も好んで観た人間としては、やや辛めの評価が多いのも、クリストファー・ドイルが監督になりきれてない感じも、わからないではない。

このブロガーの分析は緻密で教えられるところが多かったが、実は自分は全然違う事を考えている。たぶん静止さえさせなければ、クリストファー・ドイルは凡百のカメラマンより興趣に満ちた映像を多く撮れる引き出しの持ち主なのではないだろうか。

この辺りにある問題を、自分は勝手に「マルチ・スケール」という名で呼んでいる。

 例えば、ピカソの『ゲルニカ』級の特大のカンバスに描かれた絵があるとして、その全体が視野に入る数十メートル引いた地点から見る絵と、美術館で鑑賞するときのような数メートルの地点から見る絵と、虫眼鏡で見る絵と、顕微鏡で見る絵とは、すべてが同じユークリッド的な三次元であるのに、すべてが異なる次元にある異なる絵を見ていることになる。

そのような複数の遠近法が存在する以上、芸術家はその複数の遠近法に同時に耐えられるような絵を存在せしめなければならない。それは、複数の遠近法を芸術家が内面化して、制作時に完全に操らなければならないことを意味しているわけではない。むしろ、どちらかといえば話は逆なのだ。

複数の遠近法のもとで複数化された一つの作品を同時に見ながら、それが、70%水組成の生物(つまりは人間)の中で起きているからなのか、どこかクレオール的に異種混交して、遠近法が浸潤しあっていくという未曽有の事態に、どう抵抗し、どう受け入れるかの鬩ぎ合いを生きることが、芸術家としての制作現場での動態なのだと思う。もう少し俗耳に入りやすいように言い直せば、「神は細部に宿る」のなら、神的なその細部は他の遠近法のもとでの他の要素を変容させ、細部の枠を越えて作品に波及するはずだということ。

クリストファー・ドイルの映像が撮影監督らしいものにとどまっているのは、洗練された細部の数々が細部のまま羅列されて、別の遠近法、例えば映画全体を振り返ったときに、構築されたものがほとんどなかったという印象を与えてしまうからだろう。だから、彼の映画は磨き上げられた語彙が並びやすい「詩」に近づくことになるのだ。

映画監督と小説家では求められる資質が異なるのを承知で、話を続ける。

これに対して、村上龍の出発点は「Sex, drugs, and Rock'n'roll」そのままのような『限りなく透明に近いブルー』での風俗の斬新さや表現の清新さの多彩な衝撃とは、実は逆の場所にあった。性交の粘膜接触とドラッグ効果による皮膚接触の融和感のようなかなりプリミティブな感覚が作品の中心にあったのである。それが作品を追うごとにどんどん複雑化して、いわば上位の次元が加わっていく形で遠近法が複数化されていくのが、作品群の時系列を知る愛読者にはよくわかる。

そのとき、村上龍は高性能化小説書きマシーンへと進化していきつつあるのではない。複数化した遠近法が重なりあったあちこちで、統御不能なほど神がかった細部が増殖し浸潤していくのに立ち会っているのである。柄谷行人による「想像力のベース」(ベースには「基地」と「基盤」という意味が重ねられている)の方向の読みは確かに村上龍を語る上で欠かせない幹線道路だが、芸術家としての村上龍が大きく変容していく軌跡を跡づけていくのも、貴重な旅になりそうな予感がしている。

何を書くかを決めずに書き出したこの記事が、最終的に辿りついた地点がここだった理由が、今わかったような気がした。「ドラマチックな展開と過度な感傷と「がんばろう/まけないで」的な煽りが苦手」という文言をどこかで見かけて、まいったな、全部自分の大好物じゃないかと溜息が出てしまったのが、きっとささやかな心の傷になっていたのだろう。

それらも好きだし、それでないのも好きだ。何を選んでいくかの選好は、これからも不可避的に絶えず変化していくだろう。変わりつづける芸術家の方が信用できるというのが、これまで生きてきた自分の最大の経験則だ。

 

 

 

(一昨晩バーキンとデュエットしていたブレット・アンダーソンの歌唱の中では、リバーブを抑制したこの演奏が良いと思う)