暗闇でも月人の心は見えるはず

欧米のメディアは日本のメディアに比べて、恐竜に例えたくなるほど巨大だ。 

2011年の国際ABC協会の新聞社の部数調べでは、世界1位が読売新聞、2位が朝日新聞、3位がザ・タイムズ・オブ・インディア(インド)、4位が毎日新聞、5位が日本経済新聞とビルト(ドイツ)。恐竜が日本国内にうようよいる絵が思い浮かぶが、そのことは必ずしも日本に世界に冠たる優秀なメディアが集結していることを意味しない。Hey, Jude, 聞いてほしい。2016年の日本の報道自由度は世界72位で、先進国最下位だ。 

マス・メディアがどのように変容していくのかには強い興味があるので、現在読書中。

理想と現実は両極にある。その両極に胯をかけて、ロマンティスト兼リアリストを自称する自分は、状況に合わせて二者の配分を変えるよう心がけている。季節の変わり目の昨今、体調を崩している人もいるし、自分も病院へ行って安静にするように言われたところ。今晩は少し風向きを変えて、ロマンティストの配分を多めにしながら、no plan で書いていくことにしよう。

 そうそう、恐竜の話だった。最近どうしてだか、自分は恐竜にたとえられることが多い。過大評価だと思う。 光源が限定されているせいで、誇大な影が壁に投影されているのではないだろうか。やはり伝え方が9割くらい正しくなければ、最初の滑り出しのところで、とびっきりの笑顔には出会えなくなってしまう。気を付けなければ。

どういう風の吹き回しか、自分は神童と呼ばれたことも何度かある。自身を神童だと思い込んでいるおバカな男の子というキャラを使えば、例えばいじめられている女の子なんかを、他の誰をも傷つけずに笑わせることができる。そのためにそんなキャラを創り出したような記憶も微かにあるが、仮にそうだったとしても、本来の自分とはかけ離れたキャラクターだと思っていた。

ただ、最近ほんのちょっとだけ霊感が身についたりもしてきたので、紛らわしくなってきた感は否めない。神童を名乗ってみようかと思う瞬間もないではないが、それは過大な自己評価になるし、そもそも音楽の世界で神童間違いなしのこの人が、こんな曲でデビューしているのを忘れてはならないと思う。

(原曲は1978年発売。そうか、デビュー時はこんな感じだったのか。今とはボーカルの歌いまわしや雰囲気がかなり違うな)。

音楽界に殴り込みをかけたこのデビュー曲が、神童桑田佳祐による「勝手に神童BAD」というメッセージだったことは、神童界では有名な話だ。やはり神童ではない人間が迂闊に神童を名乗ってはいけないのだろう。

結局、世界にある事物も自分も、光源の位置や角度に惑わされずに、輪郭を見極めることが大切。そんなことをもし再確認するとしたら、瀬戸内で一番贔屓にしているこの島を訪れても良いかもしれない。

「南寺」は、ジェームズ・タレルの作品のサイズにあわせ、安藤忠雄が設計を担当した新築の建物です。元来この近辺には5つの社寺と城址が集まっており、直島の歴史的、文化的な中心地になっています。「南寺」は、かつてここに実在していたお寺が人々の精神的な拠り所であったという記憶をとどめようとしています。

 直島へは数回遊びに行ったことがある。その中で印象に残っているのが、南寺でのアート体験だった。とにかく真っ暗な空間に迷い込むことが主眼にあるアート体験。初体験の人はきっと眩々すると思う。

記憶をもとに話そう。直島を訪れたのは、白い雲の流れる五月晴れのGW。南寺を訪れたとき、屋外にはすでに15人くらいの行列ができていた。自分は最後尾から二番目だった。ガイドの説明は決してわかりにくくはなかったと思う。

南寺は暗闇を体験するアート施設なので、全員に木張りの壁に両手をついてほしい。合図とともに、目を閉じたまま、壁を頼りに横歩きして、屋内の暗闇へと入り、誘導に従って椅子に座ってほしい。目が慣れたら、内部のアートを鑑賞してほしい。 

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Voice of 木村工務店: 家プロジェクト(直島その2)

上のブロガーの方が訪れた時は、前の人の両肩に両手を乗せて列を作って進む段取りだったらしい。自分が訪れた時は、木の壁に両手をついて進むよう指示を受けた。ところが、自分の直後にいた列の最後尾の中年男性が、やけにガイドの人に食ってかかったのだ。およそアートには縁のないようなおじさんで、いま聞く必要のない質問を、次々にガイドにぶつける。対話のできない人だった。ガイドはボランティアのように見えた。対応に苦慮していたので可哀想になって、自分もいくつか質問を引き取って、おじさんに説明してあげた。

時間が来た。ガイドは走って15人くらいの列の先頭へと舞い戻り、壁沿いに瞑目したアート体験者の列がゆっくりと屋内へ向かって進み始めた。ところが、他人の話を聞かない最後尾の中年男性は、壁に両手をついて目を閉じたまでは良かったものの、何と進行方向とは逆の方向へ壁をさすりながら進み始めたのだ。最後尾なので誰にもぶつからずにすいすいと逆走していく。すぐに私は「方向が逆ですよ」と声をかけた。しかし、「今、どこや?」と返事しながらも、おじさんは逆方向へ壁をさすって進んでいく。他人の話をてんで聞かない人だった。

おじさんの軌道修正を諦めた自分が、目を閉じて正しい方向へ進んでいるとき、もう一度だけ遠くで「今、どこや?」という声が微かに聞こえた。あのおじさんは、目を瞑ったままどこへ行ったのだろうか?

さて、本題。南寺内部の真っ暗の暗闇は、本当にまったく何も見えない。最初は、ちょっとしたパニックの感覚を覚えるはずだ。 ところが不思議なもので、数分経つと、目が暗闇に順応して、何かが光っていたり動いていたりするのが見えるようになる。椅子からそろそろと立ち上がって、ステージに似た場所にある微かに光るオブジェへ歩き出すと、不意に誰かに身体を触られてドキッとした。一緒に暗闇へ入った友人には、もっと早く闇が見えていたらしかった。演劇用語でいう完全な闇「真暗」に身体を慣らしていく順応体験が、このアート体験の醍醐味なのだ。

アート体験でなくても、電気を消すことで、見えてくるものはある。

 これまでキャンドルナイトが行ってきた「でんきを消して、スローな夜を。」という意味を改めて思い起こす機会ともなり、震災から1年目にあたる2012年3月11日にも、全世界にキャンドルナイトを呼びかけようと多くの人が集まりました。エネルギー問題や脱原発を考えたり、日本の農業や食べものへの思いを馳せたり、幸せってなんだろうと考えたり、意味は決してひとつに限定されるものではありませんでしたが、「100万人いれば、100万通りのキャンドルナイトがあっていい」と、つねに発信してきたことを再確認するような日となりました。

以前に紹介した『Tokyo Nobody』のように、局所的でかまわないので、町全体が消灯して、キャンドルの灯りだけがあるような『Tokyo No Light』の都市風景を見られたら。そんなありえない願望も尽きない。 

TOKYO NOBODY―中野正貴写真集

TOKYO NOBODY―中野正貴写真集

 

特筆すべき幼児体験もないのに、これほど蝋燭の光が好きなのはどうしてだろう。

バシュラールの『火の精神分析』を学生時代に読んだことがある。有史以来、私たちがずっと使いこなしてきた火は、電気よりもはるかに、私たちの存在のすぐそばで燃えていた。

食材を温めて新たな生命源とする調理の火、木切れと木切れの摩擦によって生じる連想から新たな生命を産む生殖の火、獣たちを寄せ付けないよう燃やしつづける焚火の連想から夜の眠りに誘う火、そして遺体を焼く火葬の火。

そのように人間たちの存在のすぐそばで燃えている「火」は、人間たちが新たに何かを生み出す場面で、しばしば、この漢字の形象と同じく「炎」の形をとってその姿を現す。例えば、Catchafire のロゴのように。

 キャッチアファイヤーはアメリカの「プロボノ」の老舗。プロボノがどういうものかは、まだ日本ではほとんど知られていないのではないだろうか。

プロボノ」とは、「公共善のために」を意味するラテン語「Pro Bono Publico」を語源とする言葉で、【社会的・公共的な目的のために、職業上のスキルや専門的知識を生かしたボランティア活動】を意味します。
(強調は引用者による)

たとえば日本の労働市場における2016年の完全失業率は3.1%。有効求人倍率は2017年10月が1.52倍。厚労省はこの有効求人倍率について、このようにアピールしているらしい。

正社員倍率が1倍を超えたことについて、厚労省の担当者は「人手を確保しにくい状況が続いているため、非正規の求人を正社員に切り替える企業が増えている。仕事を選ばなければ必ず正社員の職に就ける状態だ」と説明している。〔共同〕

「今の日本がバブル期より景気がいいわけないだろ!」「生産年齢人口が下がっているだけ」「退職者の穴を非正規雇用で埋めているだけ」とのキーワードにピンときたら、いつもように論旨明快な三橋貴明の記事に目を通してほしい。

 さて、ここで問題にしたいのは、もし有効求人倍率が高止まりしていると本当に言えるのなら、失業問題は労働者と仕事とのマッチングの問題になると言えることだ。それと同じマッチングの問題が、ボランティア志願者とボランティア仕事との間で起きているのである。

 28歳のときにキャッチアファイヤーを起業したレイチェル・チョンは、ウォールストリートの投資銀行勤務を経て、以前に仕上げた修士論文プロジェクトを、そのまま起業につなげた。

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Rachael Chong MPP'09 is Transforming Volunteering | Duke University Sanford School of Public Policy

ボランティア文化の根付いているアメリカでは、階層や職種にかかわらずボランティア参加者が多い。投資銀行在籍時のレイチェル・チョンも、同じくボランティア活動に参加しようとしたが、公園の清掃や大工仕事手伝いのような仕事ばかり。彼女の能力やスキルを活かせる仕事は回ってこなかった。

 そこで、社会人大学院生だった彼女は一念発起。種々のボランティア・ワークを、会計や経理、デザイン、マーケティング、マルチメディア、PRコミュニケーション、ソーシャルメディア、戦略、テクノロジーの8分野に区分けして、各分野ごとにスキルワーカーを登録する仕組みを作り上げた。この仕組みのおかげで、ボランティア志願者とボランティア仕事は格段にマッチングしやすくなった。ビジネス向け巨大SNSのLinkedINとの提携を得て、現在は全米に拡大、数万人の登録者を得ている。

(日本のプロボノ界のリーディング企業はこちら)。

さて、今晩は何の話を書いたのだろうか。自分でもよくわからないところがあるが、強引にまとめてみよう。

私たちの視覚は騙されやすい。動かしたいものがあるなら、しかるべき光源をしっかりと取って、対象物のサイズや性質を良くつかんでから、その対象物を何に使うかマッチングを考えた方が、のちのち後悔が起こりにくいような気がするから、take your time。

そんなところで、どうだろうか。

とりわけ、ストレスが溜まっているとき、疲労しているとき、風邪をひいているとき、却って想像上の恐竜が先へ先へ歩いてしまって、街や田畑やゴルフ場に不似合いな足跡をつけてしまうことはよくあることだ。どうか一度きりの自分の大切な人生を守るために、「恐竜」からの逃げ道を確保しておいて。

yet… えっと、何を言おうとしていたんだろうか。いま呟いた yet が「もう」なのか「まだ」なのかさえわからない。ずいぶん永い間、夜の暗い裏通りを歩いてきたせいで、自分がどこへ歩いているのかよくわからない。「今、どこや?」

そうだった。暗闇でも直接言葉を交わせば、よく見えると言いたかったんだった。こういう場所で一本のキャンドルを挟んで、ゆっくり話ができれば、光量が少ないにもかかわらず、相手のことがくっきり見えるようになるはず。

自分は、そのかけがえのない小一時間さえあれば、その後どうなったとしても、残りの人生を強く生きる支えにできる自信がある。

「趣味のマッチングが…」。まだ / もう そんな考えを?

夜空に輝く月に魅惑されて、月でしか買えないジンジャー・エールを買いに行くときは、月人になってもかまわないつもりで、月人になるつもりで、旅人は旅するにきまっているんだぜ。