……。(詳細は言えんもん)

瀬戸内海の沿岸に、きれいな水が豊かに湧き出すことで有名な、西条という都市がある。日本一との呼び声もあるのだとか。

その日本一の水を求めて流れ着いた蕎麦職人の蕎麦はかなり美味。

西条市には、思わず立ち寄りたくなる安藤忠雄設計の寺社仏閣もある。

きれいな水のように、常に私たちのそばにあってほしいのに、いつも欠乏している印象があるのが、日本のジャーナリズム。

日本人が海外のジャーナリズムを観察した本(以下、ジャナ①)、外国人が日本のジャーナリズムを観察した本(以下、ジャナ②)を1冊ずつ読んだ。

 ジャナ①とジャナ②の両方で、最も高い温度の称賛を集めているのはプロパブリカ。スタッフの34人全員をピュリツァー賞受賞者で固めることに成功したのだから、NPOというイメージからは程遠い「ドリーム・チーム」だ。発足2年で新たにピュリツァー賞を受賞したとか、スタッフ年収が6~20万ドル(平均10万ドル)という超好待遇だとか、ジャーナリストを目指す有為の若者たちの耳をくすぐる薔薇色がかった話には事欠かない。 

プロパブリカ | HuffPost Japan(このカテゴリに日本語記事多数)

しかし… 現実はそれほど甘くない。プロパブリカは或る銀行家の年間約10億円の寄付によって運営されており、その出資者の気が変わってしまえば、明日にも消滅するかもしれない存在なのだ。

 2008年のリーマン・ショックによって、急激な構造改革圧力にさらされたアメリカでは、旧来の主流メディアに危機を生き残ろうとする動きが続出した。最も衝撃を持って迎えられたのは、ワシントン・ポスト紙のアマゾンへの身売りだろう。 

 どうやって、安価で清浄な水(=News)を、人々が毎日入手できるようにするか。そのような問題意識を持って読んで言った自分は、かなり暗澹たる気持ちになったことを告白しなければならない。

  ジャナ①で、アメリカの新聞社たちが懸命に生き残り策に取り組んでいるさまは、読んでいてとても面白い。

地域の訃報欄のみを有料にするなど、地方に特化したニッチに、確かに生き残りの希望はあるようだ。報道NPOは大学と相互浸透し、報道NPOトップランナーである前出のプロパブリカは既存メディアを拡散メディアとして利用している。ジャナ②では、早稲田大学のジャーナリズム研究所が取り上げられていた。プロパブリカは、地方拠点のアマチュア・ジャーナリズムの育成にも余念がない。

しかし、莫大な寄付によって支えられているプロパブリカを除くと、各種のアイディアのどれもが、新聞社同士の合従連衡、あるいは取材や記事や社内部門のアウトソーシングなどの「経費削減策」が多く、新聞というメディアが今後も長期的にさらされる財政基盤の脆弱さに対して、抜本的な「治療」になっていないような印象が感じられる。

しかし、 この合従連衡と各種の経費削減策を究極にまで推し進めたところに、ひょっとしたら、かなりスケールの大きな究極解があるのでは、と2003年頃に夢想したことがあった。

ずっと多忙が続いていたので、どこまで2017年にキャッチアップできているか、あまり自信はない。ただ、明らかに頭脳明晰で記者経験も豊富、現地取材も英語でそつなくこなすジャナ①の著者が、2006年のフリーミアム(ごとき)に目を奪われている様子を見ると、ひょっとしたら自分がこれから書くことに、光るものが多少はあるのかもしれないような予感がする。これから書くことは、下調べをせずに書き流す虚構だと思って、読み飛ばしてながら聞いてほしい。

地域通貨流通型ネットモール併設ジャーナリズム空間

 1. 新聞・雑誌・プロ・フリー・アマが乗り入れるオープンプラットホーム

 現在、メディアの世界では、それぞれの単体ブランドが独立して競合している。「朝日新聞」を読む人はそういう人、「産経新聞」を読む人はそういう人、という棲み分けと差異化がなされているわけだが、そのそれぞれの記事内容以外(印刷・配送・経理など)には、膨大なコストがかかっているのを忘れてはならない。

合従連衡と各種の経費削減策を究極にまで推し進めるとは、新聞・雑誌・プロ・フリー・アマの一切合切が同じプラットホーム上に乗り入れてしまおうということだ。現在のポータルサイトのニュースサイトは、プロ限定ではあるものの、そのイメージにやや近い。

 2. 記事をリバンドルして読者に個別最適化して提供

 2003年にこの周辺のことを考えていたとき、「個別最適化」の動きは、もっと早く進むと予想していた。背景にある考え方は、このブログ記事がとても参考になる。

 つまり共通プラットホーム上にアクセスして、朝日新聞好きが朝日新聞の記事を探して読むのではなく、各ユーザの選好をアルゴリズムが学習して、アクセスした瞬間、各ユーザの嗜好に合った「紙面」が立ち上がるように設計する。朝日新聞好きでも、同時にサッカー好きであれば、サッカーの記事が「大盛」になり、住んでいる地域の天気やローカル記事や、同じ年齢性別の人々に人気の記事などが自動生成されて、画面をいっぱいにしてくれる。

2003年の時点で、この「個別最適化」の話は、自分の好きなものだけにしか触れようとしないタイプの人々が、個別最適化によってその選好をますます強め、自分と反対の立場の人間への思慮を欠くような「教育結果」を生むのではないかと懸念されていた。 

しかし、たぶんそれは大問題ではない。たぶんアルゴリズムで対処可能だろう。一定の確率で各ユーザが異質な情報に触れるよう設計すればよいだけのことではないだろうか。ジャナ②が言うように、主流メディアが政権与党に阿諛追従したニュース群を選択不可能なようにバンドル化して垂れ流している現状の方が、はるかに深刻な問題だと言えるだろう。

 3. アマチュア・ライターも記事対価を受け取れる(「読むために書く」の好循環形成)

オープン・プラットホーム上の課金システムは、原則として Pay per View。つまり読めば読むほど課金がかかるようにする。一方、読者の誰かが記事を書けば、その記事が読まれた分だけ、記事の対価を受け取れるように設計する。

すると、せめて自分が読む記事の分量だけは自分で書きたいという書き手が、高齢化した日本の津々浦々に必ず現れる。反原発についての専門記事は書けなくても、地域の祭りのレポートなら書けるという人はどこにでも存在するので、プロ・アマの相互浸透が間違いなく進むだろう。市民ジャーナリズムの支持層がかなり分厚くなるにちがいない。 

4. 行動ターゲティング広告も他のネットサイトと同じく行う 

行動ターゲティング広告 - Wikipedia

5. 地域通貨を流通させてショッピングモールに紐づける

記事の書き手への原稿料を、そのオンライン・プラットホーム上でのみ使用可能な地域通貨で支払うのが、実はこのシステムの肝だ。そのためには、オンライン・プラットホーム上に、その地域通貨を使用可能なショッピング・モールを併設しなければならない。たくさん原稿料を稼げる人には、日本の各都市のリアル店舗が出店したショッピング・モールで買い物をしてもらう。送料を工夫すれば、リアル店舗での受け取りの利用を増やすよう顧客に働きかけることもできるし、店舗側のオムニチャンネルの戦略の展開可能性も高まるはず。

 

 

夢物語を語っているようにしか聞こえないかもしれない。そんなことは実現できっこない、という人には、ではどうやって日本のジャーナリズムや出版文化を守っていくのか、その有効な方策を今から縷説していただきたい。ぜひとも拝聴したいものだ。

上記の私の書き流しの議論が照準しているのは、以下のような対立構造だ。

 大店法の廃止も日米構造協議でアメリカ政府から突きつけられて受け入れたのでしょうが、その為に地方の商店街がシャッター通りと化してしまった。

1992年以降、日本の各地には巨大ショッピングセンターが次々と建設されて、地元の人たちは大都会と変わらぬ消費生活が送れるようになりました。まさにアメリカ的なライフスタイルが出現したわけですが、地域住民は自動車で買い物に行くようになった。駐車場も完備して都心のデパート並みの品揃えがあるのだからとても便利だ。

その反面では駅前の商店街は駐車場施設もなく、駅前スーパーや百貨店は規模も小さく閉店が相次いだ。

(…)

このような現状は「ファスト風土化する日本」という本によって明らかになりましたが、巨大ショッピングセンターの登場は地方の地域社会を破壊してしまった。強者にとっては便利で豊かな生活が出来るようになりましたが、老人や子供にとっては車が利用できず歩いて生活が出来る生活基盤がなくなってしまった。 

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

 

どこかからこんな声が聞こえる。

わかった。日本に良質のジャーナリズムや書物文化が、きれいな水のように日常的にあったらいいという、きみの願望はわかった。それで、きみはこの14年間、何をしていたの?

痛いな。パンチが痛いところに入ってきた。

2003年、小説の題材にするために自分が実験的にブログを始めてすぐ、ほとんど自殺に追い込まれそうなくらい、ヤバイ「無理ゲー」に巻き込まれてしまったんだ。自分の後に少し近い場所で生まれて、自分の少し後にブログを始めて、初代ブログの女王の座についたあの人も(この記事の最後の最後まで、そのお名前は決して口にしないつもりです!)、当時ゲームに凝っていて、「どうしても最後のステージがクリアできない。これって、無理ゲーでは?」と、まるでこちらを気遣うかのように呟いてくれていたような記憶がある。いや、気のせいだろう。気のせいだと思わないと、失われたこの14年がつらすぎて、やっていられない。

あれから14年も経って、まだ自分がよくわからない理由で「無理ゲー」に挑まされていると知ったら、きっと彼女も驚くんじゃないんだろうか。

2003年に自分が少しだけ考えていた「将来のネット社会の青写真」に似ている必要なんてまったくない。それでも、こうまで「安倍政権にひれ伏す」日本のジャーナリズムの現状を目の当たりにさせられると、これを立て直すのには、どれだけの人々のどれだけの労力や時間がかかるのだろうと、暗然たる気持ちになってしまう。「無理ゲーでは?」

実際、多言語を操る外国人ツイッタラーからは、折に触れて、こんな声が聞こえてくるのだ。しかも、日本を愛する自分から見ても、そのすべてが的を射ているように思えるのが悲しい。

まだぎりぎり間に合うかもしれない。

わが親愛なる黄色い猿たちよ!  まなべ、まなべ、まなべ!