ジャパンアイデアソン完走祈願

書く内容があまりにもとりとめがないので、タイトルは最後につけることにしている。昨晩「涙を小洒落きれなくて」というタイトルをつけたのは、数時間ではとても江國香織最高傑作には及ぶべくもなかったという敗北宣言を込めたから。ただ、個人的には、思ったよりも上手く楽しく書けた感触があった。あんな短い内容でも、さらに書き込みたい要素が数え切れないほど湧き出てきて収拾に困ったので、推敲は未済。

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マッチ箱サイズの短編に書くなら、描線をなるべく少なくして、登場人物たちのプロフィールの一端を一筆書きでつなげて描くのが、たぶん一番映えるのだと思う。何を書くかではなく、何を書かないままそれを表現するかに集中するという意味では、書き上げた後に、普段まったく使わない筋肉を使ったかのような爽快感があった。

ひとつ思い出したことがある。ワンペアの女同士の友情がどのように強くありうるか、について。

高校時代、仲間内の男子で話していた時、友人の男が「犠牲者がひとり必要だ」と言い出した。犠牲者? 話が穏やかではない。聞けば、クラス一番人気の手足の長いすらっとした美人をダブル・デートに誘いたいけれど、美人がいつも一緒にいる親友が小柄で先天的な強度の縮れ毛なのでどう見ても可愛らしくない、ダブル・デート中に彼女の相手をする「犠牲者」に誰かなってくれないか?という莫迦話。酷いなと思った。誰もが尻込みしている感じだったので、「いいよ、俺が『犠牲者』になるよ」と手を挙げた。

いくら思春期猿とはいえ、女の子を顔とスタイルの美醜でしか価値づけできない頭の悪さが不愉快でたまらなかったのだ。「スクール・カースト」なるものは当時の自分の高校にもあった。 

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当時だって、美人の女子高生は同じく美人の友人とつるみがちだったのだと思う。それなのに、美醜をまったく気にかけず、先天的な強度の縮れ毛の親友といつも一緒にいる心優しい美人が、自分の親友の相手をする人間を「犠牲者」と呼ぶような男子を好きになるわけないのだ。

「あ、お前の話術とルックスは俺にとって脅威になるので、却下」

「(こいつ、やっぱり自分のことしか考えてないな…)」

案の定、その男子の恋が実ることはなかった。

この話には、ちょっとした嬉しい後日談がある。その縮れ毛の女の子は真面目に勉強に打ち込んで、神戸大学に合格した。自分たちは第二次ベビーブームで、センター試験初年度。受験がきわめて難しかった年齢だ。浪人したあと、自分が進学した私大は17倍だった。

 卒業わずか一年後に開かれた同窓会で、縮れ毛の彼女に再会すると見違えるように変わっていた。縮毛矯正がとてもうまくいっていて、ふわっとしたウェーブのかかった髪は、普通の女子大生と何ら変わるところはない。神戸で腕のいい美容室見つけたのだと話していた。浪人明けだった自分は「すごくお姉さんになって!」と驚き顔をして、「二人で写真を撮ってほしい」とせがんだ。彼女の芯から嬉しそうな表情からすると、たぶん男子からそう言われたのは初めてだったのだと思う。この初ゲットは個人的にかなり嬉しかった。

その写真はどこかへ散逸してしまったし、こんな挿話を彼女はもう忘れているに決まっている。自分も天然パーマなので、思い入れが入りすぎたのかもしれない。ただ、勉強に真剣に打ち込まなければ、彼女は地元国公立大で同じ髪形の4年間を過ごしたことだろう。「強度の情熱が思いがけない道を拓くことがある」。そんな感慨を反芻してしまう。

たぶんあの二人の女の子の友情は、今も続いているに違いない。二人がカフェで久々に思い出話に花を咲かせているところを、ちょっとだけこっそり覗いてみたい気もする。こんな感じで。

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というわけで、この数学者が披露している「恋の方程式」には、自分はまったく納得がいかないのだ。

The idea is that if there are two women - A and B - who men rank as being equally attractive, if a third woman comes along who looks like a less attractive version of woman A, then woman A becomes more popular with the men.

超訳A系統ルックスの女性AとB系統ルックスの女性Bが、男性から見て同じランクにいる場合、A系統ルックスだが女性Aよりルックスの劣る女性Cが登場した場合、女性Aが一番男性にモテる。 

要するに、「引き立て役」がいた方がその女性はモテるということらしい。二人並べば容姿に差があるのは当然だ。数学者なら、差のある容姿の二人が得恋する「連立方程式」をこそ、研鑽により編み出すべきなのではないだろうか。 

 公式に納得が行かないと言えば、ここ10年くらいずっと経済方面を賑わせてきた「インフレ・ターゲット論はどうやらインチキらしい」という話が、過去に読んだ本の中で語られていた。え、そんな根幹部分に嘘があったの?という驚きを禁じ得ない。しかも、話はかなり単純だ。フィッシャー方程式の解釈に間違いがあるらしいのである。

名目金利=実質金利+期待インフレ率

 

名目金利表面的に示されている金利。みかけ上の金利
日頃、一般的に使っている金利のことをいう。

実質金利名目金利から物価上昇率等を差し引いた金利。実際の金利
物価の影響も考慮に入れた金利のことをいう。

期待インフレ率:実際に起こった物価上昇率ではなく、人々(市場)のインフレに対する将来の予測値のこと。実質金利名目金利の関係式や、フィリップス曲線など、経済現象を説明する理論モデルの中で用いられることも多い。

市場が推測する期待インフレ率を示す指標として、物価連動国債の利回りから逆算されるブレークイーブンインフレ率がある。 

 公式の内容が頭に入ったら、以下の野口悠紀雄の明快きわまりない説明を読んでほしい。ひょっとしたら、国民全体が騙されているのかもしれない。

  以上で述べたことと関連して、インフレ・ターゲット論が陥っている理論的な誤りを指摘しておこう。

 期待インフレ率を上昇させる「インフレ・ターゲット」政策が提案され、論者の間では広く支持されている。これに対しては、「政策当局が期待に影響を与えうるか」「もし期待が高まりすぎた場合にコントロールできるか」などの実務的な問題点が指摘されている。

 これらが大きな問題であることは事実だ。しかし、より基本的な問題は、理論的なものである。

 インフレ・ターゲット論の本当の問題は、仮にインフレ目標を目論見どおりに引き上げられたとしても、経済活動に意味ある影響を与えうるか否かなのだ。

 それを見るために、まず、

  名目金利=実質金利+期待インフレ率

 という関係が成立することに注意しよう。これは、「フィッシャー方程式」と呼ばれるものだ。 ところで、インフレ・ターゲット論の支持者は、「デフレによって実質金利が上昇するのが問題だから、期待インフレ率を上昇させて実質金利を引き下げるべきだ」と考えているようだ。つまり、固定的なのは名目金利で、フィッシャー方程式において期待の変化に伴って受動的に動くのが実質金利だと考えているようである。
 しかし、これは誤りだ。正しくは、実質金利は経済の実物的要因によって規定されており、期待インフレ率の変化は名目金利を動かすと考えるべきである。したがって、もしマーケットが適切に機能しているなら、仮にインフレ期待を高められても、それによって名目金利が上昇するだけのことになる。その結果、実質金利は不変にとどまるはずである。
 つまり、インフレ・ターゲットは、仮に現実の世界で適切に導入されたとしても、経済活動に何の影響も及ぼさないはずのものなのだ。インフレ・ターゲット論は、この意味でナンセンスな議論なのである。

(強調は引用者による) 

 経済の専門用語が飛び交う抽象的な議論が苦手な人は、この記事に挙げられた設例が、きわめて明瞭に日本経済で行われていることの異常性を語ってくれるだろう。 

例えば、コーヒー豆が100グラム1000円であり、1年後にも1000円だとしよう。簡単化のために、名目金利はゼロだとする。この場合、現在買っても将来買っても、1000円で買えるのは100グラムだ。

ところが、インフレ率が10%に高まり、コーヒー豆100グラムが1年後には1100円になるとしよう。いま買うほうが有利だろうか? そんなことはない。名目金利がフィッシャー方程式によって10%に上昇するからだ。だから、いま買わずに1000円を貯蓄すれば、1年後には1100円になる。したがって、コーヒー豆は100グラム買える。

このため、人々は買い急ぐことはない。だから、インフレ期待の上昇がコーヒー豆の現在価格を引き上げることもない。

このように、「デフレが予想されると需要が減る」というのも、「インフレ期待が高まれば支出が増える」というのも、誤りだ。インフレ期待の上昇に合わせて名目金利が上昇するので、いつ買っても実質的に同じものが買えるのである。

(3ページ目より引用) 

 結局、こんな単純な式をきちんと理解できるかどうかに、黒田バズーカ以来の日本経済の迷走の鍵が隠されていたことになる。フィッシャーの方程式の背後に大きなものが隠れていることは、この人も指摘している。『預金封鎖』でその実態の核心に、最も肉迫した小黒一正だ。

フィッシャー方程式の見方や解釈でしばしば論争となるのは、「実質金利名目金利のどちらが先に決定するのか」という問題である。

 まず、名目金利が先に決定するケースを考えよう。(…)マクロ経済を刺激できる可能性がある。
 他方、実質金利が先に決定するケースを考えよう。(…)マクロ経済には何も刺激を与えられず、名目金利が3%(=1%+2%)に上昇するだけである。
 以上から、「実質金利名目金利のどちらが先に決定するのか」という問題は、短期・長期での調整メカニズムを含め、金融政策の効果予測に大きな影響を及ぼす。 

小黒一正は明確には主張していないが、記事全体の論旨が後者に基づいていることは明らかだ。つまり、「正しくは、実質金利は経済の実物的要因によって規定されており、期待インフレ率の変化は名目金利を動かすと考えるべきである」との野口悠紀雄と同じ立場に立っているのである。

フィッシャーの方程式において、「実質金利名目金利のどちらが先に決定するか」、例えるなら、ニワトリが先か卵が先かという水掛け論に持ち込まれては、国民経済ではなく1%グローバリストのための量的緩和政策をだらだら続けさせる環境に貢献してしまうだけだ。小黒一正が打ち込んでいるパンチは、かの有名な「流動性の罠」。

流動性の罠金利(名目金利)がゼロ近くまで低下し、投機的需要が無限に大きくなる状態のこと。手持ち資産は貨幣のまま保有しようとするため、市場への供給量を増やしても、民間投資の増加にはつながらないことから、金融政策の効力が損失する。

量的・質的金融緩和やマイナス金利政策で実物資産への投資を期待する向きもあるが、名目金利がゼロやマイナスに陥った場合、貨幣を財・サービスの取引動機のみでなく、各経済主体が資産として貨幣を保有する動機も高めてしまう可能性もある。これが、いわゆる「流動性の罠」である。
 その際、たとえば実質金利が1%の経済で、中央銀行がマイナス金利政策を導入し、名目金利を▲0.5%とすると、上述と同様、フィッシャー方程式(期待物価上昇率名目金利-実質金利)から、期待物価上昇率は▲1.5%(=▲0.5%-1%)となる。
 これは、マイナス金利政策でも貸出需要が増えず、金融仲介機能が弱体化し、むしろ各経済主体が資産として貨幣を保有する動機が高まってしまう場合、マイナス金利政策はさらにデフレを深刻化させてしまう可能性を示唆する。 

 困ったことに、「出口なし」としか思えない現在の日銀の量的緩和に対して、悲観的な情報に数多く接することはできても、資産運用を転換する以外に、私たちがどのような態度を取って生きていけばよいかは難しい。

国家的な金融政策に対して、提言や批判などの形で関与できる人々を除いた人々に、私が提案したいのは、自分の仕事へのマインドセットを変えて、日本経済が経験するだろうあらゆるシナリオをサバイブできる生き方を習得しておくことだ。  

その意味では、シンクタンクの書いた上の詳細なレポートがとても面白い。全体の構成をまとめるとこんな感じ。 

(1)金融緩和の不足をデフレの原因とするリフレ派の見方に対し、非リフレ派のデフレ論を再構成する。その背後に、日本企業の競争力の劣化の問題が浮かび上がったと論じる。

(2)長期雇用を中核とする「日本的企業」が新時代のオープン・イノベーションに対応できなくなっている点を指摘し、それが賃上げの抑制につながっているとの見方を示す。

(3)「新産業革命」を実現するには、働き方改革などを通じて日本の企業の形を変えることが不可欠であることを論じる。近い将来に安定的な物価上昇を実現するには、政府主導の「逆所得政策」が有効だと主張する。

(1)では、さっそく野口悠紀雄と小黒一正による「フィッシャー方程式を正確に理解すれば、インフレ期待は名目金利だけを押し上げるので、実質金利に影響なし」を強力に補強する主張が飛び出す。

現にQQEの実施以降、彼らが主張していた「マネタリーベースと期待インフレ率の相関関係」は完全に崩壊している。

期待インフレ率が上がっても無効であることが分かっているのに、その前段階である期待インフレ率も、量的緩和によっては上げられないのである。これ、やはりそうだったのか。どう見たって、国民経済を回復するために立案されたものではない気がする。日銀の量的緩和のスジの悪さは強烈なものだ。

OK。「自分の仕事へのマインドセットを変えて、日本経済が経験するだろうあらゆるシナリオをサバイブできる生き方を習得しておくこと」を語るんだった。(2)の以下の部分を読んで欲しい。

中でも影響が大きかったのは、ICT革命以降に製品アーキテクチャーが大きく変わったことだろう。パソコンのように部品間のインターフェースのみを共通化し、バラバラに開発された部品を自由に組み合わせて製品を作るモジュラー型の重要性が増したのだ。これらは、自動車のように部品や素材の適合性を摺り合わせながら製品に仕上げていくインテグラル型の製品と違って、長期雇用や企業間の長期関係を前提とした日本企業のモノづくりと相性の良いものではない。

文字の嫌いな人はモデル図の方がわかりやすいかもしれない。

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AIの進化などにより、従来の職業がどんどん消えていく時代、製品の平均寿命も企業の平均寿命も一企業あたりの勤続年数もどんどん短くなっていく時代。

結局、ここ数年バズワードとなっている「オープン・イノベーション」を中心にして、「垂直統合」モデルから「水平分業」モデルへ、企業として、チームとして、個人として進化していくことに、話は逢着しそうだ。

タイミングよく、自分もこの記事でオープン・イノベーションをちらりと語ったばかり。 

並木裕太の主張をまとめると、日本企業は開発・設計・製造・広告・販売のすべてを自前の垂直統合主義で一体化しているせいで、「世界的変化」から取り残されやすく、経営効率が悪く、製品が陳腐化しやすい。「変わらない」ことは現状維持ではなく漸次後退だ、といったところだろうか。

オープン・イノベーション概念の提唱者チェスブロウは、企業に必要な4つの変革を挙げている。

  1. ビジネスをサーヴィスとしてとらえ直す
  2. 顧客との共創関係を構築する
  3. オープンイノベーションを加速する
  4. ビジネスモデルを変換する

 生き残るために生み出さなければならないのは、イノベーション、クリエイティブネス、スピード、効率。だいたいこの順番通りに。きっとベンチャー企業ではスピードが最優先に。

そうなったとき、企業向けの「オープン・イノベーションの教科書」はすでに出版されていても、チーム向けや個人向けの「水平分業モデル」をイメージする手がかりが、まだ少ないように感じる。たぶん、その答えはこれらの本の領域にある。 

アイデア・イノベーション―創発を生むチーム発想術 (Facilitation skills)

アイデア・イノベーション―創発を生むチーム発想術 (Facilitation skills)

 
アイデアソン!: アイデアを実現する最強の方法 (一般書)

アイデアソン!: アイデアを実現する最強の方法 (一般書)

 

(以下、順に「アイデア①」「アイデア②」「アイデア③」とする)

実は、これらのチーム創発文化の源流にあるとはブレスト(ブレイン・ストーミング)。有名な4原則を聞いたことのある人も多いことだろう。「→」でコメントをつけてみた。

  1. 批判はしない(→批判や怒りでチーム全員の脳の働きを萎縮させない)
  2. 自由奔放(→つまらなくてもいい。プライドや自己愛を棄てて脳を働かせる)
  3. 質より量を重視(→アイデアの種は多い方がいい)
  4. イデアを連想、結合し便乗する(→自己中心的ではなく、チーム中心的に脳を働かせる)

やったことのある人はわかると思う。アイデア①で書かれているように、議論を整流するファシリテーターも腕前が良ければ、アイディアが水平にどんどん湧き出すブレストは、かなり面白いものになる。

世にはつまらない非生産的なブレストも多いと聞くが、それはファシリテーターの腕前の問題もさることながら、硬直した垂直型組織での上下関係要素(権威エレメント)を内面化しすぎているからだ。

忘れてほしくない。好みの話をしているのではない。これからの数十年を生き残るために、イノベーティブでクリエイティブであるためには、少なくともこの基本四原則は看過しがたい生き方の作法なのである。

 事実、リーディング企業や地方公共団体では、アイディアにマラソンを掛け合わせた「アイディアソン」なるイベントが頻繁に開催されるようになってきている。

さまざまな人が一堂に会し、立場を超えて話し合ったり共に手を動かしたりすることで、課題解決のためのアイデアやプロダクト、サービスなどをスピーディーに創出する「アイデアソン」や「ハッカソン」が、現在、各地で開催されています。フェイスブックの「いいね!」も社内ハッカソンから生まれたと言われ、オープンイノベーションの手法として急速に注目が集めています(…)

 (アイディア③の紹介文より)

 異なる所属部署、異なる会社、異なる職業、異なる社会的立場の人々が集まって、新規事業の開発や地域の問題や環境問題を前へ進めていける。そのような共創のフォーマットが確立されつつあることに、わくわくしてしまう。

政治も経済も滅茶苦茶だ。

もしこの国に少しでもマシなものがあるとしたら、IT化とモジュール化進行による激しい世界的な変化に適応できる人々が、手を携えて共創しつつ進化していく共同体の生成可能性だろう。そして、単一の方程式には立式しがたいその創発と共創と連携との動態が、「今だけ、金だけ、自分だけ」という機会主義から最も遠いところにあることだけは間違いない。