五輪までにあといくつ輪を描けるだろう
その実態は未知数ではあるものの、「五輪終」=「五輪が終わればご臨終」なんていう縁起の悪い洒落も囁かれている。けれど、東京の不動産の崩壊は、オリンピックの終了を待ってからやってくるとは限らない。
不動産業界では「五輪まではもたない」との見立てだとし、「19年には潮目が変わり、緩やかに下降曲線になるだろう」と予想する。
「マネー増加=景気浮揚というのは神話にすぎなかった」。
91年のバブル崩壊は、不動産流通の総量を規制する大蔵省の通達が引き金になった。今回は、もちろん「戦犯化」する可能性のある通達ではない形で、金融庁がやんわりと抑えにかかっているとも噂されるが、果たしてどうなるのか。
東京五輪そのものよりも、東京の不動産バブルがいつ弾けるのか、その崩壊が日本経済全体や、絶賛バブル中の世界経済にどのように波及するかの方が、スリリングになってきた感がある。
マスコミを騒がせた東京五輪の新国立競技場の迷走ぶりを知りたくて、本書を手にした。どこかスピリチュアルな書名に惹かれていなかったと書けば嘘になるが、まさかニューアカ系の衒学的饒舌体で書かれているとは思わなかった。報道機関に出す文書は明晰な文体で書かれているので、これは、磯崎新自身の文化的アーカイブの厚みの露頭を体感すべき本なのだろう。副題の「何が新国立競技場を迷走させたのか」の答えを知りたくて本書を手に取る一般読者は、ちんぷんかんぷんなのではないだろうか。
文化的アーカイブと建築の掛け算と言えば、東京オリンピックを招致した猪瀬直樹の巨大な書庫が最初に思い浮かぶ。
この記事で言及した「総力戦研究所」の存在を明るみに出した処女作は、画期的な戦中史研究だった。それを可能にしたのが、この巨大な書庫。びっしりと本が並べられた四方の壁の高さは10メートルにも達するという。凄いな。自分も欲しいな。
どうやら名前のないらしいこの憧れの書庫に、勝手に可憐な名前まで付けたくなってしまう。何という名前にしようか?
「ひとりGoogle」という表現からもわかるように、検索窓の背後にある膨大な知の集積は入力者の知を大きく越えている。いわば「イノセ<書庫」の不等式が成立している。
この不等式を眺めて、ミシェル・フーコーの哲学を想起しないことは難しい。
古文書館を意味するアルシーブというフランス語を述語としたフーコーは、そこに古文書館以上の意味を込めて、さらに一歩先へ歩みを進めた。古文書館のように実在する書物の集積ではない。つまり、発話されたり記述されたりしたもの(エノンセ)だけでなく、そうなるよう導いた水面下の諸要素をも含むのである。不等式に表すとこうなる。
イノセ<書庫<エノンセ<アルシーブ
フーコーのいう考古学(アルケオロジー)とは、このアルシーブに分け入っていくものであり、しばしばそれは、エノンセされたものとされなかったものの境界が形作る描線の周辺に、ディスクールを探る旅となるだろう。
重要なのは、しばしば歴史を探求するときに私たちが陥りがちな「一本線の一方向のA→Z物語」(Zが存在するのは遡ればAがあったからだ)からフーコーの考古学が厳しく離れている点である。歴史とは、多数的な何かが多方向へ働いたものの集積であり、その集積にはエノンセされたものとエノンセを導いた水面下の諸要素から成ると、私たちは考えなければならないのである。
書庫の本から出発したこのデッサンを、私たちは未来の本のあり方を考えるデッサンへと進めることはできないだろうか。つまり、フーコー的な非「A→Z」的な考古学の布置の正しさを全肯定しながらも、それを「本」に関わり深い領域で、「静態」から「動態」へ次元上昇させられないだろうか。
こんな風に自分が概念イメージ図のデッサンを繰り返すのには、以下のような思考が基礎になっている。昔どこかに書いた文章を引用したい。
生き残ること、進化すること。
村上龍の最良の小説群の読後に残るのは、そのようなvitalな闘争心の不確定な触感だが、それがどのような方向であれ「小説を読む」という行為は読者の意識を確実に変性させる。いわば「読前」「読後」の間で、読者の意識の何をどのように変えるかの戦略が、作者に不断に問われていると言えるし、それが作者に問われるのは、書く側としてエクリチュールの現場での意識の変性に通暁していると期待されているからだ。
ところが、ドゥルーズはその「テクスト内戦略を拡張せよ」と宣言する。ドゥルーズの鍵概念である「機械」を用いて、書物は機械の一部であり、書物の価値はそれが機能するかどうかだとドゥルーズが語るとき、その哲学は上記の簡明な論旨を補強してくれるもののようにも感じるが、書物はその外部にある「社会機械」や「欲望機械」に接続して機能しなければならないと唱えられると、概念語の内容説明に追いまくられることになって少ししんどい。
もう少し話を簡単にできる。『ディスタンクシオン』で名を馳せたブルデューが、云うなれば文学を社会化し、それと前後してシュミットが、かなり明確に「書く」「出版する」「読む」「加工する」の4段階を定式化したらしい。誰もが知る小説の4つの段階。
それを「らしい」と曖昧に書きつけるしかないのは、シュミットの邦訳がなく、これらの問題系「文学現象の社会学」を追いかけるすべがないからだ。日本では20年前くらいから、この研究者が一人気を吐いているときくが、まだ本にはなっていない。
http://www.las.u-toyama.ac.jp/german/study/Stydy.htm
たとえばここ20年、読書好きなら誰もが知る一般的な事柄として、「読者の可視化」と「読みの大衆化」が進行した。氾濫する読者レビューが書物の周囲を席捲し、そこで大衆的な読みが披露され、本を権威づけるプロセスも読者が担うようになった。
大前提として、変化にかかわらず、純文学も文芸批評も生き残らなけらばならない。
となれば、資本主義的な観点も含めて文学現象を鳥瞰しつつ、これらの「読みの大衆化」という一大変化を先取りする形で、第4段階の「加工する」(批評、翻訳、映画化など)までも射程に収めた「テクスト内戦略」の社会的拡大を図らねばならない。
例えば、そこでドゥルーズ的な生成変化を起こすべく、あらかじめ読者の欲望に「擬態」したテクスト生成にコミットしつつ、「非読者」のための純文学的文芸批評的文脈をも呼び込みうる機械一式を埋設しておく。
この「例えば」の一文の前半を簡略化して「filmogenic」、後半を簡略化して「純文学の擬態」としたのが、前作執筆時に思い描いていた戦略だった。OK。その当否なんてどうでもいい。その戦略が「その程度」と揶揄されたって一向にかまわない。しかし、「その程度」を思考できている「関係者」がどれほどいるというのだろう。
ブルデューらの「文学の社会学」が、小説というものが、社会的に4種類の局面「書く」「出版する」「読む」「加工する」を持っていることを明確に定式化した。ここでも重要なのは、「一本線の一方向のA→D物語」があるわけではないということだ。「加工」フェイズの批評が「出版」されて「読ま」れることもあれば、「加工」フェイズの読者レビューが「読ま」れて新たに「書く」小説を生むことだってあるだろう。
これらをさらに次元上昇させて、「静態」ではなく「動態」把握するとしたら、例えば出版社が提供しているこのポータル・サイトはヒントになる。
出版社が提供するこのポータルサイトの革新性は2点ある。
1つは、紙書籍や電子書籍などの各種媒体の売り上げの詳細を著者自身が把握できるようになっていること、もう1つは、各種のSNSを通じて、著者自身が出版物のセルフプロモーションを展開していく Tips が網羅されていることだ。
昨晩自分が未来図を思い描いた文学系ポータルサイトに、現時点で最も近いものを挙げろと言われれば、このサイトになるかもしれない。
純文学系文芸誌数誌は、それほど遠くない将来、損益分岐点の適正化により、紙媒体を縮小して電子書籍のみの販売となる可能性が高い。そうなったとき、純文学系文芸誌は相互連携して「純文学系ポータル」を作り、それがさらに、例えば『ダ・ヴィンチ』が対象とするエンタメ小説や漫画などの商業的に強いジャンルへと発展的に吸収され、その「読む読むポータル」が同人誌文化までをも取り込んでいく可能性が高い。
その「遠心力」の作用を受けて、村上春樹がどこへ向かったかというと、アメリカへ向かったのである。アメリカ文学からの濃厚な創作上の影響が、アメリカでは当然のことプラスに働くだろうことは、誰にでも想像ができる。
どこで読んだのかもその詳細も忘れた。彼の地では、作家と編集者の関係が日本とはかなり違うらしく、(メジャーリーガーでいう代理人 agent のようなものだっただろうか?)、作家のキャリア形成に代理人が重要な役割を果たすらしい。村上春樹はそれらをひとり学んだ上で、実際にアメリカへ渡って、有能な代理人と契約を結んだと聞く。
現在の耳で、村上春樹がアメリカの出版人と契約を結んだと聞いても、何も驚きはない。しかし、その受賞が「作家としての一人前の証」と嘯く人もいる芥川賞にまだ達していない一介の新人作家の段階で、アメリカ大陸で自分の小説を売り込むための交渉人を探しに渡米したというのは、かなり凄いベンチャー・スピリッツではないだろうか。
アメリカの出版エージェントの状況については、このブログが紹介してくれていた。
Simon & Schuster社による「著者ポータル」が実装しているのは、まだ売り上げ把握とSNSプロモーションだけだが、これは出版エージェントがやっていた仕事の一部を著者が担い始めたことを意味しているのにちがいない。日本で動き出しているのはここだろうか。
出版不況が嘆かれて久しい。
しかし、ICTによって、「本」に関わり深い領域にある、多数者の多方向的な動きを「動態把握」しやすくなりつつある現状は、不幸なことばかりとは言えないのではないだろうか、というのが自分の感触だ。
ただし、1つだけ確実に壊れるだろうものがあって、それは或る種の「作者の絶対的な権威」のようなものだ。しかし、バルトの「作者の死」以降を文学的に生きてきた「テクスト論者」の身としては、そんなことは全くに気にならないし、その周辺で「権威」とされたものの実態がどの程度のものだったかも、よく知っている。
「変化に適応するもののみが生き残る」と呟きながら、まず自分が生き残る足場を確保しながら、変化しつつ生き残ろうとする人々、変化させつつも生き残らせたいと欲する事物たちと一緒に挑戦しながら、「本」の社会をどのように共創していくかという難問に、引き続き取り組んでみたい。
今さりげなく書きつけた「挑戦」と「難問」という二つの言葉は、英語では challenge という1語に含まれている意味内容だ。
ふと「難問」の解き方を教える数学教師になろうと「挑戦」している年少の友人の顔が思い浮かんだ。
迷惑ばかりかけてきた年少の友人たちに、何とか恩返しができないかと考えていた。なぜか今日たまたま隣に立った友人の一人にドーナツをあげたら、彼は気分を害してしまったようだ。目隠しされていると状況がわからず、何をどうしたらよいかは本当に難しい。
今晩のところは友人たちを代表して、数学教員志望の彼に、恩返しの一部を受け取ってもらえるような幸運が訪れたらなと、ずっと願いながらこの記事を書いていた。本当だぜ。
(上記の記事はシリーズ第一弾)
数学教員志望の彼に、記事の途中で書いたこの命名作業を、私の代わりに行ってほしいんだ。
どうやら名前のないらしいこの憧れの書庫に、勝手に可憐な名前まで付けたくなってしまう。何という名前にしようか?
恥かしがっては駄目。情熱をこめて大きな声で呼ばないと、「天使たち」は降臨してくれないぜ。
はい、やり直し。声が小さい!
まだ羞かしがっているようだ。心の準備をする時間は充分にあったはず。数学教員志望なら、この記事の書き出しからピンとくるものがあっただろう?
その実態は未知数ではあるものの、「五輪終」=
未知数に5を輪して10なら、xの答えは……?
Go!
(……もし、今晩良い思い出ができたら、私の屍を踏み越えて、生徒たちの気持ちの分かる優しくて頼りになる数学教師になってほしい。楽しみにしているよ。皆、本当にありがとう!)