ブレーキ・ローズ 1965

本当はふざけてはしゃぎまわったユーモアが横溢した雑文を書きたい。ただ諸事情があって、どうしてもある程度は硬い話を交えないといけないような気がするので、せめて気の利いたアイスブレイクから始めたい。

「Damn, what garbage!」

「日本語で喋ってくれよ」

「クズ野郎って言ったんだよ、おまえのことをな」

「クズがどうした。クズが一輪の薔薇を咲かせることだってあるさ。燃やせば暖まるし、発汗作用や解熱作用だってある」

「そのセリフがオレのアクセルを踏んでくれたぜ。上等だ、クズ野郎。今日、決闘しようじゃないか」

「そのセリフがオレのブレーキを踏んでくれたぜ。引き始めの風邪には、葛根湯にしようじゃないか」

「さてはお前、『屑』ではなく『葛』の話をしているな」

「むむっ、クズかれたか。あばよ!(と一目散に逃げる)」 

 「Damn, what garbage!」

 さて、このやりとりでどれくらい読者が温まったかについては不安しか感じないが、「アクセル」で「ブレーキ」で「屑」な話の導入としては、悪くないかもしれない。 

ひょっとすると夢を見ているのではないだろうか。

幸福な夢にせよ、悪い夢にせよ、ここ数か月間、そんなことを感じることが多い。昨晩のニュース・ショーのトップで自分が毎日通勤している歩行者専用のアーケード街を、それなりに速いスピードで暴走者が駆け抜けていくのを見て、夢見心地になった。嘘だろ? 

どうやら本当らしい。こんな事件を引き受けてくれて、ありがとう、月曜日の神様。日曜や土曜の神様に押し付けていたら確実に死者が出ていたはず。

 現時点で報道されている情報では、息子が今治市から松山市まで母親を乗せて小一時間のドライブをしていたとき、車外か車内の小さなトラブルで息子が激昂し、理性の歯止めが利かなくなって、小一時間松山市の中心部を暴走しつづけたらしい。

愛媛新聞社の前で、タイヤを失って走行不能となった車から息子が飛び降りて、別の車を奪おうとしたところを取り押さえられた。大破した後部座席から降りてきた69才の母親は、手先だけではなく腕の付け根からわなわなと震えていた。死者が出なくて本当に良かったと思う。

 続報で全体像が見えてからの判断にはなるが、拙速にフライングしておくと、これは「ロードレイジ」の一例として捉えるべき事件だろう。

人は車を運転している時は、気が大きくなる心理傾向がある。

ロード・レージ - Wikipedia

日本語 wikipedia はちょっとそっけない。海外の検索上位の健康アドバイスサイトはどうだろうか?

Young men initiate most road-rage incidents, but anyone can feel rage behind the wheel. That's because anyone can take offense at what they think another driver is doing. "Our emotions are triggered by mental assumptions," James says.

Other factors that trigger road rage include preexisting stress and an innate feeling of intense territoriality that is suddenly threatened by another driver.

 ロードレイジは若い男性に多いが、誰でも(「攻撃された」という)「思い込み」によって引き起こす可能性がある。他にも、普段のストレスや生まれつき縄張り意識が強いことなどが原因になる。(大意)

これもやや表面的な理解ではないだろうか。

Google ブックス経由で見つけたこの本の99ページには、このように書いている。

社会のメディア化のせいで、人々は、家族や社会などの顔と顔を合わせてのローカルな他者との付き合いの多くを失った。そのため、そこから出て、自動車運転中(road rage)、繁華街(street rage)、電話中(telephone rage)のような場所で、より暴力的な行動をとるようになった。人々は失われたアイデンティティを外へ求める。なぜならマクルーハンの言うように「メディアはアイデンティティ」だからである。(超訳) 

Communication Theory: Media, Technology and Society

Communication Theory: Media, Technology and Society

 

 ホームズのこの主張に納得させられるのは、ロードレイジが顕著になったのが比較的最近(たぶん90年代くらいから)であることを、社会のメディア化が一因だときちんと説明しているからだ。.

さらにどこかで読んだマクルーハン理論の記憶に拠って付け加えれば、自動車自体がメディアなのであり、自動車にさまざまな入力を加えて意のままに操るとき、その人間のアイデンティティは自動車全体にまで拡大しているのだという。

いわば、自動車が自分の一部になり、自動車の機能が自分の能力そのものように感じられて、仮想的有能感が得られる。普段の社会生活で充分な自己肯定感を得られていない人間が、そのメディア媒介による仮想的有能感嗜癖的に没入して、他の社会的存在が見えなくなる状態が、ロードレイジだと言えるのではないだろうか。

一般に考えられているよりも、私たちが学ぶべきメディア・リテラシーの範囲ははるかに広大なのである。

自動車がメディアであるなら、私たちは実に多様なメディアを普段使いこなしていることになる。しかし、ある固有のメディアへ日常的に没入しすぎると、(なにしろ「メディアはアイデンティティ」なので)、特定のメディア(特にネット上の種々のSNS)でのメディア体験が、その人間の「定性」(恒常的性格)を形作ってしまうことになる。

そのようなメディア化社会で育ったデジタル・ネイティブたちを「若者」とひとくくりにして、メディアによる拡張自我の定性を「仮想的有能感」と定義したのが、この研究書。私見では、何世紀も前から再演され続けている「最近の若者は駄目」論とは、別の話をしていると思う。 

仮想的有能感の心理学: 他人を見下す若者を検証する

仮想的有能感の心理学: 他人を見下す若者を検証する

  • 作者: 速水敏彦,岡田涼,小塩真司,中島奈保子,高木邦子,小平英志,久木山健一,松岡弥玲,杉本英晴,伊田勝憲,木野和代,丹羽智美,山本将士,鈴木有美,高井次郎,Tan Eng Hai,松本麻友子,河野荘子,植村善太郎
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本
  • クリック: 5回
  • この商品を含むブログを見る
 

 こういう事件が起こると、「自己肯定感を得られない彼らの不幸な社会的境遇を、何とかせねばならない」という社会的包摂を謳う正論が、舞台の隅で縮こまっているのを見せられることになる。彼の肩身が狭いのは、その実現への道程があまりにも遠いものに感じられるからだ。何とか、あの小さな正論の背中をポンと叩いて励ましてやれるような言説はないものか。

そんな長年の問題意識が辿りついたのが本書。これ、倫理学や経済学周辺の地盤をかなり揺るがせるものなのではないだろうか。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

 上の本はいま手元にないので、基礎的な知識で概説すると、行動経済学などでお馴染みの「人間の行動の非合理性」は、人間の知性が足りないせいで非合理なのではなく、一見非合理に見える行動にも、長期的な生存の可能性を高める互恵性原理が働いていることが、最新の脳科学の研究で明らかになりつつある。

その互恵性原理を賦活しているのが、意識下で自動的に作動している(互恵性原理を阻害する)合理的利己主義者検知モジュールと、合理的利己主義を放棄するための「感情」なのだというから驚きだ。感情は自然発生的にアプリオリに人間に備わっているものではなく、「生き残り」という至上命題を果たすためのツールとして、人間にインストールされているプログラムというわけだ。

「感情的な人間は損をする」と巷間よく言われる合理的な損得勘定は、実はハズレで、長期的に見れば互恵性原理支持者の方が生き残る確率が高く、だからこそ、互恵性原理を賦活する無意識の自動処理モジュールや損得勘定を越えうる感情が、生得的に埋め込まれている。進化心理学はそう語る。

まだ若いこの学問分野が一定程度進んで、学術的なお墨付きを得られれば、社会を良くするために利他的行動を取る人間たちの数が飛躍的に増え、彼ら同士の協働の件数がますます増えるかもしれない。

というわけで、ここまでの話に魅力を感じた人は、ぜひとも進化心理学の本に心のブックマークをつけておいてほしい。  

f:id:tabulaRASA:20171115010258j:plain

チェット・ベイカー、イーディー・セジウィックシド・バレット…。

自分は違法ドラッグに手を染めたことはないが、麻薬に耽溺する人間にひどく惹かれてしまうのがなぜなのか、まだ答えを出せずにいる。 

今晩は月曜日の神様に感謝する夜になったので、かつて書いた月曜日の記事の冒頭を引用したくなった。上の写真はイーディー・セジウィック。ごく短いあいだアンディー・ウォーホルの詩神だった女優・モデルで、ドラッグ中毒によって28歳で夭逝した。自分が生まれる前の話だ。写真はファッション誌の Vogue で、彼女が「This year of the girl」に選ばれた1965年のもの。

 Vogue 誌が2015年に回顧記事を書いている。

Forty-four years later, her gamine vulnerability still haunts. One thing is certain—she has been famous for far longer than fifteen minutes.

40年後、お転婆でありながら傷つきやすい彼女の姿が、人々の心をまだ捉えている。ひとつだけ確かなことがある。彼女が15分より遙かに永い間、有名でありつづけていることだ。

最後の一文はウォーホルの「将来、誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」という名言を踏まえている。

イーディーは人気の絶頂と幸福の頂点にいて、まるで犀の剥製の上にとまっている鳥のように見える。やがて、その傷つきやすさにより転落して亡くなってしまうことを、写真を見る者は知っているが、それを知っているからこそ、写真の中のイーディーが羽根のように宙に浮かんでいるような気がしてしまう。こういう絶望直前の幸福を写した写真に、自分は耽溺してしまう癖がある。 

イーディ―’60年代のヒロイン

イーディ―’60年代のヒロイン

 

原則として嘘をつかないことにしている。これも実話だ。自分はかつて乗っていたロードスターを「イーディー」と名付けて、ナンバープレートを「1965」にしていた。そして、その「イーディー」運転中に、ロードレイジのかなりヤバい事件に遭遇してしまったことがあった。 

 今から十数年前、深夜の海岸線をドライブするのが趣味だった。港にさしかかると、フェリーから搭乗車が降りてきた。一台目はタンクローリー。そのあとに数台。わが愛車は、数台の間のどこかに入り込む形になった。片側一車線の海岸線はノロノロ運転のタンクローリーを先頭に、数珠つなぎの光の列になった。

スピードの遅さに苛々したのか自分の背後の車が、車間を異様に詰めてくる。背後の車はワンボックスのセレナだった。ロードスターは車間を詰められると、高い位置にある後続車の前照灯が眩しくて運転しづらい。自分は対向車線側にある待避スペースへいったんよけて、今度は自分がセレナの後ろに回った。

もちろんこちらからパッシングしたり車間を詰めたりはしていない。心当たりがあるとしたら、自分がまだ東京から車を持ち帰ったばかりで、練馬ナンバーだったこと。東京者の黒ロードスターはそれなりに目立つらしく、何もしていないのに白バイに尾行されたこともあった。

どうやら、セレナの運転手はからかわれていると思い込んだらしい。あるいは感情のどこかに棘が刺さって、激昂してしまったらしい。

セレナはやにわに別の待避スペースへいったん入り込み、再度ロードスターの背後へ回り込むと、激しくパッシングしたり蛇行したりしてこちらを威圧してきた。

いつのまにか周囲の車は別の道へ流れ去っていた。海岸線を走っているのは、ロードスターとセレナの2台きり。ロードレイジに駆られて、背後で煽り運転を繰り返しているセレナは、周囲に車がないのを良いことに、片側一車線の対向車線へ躍り出て、並走しながら幅寄せしてきた。車に傷がつくと厭なので、こちらは大人の対応で車を停止させる。すると、向こうも停止する。やれやれ。海岸線が終わるまで、こいつにバイバイする分岐道はないので、長い付き合いになりそうだ。それから、何度かのストップ・アンド・ゴー。

何度目かにアクセルを思いっきり踏んだ。速く切り抜けた方が良さそうだったから。

すると、対向車線を並走しているセレナも思いっきり加速してきた。

あと少しで海岸線を抜ける。抜ければ免許センターの近くには分岐道があったはず。そう考えたとき、恐ろしいことが起こった。対向車線の向こうから、軽自動車がこちらへ向けて走ってきたのだ。セレナはブレーキ必至なので、これで引き離せると思ったのもつかのま、セレナは狂った運転操作を仕掛けてきた。さらにアクセルを踏んで、幅寄せしてロードスターを押し潰しながら、対向車をよけようとしてきたのだ! 相手が狂っていると思った瞬間、自分は急ブレーキを踏んだ。踏んだが間に合わず、左フェンダーはガードレールを大きく擦った。セレナはほとんど無傷だった。

30歳くらいの大男が降りてきて怒鳴った。

「おい、小さい子供が乗っとんやぞ!」

母親に促されて、小学生くらいの女の子が二人、車から出てくるのが見えた。幼い子供を乗せて、よくあんな悪質な煽り運転ができたものだ。どうして母親は止めなかったのか。

すぐに警察に電話した。運転席から警察に電話していると、大男が開いた窓から器用に足を蹴り入れてきて、電話を吹っ飛ばされた。到着した警察に対して、大男が暴行容疑を認めたので、警察に被害届を出す意志があるかどうかを問われた。

迷った。

迷った挙句、被害届は出さずにおくことにした。出せば、大男は会社を馘首されるかもしれない。そうなったらこの一家はどうなるのだろうか。

けれど、自分がそんな寛容すぎる結論を出せたのは、他に大きな理由があった。ほとんど信じられないことと思うが、神様がシンクロニシティでメッセージを送ってくれているのに気が付いたのだった。単純計算すれば1/10000の確率になる。何と、大男のセレナのナンバーも「1965」だったのである!

本当にあった話だ。身勝手な怒りに駆られて我を忘れると、家族の幼い生命すら、死の危険に晒してしまうことを、きっと神様は教えようとしてくださったのだと思う。そして、その教えを自分は忘れたことはない。

そののち、保険の交渉で理不尽な言いがかりをつけられたので、大男の住まいを訪問する機会があった。郊外の市営団地。小さな女の子用の自転車が二台あるのが見えた。

まさかあんな悪質なロードレイジ車の中に、幼い女の子がいるとは思わなかった。自分のブレーキングは、かなりラブリーだったと言えるのではないだろうか。アイスブレイクで始まったこの記事のこの行に、「愛すべきブレーキ」と書くことを許してもらいたい。どんな理不尽な酷い目に遭っても、やはり我慢や忍耐を忘れてはいけないのだろう。

「忍耐」を意味するこの曲を歌っているのはアクセル・ローズ。この曲をリリースした当時は、「瞬間湯沸かし器」と渾名されるくらいすぐに激怒する癖があったはず。ならば、さしずめ自分はブレーキ・ローズというところか。

クズがどうした。クズが一輪の薔薇を咲かせることだってあるさ。

 話が薔薇へ舞い戻ってきたようだ。自分には忘れられない一輪の薔薇があって…

OK。その話はここではもうやめにしよう。どんな Garbage であっても、必死にやれば、人生をやり直せる機会をつかんで一輪の薔薇を咲かせることができる程度には、世界に希望が満ちていることを、今の自分は信じたい。そして、できうるならその希望が実在することを証明して、偶発的な不幸の暗い底に沈んでいる人々に、小さな希望の光を届けたい。今そんな気持ちを抱いている。

 

 

 

Beautiful Garbage

Beautiful Garbage

 

(Garbage のジャケット写真の美しさにクズいてほしい。お帰りは安全運転で)