鹿られた鹿が鹿った鹿を鹿った

冗談はさておき、エレベーターが特殊舞台として最も輝くのは、密室殺人よりも「密室での愛」にちがいない。その数十秒をどのような情緒で描き上げるかを考えると、筆を繊細に動かさねばならない覚悟のようなものが指先に漲るが、あの密室の閉塞感を表現するには、映像の方が向いているかもしれない。愛する二人が無言でも、密室を音楽で満たすことができるから。

エレベーターの中での愛は、長くても数十秒。ちょうどCMの長さと同じくらいだ。これまで無数に見てきただろうCMの中で、生涯ベストに挙げる人もいるのが、このジーンズのCMで、「自分のマイナーな愛聴盤がまさかCMで使われるなんて」という驚きで目を瞠った記憶がある。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3652649

自分が心を奮わせた生涯ベストのCMは、オンワード樫山のこのシリーズだ。

残念ながら自分が大好きだった15秒は見つけられなかった。記憶だけを頼りに再構成してみる。

異国の草原を旅しているヒロインが干上がった水のない湖に辿り着く。湖底には、白の塗装があちこち剥がれた木製ボートが乗り捨てられている。ヒロインが戯れにそのボートに座って櫂を握った瞬間、湖には水が満ちあふれ、ヒロインは微笑しながら、湖面をすべっていく。

音楽が S.E.N.S.だったのはよく憶えているので間違いない。その15秒を見ていて、あ、『豊饒の海』だ、と思った。

三島由紀夫ファンならよく知るところ。遺作となった『豊饒の海』4巻の『天人五衰』は擱筆の日付が自決当日。小説の終わりは三島の人生の終わりでもある。

最終場面に書かれていたのは、「それも心々ですさかい」の相対主義の闇の中に溶け入ってしまい、共に生きたはずなのに、夭逝した親友やその禁じられた恋や輪廻転生などのすべてが、確かに存在していた確証が崩壊していくニヒリズムの極致だった。

しかし、創作ノートを丁寧に検証した研究者が、三島が4巻の執筆途中までは、最終場面で「天空へ美少年が舟を漕いで昇ってゆく」ような、一種のハッピーエンドを構想していたことを説き明かした。光臨の構想と不毛の結末の二重性。さらに、『豊饒の海』とは、豊かな生命を育む海であると同時に、実際に月にある干からびて何もない不毛の荒地の名でもあるのだ。ここにも二重性がある。

干からびた湖底のボートにヒロインが乗ると、湖水が満ちてボートがすべり出すあのCMに、自分はそのような二重性を知らず知らずのうちに読み取って、感動したのだろう。虚構没入癖のある人間たち特有のこの種の悲痛さは、もう少し俗耳に入りやすいように例え直すと、こんな感じだろうか。

孤児院に入ってきた幼稚園生くらいの男の子が、自分の背丈ほどもあるミッフィーを抱いて「これがぼくのお母さんなんだ」と強情に言い張っている。職員が困って「本当にお母さんなの?」と優しく聞くと、男の子が泣きそうな声で「そう言えって、いなくなったお母さんに言われたんだ」と答える。 

虚構だとわかってはいるけれど、それがどうしようもなく現実に食い込んでいるのだ。 

豊饒の海』と言えば、松山市郊外の沖合、北条の海に鹿島という小さな島がある。実際に鹿が生息しているので、子供の頃によく遊びに連れて行ってもらった。 

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 上のサイトが、小ぶりで可愛らしい鹿島の魅力をうまく捉えていると思う。鹿島入口の船着き場にある白鳥居の写真もちゃんとある。白い鳥居越しの島が美しいのだ。

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真夏の方程式』のロケハンでは松山市郊外の高浜駅が使われた。

北条の海と鹿島と白い鳥居。

実は、この三つの取り合わせをロケーション・ハントして、海岸沿いに家具工房を立てた人がいる。白い鳥居自体が珍しく、海と島とともに眺められるのは、全国でもここだけなのだとか。

そのような普通の人が見落とすような小さなことに気が付く美意識が素晴らしい。繊細な美意識と手作りの風合いの良さが生きた家具を、オリジナル制作して販売している。

Tower(タワー)|手作り家具・オーダー家具|愛媛県松山市

20代までの生命との宣告を受けていた自分は、しかし、そんな現実の厳しさもどこ吹く風、紀ノ国屋から骨董通りへ散歩の足を延ばして、高級家具店めぐりをしてパサージュを楽しんでいた。

家具工房の主人は、IDEE出身らしいので、ひょっとしたら約20年前に青山の骨董通りで顔を合わせていたかもしれない。 

もう少し鹿島の話を続けたい。 鹿島茂の『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』を読んだ。トッドはジャンルとしては家族人類学の研究者になる。ただ、『帝国以後』など世界情勢に関する著作が増え、しかも(ネット上の覚醒民も夙に確信していた通り)トランプ大統領誕生の「予言」を的中させたなどという話題と相俟って、最近急速に注目が高まっている。

いま手元にある主著『世界の多様性(家族構造と近代性)』も、かなり分厚くて手ごわい本なので、新書レベルのわかりやすさとコンパクトさでまとめてもらえるのは助かる。 

 自分がトッドに食指を伸ばしたのはかなり昔のこと。当時は「家族類型一元論」でどこまで世界史を分析できるかには懐疑的だったが、家族類型が人々の人格形成に大きく寄与することには注目していた。

フーコー流の生-政治ならぬオルガ流の性-政治を調べていたとき、どこか日本に似たドイツの家族システムに目が留まったのだ。そこにあるファシズムへの親和性と性を抑圧しがちな権威性が、ナチスの謀略によって、国民の「性」の抑圧を通じて「政」の全体主義への全人的加担に悪用されたという作業仮説を、当時の自分は追っていた。

トッドの主張の概略は、この一枚の図でほとんど言い尽くされている。仔細に見れば見るほど、彼の文化分析がかなり的中していることがわかるだろう。

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 世界史や世界情勢はかなり大きな話だが、トッドの分析はもう少しサイズの小さな社会心理学の分野でも生きている。ある家庭内で、父による権威主義が強く、兄弟姉妹の待遇差が大きいと、ファシズム性向の強い「権威主義的人格」を形成しやすいことは、すでに社会心理学の分野では定説となっている。 

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ

 

この権威主義的パーソナリティーは、トッドの図で明らかなように特に日本に多い性格傾向だが、これが日本社会の各所にある陋習を形作っているというのが私見だ。

権威主義的人格は、以下のおおよそ5つの性格傾向で構成されている。これらの構成要素は半世紀ほどの研究を経て、ほぼ安定したものと言っていい。権威主義的パーソナリティー研究の日本第一人者の著書を参考にしながら、まとめていきたい。 

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

 

これが権威主義的パーソナリティーの5つの性格傾向だ!

 1. ファシスト傾向 

 権威主義の高まりは、戦前の日独伊のように、しばしば上位下達的な右翼思想を伴うことが多い。

2. 教条主義的人格

 教条主義とは、受け容入れた特定の教義や教条が、すべての善悪の判断基準になる傾向のこと。しばしば、教条の正しさの度合いや正しさの適用可能範囲を誤り、教条の異なる他者への不寛容や加罰傾向を伴う。

3. 因習主義的人格

 因習主義とは、伝統や前例のあるものだけが妥当であり、それが「新しい」という理由だけで改善や修正を拒否する態度。因習を教条とする教条主義とも考えられる。

4. 反ユダヤ主義(人種差別主義)

ドイツ人の場合にはユダヤ人が攻撃対象となったが、それぞれの民族にそれぞれ攻撃対象となりやすい少数民族がいる。

5. 自民族中心主義

自民族中心主義とは、自民族が民族として優れていると感情的に強く信じる傾向である。戦時ドイツのアーリア民族の優越主義が反ユダヤ主義の基盤になった。

 

注意しなければならないのは、これらの権威主義者が、(戦前戦中に左派を激しく糾弾し、敗戦後自殺した蓑田胸喜のように)、権威を笠に着て「他者」を激しく攻撃するだけでなく、徹底して服従することによって、ファシズムを現出させるという事実の方だ。

かの有名なミルグラムによるアイヒマン実験が、その一端を証し立てている。

この実験の真の目的は、権威に対する「服従実験」。つまり、「権威によって他人の体に危害を加えるように指示されたとき、いったい人々はどう振る舞うか?」を調査していたのだ。

ナチス親衛隊として何十万ものユダヤ人をガス室に送ったアイヒマンは、ドイツ敗戦から約10年後、逃亡先のアルゼンチンにて捕らえられて裁判にかけられるのだが、その裁判をハンナ・アーレントという哲学者が傍聴していた。

アイヒマンは被告席で「上からの命令に従っただけ」とただ繰り返す。アーレント女史は、その言動のあまりの矮小ぶりに驚愕する。

ユダヤ殲滅のために辣腕をふるったこの元ナチ親衛隊は、巨悪に加担した残虐な怪物とは程遠い、単なる凡庸な小役人に過ぎなかったのだ。

「命令に従っただけ」

その言葉の裏にあるのは、権威の庇護にある安全圏での、完全な「思考の放棄」である。それはつまり、善悪やモラルの判断をも放棄するということになる。

「思考できなくなると平凡な人間が残虐行為に走る」

アーレントはこう述べ、「悪の凡庸さ」という言葉を生み出した。ヒトラーのような本物の悪の権化の存在は、じつはほんの一握り。実際の悪は、その他大勢の凡庸な人間の思考停止によって遂行されるのである。

アーレントはこの裁判を踏まえ、「思考を止めない」ということの大切さを世に強く訴えかけた。 

権威主義者は、その権威の内容の如何にかかわらず、思考停止したまま権威に服従する性格傾向を持っている。昨日まで皇軍必勝を唱えていた日本兵は、米軍の捕虜となったとたん、淀みなくすべてを告白してしまう。 

日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)

日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)

 

権威主義的パーソナリティー研究の第一人者である岡本浩一は、いみじくもそれを『無責任の構造』と結びつけて論じ、その新書の書名にしている。

当然のこと、そこに丸山真男の『無責任の体系』を呼び出さなければならない。

ナチ指導者とは対照的に、日本の軍国指導者はみな口を揃えたように自らの無責任を主張した。彼らは無法者が先導して生成した「既成事実」へ「役人」として屈服し、「私の意見はどうあれども、いやしくも決定されたことに逆らうことはできぬ」として既定路線を突き進んだ上で、その官僚精神をもって「権限への逃避」を行い、「行われたことはすべて私の権限の管轄外である」としたのである。その矮小性は確かに明らかである。

ネット上に丸山真男を読んでいる人が少なかったのは残念だった。上記引用部分は、丸山真男の思想のうち、権威主義に関わり深い思想的エスキスを、ブロガーの方がまとめたもの。自分もこの論文が好きで、文脈を整えた上で、小説中に「これはお伽噺ではない」という一文を書き込んだ。

では、敗戦直後に丸山真男が激しく論難した「無責任の体系」はその後どうなったのか? 残念ながら、もちろんこの国に連綿と受け継がれていると言わねばならない。「無責任の体系」への最新の批判を、私は「日本悪所論」と短縮して呼んでいる。 有名な「悪所」箇所を引用しよう。

日本・現代・美術

日本・現代・美術

 

われわれが「歴史」の名のもとに語ってきた当のものこそが、なべての「歴史」を去勢 してしまうような「悪い場所」ゆえの「閉じられた円環」なのであり、われわれが最初から歴史を語りうるという権利を既得権のように主張するのとは別の隘路を通じなければ、 この円環の「彼方」に至ることはできない(後略)
(『日本・現代・美術』) 

日本=「無責任のはびこる悪い場所」論の系譜は、丸山真男『日本の思想』の向こうを張った力作『ニッポンの思想』の佐々木敦が綺麗にまとめてくれている。

 この「悪い場所」という表現は、言い方は悪いですが、とてもキャッチーでした。椹木が言っていることは、「八〇年代」に柄谷行人浅田彰が批判していた「持続」や「自然=生成」(あるいはもっとマクロな形で蓮質重彦が看て取っていた「制度」)、遡れば彼らが依拠していた西田幾多郎の「無=場所」に、そして「九〇年代」に入って、福田和也が柄谷や浅田の認識をそのまま肯定的にひっくり返してみせた「日本という空無」と、まったく同じです。更に、構木は「第二次世界大戦」「戦後」「アメリカ」という項も導入していますから、大塚英志宮台真司のアクチュアルな「歴史」観とも相通じています。

 「日本」という「国=場所」の「本質」において、また具体的現実的な出来事の連鎖によ って、ともかくも「けっして変わることがなく、変わりたくても変われず、変わったと思っても実は変わっておらず、だから今も変わっていなくて、これから変わ(れ)ることもない」という、それ自体えんえんと続いてきた「日本=歴史」観を、構木は「悪い場所」というわかりやすい言葉で言い換えてみせたわけです。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 

  さて、とうとうこの記事もメインディッシュの部分を書き終わったわけだが、このメインディッシュは食べ方に注意が必要だ。手前から奥へ向かって食べてほしい。つまり、この段落から、上へ遡る形でもう一度論旨のつながりを確認してほしいのだ。

「日本悪所論」のかなりの部分は、実はトッドのいう家族システムが主因となっていたのではないかというのが私の見解だ。世界史をあそこまで明解に分析可能で、しかもリーマンショックアラブの春ブレグジットまで的中させているトッド理論。これまで思想史の中で日本が「悪い場所」であることは、繰り返し論じられてきた。しかしその核心的原因に肉迫した言説はなかったはず。トッド理論はそれを打開する最も有力な手がかりになりそうだ。

 ふう、やっと書き終わったか、と溜息をついたところで、電話がかかってきた。

 

ぼく:もしもし。

女の子:もしもし、執筆お疲れさま。

ぼく:誰? *、*、*、**ちゃん?

女の子:お久しぶり、先生。読んだわよ。イイ女に書いてくれてありがとう。

ぼく:え? 琴里? 本当?

琴里:そんなことより、さっきすごく動揺してたよ。**ちゃんって誰?

ぼく:…うちのお母さんしか知らない …謎の女性さ。いつかお話しできるんじゃないかという気がしていたから、さっきつい、早合点しちゃったんだ。

琴里:ひょっとして、あの女の子のこと? 先生がアフロ犬になって、お散歩コースで偶然を装って逢いたがっている…

ぼく:え? ぼくが書いているメールを読んでいるの?

琴里:全部お見通し。私は先生の書いた小説の登場人物よ。いまも先生の心の中から電話しているの。

ぼく:じゃあ、聞いてくれるかい。メールではああ書いたけど、本当は無理な気がしてるんだ。どの町のどの道か、全然わからないから、どこへ行けばいいかわからない。

琴里:莫迦! 先生ったら、本当に莫迦。いいかげんにしてよ!

ぼく:急に叱らないでくれよ。さっき英単語の件で叱られて、シュンとしているところだし。とにかく、状況のすべてが曖昧なんだ。

琴里:曖昧なのは先生の気持ちの方よ。ハートに火がついていれば、彼女が住んでいる街くらい、絶対にわかるはずよ。…自分を信じて。苦難の解決策はあなたの中に眠っている。私ですらこの記事を読んで、彼女がどこに住んでいるかわかったんだから。

ぼく:え!!! どこでわかったの? 知らず知らずのうちに、ぼくの潜在意識が書いていたということ?

琴里:その通り。先生は、ハートの真ん中に i があるから。絶対にクズ野郎なんかじゃないから。

ぼく:…まさか、まさか。ぼくがク i ズ野郎だってこと?

琴里:勘がいいのね。私が読んでわかったということは、この記事の読者もわかるはずだということ。ク i ズにして、ズバリ答えを出しちゃって。私、曖昧なのがいちばん嫌いなの。曖昧に甘い愛…

と言いかけたところで、琴里からの電話はいきなり切れた。「曖昧に甘い愛…」の続きは何だったのだろう。気になるな。またしても、シニャックと同じような悪戯を仕掛けられて、心のざわめきが収まらない。

心にざわめきを抱えたまま、さて、ここで読者にク i ズです。

ク i ズ:**ちゃんはどこに住んでいるでしょう?

 

 

 

わかった! 見つけた!

と思った次の瞬間、私はこう呟いていた。

「曖昧すぎやしないか、琴里」