崖の上のポニョ、街は私たちのモニョ


上の記事を書いたときに、小林麻美の『GREY』を懐かしい思いでひと通り聴き直した。 記憶が確かなら、小林麻美松任谷由実は大の仲良しで、このアルバムの作詞作曲はすべてユーミンが手掛けたはず。いまレビューを覗くと、記憶通りだった。絶賛が多くて嬉しい。「I MISS YOU」と「GREY」がお気に入りの曲だった。

曲順通り聞いていくと、うっすらと物語があるように感じられる。

バブル全盛期で、年上でお金持ちの男の愛人になってはみたものの、「心」の位置が移りゆき、「恋」が「愛」に変わって本気になってしまった。しかし、彼は移り気な遊び人なので自由に遊びまわるので、そばにいても遠い存在。その大ハシャギを遠くから見守っているしかない。いつのまにか恋は燃え尽きてしまい、その煙の立ち昇るグレイの黄昏の中で、終わった恋を愛おしんでいる。 

「GREY」は近作でユーミン自身によって、リメイクされた。 

宇宙図書館(豪華完全限定盤)(CD+Blu-ray+2LP)

宇宙図書館(豪華完全限定盤)(CD+Blu-ray+2LP)

 

 いつだっただろうか。一度本格的に松任谷由実カルチュラル・スタディーズ的な目線で研究してみようと考えて、2枚組のベストアルバムをレンタルして聴き込んだことがあった。 

Neue Musik

Neue Musik

 

 「春よ来い」「リフレインが叫んでいる」「Anniversary」が、特にお気に入りだった。歌詞カードで見ると、歌人たちの文語駆使の超絶技巧に比べると、本当に可愛らしい修辞しか使っていないのに、なぜここまで佳い曲になるのか。「春よ来い」!

と、冬の真っ只中で、大学図書館の書棚の前で立ち尽くして、感傷に浸っていた。今晩書こうと思っていたのは、おおよそでこのフローだった。

建築家コーリン・ロウ→松永安光→海外の都市計画→海外のソーシャル・ビジネス事例

 ところが、大学図書館で借りられる松永安光の著作は一冊もなかったのだ。途方に暮れているとき、目に留まったのが、石川幹子『都市と緑地』。懐かしい。約10年ぶりの再会だ。

中でも、石川幹子『都市と緑地』が、緑地を侵蝕し分断する「都市計画なき規制緩和」に歯止めをかけようと抵抗しているのに目が止まった。著者は欧米の都市形成の歴史を詳述して、東京にもパーク・システム(緑地の機能的構成)を織り込んだ都市計画を確立すべきだと説く。古都ボストンが自然再生型の河川改修によって豊かな緑の連鎖を築き上げ、それを市民がエメラルド・ネックレスと呼んで親しんでいることが、おそらく著者の念頭では強い輝きを放っているのだろう。

この記事をアップしたとき、世界的な日本人作家が当時、もしくはその少し前にボストンで暮らしていたらしく、そこに引っ掛かりを感じてもらって、どこか上機嫌でいらっしゃるような波動が伝わってきた記憶がある。ああいう波動のようなもの。オーラのようなものは、本当に不思議だ。顔も見えない。名札もついていない。音声信号で名前が伝わってくるわけでもない。それなのにそれが誰かわかるのだ。

けれど、上記の思い出はたぶん99%くらいは気のせいだろう。

あれを書いていた頃は、どのようなスタイルで書いていくか、文体を模索中だった。読み返していて自分で苦笑してしまうのは、この部分。

 なにしろ同書の「廃園の精霊」という一章からも、明治初期に「都市と緑地」が拮抗した一場面が窺えるのだから、やはり書物というものの広がりは尽きないのだ。

文体模索にも程があるだろう。と鏡の自分に向かって、両の手のひらを身体の両サイドで天へ向けてしまう。「あきれたぜ、俺」のポーズだ。

これは読む人が読めば分かるように、Car Grapfic TV のナレーションの文体の影響が濃い。「アムロ行きます!」で同じみの古谷利裕(追記:「古谷徹」の間違いでした。お詫び申し上げます)のナレーションが耳に馴染みすぎていたらしい。プレゼンターは自動車評論家の田辺憲一と松任谷正隆

(この放送をオンタイムで見たのを覚えている)

というわけで、(宇宙内)図書館で都市計画の本を借りようとしたときに、脳裡に小林麻美の「Grey」が流れた理由はわかってもらえたと思うが、わかってもらうだけの意味があったのかは自分にもよくわからない。

 わからないと言えば、スポーツジムに通い始めたものの、ちょっとだけ筋肉はついたが依然として Body Mild なままなので、いつになったら充分なトレニーニング時間を取れるようになるか知りたい。それなのに、不確定な多忙さのせいでよくわからない。

崖の下にひとり転落してしまったような不安と孤独の中、今夜もいわば「崖の下のポニョ」な気分でこれを書いている。 

崖の上のポニョ [DVD]

崖の上のポニョ [DVD]

 

けれど、はっきりわかることもあって、『崖の上のポニョ』の舞台となった鞆の浦の開発計画は、どう見たって駄目に決まっている。そう思って、数年前に旅行したときに母と反対署名を寄せた。喜ばしいことに、昨年開発計画が正式に撤回されたようだ。

ただし、架橋計画が中止になったことだけをもって、それでハッピーエンドというわけではない。

埋め立てが中止となったいま、「本当の景観維持」のためには、観光客の路線バス利用の促進やパークアンドライドの推進、更には一歩進んで、観光客の自家用車乗り入れ規制を行いトランジットモール化するなど、将来に亘って住民が住みやすく、景観維持にも繋がるような街づくりをしていくことが必要なのではないだろうか。

上の記事を書いたのは、都市計画を扱う研究者たちらしい。解説を加えておくと、パーク・アンド・ライドとは、中心部と周縁部の境界線上に駐車場を設けて、中心部を車通りのない歩行者だけの街にすること。トランジットモール化とは、 中心部を電車やバスなどの公共交通機関と歩行者だけの街にすることだ。

21世紀に入った頃からだろうか。都市の中心部をヒューマン・スケール(徒歩基準)に基づいてデザインするのが、とりわけヨーロッパで「王道」として回帰しつつある。

そこにあるのは、「人間以外に基準にすべきものなんてあるのかい?」いう問い。許容されるのは、「自転車基準」までで、「自動車基準」は遠ざけられている。 その立場に立てば、文化遺産の景観を破壊する形で幹線道路を架橋しようとした鞆の浦の開発構想は、そもそもかなり奇異だったのだ。

アムステルダムが中心部への自動車の乗り入れを廃止して、自転車で移動できる街へ再設計したことで、どれほど都市が生き生きと蘇ったかを見てほしい。

(下のブログがコメント付きでキャプチャーしてくれている)

実は、上で書いた「パークアンドライド」にしても「トランジットモール化」にしても、TDM(Transportation Demand Management:交通需要管理)の範疇に入る施策で、TDMは空間的に分散するよりも時間的に分散する方が効率が高いとされている。 

コンパクト・シティ―豊かな生活空間 四次元都市の青写真

コンパクト・シティ―豊かな生活空間 四次元都市の青写真

 

日本よりも数十年早く人口の鈍化が始まったドイツは、「コンパクトシティ化」への取り組みが早かった。その教科書ともされたG.B.ダンツィクの『コンパクト・シティ』が「四次元都市」と銘打って、都市の「時間的分散」に重点を置いていたことを思い出しておきたい。必ずしも莫大な投資を必要としない方法で、ヒューマン・スケール基準の中心街再活性化計画を実施する余地は、充分にあると考えるべきだろう。 

上の記事で、高松と松山の四国のリーダー争いについて書いた。

さらに、上の記事では、「回遊性」豊かな松山中心部の再活性化計画案を、誰にも頼まれていないのに、ひとり考えてみた。

松山にだって、東急ハンズもあれば LOFT もある。ひと昔前には、その店舗名に微苦笑を誘われがちな「ラフォーレ原宿松山店」だってあった。

それでも、少なくとも中心街のデザインについては、松山より高松の方が優っているとベンヤミン好きの散歩者は感じていた。今晩はその理由に辿りつくことができて嬉しい。 

「縮退都市を牽引する」というのは、今の時代にふさわしい勇ましいキャッチコピーだ。多品種の品揃えと消費効率の高さと交通動線の太さでは、郊外の大型店舗には適いっこない。そこで「消費者」ではなく「生活者」を呼び戻そうと構想したのが、高松丸亀商店街の成功の理由となった。

人口減少の時代には、行政も都市を維持する財源に限りがあるので、正しく都市を縮めることが求められます。

上のよくまとまった記事に目を通してもらった上で、種々の情報源を分析して付け加えられるのは、3点。

  1. 先見の明のあるリーダーと地縁的なつながりがあったため、所有と利用を分離した定期借地契約の取り付けに成功した。
  2. 「高松丸亀町まちぢくり」という街づくりのプロの会社が商店街を運営しているので、失敗がない。運営状況をモニタリングする自治体や学識経験者らによる第三者機関もある。
  3. 虫食い状に低密化していく商店街の空き家や空き地の権利を、専用の投資会社が取得し、「高松丸亀町まちぢくり」へ委託運営するシステムが整っている。

自分が注目しているのは、3.の「虫食い状の低密化」をどのようにして官民連携して、豊かな社会的資源に変えていくか。これは饗庭伸の問題意識ともつながる。 

都市をたたむ  人口減少時代をデザインする都市計画

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

 

  そう語るのは、都市計画に詳しい建築家の書いたこの本。一息で要約すると、 人口増加時代、日本の都市はスプロール状(虫食い状)に農地を都市化していったので、これから来る人口減少時代でも、都市はスポンジ状(虫食い状)に商業地や住宅地を低密化していくだろう。そのスポンジ状の穴のひとつひとつを、周囲の住民の社会資本とすべくコミュニティ機能を持たせた再開発をする(空き家再利用などの)スポンジ活用化が、長期間かかるコンパクト・シティ化の手前で進行するだろう、といった感じか。 

さて、先日暴走車が爆走した松山市内の大街道と銀天街を何とか活性化する妙案はないものか。損な思案の末に集めてきた情報は、一夜漬けの割には、充分に出揃ったような気がしている。

  1. 商店街周辺に急速にマンションが増えつつあるのは好材料。徒歩基準に立って、若い観光客向けの1600m(有酸素運動始値)の観光回遊コースを設立する。
  2. 一般人の希望徒歩移動距離(700m)を基準に、都市人口の高齢化を見越した商店街のテナントミックスと居住者の呼び込みを、専門家の指導のもと、市の主導で補助金により推進していく。
  3. 中心部より少し離れた道後温泉だけでなく、商店街内に(高松丸亀商店街に先駆けて)温浴施設を設置して居住者の呼び込みを進める。

 ちなみに、この辺りのアイディアは、自分の実存的条件にかなり近いところから出ている。自分は 1.の中心街に近いマンションに住んでおり、しかも自分のマンションは、郊外大型店舗の複数出店により閉鎖した温浴施設の跡地に建っているのである。掘れば温泉の出る土地柄なのだ。

 いささか地元ローカルな話に偏ってしまっただろうか。

ではヨーロッパに目を転じよう。饗庭伸は、都市の虫食い状の低蜜化に抵抗して、周辺住民が空き家を社会資本の生まれる場として再活用すべきと主張していた。人口増加の鈍化が数十年早かったヨーロッパでは、 そのような空き家を社会資本が「占拠」する現象が横行していることも、知識として頭に入れておくべきだろう。

この映画では、スクォッター(英: Squatter, 独: Hausbesetzer)の活動を大きく取り上げています。スクォッティングとは日本ではあまり聞きなれない言葉ですが、60年代に始まった社会運動の一つで、(大抵の場合は不法に)都市の空き家を、政治的メッセージの発信やアート・文化活動などのために、自分たちの「ねじろ」に作り変えて住み着く事を指します。

 (…)

アムステルダムのスクォッターは占拠した空間をアトリエ、ギャラリー、飲み屋、ライブハウス、舞台などに作り変え、独自の文化を発信してきました。映画を見ていくと、スクウォッターのこのような活動が、グローバル資本主義に飲み込まれていく都市空間に抗い、人々が自由に使える空間を確保するための運動としての側面がある事が浮かび上がってきます。

興味深い点は、そもそもは不法占拠をベースにした運動だったにもかかわらず、現在ではスクォッティングのポジティブな側面を行政や市民が認めていることです。アムステルダム市議員(労働党)の女性は次のように語ります。

「我々は明確にスクォッターの規制に反対している。スクォッターの活動は、人や物を傷つけない限り、都市にとってむしろ歓迎されるべきものだ。」

ドキュメンタリー映画「創造性と資本主義都市」―アムステルダムの手頃な空間をめぐる攻防 « Urban-Ma-Labo

自分がスクォッターたち初めて目撃したのは、インターネットの本格的な普及前。90年代前半に STUDIO VOICE 誌上だったと思う。上の引用だけだと、芸術家崩れが能書きを並べて不法占拠をしているだけに見えなくもないが、自分が読んだ記事では、言葉の通じにくい移民向けの相談窓口や託児所や児童演劇などを運営していたと思う。スクオッターが創り出す空間には、文化資本だけでなく、社会資本も集積されているというわけだ。

すると、反グローバリストたるスクオッターたちの思想が、この著書につながっているのがわかるだろうか。

デビッド・ハーヴェイによる本書『反乱する都市』はこうした資本とアーバナイゼーションの内的な結びつきとそれが生み出す階級闘争を詳述し、1%の人々の手にある「都市への権利」すなわち「われわれの内心の願望により近い形で都市をつくり直し、再創造する集団的な権利」(p.26)を99%の人々のもとに取り戻す道を模索するものだ。

あまり小難しいことは言いたくない。科学技術の驚異的な進化は、私たちの社会にある「心の習慣」を、それと明確に気づかないまま、大きく変えつつあるのかもしれない。ごく最近書いたこんな文章が蘇ってきた。

二つ目の補助線は、すでに社会が「政治ー倫理的転回」をゆっくりと回り始めているということだ。「ポスト京」の精鋭開発者であるシンギュラリタン齊藤元章は、シンギュラリティ(技術的特異点)よりも、先に社会的特異点が来るとした上で、それはもう到来しつつあるのではないかと推測する。

20代後半世代の消費行動と社会的価値観が大きく変化しているというのだ。慶応大学SFC出身の20代後半の若者たちの中に、NPOやソーシャルビジネスに身を投じている人間の数が圧倒的に多いというのである。物質主義的な富の最大化より、社会的倫理的効用の最大化に貢献することに、生き甲斐を見出す若者の割合が増えている実感があるらしい。 

物質文明の果実が行き渡ると「心の豊かさ」が主要なテーマとなり、宗教ブームになるかもしれない。(お金目的ではないアソーシエーショニズムの可能性)。

居住者を呼び集め、コミュニティーを再生した地方都市の商店街が、法律的に困難だった「所有権と利用権の分離」をクリアしてはじめて実現したことを忘れないでほしい。私たちの住む都市にあるコモンズ(公共財)は、生かし方次第で、さらに大きな私たちの生き残る可能性を高めてくれるものなのである。

そういうものって、そもそもすべて国家が定める種類のものではないのだ。

例えば、誰かが誰かの記念日を祝うとして、それが国が定めた記念日でなくてはならない理由なんてない。私たちは私たちの家族や仲間や共同体の記念日を私たちの流儀で祝う。そこに固有の社会関係があり、それらが受肉した固有の都市がある。街は私たちのものなのだ。

「不労」で「不老」の社会の到来を数十年先に控えている私たちは、たぶん(ちょっぴりで良いので)現在の常識の締めつけを、少し緩めるべきなのだろう。

いま寺山修司が生きていたら、きっとこう言うのではないだろうか。

(ちょっぴり)私有を捨てよ、街でつながろう 

 

 

 

 

 

 

なぜこんなこと 気づかないでいたの
探しつづけた愛がここにあるの
木漏れ日がライスシャワーのように

手をつなぐ二人の上に降り注いで
あなたを信じてる 瞳を見上げてる
り残されても あなたを思ってる

彼のことをずっと愛していると
今はかるの 苦い日々の意味も

ひたむきならばやさしいきのうになる
いつの日か かけがえのないあなたの
同じだけ かけがえのないわたしなるの

明日を信じてる あなたと歩いてる
ありふれた朝でも 私には記念日
 

今朝の光は無限に届く 気がする

いつかは会えなくなると
知っていても
 

あなたを信じてる あなたを愛してる
心が透き通る 今日の日が記念日

 

明日を信じてる あなたがそばにいる
ありふれた朝でも 私には記念日

 

あなたを信じてる 瞳を見上げてる
ひとり残されても あなたを思ってる

 

青春を渡って あなたとここにいる
遠い列車に乗る 今日の日が記念日