一等星の骨董品になるべく

古いものが好きなんだね、とよく言われるタイプだ。別段、古さを基準に好きな文化を選んでいる意識はなく、その時々の価値基準に従った結果にすぎないのだが、気が付けば自然とそうなっている。

20代の頃、骨董通りを好んで散策していた話を、上の記事で書いた。骨董の家具そのものも好きで、たぶんこの家具屋さんも、リニューアル前に何度か訪れた憶えがある。 

文学の世界で骨董と言えば、戦前の作品になるだろう。戦後の作品でも構わないが、その作家が戦前の作品に通暁していることが必要条件になりそうだ。 

丸谷才一は大正最終年である14年生まれ。翌年に始まった昭和と同年齢、歴史的概念でもある「純文学」と同年齢、三島由紀夫と同年齢だ。

エッセイ集を読んで驚いたのは、ベンヤミンアウラからローティーのアメリカ論まで、読書や好奇心の対象がきわめて広いことだ。「反小説」と題されたエッセイでは、ヌーヴォー・ロマンの流行時に誰か(勝手に注を付けると、その誰かとはサルトル)が名付けた「反小説」で、ジョイスの名前があがらないのはおかしい、とか、その伝統は18世紀の『トリスタラム・シャンディー…』に遡る、とか、豊かな博識と確かな見識が披露されてもいる。

東京大学卒の器質因的選良性を持ち、20世紀最大の前衛作家ジョイスを師と仰ぐ一方、旧字旧仮名育ちの最終世代として、和歌文学を始めとする日本の古典にも通暁し、小説と批評の両方をものし、美術や音楽や相撲にも造詣が深い。

今これだけのことができる作家が、どれほど生き残っているのだろうか。これほどになりうる資質と環境を同時に持っている後進の作家が、どれほどの数いるのだろうか。 

 そこで「最後の旧字旧かな世代」と書かねばならない現実の意味を、真剣に考えている人が少ないことに驚いた。

 三島は「日本の古典が身体の芯に入っているのは自分のジェネレーションでおしまいだろう」と述べた。確かにそうだろう。敗戦後にGHQによって仮名遣いが変更されたこともあって、それ以降の世代が日本の古典へと分け入るのは決して簡単なことではない。いわば昭和史にも、(実線ではなく破線で)、敗戦によって水平に刃の走った切断線があるのだ。その切断線より未来へと伸びているのは「占領と被支配の歴史」だけだろう。

このブログの初エントリで書いたこの部分について、世界史的な視点で正確に把握できているのはこのサイトくらいだろうか。「リベラル経由の対米自立型保守」が自分の掲げる旗幟。その右側にいるべき「真の保守」の数があまりにも少ないのが淋しい。

 これら共産主義者、つまり、グローバリストたちの狙いは、国民国家の解体である。

 ロシア人をソ連人に変えることである。

 民族の差異を撤廃するのに一番いい方法は、言葉の変革である。

 言葉を変えると、世代の断絶が生れる。

 日本でも戦前戦中世代と戦後世代の間には大きな断絶がある。

 それは、おもに言葉によって作られた。

 日本語は、民族的日本人の言葉から、世界政府の市民としての言葉に変わった。

国語は世界政府のために変えられてきた

当時、敗戦国にいながら、歴史的仮名遣い墨守の論陣を張った福田恒存は、「真の保守」だったというわけだ。 

 さて、記述レベルを落として、骨董品のような味わいのある語句ということになると、三島由紀夫が頻用する「一等」ではないかと思う。検索すると驚き、出現数の多さよ!

  この世で一等強力なのは愛さない人間だね。 

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)

 

  たうとう耐へかねて、夏雄はかう言つた。

「そんなに筋肉が大切なら、年を取らないうちに、一等美しいときに自殺してしまへばいいんです」 

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 これらの「一等」に、「一番」にはない骨董の味わいがあると感じるのは、自分だけだろうか。

古いもの好きのせいではないはず。自分より一回りか二回り上の世代に大人気だったピンクレディーの歌詞にも、思わず反応してしまうのはなぜか。阿久悠の作詞が抱腹絶倒の面白さなので、ベスト盤を聴き込んで研究した。

「あんちくしょう」を、現代ではほとんど使う機会がないのが残念無念。0:53からのこの歌詞は、凡庸な作詞家には決して書けないのではないだろうか。

「ニヒルな渡り鳥」ってどんな鳥? なぜそんな鳥に変装するの?(笑)

あるとき謎の運転手

あるときアラブの大富豪

あるときニヒルな渡り鳥

あいつはあいつは大変装 

さて、ここから曲調を長調から短調へ変えなくてはならない。HDレコーダーの録画番組リストを目にすると、或る報道番組のサムネイルが目に入り、いたたまれない気持ちになって、すぐにページを変えてしまう。自分は月に何度もそんな回避行動をとっている。

サムネイルには、当時小学校低学年くらいの姉妹が、楽しそうにピンクレディーを歌って踊っている姿が映っている。「消せばいいのに」と言われるかもしれないが、消してはいけないような気がしてならないのだ。

隔離環境に幽閉し、恐怖と暴力で人々を分断支配して、搾取し尽くす。

あまりにも凄惨すぎるこの事件を年々も維持しえた心理機制は、上記の一行に要約できるだろう。感受性の強い自分には、可哀想すぎてとても書けそうにない事件だ。背景にある事情の一つに、「背乗り」という犯罪行為があることだけは記しておこう。

上記リンク先のすべての情報を必ずしも支持するわけではないが、そのような犯罪行為が現実にあるのは確かだと思う。事件の詳細については、自分が読んだ本を列挙するので参照してほしい。 

新版 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相 (文春文庫)

新版 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相 (文春文庫)

 
モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 (講談社+α文庫)

モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 (講談社+α文庫)

 

 一橋文哉によると、尼崎事件の主犯は、これも戦後最大の陰惨な事件である「北九州連続殺人事件」の詳細を研究して、自分の犯罪に応用していたというのだ。この事件も凄まじく凄惨なので、とても詳述する気にはなれない。 

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 (新潮文庫)

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 (新潮文庫)

 

 自分は偶々社会心理学に関心が強い人間なので、支配と服従の心理について研究するつもりで読んだ。読んでいるうちに本当に気分が悪くなって、寝込んでしまった。

記憶をもとに核心となっていた心理機制を書き出すと、この奈菜点になるだろうか。

  1. 社会から完全に隔離する。
  2. 生理的欲求である食事や排泄や睡眠を許可制にして、人々に洗脳しやすい状態を作る。
  3. 暴力やレイプや電気ショックなどの加害行為で、人々を恐怖させる。
  4. 人々の間に序列を創り、言いがかりを付けて、その序列を頻繁に入れ替える。
  5. 上の序列の人間から下の序列の人間への加害行為を奨励する。
  6.  3.4. によって人々の連帯を分断し、完全で長期的な支配を可能にする。
  7. 1.2.3.4.5.によって、人々に人々を殺させ、殺した人々に罪悪感と無力感を植えつけて、さらに支配を強化する。

もうやめてほしい。そんな声も聞こえる。自分もこんなことを書きたくて書きたいわけではない。

こんな犯罪でなくても、これに多少なりとも近いことは、社会のいたるところで起きていて、そのような心理機制の1つ(上のリストでいう5.)を丸山真男は、「抑圧の移譲」(自分のストレスを弱い者へぶつけてはけ口にすること)だとして、峻烈に批判した。そこに日本の敗戦の原因があるとして。

自分が大学時代に側聞したのは、有名大学ラグビー部では先輩後輩の序列があまりにも厳しく、「何百メートル先でも先輩の姿が見えたら、直立不動で大声で挨拶しなければならない」という噂。先輩からのシゴキやいじめは苛酷で、そのストレスはさらに後輩へ向かうだけでなく、女子へ向かうのだと聞いた。何と酷すぎることに、代々の女子マネージャーが輪姦される習わしがあるというのだ。90年代前半に聞いた当時は耳を疑ったし、尾鰭のついた誇張された噂だと思いたかった。

しかし、そんな動物まる出しの残酷な犯罪が実際に行われていたことを、数年後に報道で知ることになる。このブログが事件と被害者の今を教えてくれた。

彼女は98年に大々的に報道された帝京大ラグビー部集団レイプ事件の被害女性である。当時はまだ19歳。この秋に33歳になった。

事件の概要をいうと、A子さんは友達一人と共に、元彼のKにカラオケ店に呼び出される。

男性も数名かと思っていたら、なぜかそこには十名の男性がいた。A子さんは恐怖を感じたが、元彼もいるので大丈夫だろうと思った。

A子さんと元彼は二人で別の部屋で性行為を行う。

元彼は気分が悪くなってトイレにいき、A子さんは服を着て元彼の戻りを待つ。

そこに元彼ではない、男たちがやってきて、集団強姦をされる。

A子さんは起訴するが、相手方の弁護士からの強い働きかけもあり、示談成立となった。

さて、それから12年後、33歳になったこの被害女性はどう過ごしているのだろう?

というのが、記事の内容である。

結論からいうと、完全に心がぶっ壊れて、精神異常者になってしまっているのである。 

 実は彼女は、いまだに事件によるPTSDから抜け出せず、心に深い傷を負ったままなのだった。この間も、リストカット自傷行為を繰り返し、突発性難聴や原因不明の高熱も続いているという。そして彼女は、何とかそこから抜け出すために、敢えて事件と向き合うことを決め、本誌編集部を訪ねてきたという。両親は、彼女がこれ以上傷つかないようにと事件についての報道は極力見せないようにしていたため、彼女は自分の証言の載った本誌もまだ読んでいなかったのだという。まず本誌のバックナンバーを入手したいというのが最初の用件だった。

 事件と向き合うことで、自分のトラウマを克服しようというのは、投薬治療では限界があると判断した精神科医の勧めでもあり、母親もそう思ったのだという。同時にA子さんは、この3月の大震災で辛い体験をし、PTSDになっている人もいるに違いないと考え、自分の経験を通してPTSDについて多くの人に知ってほしいと考えたという。

(強調は引用者による)

 この事件に触発されたらしき吉田修一原作の映画では、輪姦事件から15年間がたっても「二人」の心の傷だらけの闇は癒えることがない。加害者による加害は、或る意味では15年経っても終わらないのだ。

実際の被害者であるA子さんが「自分の経験を通してPTSDについて多くの人に知ってほしいと考えた」というのは本当によくわかる。自分はこの12月で14年半だぜ。この映画とほぼ同じ境遇に、いまだにいるような気さえする。

実際の加害者にも、加害者になりうる素質の人間にも、被害者の痛みに共感しろとは、自分は言おうとは思わない。何度言葉で説得しても、何度「学びの機会」を設けても、相手を理解しようとする心のない人間には、永遠にわからないのだ。抑圧の移譲? 認知的不協和の非合理的解消? 帰属の基本的エラー? どんなにわかりやすく書いたって、通じない奴らには通じない。

さまざまな種類の数多くの犯罪被害者の本を読んできた。犯罪被害者に共通する最大の希望は二つある。一つは、同じような犯罪被害者を二度と生み出さない社会になってほしいという願い、もう一つは、すでに存在する同じような犯罪被害者たちの心に寄り添いたいという願いだ。

カーツワイルのいうように、テクノロジーの発達スピードは指数関数的だ。指数関数的でないという分析もあるが、AIがAIを進化させるプロセスについては、充分な観察例が確保されていない。カーツワイルの予測精度について結論を出すのは、時期尚早と言えるのではないだろうか。

何十年か後に、「AIリークス」や「AIガスライティング」が普及すれば、自分が受けた犯罪被害も映画化されるにちがいない。そのとき、世界に無数にいる不当に苦しめられている被害者たちが、「あんなどん底からでも、闘い方次第で、人生を幸福なものへと書き換えられる可能性がある」ことを、「最後の最後まで希望を棄てないことの大切さ」を伝えられたら、こんな自分でも生きてきた甲斐があるというものだ。

それに、闘い方次第で、犯罪加害だらけの「支配と服従の心理機制」に決して屈しない輝かしい人々と、かけがえのない絆を育むことだってできる。そうと知ったら、希望を棄てたりしたら、もったいなすぎてお化けが出ちゃうぜ。 

そのときに『悪人』に続いて『さよなら渓谷』を創り出してくれた原作者に、試写会の招待状にこれまでに書いていただいた作品へのお礼を申し述べた上で、「ちなみに、ぼくの映画はありえないような『ハッピーエンド』に仕上げました。せひ大笑いしながらご鑑賞ください」。そう、書き添えるのが、今の自分の夢だ。

四半世紀くらいはかかるだろうか。映画化される頃には、すっかり古い古い実話になっているのだろうな。その近未来でBuzzっている中では、一等「骨董品もの」の実話になっているにちがいない。

けれど、古いものの中から良さが蘇るのはよくある話。それに、何といっても実話だ。

映画化される近未来をどうしても見届けたい。カーツワイルみたいに100錠くらいサプリメントを日々服用しようか。とにかく体質を改善して、心身を鍛え直して、長生きしなきゃ。

近い未来、あるいは遠い未来に、まだ残っているだろう「被害者たち」の心にある希望の火を、少しでも強く明るくするものになってほしい、この Antique Show が。

 

 

 

 

陽が静かに昇り詰め湿った大地を蒸し上げて
蝉のこえはあの雲を千切るほどに焚き付けて

 

夏が来る
空と陸抱合う刹那よ
今日は何かいいことがありそう

人はいつも坂の途中期待を抱え上がり下がり

 

生きている
夜と昼泪に暮れても
今日は何かいいことがありそう