きみ自身の白いウサギを追え!

ゆっくりと大きな舌が垂れてきて真夏の水に届きそうだな

 

加藤治郎『マイ・ロマンサー』

天沢退二郎的な「舌」のイメージを、若々しい口語体で語って、シュールレアリスムのイメージなのか、プールの中にいて大型犬が水を飲もうとする一瞬を眺めているのか、抽象性の中に宙吊りにする感じ。ライトヴァースの旗手である加藤治郎『マイ・ロマンサー』からの一首。半年くらいの自分の短歌歴の中では、一番よく読み返した歌集だと思う。

歌集のタイトルは、サイバーパンクの草分け、ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』の「本歌取り」だろう。

困ったことになった。どうも、未来予測の本を読んでいると、『ニューロマンサー』そのままの世界が現出しそうなのだ。小説の冒頭、主人公は人工臓器をハッキングされて、有害物質が漏出しはじめる。そして、敵が命じた任務を果たさないと、解毒剤を渡さないと脅される。 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

 

 未来予測本としては、現時点で最高の本はこれになるのだろう。「テクノロジー予測で全世界的な信頼を持つグローバル・エリート誌が、総力を挙げて大胆予測!」。出版社は見返しにそんな惹句を書き込んでいる。

 面白い。実に面白いので、新年の「未来」を予想する年末年始の読書には、うってつけかも。

ただ、最初から最後まで、飽きずに速読できたものの、自分が抱えているいくつかの疑問には、答えてくれなかった。もちろん、四半世紀後の未来を正確に予測して、そこで生じるだろう問題を事前に解決しておけという方が、無理な話なのだ。

  1. 科学技術が指数関数的に進化するというカーツワイルの未来予測はどこまで正確なのか。
  2. AIの進化による技術的失業から国民はどのようにして守られ、引いては民主主義体制はどこまで守られるのか。 
  3. ビッグデータからプライバシーはどこまで守られ、引いては民主主義体制はどこまで守られるのか。

1については、あたるべき著作はこちらだろうか。基本的にはカーツワイルと同じ指数関数的成長を予測しているMITの二人、エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィー。機械と対立するのではなく、 機械とパートナーシップをもって補完し合うべしとの論旨。

ザ・セカンド・マシン・エイジ

ザ・セカンド・マシン・エイジ

 

 ひとつ気になったのは、「ムーアの法則」への入れあげぶりで、「ム-アの法則」に関しては、もうテクノ的現実がその適用範囲を越えてしまったとする識者が多い。

 とはいえ、成長はすでに限界に近付いている。半導体チップのコンポーネントの微細化は世代を追うごとに困難になっている。トランジスタの回路が原子数十個分の大きさになった今、さらなる微細化の余地はなくなりつつあるのだ。

英『エコノミスト』編集部『2050年の技術』

 ブリニョルフソンは「テクノロジーの未来を決めるのは人類だ」とイニシアチブが人類にあることを強調するが、テクノロジー自体に志向性があり、文化がそのテクノロジーの志向性によって簡単に変化してしまうのはよく知られた話だ。 

「宇宙が覚醒する」というカーツワイルの第六段階の予言が、個人的には大好きだ。

(数日前に、茫洋とした意識状態ではなく、今これを書いているような覚醒したクリアな意識状態のとき、霊感が差し込んできたのが意識できた。意識できたというより、「見えた」という感じだった。硝子建築の窓辺にいて、直射日光がすっと差し込んでくる感じ。『「捨てる神あれば拾う神あり」という諺は嘘』という小声のひとこと(音声信号ではない)でしかなかったが、これまでに感じたことのないような快美感を感じたことを記しておきたい。心身をどのように鍛錬すれば感受能力が高まるのか、ぜひとも研究してみたいと考えている)。

しかし、未来予測において、カーツワイルの言うように、あるいはそれとは別の時期や方向性で、いつ特異点がやってくるかという「タイミング精度問題」は、優先すべき思考課題ではないと思う。トレンドとして「いつ何が来るか」ではなく、さまざまな技術分野にあるさまざまな技術の潜在的な志向性を読み取って、何に優先的に投資すべきかを考えることが、社会に求められているのではないだろうか。

というのも、同じ英『エコノミスト』誌のシニア・エディターが書いた下の著作でも、解決策らしい解決策は存在していないからだ。いくつかの検討すべき価値のある弥縫策が書かれているだけだ。

ソーシャル・ビジネス、シェアリング・エコノミー、世界的な富の再分配。……

どれも諸手を挙げて賛成したい素晴らしい概念だ。しかし、新奇で斬新な進化中の科学技術とは違って、この3つに目新しいものはひとつもない。どれもがこれまで成功してこなかったのには、社会的な理由があると考えるべきなのではないだろうか。 

デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか

デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか

 

 といっても、ライアンエイヴェントがジャーナリストとしての手腕が貧しいというわけではない。たぶん、2. と 3. に抜本的な解決策がないのが実態なのだろう。数時間考えてはみたものの、当然、自分にも妙案は浮かばなかった。

したがって、たぶん近未来は以下の記述に近いものになる。

 『2050年の技術』が言うように、「働く場所や時間を自由に選べる仕組み」の普及は、とりわけ労働人口の減少する日本では重要だ。

しかし、AIの進化に伴う問題は労働力不足ではなく、労働力余剰だ。上記のベストマッチングが普及しても、労働力不足の問題は解決しそうにない。少なくとも、その仕事が国境を越えて、アフリカなどの「フロンティア」へ向かう必要があるだろう。(しかし、日本に居住しつつ、アフリカ企業のどんな仕事を受注できるというのか?)

残念ながら、次の10年間で、技術的失業が進んでいく可能性はきわめて高い。1%グローバリストの傀儡政府が民主主義を維持することへのインセンティブも低下していくだろう。これが 2. の暗い答えだ。

3.についても、見通しが暗いと語らねばならないのが、つらい。現在市販されているグーグルグラスが、AR(拡張現実)デバイスとして手放せなくなる未来を英『エコノミスト』は予測している。 

  実在感はVRを特徴づける強みである一方、その制約ともなっている。そこで登場するのが拡張現実(AR)だ。VRでは使用中に壁やコーヒーテーブルにぶっかったりしないように専用のスペースを確保する必要があるのに対し、ARはもともと外の世界で使うためのものだ。 

(…)

 二〇五〇年にはこうしたことも当たり前になるだろう。先進諸国ではハイテク製品を毛嫌いするごく一部の層をのぞき、誰もがスマートフォンの代わりにARメガネを使っているはずだ。
 平らなスマートフォン画面で、青い線で示された道案内を見ることはなくなり、日の前の道にたどるべき順路が示されるようになる。レストランではメニューが不要になる。カフェの前 を通ると、全メニューが表示され、画面をスクロールしながら湯気を立てる料理の写真を見ることができる。他言語を話す人との会話はリアルタイムに翻訳されるようになる。排水管で問題が生じると、詰まった箇所をどのように修理すればよいかが詳細なビジュァルデータとともに表示されるようになり、配管工は廃業に追い込まれる。
 公共バスに情報を表示する必要はなくなる。パスを待っている人々のメガネに、近づいてくるバスの番号、日的地、ルートと予想到着時刻が好きな言語で表示されるからだ。人の名前を忘れることもなくなる。誰かと会話を始めたとたんに、その人物にっいて知っている情報がすべて相手の顔の脇に表示されるからだ。店は看板を出す必要はなくなる。自治体は景観を害するような路面標識や信号などを撤去できる。

(…)
 社会が直面する二つめの懸念は、この世界がなす術もないはど企業の意のままになってしまうのではないか、ということだ。コンシューマー・テクノロジーの現状から判断すると、VR やARの業界を支配するのはほんのひとにぎりの会社だろう。あらゆる開発業者はその軍門に下り、あらゆる消費者はそうした企業の取引条件に同意せざるを得なくなる。
 容認できるふるまいやコンテンツに関する企業側の判断基準(それぞれの企業が生まれた文化や、企業の責任を限定しようとする弁護士の意向で決まる)によって、われわれと世界とのコミュニケーションが規定される。企業が検索結果やソーシャル・ネットワークの投稿から特定のコンテンツを消去できるのと同じように、ARの力を借りて現実世界から人やモノを消してしまうことができるかもしれない。つまり存在はしているが、目に入らないようにするのだ。
 企業のルールに従わないユーザーは接続を遮断され、仮想現実、あるいは拡張現実と切り離されてた、ただの現実世界を一人漂流することになる。しかもVRの発達は、インターネットとはまるで違う形で進んできた。ウェブはオープンスタンダードで、誰もが自由にアクセスし、投稿し、互いにリンクをはれるようにすべきという原則にのっとって発展してきた。それに対して、VRは「ウォールド・ガーデン(壁に囲われた庭)」を好む大企業に牛耳られている。

 引用を長くしたくないので、簡単に書き添えると、もちろん上記の「(1%グローバル)企業」は「政府」に置き換え可能だ。別の章には「政府が脳に侵入してくる」というサイバーパンクそのままの記述もある。

下記の社会信用スコアによる「生まれつきの排除」もかなりのディストピアだったが、上記のように「当人が見る世界を消してしまう」「他人が見る世界から当人を消してしまう」というのも、強烈なディストピアだ。

 後者のデメリットが、バーチャル・スラムと呼ばれる階層社会の出現だ。社会信用スコアが低いと仕事に就けず、仕事に就けないと家を借りられず、家を借りられないホームレスは自動コンビニで食料品さえ買えず、関所のできたゲイテッド・シティにすら入れなくなってしまうだろう。

 冒頭でAIに追跡されるさまを描いた犯罪者ならまだしも、人種や性別や遺伝病やIQなどによって、生まれつき社会信用スコアが低いと評価されたら、その人は一生ずっとAIに排除されつづけ、一度もチャンスをつかむことさえないまま、一生を終えることになる。これは恐ろしい未来だと言えはしないだろうか。  

現時点でさえ、政府の公式発表に唯々諾々と従う Sheeple が大多数を占める世界だ。1%グローバリストたち(やその傀儡政府)による支配は、AI の進化によってますます強くなるとしか考えられない。

 しかし、このブログの読者は「メタ問題認知」の訓練をすでに積んでいるはず。

あの巨人のトヨタでさえ、「メタ問題認知」を充分に駆使したクリティカル・シンキングの不足によって、社運を揺るがせてしまったのである。将棋で妙手を次々に繰り出しつつ、将棋のルール自体も競争優位に立つべく変化させていくメタ思考。しばしば指摘される日本人のクリティカル・シンキング能力の欠如は、生死を分ける重要な問題として、私たちの眼前に立ちはだかっているように感じられる。

1.はさほど重要な問題ではないだろう。2. 3. には99%の私たちが歓迎すべき解がなさそうだ。

では、どうするのか? 2. 3. の問題の基盤にあるものをよく見極めてほしい。

1%グローバル企業は、人々の人権を侵害してでも市場を独占して収益を増やしたがり、傀儡政府は、国民の人権を侵害してでも権力を増強させたがる。彼らの原初的な強欲さを本質的なものだと錯覚してはいけない。ローティーのアンチ基礎づけ主義でも思い出しておこうか。

彼らの貪欲さは、それを可能にする状況があるから、奉仕すべき相手へそのように振る舞っているにすぎない。その状況を可能にしている因子の拠って立つ場所を切り崩すことが、最も正解に近い解だろう。

もう一度 2. 3. の項目を思い出してほしい。番号は 1. 2. に振り直してある。

  1. AIの進化による技術的失業から国民はどのようにして守られ、引いては民主主義体制はどこまで守られるのか。 
  2. ビッグデータからプライバシーはどこまで守られ、引いては民主主義体制はどこまで守られるのか。

どちらも私たちの未来の幸福を侵害しそうな属性が、技術そのものが内包している志向性であることがわかるだろうか。ブリニョルフソンのいう「テクノロジーの未来を決めるのは人類だ」は、素朴な「自己決定論」の域を出ていないばかりか、テクノロジーの志向性が人類の文化への波及力を過小評価している。正しくは、むしろ「人類の未来を決めるのはテクノロジーだ」とするベクトルの方が強いことを意識しなければならない。

となると、因子の拠って立つ場所を切り崩すこととは、テクノロジーを放棄することではなく、テクノロジーによってエンパワーされた収益独占や国民支配の欲求に対して、相反する志向のテクノロジーでそれらを中和し、最終的に消去することだろう。

また、夢のような話をしているだろうか? これまで少なくない数の未来予測の話を書いてきた。そこに現れた登場人物たち、AIや自動運転車や量子コンピュータ元素変換やゲノム編集など。自分がこの対象から決して目を逸らしてはならないと感じるのは、フリーエネルギーだ。フリーエネルギーの開発だけが、世界の暗黒の未来をドラスティックに明るくできる潜在性を持っている。

優秀な未来予測本である『2050年の技術』に、最大の有力技術であるフリーエネルギーの章が掲載されていないのは、もちろんそれが先進国の主流メディアである英『エコノミスト』誌だからだ。彼らはそれを隠蔽しないと自分たちの富の源泉が危うくなることを知悉している。私たちは見えづらいゲームのルールを目を凝らして見極めなくてはならない。

シンギュラリティー直前の今、人間が資源の配分に能動的にコミットできる最後の時代に、私たちが賭けられる最後の可能性を、フリーエネルギーに懸けることこそが、99%の私たちが未来を生き延びるための、最後の唯一解であるように思えてならないのだ。 

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BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

 

さて、上記のシェルピンスキーのガスケットは、フリーエネルギーをステップ・ダウンさせて取り出す装置のヒントとなるらしい。ここが自称 Stray rabbit が辿りついた終着点かもしれない。ウサギと三角形には深い関係があるのだ。

なにしろ、三角形がウサギになったり、ウサギが三角形になったりするくらいだ。 

凄いメタモルフォーゼもあったものだ。思わず「三月のウサギのように気が狂っている」というイギリスの諺を付け加えたくなる。

冒頭で紹介したサイバーパンクの元祖『ニューロマンサー』は、1999年の『マトリックス』に強い影響を与えた。アリスがウサギを追って、不思議の国へ迷い込んだように、何かを夢中で追いかければ、新しい世界が拓けてくることは、たぶん間違いがない。

近未来映画『マトリックス』の主人公は、ある日ふと暗号めいた謎のメールを受け取る。

このブログを読む未来ある読者たちにも、ほぼ同じ文言のメールを送っておきたい。

Wake Up, follow your white rabbit.

覚醒せよ! きみ自身の白いウサギを追いかけよ!

 

 

12月は寒い。まさか雪が降ったりはしないだろうな。熱いお茶でも啜りながら、茶菓子代わりに、『マトリックス』のオープニングで、寿司の作り方が降っている話題を読んでもらおうか。

最後の最後、別れ際にいう言葉は何が良いのだろうか。「チャオ」なんかが girly で可愛らしい。まだ心と身体が寒いままだ。温めなくては。

「茶を」求めて、寿司屋で熱いお茶を頼んでもいいだろうか。

へい、あがり!