トッドをスパパパパン!

 意識家を自称して、安部公房に対して「オレには無意識はない」と見栄を切った三島由紀夫の口癖は「最後の一行が決まらないと書き出せない」だった。

今晩は、自分もほぼ同じだと敢えて断言してしまおう。「最高の駄洒落が決まらないと書き出せない」のだ。 いや、もう書き出さないと間に合わないので、そこそこの駄洒落を書きながら考えることにして、もう書き始めたい。

その三島由紀夫の主演映画と言えばカンヌ映画祭で準グランプリに輝いてしまった『憂国』より、『からっ風野郎』の極上のエンターテイメント性を称揚したい。ただし、あの映画に極上の娯楽性を見出せるのは、三島ファンだけかもしれない。  

からっ風野郎 [DVD]

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初めてのカメラ前での演技には相当苦労したらしく、同じく東大卒の映画監督増村保造の徹底的なしごきに、懸命に耐えていたと言い伝えられている。でも、どうなのだろう。ちょっとだけ演劇を齧ったことのある自分から見ても、三島の演技に拍手喝采は送りにくい印象だ。

上の予告編の2:13から。傾きかけた組の若親分である三島が、やくざを少しも怖がらない勝気な美人娘を、力づくでモノにする場面。「俺に惚れているんだろう」とでれでれと絡んでいた三島が、女の肘鉄が怪我した箇所に入ったのを契機に、獣へと豹変して女を襲うという演出らしい。

しかし、元々意外なほど小柄な三島が、小柄な若尾文子とほぼ同じ背の高さで鍔迫り合いをしているのが、最もそうなるべき場面で、画として「男>女」の構図になっていないのがつらい。間もおかしいし、あれほど肉体鍛錬が好きだったのに、身体の見せ方がどうにも小さすぎて、見ていて可哀想になってくる。

それもこれも、三島由紀夫が「イカしたチンピラの男は、裸に革ジャン羽織って猫背」というような固定観念を抱いているからなのだろう。そういえば、任侠者が持つ過剰な男くさい「殺気」を、三島の優雅な筆致は、ほとんど捉えたことがなかった。

この映画で記憶に残っているのは、作家志望の集まった飲み会で若尾文子の物真似を披露したところ、講師の方だけが「よく似ている」と笑ってくれたこと。他の作家志望の誰一人として、昭和の名女優を知らなかったのだ。

ところが、脚本家が三島に読まれることを意識して燃え上ったらしく、映画のプロット運びは滅法面白いのだ。この有名なラストシーンでは、組と組の抗争をきちんと「手打ち」したのに、泳がせていた殺し屋に暗殺中止命令が届かず、ヤクザから足を洗って女子供と再出発しようとした三島が無駄に殺されてしまう。

ベビー服片手に、昇りのエスカレーターを何とか駈け下りようとして、身重の女の元へ行こうとして、それなのに、生命尽きた射殺体となって、巨大な死魚のように引き揚げられる演出は、ラストシーンとしては白眉だろう。

ちなみに、アクション演技が下手だった三島は、この場面の撮影中に転倒して頭を強打し、救急車で運ばれてしまったらしい。流石の三島も苛烈なシゴキを腹に据えかねて、『鏡子の家』の鏡子のモデルの夫に、あの監督を殴ってきてくれと懇願したという噂も残っている。 

ロイと鏡子

ロイと鏡子

 

 きっと、見栄えのする「動態」を作るには、エスカレーターの流れに反対向きの逆行を見せるといった、複数のベクトルの重ね合わせを画にしなければならないのだろう。

 「見せ場」というよりは「正念場」。「少年場」というよりは「老年場」。世界最高の少子高齢化に直面して、あたかも、下りのエスカレーターを昇って行かねばならないような「苦難の動態的な坂」に、日本は直面している。 

人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか (中公新書)

人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか (中公新書)

 

 人口学について、基礎的な見識を得るのなら、この新書が好適なのではないだろうか。古くからある「マルクスが目を丸くするほど、マルサスは悪さする」という言い伝えの通り、「人口が爆発して食料が欠乏する」を予言したマルサスは、人口学の必要な基礎知識としては、ほとんど登場しない。

逆に、「グランド・セオリー」と名付けて呼び出されるのは、「人口転換論」だ。

かつては世界的に多産多死型の人口形態をとっていたが,文明の進歩に伴って次第に少産少死型へと移行していった。さらに人口の高齢化現象が認められる。このような推移を人口変革,もしくは人口転換と呼ぶ。 

 発展途上国が先進国へ近づくにつれて、出生率が下がっていく現象は世界共通で、世界人口の43%が住む国で少子化が進行しているのだという。

この人口転換論の諸相を見ていて、気になる天気図を見つけてしまった。先進国へ近づくほど、「曇りのち雨」のように少子化が段階的に進むのだが、その進み具合に「高気圧が張り出したかのように出生率が比較的高いままの国々」と「低気圧全開で出生率が低下している国々」があるのだ。

天気図で気になると言えば、この名曲のサビはずっと「高気圧圏」と歌っているのだと思っていた。しかし、歌詞は「高気圧ガール」となっている。つまりは究極の「晴れ女」ということだろうか。と、いつものように連想が特定の方向へとめどもなく流れていってしまう。ここは話も尽き、妄想も尽き、という具合に、妄想にしかるべきピリオドを打たなくては。月!

というわけで、高出生率と低出生率とを分ける「気圧の谷」が、天気図のように読み取れる面白い地図が、こちらだ。

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 「ジェンダー間不衡平論」の分布図として出てくるこの地図。制作者は、下の記事で紹介したエマニュエル・トッドだ。人口学者でありながら、世界的な政治状況の卓抜な分析や反グローバリズムへの抵抗言論でも知られる論客だ。

上記の地図の「高出生率」と「低出生率」との間にある「気圧の谷」を、家族類型分析の世界的権威であるトッドは、(もちろん地理的なものではなく)、ズバリ文化的格差だと結論付けるのである。「高出生率」の国々は自由主義的で個人主義的、「低出生率」の国々は権威主義的な社会や家族制度を持つ国々だというのである。

と書くと、「パヨッキーな日本バッシングはやめろ!」とか、感情的な流言飛語が飛んできそうだ。ちなみに私の政治的立場は「リベラル経由の対米自立型保守」。そういえば、そういう流言飛語を飛ばす種族が崇拝している人々が、しばしば逆のことを主張してきたのによく遭遇したものだ。それらのジェンフリ・バッシャーの皆さん、下記の「徹底反論」への「徹底反論」をお待ちしています! 

Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング
 

 エマニュエル・トッドは多数の論点を論じこなす多彩な論客なので、上記の「天気図」に本当に専門的な学術的裏付けがあるのか、眉唾の人々もいるにちがいない。そういう人々には、トッドの立場を補強する面白い研究論文を勧めたい。

    The apparent contradiction stated at the beginning of the paper has been
addressed through the division of gender equity into two broad forms of gender equity: gender equity in family-related institutions and gender equity in individualoriented institutions. (...)

 論文の冒頭で述べた一見して感じられる矛盾は、ジェンダー平等性を二つの広いカテゴリーに分けることで、解消された。つまり、家族関係制度体におけるジェンダー平等性と、個人志向制度体におけるジェンダー平等性である。(…) 

I have argued that the achievement of gender equity in individual-oriented
institutions will not be reversed. Hence, very low fertility rates will persist unless gender equity within family-oriented institutions rises more sharply than it has in the past. Thus, in a context of high gender equity in individual-oriented institutions, higher gender equity in family-oriented institutions will tend to raise fertility.

個人志向制度体でのジェンダー平等性の達成は逆戻りしないと主張した。したがって、きわめて低い出生率は、家族志向制度体でのジェンダー平等性が、以前より急激に向上しない限り、継続するだろう。言い換えれば、個人志向制度体でのジェンダー平等性が高い状況では、家族志向制度体でのジェンダー平等性が高ければ高いほど、出生率を高める傾向が生まれるだろう。

https://openresearch-repository.anu.edu.au/bitstream/1885/41470/3/genderfert.pdf 

 この論文が言おうとしているのは、社会制度や会社での男女格差を是正しても、家庭内での家事分担の男女格差が是正されなければ、出生率の向上は望めないということだ。河野稠果によれば、OECDにも、女性にのみ家事や育児を任せるという慣行が消滅しない限り、出生率の向上は望めないという研究結果があるそうだ。

日本人男性の一人として、世界的に見てそんなに駄目な男たちではないはず、という願望もないではない。家事分担率が極端に低い原因の一つは、日本人男性の労働時間の長さにもあるのは確かだ。

しかし、男性優位の家父長的価値観が日本社会に浸透していることは、必ずしも否定しやすいものではないのではないだろうか。歴史に照らせば、権威主義的でファシズムに親和的だった日独伊の枢軸国は、20世紀後半に揃って低出生率の国となったのである。

上記の「天気図」からトッドが示唆しているのは、「権威主義的な社会は低出生率に至る」というテーゼである。しかも、その文化は再生産されてしまうから厄介だ。

 18~39歳の女性の希望子供数はドイツ1.52、オーストリア1.43という想像を絶する低さである。(…)いずれも置換え水準をかなり下回る。(…)ドイツとオーストリアでは、1970年代後半から2005年までの30年に及ぶ長い超低出生率時代を経験し、そこで育った若い世代は子どもが2人以下という現実が当たり前であり、それがそのまま理想の世界だと思い込んでしまっている、というのが有力な解釈である。

ちなみに、幸いなことに、日本の夫婦の理想子ども数は常に2.4人を上回っており、人口を現状維持できる置き換え水準以上なので、少子化問題は単純に政府の不作為責任だというべきだろう。

ところで、すべてを通覧したわけではないが、あのエマニュエル・トッドですら未解明の領域があることを、今晩のお土産に最後に付け加えても良いだろうか。「権威主義的な社会は低出生率に至る」というテーゼはわかった。

では、なぜそうなるのだろうか?

超詰め込み型で一夜漬けで書いてきたこの記事も、いよいよ「腸詰め」へと至るわけだ。アドルノやホルクハイマーなどのドイツのフランクフルト学派が、ホロコーストの反省から「権威主義的パーソナリティー」の研究に真剣に取り組んだことは有名だ。 

権威主義の正体 (PHP新書)

権威主義の正体 (PHP新書)

 

その権威主義研究から、実験社会心理学と人格社会心理学の日本の大樹が育ち、社会心理学という学問の隆盛を築いたことも知られている。

しかし、「権威主義的社会が低出生率に至る」ことの因果関係の一端に、世界で初めて到達した心理学者がいたことは、現在ではほとんど知られていない。 

ファシズムの大衆心理 (上)

ファシズムの大衆心理 (上)

 

 ライヒは変わり者の心理学者だった。ヒトラーが政権を掌握した1933年に、『ファシズムの大衆心理』を出版して、ノルウェーに亡命し、そこでも物議を醸してアメリカへ亡命した。Wikipedia の経歴を読んでいると、フロイト直系ゆえ「性」を重点化するのはわかるにしても、あまりにも数奇な研究者人生の変転に、くすくす笑いが止まらなくなってしまう。

ヴィルヘルム・ライヒ - Wikipedia

重要なのは、ライヒが、ヒトラーが頂点に立つ直前のナチス・ドイツを分析して、そこにエマニュエル・トッドそのままの「権威主義的な家族イデオロギーファシズムの大衆心理」という章を設けて論じている。しかも、権威主義的家族が抑圧する性エネルギーをどう解放するかを論じたかと思うと、しばしば権威主義の源泉となる神秘主義的宗教観が、いどれほどドイツに蔓延し性エネルギーを抑圧しているかを分析する。

フランス人のトッドは、ひょっとしたら、今や世界的に有名になった自説の一部を、戦前のドイツの心理学者が先に主張していたことをし知らないかもしれない。(知っているかもしれない)。

とりあえず、今晩のところは、思いがけずトッドを準備していた先行文脈を一介のブロガーである自分が発見したことを祝して、こう絶叫しておきたい。

トッド、獲ったどー!

 いやいや、「黄金伝説」だなんてとんでもない。アカデミシャンは一日10冊以上読み込んで、生涯をかけて何度もこのようなアハ体験に遭遇するのだろう。

むしろ、日本の先行きを見据えたとき、トッドまることを知らない難題の積み重なりに、足がすくんでしまいそうになることがある。嗚呼、自分の若尾文子の物真似を唯一理解し、称賛してくれた文学者のように、スパパパパンと斬れる名刀が自分にもあったらと、じっと手を見る日々だ。 

名刀中条スパパパパン!!!

名刀中条スパパパパン!!!

 

 けれど、今晩、ざっくりとした方向性は定まったのだ。権威主義から遠ざかりつつ、集団より個人を尊重し、男女差別をしない自由主義的な生き方。たぶん、現在の生き方とさほど変わらないとは思うが、まだ何か足りないのかもしれない。

まずは、権威主義的で伝統的な因習に満ちた疑似家族システム、つまりは「朝比奈組」に物真似で抵抗することから始めようか。一番上の予告編動画の0:39から。

あんたたちの世界、人間らしいことなんて、何もできないようにできているのね。

 今のは、かなり似ていたのではないだろうか。 

権威主義から遠く離れつつ、沈みいくこの国、言い換えれば、下りのエスカレーターを、希望を探しながら、駈け足で必死に登っていきたいと思う。