プリン好きなオレのゴールとは

20代の中頃、パーティー会場への移動途中、ある新進作家と雑談をする機会があった。自分が作家志望の友人に「人間の手足の指が5本だということと、サッカーボールには関係がある」という話をしていたら、「どういう意味?」と割り込んで訊いてきたのだ。ひと通り私が説明すると「それは面白いですね」と相槌を打ったあと、「何だその程度のことか」というようなポーズを肩で示すのを忘れなかった。

作家として人一倍好奇心が旺盛であり、かつ、作家として自分は違うというプライドを同時に示さなければならない。彼の言動からはそんな義務感が感じられた。プライドが高いのも楽じゃない生き方だ。自分なら話の内容の如何にかかわらず、どこか面白い文脈を引き出して、話を膨らませるか、礼を言うところだ。その作家の名字は今でも憶えているが、ラストネームを忘れてしまった。今どうしているのかはわからない。

さらに、なぜサッカーというスポーツが世界で最も愛され、最も祝祭に近いのかを考えた。あるいは、なぜあらゆるスポーツのゴールの中で、サッカーのゴール場面が最も美しいのか。

自分が私的な答案に書きかけていたのは、とんでもないユニークな仮説だった。

(…)
実は精子には3種類のプレーヤーがいる。 エッグゲッター精子とブロッカー精子とキラー精子で、これらはFW、MF、DFにぴったりと対応する。したがって、古代サッカーとは、性交における射精から卵子の受精に至るまでの旅を祭祀化したものだと言える。

(…) 

だからこそ、受精の瞬間を象徴するかのようなゴール場面があのように美しく、しばしばスタジアムの観客席で暴れるフーリガンが、自民族中心的な人種差別的言動を繰り広げるのだろう。 

「サッカーのゴール=受精の瞬間」という独自の文明論を前提にすると、サッカーボールと5本指の深い関係が見えやすくなる。ゴールが決まった後のボールは、どうなるだろうか? 二分割、四分割、八分割、十六分割、三十二分割となったとき、受精卵はざっとこんな形になると、当時調べた本で読んだ。 

ミカサ 検定球5号 貼りボール 白/黒 亀甲 SVC5500-WBK

ミカサ 検定球5号 貼りボール 白/黒 亀甲 SVC5500-WBK

 

 そこで初めて、人体の起源の受精卵に5という数字が刻まれる。五角形が登場するのだ。その五角形だけを黒く塗ったのが、ミカサのような伝統的なサッカーボール。ほら、サッカーボールは受精卵の生成分化において、初めて五本指の5が出現した瞬間を象徴しているのである。 

すべては卵から始まる (岩波科学ライブラリー)

すべては卵から始まる (岩波科学ライブラリー)

 

 自分の創見は、この本にも書いていなかった。またひとつ、新しいものを発見してしまったゼ。

というわけで、今朝は卵のことばかりあれこれ考えていたのだ。朝食には、スクランブルドエッグよりサニーサイドアップの方が絶対に良いのではないだろうか、とか。もう語感からして、憧れてしまう、とか。

と、いつものように連想が特定の方向へとめどもなく流れていってしまう。ここは話も尽き、妄想も尽き、という具合に、妄想にしかるべきピリオドを打たなくては。月! 

世界中で交わされている I LOVE YOU にもし心がこもっているのなら、恋人たちの言葉が同じであることを、他人が咎めだてする必要がないというのが、私の考えです。

 ん? 誰か知らないけれど、朝から良いことを言うじゃないか。純粋な想像で言うと、発言者はかなりのナイスガイなのではないだろうか。 

サッカー部に所属していた中学三年生のときのこと。レギュラーを勝ち取っていたものの、入院中だったので、最後の大会当日を病室のベッドの上でユニフォームを着て過ごした過去が、自分にはある。

やり残したことが追いかけてくる。そういうことは、人生で何度かあるのではないだろうか。

20代の頃は、W杯に日本代表が出場できるかどうかの瀬戸際の闘いを、毎試合食い入るように見つめていた。W杯の予選で日本代表の流れが悪くなると、流れを変えるために、自分の部屋の模様替えをするほど、日本代表の世界挑戦の物語に入れ込んでいた。(ちなみに、模様替えは効く!)

 いろいろな日本代表のいろいろな試合を自分なりに分析してきた中で、記憶に残っているのが「オルゴール・ボランチ」。当時のボランチは、ヨーロッパへ渡った名レフティーと日韓戦の伝説的なループシューターのコンビだった。 

音色は美しいハーモニーを奏でているが、後半に運動量が失速するきらいが見て取れたので、自分が「オルゴール・ボランチ」と名付けた。スポ―ツ番組のサッカー番組にファックスしたら、何と読んでもらえた。500円のテレフォンカードが送られてきた。

今や時代は高度情報社会。サッカーの各選手の動きのビッグデータ分析は商品化されているにちがいない。そう思って検索をかけたら、この記事を見つけた。当たりだ。

 『EAGLE EYE(イーグルアイ)』はまだ製品のカタチも定まっていない発売前のプロダクトだ。しかし、世界のニッチ市場に挑戦できると経済産業省の育成支援事業に採択され、海外の特にEU市場を視野に勝負しようとしている。狙いは巨大市場のアマチュアサッカークラブへ、プロで導入が進んでいるウェアラブルバイスでのセンサー分析を持ち込むこと。安価な価格で提供するというが、どう展開していくのか、その秘密を訊いた。 

(…)

山田:サッカーにしようと考え始めて市場を調べてみたら、プロ向けのビデオシステムはすでに販売されていることがわかりました。だけど、ものすごく高価なんですよ。

伊藤:高いというと?

山田:導入に1000万円、維持費は年間80万円、データ分析に1回50万円というような価格です。これはアマチュアチームには払えないですよね。(…)

伊藤:なるほど。価格はどれくらいを目指しているんですか?

山田:現時点では、本体の価格を1万5000円くらいにしたいなと考えています。

(…) 

山田:センサーは選手だけに付けるので、ボールのデータは取れないんですよ。アディダスが弾道データを取れるセンサー内蔵のボールを発売しているので、将来的にはこれを利用するのもアリかなと思っていますが、現状では選手の動きだけを見るためのシステムです。

(…)

山田:それに「ああ、この選手は走ってないな」といった事実も一目瞭然です。中学生にも製品テストで協力してもらったんですが、彼らは口をそろえて「これ、ヤバいって。全部バレる」と言っていました(笑)。 

 こういう分析デバイスがあったら、各選手の動きが「ヤバイ」くらい事後的に明確に検証できる。安価になったとはいえ、ボール抜きなら、導入するチームとそうでないチームがありそうだ。どっちでもいいと思う。

しかし、絶対に「どっちでもいい」と言えないのが、日本の民主主義の根幹をなす公文書問題だ。昨日、民主主義を支持する全国民待望の新書が発売された。 

◆推薦◆
青木理氏(ジャーナリスト)
「私たちは無知に追いやられていないか。無知に追いやられ、都合よく支配されようとしていないか。本書で著者が書く通り、これは〈民主主義のあり方自体の問題〉なのである」

 

望月衣塑子氏(東京新聞記者)
「時の権力者への検証と、歴史の過ちを繰り返させないためには、公文書が不可欠なツールであることを本書は教えてくれる」

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

 

 何と、公文書管理法には、行政機関がその行政手続きをとった「経緯も含めた意思決定に至る過程」や「事務や事業の実績」を合理的に跡づけたり検証したりできるよう、文書を作成することが義務付けられているという。

「その文書は破棄しました」とか「そういう文書はそもそも存在しないので出せません」とか「それは怪文書です」とか、いろいろとおかしな発言が繰り出されたせいで、大好きな蕎麦が「もり」「かけ」ともに、すっかり不味くなってしまった昨今、公文書管理法違反で公的機関の違法行為を突き上げていくのは、かなり有力な追及の方向性だと感じた。こんなわかりやすい正攻法があったのか。

 上記の記事を書いた一ヵ月前、すでに次の新書の出版は予定されていた。誕生日をしっかり覚えて待っていた新書ということになる。

外交文書を30年後に公開するのが国際標準になったのは、第一次世界大戦のイギリスによる三枚舌秘密外交が発端だったという。 過大な賠償金を課された敗戦国ドイツが、戦争責任の真相究明に大きな不満を抱いたことも後押しとなった。

ところが、日本は形だけ国際標準に合わせたもおの、その実態は外務省に都合の良いものだけをわずかに公開するという手法を取ったため、民主党政権外務大臣岡田克也が、「外交文書の30年後原則自動公開」の外務大臣訓令を発したのだという。

すると、日本の戦後史研究はこうなった。

 最近の戦後外交史研究は、若手の研究者を中心にめざましい発展を遂げています。情報公開法を利用した外交文書入手の手法が研究者の間に定着してきたことや、外交史料館での大量の文書公開が、研究の進展におおいに貢献しているからです。「対米追従外交」というレッテルを貼られがちな戦後日本外交の裏側では、米国との激しいやりとりが行われていたことが次第に明らかになりつつあり、日本外交史の修正がなされ始めているのです。

 瀬畑源が強調する通り、公文書は「公的」なものではあっても「中立的」なものではない。外交文書が保存も公開もされなければ、相手国の言い分だけが国際社会の認識とならざるをえない。相手国の主張や歴史観だけに依拠した歴史を積極的に生み出して、それに反論しうる根拠を放棄することは、日本の国益を損なうという他ないだろう。

 南スーダンPKO文書公開問題も、丁寧に追いかけられている。その追及が丁寧で真面目であるだけに、一般国民にはどこか可笑しく感じられてしまう。

①ジャーナリストが南スーダン派遣部隊の日報に公開請求をかける → ②見せたくないので、日報はあるのに「廃棄済」と答える → ③自民党行政改革本部から確認が入る → ④防衛省に日報があり、統幕本部にもあることが判明する → ⑤②の嘘を上塗りするために、防衛省の日報は廃棄、別の統幕本部で見つかったことにする → ⑥防衛省は「軽微な事案」なので廃棄したと言い訳 → ⑦軍事組織の現場日次報告が「軽微」なわけがない → ⑧事実、統幕本部は重要だと思ったから複写して保存していた → ⑨情報公開法違反と自衛隊法違反との監察結果が出る → ⑩防衛大臣ほか辞任

 けれど、ここに問題の典型が現れている。

都合の悪い文書には、何でも「軽微な事案」=「保存期間1年未満」を適用して、本当は大事な文書だから、こっそり自分たちで持っておく、という姑息な作戦が、「もり」「かけ」問題などでも、官僚たちが華麗に駆使してきた必殺技なのだ。彼らの間では、華麗と蕎麦が実はよく合うことが知られているのだろうか。

驚いたことに、「文書を作らず、残さず、手渡さず」という秘密の「非公開三原則」というものが官僚たちの間にあると、日経新聞が報じたのだという。まだまだ勉強不足だな、自分は。カレー蕎麦を知らなかったし、「非核三原則」しか知らなかった。

この分野の専門家で信頼できる識者を、筆者以外に二人紹介しておきたい。

以前も引用したこの記事に登場する三宅弘弁護士。公文書管理法の制定に有識者として関与し、一貫してその管理にも携わっている。問題の核心をついたコメントを出している。

  • 「一年未満」がここまで抜け道として使われているのは、公文書管理法の精神に反する。
  • 一年未満の区分は廃止するか、要件をもっと具体的にすべきだ。

そして、情報公開系オンブズマンの先頭を走る「情報公開クリアリングハウス」。

1980年に設立された、日本で初めての公的機関の情報公開の問題に専門的に取り組む「情報公開法を求める市民運動」が、情報公開法の制定を受けて組織改編をして1999年に誕生しました。

情報公開クリアリングハウス | 情報公開クリアリングハウス

約2か月前の2017年12月6日に、野党の共同提案で提出された改正案は、情報公開クリアリングハウスが蓄積した数十年音知見が反映されているという。地道なNPOの活動が、政治を少しずつ良い方向へ動かしつつある。

 周知のように、官僚や公務員には憲法や法令の遵守義務がある。したがって、公文書管理法に直接の罰則がなくても、野党やマスメディアが違反の実態を明らかにして、懲戒処分を迫るのが最短の行政是正運動になりそうだ。 

法令遵守義務(ほうれいじゅんしゅぎむ)とは - コトバンク

懲戒処分 - Wikipedia

ただ、政治問題を調べているうちに、霞が関文学とか東大話法とかいう独特の利権確保型の文体にも慣れてきたような気がする。 何というか、「卵」で始まったこの記事にさらにコ黄身よく卵話を付け加えれば、『鏡の国のアリス』に出てくるハンプティー・ダンプティーにちょっと似ているのだ。自分の言語的領土を守るために、全力で屁理屈をこねつつ、何とも偉そうな感じが。

上の「卵おじさん」のダンスは可愛らしい。しかし、アリスと交わす会話は、なかなかの鼻持ちならなさだ。

 「名前は意味がなくちゃいけないの?」、アリスは疑わしそうに聞いた。

「当たり前だろ」、ちょっと笑ってハンプティー・ダンプティーは言った、「おれの名前は、おれの形を意味しているんだ――かっこいい形だろ。おまえのみたいな名前じゃ、どんな形か、さっぱりわかりゃしない」。

 言い争いを避けるために、「どうしてここに一人ですわっているの?」とアリスは聞いた。

「どうしてって、誰もおれと一緒に座っていないからに決まっているだろ!」とハンプティー・ダンプティーは大声で言った。「そんな質問の答えを知らないとでも思ったのか? 別の質問をしろ」。

 こういうのは、一種の藁人形論法でしかない。フランスの大哲学者ドゥルーズが、ハンプティー・ダンプティーについて何か書いていたような記憶があったので、探したが見つからなかった。記憶違いかもしれない。しかし、ルイス・キャロル論は流石の上手さだ。 

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

 

こういうありそうな分析なら自分でも書けそうだ。ルイス・キャロルが直面しているのはオイディプス状況に立ち向かえない不可能性(父からの逃走と母の放棄)であり、ファロスとの完全同一化と完全消去が同時に少女像に投影されているという感じの精神分析

ドゥルーズはそのような通俗的精神分析には目もくれない。ルイス・キャロルには、実は「脱性化」の力能だけがあるとした上で、それが同時に却って少女への性的欲望を固定化させるというのだ。「アリス」で起きているそのつかみがたい複雑な動的現象を、ドゥルーズルイス・キャロルが少女を被写体とした写真家だった事実に求める。

ここで、ドゥルーズ・ファンは「なるほど」と膝を打つ動作を生成してしまうというわけだ。最近無茶な速読ばかりしているせいで、こういう複雑な運動をした哲学書をじっくり読みたいとの衝動に思わず駆られてしまう。

しかし危うい。ハンプティー・ダンプティーは塀の上に腰かけていた。いわば、世界一危ういバランスにある玉子だった。となれば、危ういバランスを美しく保った世界一の王子に言及しないわけにはいかないだろう。 

昨晩ではなく2017年の動画だ。どこかにも書いたが、このスケーティングの背景で流れている音楽を、今は亡き駒場小劇場での19歳の作 / 演出 / 主演のクライマックスで使った。聞いているだけで鳥肌が立ってしまう。 

 作・演出・主演で打ったその芝居の内容を要約するのは難しいが、ヘッセ『車輪の下』的主人公の少年が約束に遅れたことで、ヒロインの少女が怪人20面相一味やらサルバドールダリやらに狙われて、明智探偵率いる少年探偵団の助けを借りつつ、車輪の下(ゲ)経由の「ゲゲゲの鬼太郎」、車輪の上(ジョウ)経由の「あしたのジョー」らも関わっての大混乱の大闘争の中、主人公の少年が誤ってヒロインの少女を刺殺してしまうも、世界の時の流れを何とか止め、時間の円環の上(車輪の上)を少年が少女との約束を果たしに際限なく走っていく、という脚本だったはず。 

 オイディプス神話をも劇中に導入したので、主人公は避けられず「遅れてくる」。けれど、どうしても守りたい約束があるので、幾多もの困難を切り抜けて、ようやく約束した相手のヒロインのもとへと辿り着くのだが……

そこで、リンク先動画の7:56からの背景音楽が流れ始める。ヒロインは狂気に支配されていて、主人公に向かってナイフを振りかざすのだ。ナイフを奪って、狂気のヒロインをかばいながら敵と果敢に闘って勝利するのだが…… ナイフで刺殺したはずの敵が不思議な形で姿を消した。かと思ったら、ナイフが突き刺さっているのは、ヒロインなのだ。背後で庇っていたはずのヒロインが、野太い声で主人公に声をかける。怪人二十面相の変装術が、敵をヒロインに、ヒロインを敵に化けさせていたのだ。主人公はこう絶叫せずにはいられない。

「誰が、殺したんだ!」

「お前が、殺したんだ!」

と敵が背後から主人公に絶叫を返す。

オイディプスを変形したこのクライマックスに、当時の自分が何を賭けていたのか、今ならわかる気がする。それは自罰感情だ。思い通りの愛を得られないのは、自分に欠けているもの、自分が殺したものがあるからだと自分を責めてやまない気持ち。

19歳なんて、本当に子供なんだな。 

 でも、そういう自罰感情に近い何かを、この15年間ずっと抱いていたような気がする。自分が生きているから迷惑をかけているんだ、とか。周りに酷い迷惑がかかるなら、自分の夢なんか諦めたってかまわないや、というような感情。何だか最近どうしても平謝りしなければならない状況に追い込まれたので、太宰治の「生まれてきてすみません」を心の中に用意していた。ただし、( )書きで(お父さんお母さん、ぼくを産んでくれてありがとうございました)は、書き添えようと思っていた。

ところが、不思議だ。どうしてもそうなると思っていた状況が、どうしてだか、そういう全面謝罪をする状況にだけは、どうしてもならないのだ。しかも、状況はみるみるうちに変転して、「生まれてきてくれてありがとう」とか、「生きていてくれてありがとう」とか、見知らぬ方々からとても有難いメッセージをいただく展開になってしまったのだ。

人生は本当に不思議だ。

サッカーと玉子の話で始まったこの記事は、どうして自分がいまだに「作家の卵」なのか、という話につながる。莫迦だったなと本気で思っている。20代の頃は、どんな無軌道な法師中な人生を送っても、明晰な頭脳と知的な実力さえあれば、社会から正しい評価が得られるて、垂直構造の上へ上へあがっていけるのだとばかり思っていた。

人生で本当に大切なことを何も知らなかったんだと思う。

自分の生命を輝かせる尊さ、自分を後回しにして他人を輝かせる楽しさ、心が響き合う仲間たちと一緒に素敵なものを作り上げる幸福。  

 莫迦だったんだ、20代の自分は。

定着はしなかったものの、「バカ王子」という渾名をつけてもらったのも、いま思うと嬉しい思い出だ。何と言っても、莫迦を直せば、王子になれるのだもの。

バカをとっても、まだ玉子のままだけど、黄身を思うハートだけは割れちゃいないつもりだ。

不思議ついでに、「俺のフレンチ」ならぬ「オレのゴール」について話しておこうか。もちろん「オルゴール」の話。高校のとき、地元で有名なほど盛大な運動会で、グランド劇場の作演出を務めた。劇中で、どうしてもオルゴールを使う必要があったので、百貨店のオルゴール・コーナーへ行った。商品棚には、30くらいのオルゴールが並んでいた。曲名は書いてあっても、インターネットのない時代の高校生のことだ。トラッドな洋楽の曲名なんてわからない。そのオルゴールは、運動会が終わったら、自分がもらっていいことになっていたから、じっくり試聴して回った。最終的に選んだのは、知らない海外の曲だった。

ひょっとしたら、自分の部屋の隅を探せば、まだどこかにあるのではないかと思う。

選んだのはこの曲。選んだときは、誰の曲かも知らなかった。 

世界はあまりにも不思議で、美しく、精一杯生きるのに値する場所だと思う。