麻酔めいた阿頼耶識を略したい

美学という言葉を使うと、大袈裟になるかもしれない。

それでも、自分がこだわってきたものや好きなものは数え切れないほどあって、そういう存在のそれぞれが、人生のいろいろな局面で、不意に近くなったり遠くなったりするのを感じて生きてきた。

それが映画なら、クローズアップで描写するところだ。映画でない小説での遠近調節を、この場面の描写で試した。映画の比喩を使っている。

主人公の路彦は、6年前に理由も告げられないまま、交際女性と音信不通になった過去がある。29歳の男なので、まなざしには性的なニュアンスが少しだけ入り交じっている。

 待ち合わせた大学の正門に愛車の兜虫を停めていると、表通りの向こう、信号の下に 蝟集している人混みの林から、細く白い腕が上へ伸びて、賑やかに振られるのが遠見された。路彦はまだガラスで隔てられた車中にいるので、待ち焦がれたはずの再会のこの瞬間が、夢の醒め際に似たつかみどころのない曖昧な映画のように感じられる。琴里が大通の横断歩道上をこちらへ駆け寄ってくる数秒、映画でクローズ・アップが群衆からヒロイ ーンを選り分けるように、雑踏の隙間から女の顔が現れ、細身の全身が現れ、ヒールが高いせいで細い腰が女らしく左右にゆらゆらと揺れる様子が、フロントガラス上に次第に大き くなってくる。6年間の夜々の孤独がまざまざと蘇る。あの細い華奢な身体が、自分の塞がらない傷口にガーゼのようにそっと覆いかぶさってくれたらと、どれほど痛切に願ったことだろう。路彦が知っている唯一の女の身体。身体は歩いて近づきつつあったが、見知らぬ派手な布地にくるまれたそれには、もはや触れることさえ叶わないのである。痛みのある感傷が心中に満ちる。けれど、それも数秒のことだ。

 わずか数秒でも、謎の理由で失恋した男の傷を「絵」にしなければならない。小説というものは、本当は、絵になる瞬間より絵にならない瞬間をどのように書くかに、その作家の真骨頂が現れやすい。しかし、だからこそ「絵」になる瞬間への嗅覚が大切だともいえる。

そして、その「絵」の守備範囲を、映画やドラマなどの動画だけでなく、絵画や写真の静止画まで広げておいた方が、描写力の育成に資するというのが、持論だ。そういうわけで、若い頃にファッション系の写真家の作品もチェックしていた。 

現在のHP上では、多彩な主題の連作群を持つトマス・ルスも、90年代は、耽美系のフェティッシュな主題で、村上龍の一部の作品世界に重なるような写真を撮っていた。「Paradise Lost」という写真集の名前を、今でも覚えている。

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(画像引用元:https://www.lensculture.com/books/11853-paradise-lost

自分が好みだったのは、toni meneguzzo で、現在は「Divine bovine(神聖な牛)」という連作で、ヒンズー教徒たちが収穫と牛の聖性を祝うためにしつらえる「飾り牛」を撮っているようだ。こんなお洒落な牛たちは初めて見た!

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(画像引用元:Toni Meneguzzo – Divine Bovine

 写真家は元々いろいろな被写体を撮りたいという欲求が強い種族だ。だから、キャリア全体を俯瞰するとファッション以外の写真がどうしても多くなる。それなのに、被写体にかかわらず、ファッション写真の作法が作品に色濃く残っているのが面白い。当然、遠近法の制御やズームの in / out なんて、朝飯前なのだろう。

どういう風の吹き回しか、90年代の自分はファッションショーなども定期録画して、チェックしていた。当時、確かパリのコレクションに山口小夜子以来?となる日本人女性モデルが出演していたのを見かけて強く魅かれたような気もするが、それは気のせいかもしれない。

木を見て森を見ず。森を見て木を見ず。遠近法を操るテクニシャンなら、その両方を見て、その両者の間もしっかり見られるのだろうが、自分はまだどこか遠近法に惑わされたまま生きているのだ。

Paradise Lost」という写真集名をぼんやり眺めているうちに、『豊饒の海』の『天人五衰』のラストシーンを、ハッピーエンドからトラジックエンドに書き換えて、三島由紀夫が自決したことの意味を考えていた。

 本多死なんとして解脱に入るとき、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。(バルタザールの死)

(『豊饒の海』創作ノート18冊目) 

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

 

 いまだに毎年出版される三島由紀夫研究本の中で、この新書は出色の素晴らしい出来だ。難解で知られる『豊饒の海』四巻の解読を、ほぼ完全に成功させた労作で、三島通を自認する自分にも、教えられるところが多かった。

上記引用部分の「バルタザール」は「バルダサール」の誤記であり、後者はプルーストの初期短編だそうだ。主人公の「バルダサール」は、最終場面でインド行きの船と鐘の音にふと触発されて、これまでの記憶の数々が湧き出るように次々と蘇っていくのに身を任せて、幸福な臨終を迎えるのだという。『失われた時を求めて』での有名なマドレーヌによる「無意志的記憶」の想起は、この初期短篇が元になっているというのだ。

迂闊にも気付いていなかった。太宰治人間失格』に対抗意識をもって初期出世作仮面の告白』を書いた三島由紀夫は、20世紀最高の小説『失われた時を求めて』の「無意志的記憶」に対抗意識をもって、「唯識」大作小説を書き上げていたのだ。  

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

 

 この新書が凡百の研究書を上回っているのは、創作ノートに手掛かりのあるレファランスだけでなく、筆者の頭にある「教養書庫」から、戦後の思想や文学との切り結びを指摘している点だ。

初読のとき最も驚いたのが、丸山真男の有名な「ファシズム的権威の垂直軸」の構図を、三島自身が日本文化論の中心へ導入している点だった。当然のことながら、天皇主義者の三島とファシズム批判急先鋒の丸山真男とは、思想的に対極に位置する。 

 ところが超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体であるところの天皇もまた、この上級価値への順次的依存の体系に於て唯一の主体的自由の所有者とはなり得なかった。天皇は無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っていて、その存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

 

 丸山真男を一躍有名にしたこの短い論文には、亜インテリを魅惑するちょっとした中毒性があるというのが、私見だ。実際、自分も理系の青年に権威を批判させるときに、丸山真男の語彙を流用して、批判させたことがある。 

その対極にあるはずの文脈から鍵概念を抜き出して、自説を補強してしまえる柔軟性が、実は三島の凄いところ、言い換えれば、作家らしい作家の凄いところなのだ。

こういう概念の編み替えを無節操だと批判するのは誤っている。

三島由紀夫寺山修司も「(多数性に開かれたメディアである)小説はファシズムへの抵抗性を高める」 という意味の発言をしている。作家にも統御しきれない、無数の記号のざわめきは、間違いなく、硬直した閉鎖意味体系の外側にあるのだ。

日本の文芸批評が、小説の情操教育上の効用をどうして語らないのかは知らない。しかし、それは日本特殊的現象なのではないだろうか。どこかの一般向けの英語文献で、小説を読むことで他者への共感可能性が高まること、娯楽性よりも純文学性(seriousness)が高ければ高いほど、人格的陶冶の効用が高いことが主張されているのを見た。誰かが日本語で書いてくれると嬉しい。

さて、丸山真男から換骨奪胎した「垂直軸」は、三島の頭の中で、さまざまな事物と組み合わされ、このような形へと発展していった。

 澁澤龍彦が「皿屋敷 / 阿頼耶識」と書いたものに相当するものを、文化的文脈に目敏い椎根和は、すでに見つけてしまっていた。何と、遺作『豊饒の海』の背後にあった仏教哲学も、ユング心理学と重なり合う領域にあったのだ。三島は、ユングのこの本を読み込んでいたらしい。 

 (…)

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そこに出てくる「宇宙時計」の夢をみた頭脳明晰な患者とは、アインシュタインの絶賛を受けたノーベル賞物理学者のパウリ。三島由紀夫は、ユングによる「宇宙時計」の概念と阿頼耶識との共通性を探ろうとして、熱心に松山俊太郎に質問していたらしいのだ。パウリは物理学でありながらユングとともに、シンクロニシティの研究もしている。シンクロニシティ関連の本に「宇宙時計」の図が載っていた。なるほど、これは確かに、外見としては、時空が直交交錯した「皿屋敷」に似ているし、阿頼耶識自体も一種の時空論なのだから、三島由紀夫の着想は鋭いと言えるのではないだろうか。

(…)
偉大な文学者を個として称えることを間違っているとつもりはない。しかし、三島由紀夫という不思議な存在を研究すればするほど、三島個人の凄さとは別に、凄い何かが彼に強力に働きかけているのを感じるようになった。外的な作用力のあるその未知の水脈とは、ユング研究第一人者の河合隼雄と親交のあった村上春樹が、しばしば井戸の比喩を用いることが示唆しているように、(ユング―三島―春樹をつなぐ)「集合無意識」に似た何かだろう。 

井上隆史の新書では、阿頼耶識について、諸流派における専門用語の異同を確認しながら、丁寧な解説がなされている。しかし、その部分はこのブログでは話を急いでもよいところだと思う。空海華厳宗の教えを解説した部分と、内容は大筋で同じだ。 

チベット密教に私淑して、新たにした認識でジョン・レノンが書いた曲も、大筋で同じ内容を歌っている。私たちは現世に「魂の修業」をするために来ているのだ。「だから『存在』のゲームを最後まで楽しもう」とジョンは歌っている。

ジョン・レノンが依拠したのは、ティモシー・リアリーの『チベット死者の書』。心理学者のユングも、この書物を座右の書としていた。

同じ書物の内容を映像化すべく、NHKとカナダとフランスのテレビ局が共同制作したこの番組は、かなり見ごたえがある。死者が亡くなると、このブログでも言及してきた「幽界」(=バルドゥ=中有)へと、死者は彷徨い出る。その彷徨いの道先案内となるように、死に瀕した病人のそばで、僧侶たちが読経しつづける様子が映し出されている。 

さて、井上隆史は数日前にも『豊饒の海』を分析した書物を上梓した。これらの二冊にざっと目を通しただけでも、明確にわかることがある。 

 それは、三島由紀夫が、唯識仏教の訓詁学的な細部に足を取られることなく、大掴みで世界の神秘の核心へと分け入り、当時の日本人作家としては、とんでもなく深い所まで到達していたことだ。

唯識仏教について詳述している『暁の寺』のこの一節は、10年代の私たちにはどう読めるだろうか。新字旧仮名で引用しよう。

 従つて、阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸し激動してゐるのである。

 世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。

 世界はどうあつても存在しなければならないからだ!

 しかし、なぜ?

 なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである

 世界が存在しなければならぬ、といふことは、かくて、究極の道徳的要請であつたのだ。

(ゴチック部分は、原文では傍点) 

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

 

 「スピの座上昇気流」と私が呼んでいる現象(「スピリチュアリズムの興隆」)は、1970年代以降に始まり、自分の仄聞する限りでは、2000年、2012年、2017年にさらに上昇気流の強度が高まったらしい。 

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

 

少年時代からの輪廻転生の確信、隠れユンギアン、UFOへの強い関心、唯識仏教(≒精神世界)への傾倒。…… 

三島由紀夫とは何者なのか」、私の解答用紙に、いまこう書きつけたところだ。

戦後最大のスピリチュアル作家!

 「どうも、ちょっとばかし自分に霊感がついてからというもの、あいつはスピスピうるさい」と憮然となさっている読者のために、文学研究者の顔で付け加えておきたいこともある。

井上隆史の二冊の「豊饒の海」解読本をざっと読んだ上で、もし自分が付け加えられることがあるとしたら、少年時代からの三島の「輪廻転生」への傾倒が、ニーチェの「永劫回帰」経由だった可能性を探ると、さらに面白くなりそうだということだ。

三島由紀夫がラディゲだけでなくコクトーに傾倒していた一時期があることを、 澁澤龍彦が指摘している。悲恋小説『春の雪』ではじまる『豊饒の海』のどこかに、コクトーのこの映画の投影がなかったことは言えないかもしれない。 

「悲恋」という映画名で日本では流通した。原題のフランス語は「永劫回帰」を意味している。

少年時代の三島は、「輪廻転生」を「小輪廻」と「大輪廻」の二つに分けて把握していた。「大輪廻」はニーチェの「永劫回帰」由来と見て、ほぼ間違いないだろう。

実は思想小説『美しい星』でも、ニーチェ的な「永劫回帰」が思想的な転換点として用いられている。自決当日、机上に『悲劇の誕生』を据えてこの世界を捨てた作家は、骨の髄までニーチェ主義者なのだから。

もう一点、三島由紀夫が数々の社会思想や宗教思想の中から、なぜ唯識論を選び取ったのか、なぜ世界崩壊やニヒリズムに浸されつづけたかを問うときに、同性愛におけるエロス / タナトスの特性への探究が不足しているように思われる。

例えば拙記事で語った「3」の数字は、老残の本多にも出現する三島的三角形のエロス構成要素だ。

 田中美代子の『決定版三島由紀夫全集』の最後の月報は、『仲間』が「3人」であることを述べて、その結語としている。驚くべきことに、田中美代子には3がわかってしまう!(ただし3人目が「精霊」であるという解釈には、私は懐疑的だ)。

この3という数字が、実は三島文学を読解する上で、欠かせない鍵なのである。

わかりやすく三角形に図示すれば、「エロスとタナトスの絡み合い」とかつて述べた両極を、頂点B「愛する / 愛される」、頂点C「殺す / 殺される」と言い直して、正三角形の底辺の両端とすれば、3つ目の頂点Aは「見る / 見せる」である。

三島偏愛の自作『憂国』は、Aの天皇からのまなざしが不可視なので、辺BCが際立っている。同工異曲の匿名ポルノ「愛の処刑」は、美少年の目前での切腹という筋書きなので、辺ACが中心線だ。 

 さらに、もう一歩踏み込んでみたいのは、三島由紀夫プルーストに匹敵すべき「全体小説」の基礎として唯識哲学を採用した理由に、「種子(しゅうじ)」という阿頼耶識の因果の原因物の名前が、積極的な役割を果たしたやもしれぬ可能性の探究だ。

LGBTの種族による創造物に、「種子」や「生殖」が頻出することについては、二度言及したことがある。

戦場のメリークリスマス』の最終場面に、「(デヴィッド・ボウイが演じたイギリス人捕虜の)彼は私たちの中に種子を植えつけた」という台詞が現れたように記憶する。

その台詞が、原作の『種と蒔く人』から来たのか、大島渚の遺作『御法度』と同じくホモ・セクシャルの含意からきたのか、調べる時間がなかった。 

主人公が恋人とともに食べた魚卵入りの鮎は、「無精卵」だった。恋人が学歴詐称を口実に父に勘当され、戸籍を抹消される経緯には、生殖はおろか戸籍からも峻拒される主人公を含めたLGBTの実存上の苦悩が反映されていると読むべきだろう。では、引っ込み思案な主人公と恋人の交流は、何も生み出さなかったのだろうか?

小説がこの問いに短く「否」と答えているのが聞こえるだろうか。「有精卵」を生み出しているやも知れぬ上流の施設へ、それまでの引っ込み思案が嘘のように、主人公が「自分の足で確かめてみよう」と能動的に歩き出す最後の一文には、この小説を小説らしく終わらせるに足る見事さがあると思う。 

早朝6時くらいに起きて、井上隆史の『三島由紀夫 幻の遺作を読む』を再読し、本屋に新作『「もう一つの日本」を求めて』の取り置きをお願いしてから、図書館で三島由紀夫の「日本文学少史」を借りてきた。たぶん、ここが三島の作家人生の最終局面に深い関わりがあると直感していたからだ。 

自分の予想通りだった。昭和天皇嫌いの天皇主義者だった三島由紀夫は、「皿屋敷 / 阿頼耶識」の逸話で有名な「時間と空間の交合点(=阿頼耶識)」こそが、「文化概念としての天皇制」なのだと説いていることを、発売直後の買いたての本が教えてくれたのである。

自分の勘が当たっていたのが嬉しい。

まとめ読みや飛ばし読みをやっているうちに、それぞれの分野の最前線の動きが、最近分かるようになってきた実感がある。しかし、何より、時間が足りない。時間がなければ、これ以上進めそうにもない。文章を推敲する時間もほとんどないせいで、たまに見直すと誤字や勘違いだらけだ。

でも嬉しい勘違いもある。みっともないことに、上の記事で「パラダイム」と「パラダイス」を間違えていたが、この記事で、子供時代以来ずっと自分の感情的キーノートだった「パラダイス・ロスト」が、ひょっとしたら「パラダイス・シフト」の勘違いかもしれない可能性に気が付いたのだ。

それも勘違いに違いない。

そう言い棄てればせいせいする人々が、そんな意地悪を言うかもしれない。でも、それでも構わない。神経を張り詰めているせいで、睡眠不足や過労やストレスなどで、疲労困憊している自分が、今こうやってキーボードを叩いていられるのは、なにがしかの麻酔に酔っていられるおかげなのだろう。

どういう人々が、このブログを読んでいるのかはよくわからない。きっと自分は酔っている。ただ、相手が誰であれ、こう語りかけたい幸福な気分でいることは確かだ。

偶然お逢いしましたね。酔いが足りないなら、乾杯しましょうよ。あらゆる偶然の生成に乾杯!