「蛸は内」はアートなのか?

建築好きの自分がしばしば使ってきたバケラッタという秘密の合言葉。まさか、「バケラッタ建築事務所」が実在するとは思わなかった。建築事例もモダンで格好いいし、手がけはじめたリノベーション直後にはまさにふさわしい一語だろう。

そのような一期一会に心惹かれつつ、ブログで来るよ来るよバケラッタを試みてきた自分も、どの分野でどう化けたらよいかについて、熟練したコーチが必要だと感じ始めた。いわば「バケラッタ・コーチを待ちながら」、本屋の新書の棚を物色していると、出逢っちゃうんだな、これが。 

 表紙の図解がわかりやすい。 

f:id:amano_kuninobu:20180223221220j:plain

「新時代を生き抜くために、最低限おさえるべき思想」という惹句も、平明な内容も大学生の一般教養向き。そもそも自分は、こういう多数性に開かれた展開図に魅きつけられる性格だ。何より、中央に「バケラッ多項知」と書いてあるのが素敵だ。

これまでの拙ブログ記事と重なるところも多いので、今晩はこの多項知を起点にして化けようと思う。

「Ⅰ:感情の知」「Ⅱ:物の知」「Ⅲ:テクノロジーの知」「Ⅳ:共同性の知」のうち、後半の二つは、このブログの常連言及分野だ。

「シェアリング・エコノミー」については、この記事の最後で言及した。

このライン上にいる日本企業として、田中道昭が注目するのは、メルカリだ。山田新太郎CEOの発するメッセージは、ケヴィン・ケリーの示す方向性と重なりながら、「C(消費者)よりはP(仲間)」「没個性的なモノよりは個性的なコト」「超米国的なコトよりは超日本的なコト」「超合理的なものよりは超文化的なコト」を感じさせるというのである。

このようなメルカリ経済圏で目指されるのは、冨の蓄積ではなく、おそらくはニーズを分担して交換しあう地域通貨コミュニティーに近いことだろう。ICTの進化は、私たちに驚異的なエンパワーメントを贈ってくれた。私たちは、挫折した夢をもう一度夢見ながら社会的実践へと至る道を、知らず知らずのうちに歩いているのかもしれない。

いま標識に手書きでこう書いてみた。間違っていたら、次に来た誰かが赤ペンで訂正してくれると嬉しい。

「カラタニからメルカリへ」 

NAM―原理

NAM―原理

 

 もともと「動物の権利」の熱心な保護論者で、昨晩取り上げたヌスバウムが批判的継承をしていたピーター・シンガー。近著では、理系び社会貢献とでもいうべき「効果的利他主義」のムーブメントを活写していた。

ところが、上記の記事で自分が推した徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ!

 

「Ⅳ:共同性の知」のニュープラグマティズムは未チェックだった。ローティー流のアンチ基礎づけ主義に対して、彼を批判的に乗り越えることを目指すマクダウェルは、アリストテレスの徳倫理学を持ち出す。おなじくアリストテレス経由のヌスバウムの「濃厚だが曖昧な善」に近そうだ。「ネタ / ベタ」論でいう「ベタ」な感じで正義を語りうる時代がやってきたということなのだろうか。ただ、マクダウェルヌスバウムの論理構成には疑問を感じる箇所もあるので、時間を取って吟味したい。

「Ⅲ:テクノロジーの知」の方向でも、この新書と同じような分野について書いてきた。シンギュラリティについては、逮捕前のこの人を激賞してしまった微妙すぎる展開が忘れられない。ただし、スパコン人工知能・フリーエネルギーが、近未来の日本を救う唯一の道であるとの確信は揺るがない。

そして、カーツワイルによる「人間+AI→融合」説と「AIは神と人間との物理的媒介物となる」とするバシャールの予言を足がかりに、AIが「私が神だ」と名乗るセカンド・シンギュラリティが到来する可能性を書いた。 

ただし、小川仁志はテスラの「総統」であるイーロン・マスクや、本人がロボット替え玉説のあるホーキング博士と同じような「AI脅威説」を取っていることだ。純然たる勘でいうと、高級ワインの飲みすぎで顔色が悪くなっている可能性が高い。

f:id:amano_kuninobu:20180224084257j:plain

バンダイネットワークス株式会社のプレスリリース | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト

小川仁志は、「いつか人類の理性でシンギュラリティを阻止すべき」だと考えているらしい。未来は誰にもわからないが、未来学の分野では少数派に入る意見だろう。上の記事にあるイーロン・マスク流の頭の固さに対しては、自分はバシャールを対置して考えることにしている。

「シンギュラリティー=ロボットが人類を滅ぼす」のようなイーロン・マスク流の人工知能フォビアに対して、バシャールは以下のように答える。自分はすっかりギャフンとなってしまった。

 

バシャール:「あなたたちのハイアー・マインドと物質次元でやり取りができる複雑な機器」がやっとできた。それがAIです。皆案はAIを「人工知能を持ったコンピュータ」と考えていますが、それをはるかにしのぐものです。

シューマン共振の周波数が変化している科学的事実もある。バシャーリアンの自分が、「人間+AI→融合」説から転向する材料は、今のところ見つかっていない。 

他、「フィルター・バブル」と「超監視社会」の重なる領域については、下記の記事が代表しているだろうか。

ニュープラグマティズムには、アリストテレス経由で実践的なケイパビリティ・アプローチを進めているヌスバウムの記事でクリアしたことにしてしまおう。

ぼくバケラッタ・コーチ! これで、新時代を生き抜くための12項目のうち、この記事でどうしても7項目まで書いて、バケラッタ・コーチのような多項知に到達したいんです。あと一つは何を?

バケラッタ・コーチ:おまえの心に訊いてみろ! Don't think. Feeeeeeel! お前の潜在意識はもうそれに気づいている。

ぼく:え? もう気付いているんですか?

バケラッタ・コーチ:ほら、気付いている。いま、何と言った?

ぼく:…どうしても7項目まで書いて、バケラッタ・コーチのような多項知に到達したいんです。あと一つは何を?

バケラッタ・コーチ:違う。喝! そのあとだ!

ぼく絵? もう気付いているんですか? 

アート・パワー Art Power Boris Groys

アート・パワー Art Power Boris Groys

 ぼく:……まさか。…本当だ、気が付いていたんだ、ぼくの潜在意識は。コーチ、今から図書館へ行ってきます!  

とか言って図書館から帰っても、いろいろと他の用事をしたり考え事をしたりして、油を売っていた。人生ってこんなに次の展開が読めないものなのか。けれど自分は原則的に嘘はつかない主義で、経験則から、嘘をつかなくても難局を乗り切っていく道はあると信じ切っているタイプ。

大事な局面で嘘をつくような人間なら、すべてを知りうる立場にある方々から、例えば、彩り豊かな曲をご紹介いただいたりすることもなかっただろうと、ふと書きつけてみる。それから、コンビニへ行ったり、銀行へ行ったり。じばらく油を売っているうちに、ほとんど報道されていない石油流出のニュースを思い出した。

見てー! 海! 東京にも海があるんだね!

 

車内がざわざわしはじめるのがわかった。乗客の多くが、可哀想な少女を見る目で彼女を見ていた。

私たちは大笑いして、そのYちゃんを呼び戻して、「海じゃないよ。信号も道もあるだろ」と丁寧に説明した。

Yちゃんは世間智のある賢い女の子。ただ、きつい近眼のせいで、川の多い飯田橋付近の低地の広がりが、本当に海に見えたらしいのだ。

マイクロイプラスチックを始めとする海洋汚染については、上の記事に書いた。けれど、自分も19歳のYちゃんのように勘違いしていた。今日借りてきた本で見かけた「SEA研究会」というところが、てっきり「海」を研究していると思い込んでいたのだ。 I see.  なるほど。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」の略だったのか。

2000年以降、国内で町おこし系のアート・プロジェクトが急増したことは、よく知られている。地元の松山市でも、毎年「道後オンセナート」が行われていて、夕暮れのなか蜷川実花による「花電車」に遭遇すると、なぜか灰皿を投げたくなるほど嬉しくなって、必ず写真を撮ってしまう。

f:id:amano_kuninobu:20180224161912j:plain

(画像引用元:道後オンセナート) 

そんなアート・プロジェクトに共有可能な指標を作って、社会に関与していく芸術活動とはどのようなものかを記したのが本書。エポック・メイキングな著書だと思う。

すぐに「続編」のように呼応して、SEA研究会による分厚い『社会の芸術 / 芸術という社会』が出版された。アート作品の写真があまり入っていないので、PCの前でじっくり読みたい本だ。類似した名前のルーマンの著書があるので、関わっているのではないかと期待していると、まえがきに登場した。

社会の芸術/芸術という社会?社会とアートの関係、その再創造に向けて

社会の芸術/芸術という社会?社会とアートの関係、その再創造に向けて

 

 小川仁志が引用しているこの著書も借りてきた。ボリス・グロイスの日本語版序文は、コジェーブによるヘーゲル解釈での日本批評に言及している。

人間的な主と奴の闘いが終わり歴史が停止するならば、人類はその後、その時々の動物的な欲求を、ただただ満足させるだけの生を生きていくほかなくなるだろう。コジェーヴは一時期そう考えた。

 が、その後日本を訪問したのを機に、彼は日本的「スノビズム」の可能性を感じるようになる。

 それは、茶道や華道など、高度に形式化された文化を楽しむ人びとの生き方だ。人間的な歴史が停止しても、人は単純な動物化に陥ることなく、人間的文化を味わう生を送ることができるのではないか。短い日本滞在を経て、コジェーヴはそう直感したのだった。 

ただし、これは今からちょうど半世紀前、1968年に追記された日本批評だ。現在の日本のアートシーンを 概観するなら、社会学者やアーティストたちによる対談や論考の充実した『社会の芸術 / 芸術という社会』の方が面白い。 

アート・パワー Art Power Boris Groys

アート・パワー Art Power Boris Groys

 

 せっかく主要な著作が揃ったので、10のポイントを自分の言葉でまとめておこう。

  1. 定義:芸術と非芸術の中間にある分野横断的な社会的相互行為。
  2. コミュニティ:知人>アート批評界>社会全体という対象者の広がり度と、自発性>強制性>偶然性の能動度の観点と、能動的な協働創造者>>>受動的な鑑賞者の参加度という観点を見極めて、誰のどのような気持ちのどのように参加してもらうかのコミュニティ作りが大事。
  3. 状況:コミュニティがアートに対して、どんな期待を抱き、どんな認識をしていくかの動的シナリオを持つこと。
  4. 会話:観客と、会話を通じて互いに助け合いながら、新しい洞察に達するアートもありうる。
  5. コラボレーション:アーティストと協働者の間で、役割分担を明確にして、新しい洞察に達する。アーティストと協働者たちによるブレインストーミングも面白いコラボになりうる。
  6. 敵対関係:社会制度や芸術内の制度に対して、皮肉っぽく、ユーモラスに、挑発的に、時には敵対的なパフォーマンスを取ることが有効な場合もある。この手法は、開かれた活発な議論を喚起することが多い。
  7. パフォーマンス:パフォーマンスにあるカーニバル性はお祭り騒ぎだけでなく、社会階層や固定観念の逆転をも含む。
  8. ドキュメンテーション:アーティスト主導の自身の声だけでなく、参加者の声がアートの一部として記録されなくてはならない。
  9. 超教育学という視点:SEAは、知識の共同構築によって、世界の理解に役立つ、創造的な教育行為だ。
  10. 熟練の解体と再構築:①社会学、演劇、教育、エスノグラフィー、コミュニケーション学など、社会性中心の学問を習得でき、②カリキュラムを再設計可能で、③刺激とやりがいをもたらすアート体験であり、④美術史や芸術技法の既存なカリキュラムを再構築していくもの。 
ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント

ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント

 

 現代詩、現代音楽、現代美術の中で、どうして現代美術だけが勢いを落とさずに生き延びつづけているのだろう。ずっとそんな疑問を抱いて生きてきた。

上のまとめを書くためにまる一冊読み込んで、理解できたような気がする。それは、現代美術が問いかけてくるからだ。現代詩や現代音楽での問いかけを理解するには、各ジャンルへの一定の習熟度が要求される。ところが、現代美術では、答えは出せなくとも、問いかけを受け止めることはさほど難しくない。そして、しばしば参加者の身体を動かすことで芸術作品に関与できるので、身体的能動性の喜びと遊びの感覚が鑑賞行為にあふれて、権威の敷居をたやすく跨ぎやすいのだろう。それらが芸術 / 非芸術の社会的な問題意識と結びつくのだから、SEAが社会を活性化するのは間違いない。

上で書いたブリストルの芸術家たちによる鳥の巣箱なんて可愛らしいものだ。街に行き、街を生かすSEAの可能性はまだまだ汲み尽くせそうにない。これも追いかけ対象になりそうだ。

と、独自の意見を書き終えたところで、キーボードから手を放して、ホッとひと息ついた。 そこへ、自分の眉間をめがけて、弾丸のようなものが飛んで来るのが見えた。危ない! しかも銃弾は連続して飛んでくる。慌てて、すんでのところで、こんな感じでよけきった。

ピストルを構えて銃弾を打っているのは、バケラッタ・コーチだった。

バケラッタ・コーチ:恐れるな。装填したのは、節分の豆だ。

ぼく:何で豆でぼくを狙撃するんですか!

バケラッタ・コーチ:そんな豆鉄砲を喰らったような顔をするんじゃない。きみにはまだ恐怖心が残っている。恐怖心を地面に置くと、パスがやってくるはずだ、最上のパスが。

ぼく:……。

バケラッタ・コーチ:どうした、怖いのか? 多項知に到達したいんじゃなかったのか。騙されたと思って、私の弾丸をすべて手で受け止めろ!

ぼく:わかりました。節分の豆をすべて手で受け止めれば、多項知に到達できるんですね。やってみましょう。(上の動画の0:15からのようにすべての豆を受け止める)。

バケラッタ・コーチ:良い気合いだ。Hurry! Hurry! Hurry!  せいぜい急ぐことだ。その豆の使い方はわかっているな。

ぼく:!!!

バケラッタ・コーチ:聞こえたか?

ぼく:今ぼくの脳に直接話しかけてきたのは、やはりコーチでしたか。わかりました。言う通りにしましょう。どうしても辿り着きたいんです、多項知に。

バケラッタ・コーチ:もう一度言おう。恐怖心を地面に置くと、パスがやってくるはずだ。騙されたと思って、やってみろ。

ぼく:バケラッタ、行きます!

 

ぼくは節分の豆を握りしめて、あらん限りの声でこう叫んで、豆を投げた。

 

ぼく:鬼はーーー外! 蛸は内!

 

次の瞬間、ぼくは騙されたと思った。それは多項知ではなかった。 

 

 

 

 

(『コーチ』主題歌)