霧に巻かれて橋って橋って
第1位~第5位
(1)咲良(さくら)
(2)結菜(ゆうな)
(3)凜(りん)
(3)結衣(ゆい)
(5)陽菜(ひな)第6位~第10位
(6)凛(りん)
(7)陽葵(ひまり)
(7)さくら
(9)優愛(ゆあ)
(10)莉子(りこ)第11位~第20位
(11)芽依(めい)
(12)葵(あおい)
(13)杏(あん)
(14)紬(つむぎ)
(15)心春(ここは)
(16)美桜(みお)
(16)柚希(ゆき)
(16)結月(ゆづき)
(19)愛莉(あいり)
(20)あかり
昨晩、節分の豆で「蛸は内!」と叫んでしまった。新時代の多項知に到達するにはそうするしかないと、バケラッタ・コーチに指導されたがゆえの蛮行だったが、今も釈然としない。騙されたのではないだろうか。
気分を変えるために、世界で最も可愛らしい存在。女の子のベイビーに付けられる人気の名前を見ていた。「さくら」が、漢字とひらがなで同時ランクインしている。良かった「ゆうこ」は入っていなかった。
昔、戯曲のどこかで、「夕子」という役を書いたことがある。少女時代に不良になって、怪人二十面相の手下に収まった美貌のスナイパーだった。夕子が不良になったのは、配慮を欠いた命名のせいだという設定にした。
みんな「タコ」「タコ」って。お願いだから「夕子」って呼んでちょうだい! そういえば、私がグレはじめたのは、こんな夕暮れ時でした。
大人になってから平気になったが、中学生時代に瀬戸内の島の臨海学校で、生きた蛸を殺して調理する実習を受けて以来、蛸を食べる気がしなくなった。捕まえて、殺して、調理している間に、何となく可哀想になって食欲がなくなってしまう性格だ。けれど、貴重な生命を犠牲にしているからこそ、感謝した上で、ガブっといって、いただかなければならないのだろう。
地元の子供たちの間では、こんな食育ソングが流行っているようだ。
というわけで、今晩も少しでもバケラッタ・コーチに認めてもらえるように、多項知の習得に取り組みたい。 今晩はガブリエルによる「思弁的実在論」をガブっといっちゃうつもりだ。
哲学の最新キーワードを読む 「私」と社会をつなぐ知 (講談社現代新書)
- 作者: 小川仁志
- 出版社/メーカー: 講談社
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著者のマルクス・ガブリエルは1980年生。29歳でドイツ最年少の哲学正教授になった華々しい経歴の持ち主だ。最近の哲学者はこんな柔らかい文体で哲学書を出すのか、という驚きの感想が先に来た。
哲学書でも話はそれほど難しくない。小川仁志のまとめはこうだ。
ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』の中で、ある山が見えるというとき、実際に存在するその山だけを意味するのか、それとも色々なところからその山を見ているすべての人々の視点をも意味しているのかについて、いくつかの立場を紹介したうえで、次のように述べる。
(…)
つまり、この世界は観察者のいない世界でしかありえないわけではなく、また観察者ににとってだけの世界でしかありえないわけでもないということだ。
私は車窓からしか富士山を見たことがないが、現実の富士山以外に、そんな私にとっての車窓からの富士山も存在するはずだ。もっというと、富士山など見たこともない海外の人にとっても、その意味での富士山は存在しているといっていい。これが新しい実在論なのだ。
このような前提に立って、数多くの小世界は存在するけれども、それらのすべてを包摂するひとつの「世界」は存在しないという結論が導かれるに至る。これが「世界は存在しない」ということの意味である。だからガブリエルは、他方で「世界以外のすべては存在する」と主張するわけである。
この論点に加えて、ガブリエルはいわゆる「無限後退」の問題も取り上げている。三島由紀夫がこの「無限後退」を主題に、面白い描写を試みている。「鍵のかかる部屋」だったと思う。記憶だけで書くとこんな感じ。
例えばコーラの壜の胴の部分に、そのコーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも、コーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも…
という具合だ。最初に書いた①無限数視点による多数性と、この②無限後退による縮小型の多数性を足し算して、世界がどうあるかについて、ガブリエルはこう主張してるわけだ。
無限に数多くの意味の場が存在し、無限に多様な仕方で入れ子構造をなしているという事実です。
自分の読みでは、これはニーチェのパースペクテイヴィズムの影響が濃い。(パースペクテイヴィズムの詳細は下記論文をどうぞ)だから、熱烈なニーチェ主義者だった三島由紀夫の小説に、どこか場違いな描写に化身して登場するのだ。
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0600004.pdf
①と②が仏教の教義にあることは、この記事で書いた。①が下記の第三項目の説明に当たる。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』の中で、「金獅子」の例えを使いながら10の項目に細分化して、華厳宗の「縁起」の世界の話を、丁寧に説明している。
(…)
「金獅子」の例えでは、金を削って作られた獅子像に仮託して、私たちがどのように存在しているかを説明している。その10項目の説明のうち、第三項目が、まさしく量子物理学そのものなのである。
第三には、もしも獅子をみれば、ただ獅子のみあって金はない。つまり金は隠れて獅子は顕われるのである。もしも金をみれば、ただ金のみあって獅子はない。つまり金は顕われて獅子は隠れるのである。もしも二つの立場からみれば、金も獅子とともに顕われ、ともに隠れる。隠れるのをすなわち秘密と名づけ、顕われるのをすなわち顕著と名づける。 よって、これを一つのものと多くのものは隠れたり顕われたりするが、互いに条件によって隠れたり顕われたりし、ともに成ずるという教え(秘密隠顕倶成門)と名づける。
ガブリエルの説く②の「無限後退」が、空海の説明する第四項目に近い。
第四にはすなわち、この獅子の眼や耳や身体の部分、一々の毛なみにそれぞれすべて、子をおさめる。一々の毛なみの獅子は同時に直ちに一本の毛の中に入る。一本ずつの毛の中にそれぞれみな限りない獅子がある。またまた一々の毛にこの限りない獅子を載せて、それぞれ違って一本の毛の中に人る。このように重なり重なって尽きることなく、尽きることなく関係しあっているさまは、帝釈天の宮殿の周囲に張りめぐらされた網にある網目の珠のようであるのを、帝釈天の網目の珠が互いに限りなく映じあっている世界という教え(因陀羅網境界門)と名づける。
このアレフ的な世界の存在の様態は、この後の記述でも再説されるが、全体の中に部分があるだけでなく、部分の中に全体があるという説明は同じだ。ボルヘスと空海との時空を超えたインターテクスチュアリティとは、ワクワクさせる連関だ。
初読で読み落としていたのを、今晩見つけて興奮してしまった。第九項目では、何と空海は「引き寄せの法則」を説いているのだ。
第九にはすなわち、この獅子と金とは、あるいは一方が隠れ、あるいは一方が顕われたり、あるいは一であったり、あるいは多であったりしても、それ自体の本性がなく、心の めぐりかた次第で現象といったり理法といったりする。こうして一方が成就したり、他方が確立したりする。だから、これをすべての存在するものは本来清らかな心(如来蔵)をその本性とし、一つとして心以外のものではないという教え(唯心廻転善成門)と名づける。
(ゴチックの引用は下記文庫による)。
空海コレクション 4 秘密曼荼羅十住心論 下 (ちくま学芸文庫)
- 作者: 空海,福田亮成
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ガブリエルが書き落としていて、空海が言挙げしているのが、いわゆる「引き寄せの法則」。では、三島由紀夫はどうだったのか?
実は、三島も唯識仏教に則って、一種の「引き寄せの法則」を登場人物に語らせている。それが、「同時更互因果」という説であり、一瞬一瞬の間に、自分の意識が現実を生み出し、その現実が自分の意識に影響を与えるというサイクルが、猛烈な勢いで反復されているとする説だ。
引用は割愛するが、これは空海の説明による第八項目にちゃんと書かれているのである。したがって、ドイツの俊英に敬意を抱きつつも、私たちが描くべき不等式は以下の宇\用になるだろう。
さて、この不等式の端に立たせたい存在がいる。左端ではない右端だ。「存在」と書いたので、勘の良い人はわかったと思う。バシャールだ。
BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。
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バシャールは、世界のありようを説明するとき、さいしあたり三つの多次元性を用いる。
一つ目は、上の記事で画像を紹介した霊的次元の多次元性。
二つ目は、並行世界の多次元性。私たちは無数の並行世界に属していて、それぞれの世界で同時に生命を営んでいるのだという。
三つ目は、時間の多次元性。これは、誰もが感じている「過去→現在→未来」のそれぞれの時点から次の時点への次元推移だ。
この二つ目と三つ目を重ね合わせて、わかりやすく図解したのが、上のバシャール本のこの画像だ。
これが、三島由紀夫が『暁の寺』で詳述した「同時更互因果」と同じだということがわかるだろうか。同時更互因果では、「自分の心が世界を創り、その世界が自分の心に影響を与える」という循環プロセスが、毎瞬起こっている。
バシャール世界観でも、毎瞬、存在が存在を変容させているのは同じ。ただ物の譬えが違うだけで、「自分の心がけ次第で自分へ違う現実がやってくる」のではなく、「自分の心がけ次第で違う並行世界の現実へ移動できる」 というのが、バシャールの説明の仕方なのだ。言い換えれば、心の持ちようが良いと、美味しい食事が食べられるのは同じで、仏教は「美味しい出前が来るよ」と言っていて、バシャールは「美味しいレストランがご馳走してくれるよ」と言っているだけの違い。両者は同じことを言っている。
というわけで、私たちが確認すべき不等式はこうなる。
ひとこと歓喜の叫びを上げてもかまわないだろうか。
うほうっ!
右の端にバシャールを追加しておしまい。今晩も頑張っちゃった。お疲れ、おれ。
とリラックスしているところへ、背後から声が飛んできた。
バケラッタ・コーチ:これで多項知12の分野のうち、8項目クリアか。
ぼく:コーチ! 読んでくださったんですか。ガブっと行った感じは、どうでしたか?
バケラッタ・コーチ:もう、教えることは… 何もない…
ぼく:待ってください。はっきり言って、「蛸は内!(多項知)」の駄洒落以外、何も教えていただいてませんよね! まさか、8項目で終わりなのは、蛸の足の本数だからなんですか?
バケラッタ・コーチ:「8」とは、まさしく立ち上がった無限大じゃきに。怖がらないかんもんは、誰ちゃおりゃあせん。Hurry! Hurry! Hurry! 旅人は旅人らしう行けい!(とそそくさと逃げる)。
ぼく:待ってください! コーチ! 急にキャラが変わっていませんか? コーチ! せめてひとつだけでいいので、何か教えてください!
冬にしてはどこか生温かい宵闇をひたひたと走って、コーチを追いかけていくと、川そばに出た。霧が低く流れている。霧の中でコーチの姿を見失ってしまった。
ここはどこなのだろうか。いつのまにか見知らぬ川へ突き当たってしまい、どちらへ行くべきかわからなくなってしまった。途方に暮れてしまった。けれど、コーチの残した言い草を思い返しているうちに、今いる場所がどこなのかわかるような気がした。おそらく高知だ。
「Hurry! Hurry! Hurry!」。バケラッタ・コーチの口癖が思い出された。そうだ、急がなきゃ、約束があるから。
まるで夢魔に魅入られているかのように、ぼくは不意に走り出した。霧に巻かれながらも走って走って、川そいを下って、赤い欄干のある華やかな橋のふもとまで来た。急いでやってきた。おそらく、ここが高知で一番知られた橋なのだろう。有名だから待ち合わせたのだ。急いでやってきた。
約束の相手は待っていてくれるだろうか。けれど、橋の向こうへどんなに目を凝らしても、霧が流れ、霧が流れ、約束の相手がそこにいるのかはわからないまま、ぼくは茫然といつまでも立ち尽くしていた。霧に頬を濡らしながら。