胸中時計は運命の道しるべ

悲報がある。最近「小物」だと言われてしまったのだ。言われてみれば、しょっちゅう号泣しているし、.40代男性にしては雑貨店めぐりをするのが好きだ。小物の私のことを嫌いでも、小物雑貨は嫌いにならないでください、と自己犠牲精神満々なところを顕示して、少しでも大物ぶっておこうか。

今でもヨーロッパ+アンティークの雑貨が好きだ。思春期になった中学生の頃、ヨーロッパの貴族がかけているモノクルを、どうしても手に入れたかった。地方都市のどこを探しても見つからなかったが、見つかったとしても、日本人のフラットな顔では装着できないらしい。装着できたとしても、日本の地方都市でモノクルをかけている中学生は、変人にしか見えなかったことだろう。神様、助けてくれてありがとうございます! という具合に神へと通じるほど、小物雑貨が好きだ。

などと書くと、どなたかから、あのブログ主は女性脳にちがいないという推測をかけられたりもする。世界にこんなにもいろいろな考えが満ちていて楽しい。これもどなたかが推測してくれたように、たぶん比率は「男性脳:女性脳=7:3」くらいだと本人は感じている。これくらいの比率があった方が、きっと恋愛映画を男女両方の観点から理解しやすいのではないだろうか。   

ある日どこかで [DVD]

ある日どこかで [DVD]

 

というわけで、今晩語りたい恋愛映画は『ある日どこかで』 。

宣伝予算もなく、陳腐なメロドラマ、恋愛映画を駄目にしたと酷評され、上映は2週間もしないで打ち切られた。

そんな作品が10年後によみがえる。

 (…)

上映打ち切り後、ロスのケーブルテレビ担当者が、この映画に感動して、テレビで放映し、ファンが増えていく。

ビデオ化されるとカルト作品として一部マニアにひろまった。

映画上映から10年後にはファンクラブができ、世界的にひろがってしまった。

2010年、ファンクラブ結成30周年!!

必ず別れがやってくる、そのために心の準備をしておくこと、恋愛は終わるものだ。 - ある日どこかで~世界的ファンクラブがある恋愛映画

 以下、ネタバレ含むあらすじ。

  1. 1972年ミルフィールド大学で脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて」という不思議な言葉と共に懐中時計を手渡し去っていった。周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。
  2. 8年後の1980年、脚本家となったリチャードのオフィスには、彼の大好きな曲が流れていた。仕事も私生活も行き詰まっていた彼は、原稿を求めに来る編集者から逃げるように、車で旅に出た。そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前に立ち寄ったホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし、名札は外されていた。ホテルの老ボーイのアーサーに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。
  3. その時から、リチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また、彼女のメイドだったローラに話を聞きに行ったさいに、彼女が1972年の夜に亡くなったことも知る。彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である『時の流れを超えて』であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知り、さらにホテルの過去の宿泊名簿から自分が1912年に時間旅行している事実を見付け出す。リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授に相談し、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けて催眠術をかける」という方法を聞き出し、1912年の衣服・硬貨を身に付け、ホテルの一室で自分に催眠術をかける。
  4. 目を覚ますと、リチャードは1912年に時間旅行していた。彼はホテル中を探し回り、ホテルの側の湖畔で佇むエリーズを見付け出し彼女に接触するが、マネージャーのロビンソンに追い返されてしまう。リチャードはロビンソンに追い返されながらもエリーズと接触を繰り返し、彼女は次第にリチャードに惹かれていく。エリーズはリチャードを公演に誘い、舞台で台本を無視した台詞を言い始める。その言葉はリチャードに向けた愛の告白であり、リチャードは彼女の気持ちを確信するが、その直後にロビンソンに呼び出される。ロビンソンは、自分がエリーズの才能を見出し、世紀の大女優にするために人生を捧げてきたことを告げると同時に、リチャードに対して彼女に近付かないように警告する。リチャードはその場を立ち去ろうとするが、ロビンソンの部下に殴られて気絶してしまう。翌朝、馬小屋で目覚めたリチャードはエリーズを探すが、既に公演の役者たちはホテルを出て行ったことを知りショックを受ける。エントランスで立ち尽くすリチャードは、役者たちと別れてホテルに戻ったエリーズと再会し、互いの気持ちを確かめ合う。
  5. エリーズは女優を引退してリチャードとの暮らしを満喫し、結婚後は彼の書いた脚本で女優に復帰することを夢見ていた。リチャードも彼女と人生を共に生きることを考えていたが、衣服のポケットから不意に取り出した硬貨が1979年製造の物だったため、リチャードは1980年に引き戻されてしまう。リチャードは再び1912年に戻ろうと催眠術をかけるが、二度と時間旅行することは出来ず、ショックを受けた彼はホテルの部屋に籠り食事をとらなくなってしまう。数日後、異変に気付いたアーサーが部屋に入り、憔悴し切ったリチャードを発見する。アーサーが医者を呼ぶ中、リチャードは薄れゆく意識の中でエリーズと再会する。

ある日どこかで - Wikipedia

 「伝説の傑作メロドラマ」。ひとことでいうと、そういう形容になるだろう。自分には★★★★☆くらいの手応えだった。1981年の古い映画なのに、観客の心の琴線を上手くつかんでいる。2010年代に入っても、熱狂的なファンがいるのも頷ける美味しい甘さだ。

 甘いからと言って、ハーレクインロマンス的だというわけではない。きっと、熱狂的な古参ファンの多くが、男性なのではないだろうか。というのも、これは典型的な「母恋もの」映画なのだ。

1. オイディプス三角形を使った「母恋」映画

検索してもヒットしないということは、ひょっとすると初指摘なのだろうか。上のあらすじで書き落とされているのは残念。エリーズの敏腕マネージャーであるロビンソンには、予知能力があるという設定になっている。かつてエリーズにこう告げている。

ある男性が現れ、エリーズの人生を変える。

この予言が最初にあったからこそ、初対面のリチャードに向かって、エリーズは運命の相手だと悟って「あなたなの?」 と訊いてしまうのだ。年表上は、リチャードとエリーズには約60年の年齢差がある。ロビンソンはエリーズより、さらに20歳くらい上に見える。ロビンソンが父、エリーズが母、リチャードが息子、とうオイディプス的三角形を念頭において観る映画なのだ。

エディプス・コンプレックスとは:

精神分析の用語。男子が母親に性愛感情をいだき,父親に嫉妬する無意識の葛藤感情。広義にはエレクトラ・コンプレックスも含む。人間は乳幼児期から性愛衝動をもち,無意識に異性の親の愛情を得ようとし,同性の親に対しては嫉妬するが,この衝動は抑圧されている。このことを十分理解してなんらかの方法で解放しないと,一種のしこりないし屈折となり,のちに神経症を発症することがあるという考え方。父親を殺し母親と結婚したギリシア神話のエディプス (オイディプス) 王にちなんで名づけられた。 

出逢ってすぐに、リチャード・コリアーは、コリアーではなくリチャードと呼んでほしいとエリーズに頼む。リチャードと呼ばれることで、男女間の親密化だけでなく、母子関係へ移行する働きも成し遂げている。

暴漢に襲われたせいで、有名旅一座の看板女優を追いかけられなかったリチャードは、ホテルのベンチで傷ついた頬を見せてうなだれている。そこへ「リチャード」と叫びながら美人女優が舞い戻ってくる。この最下位の場面も、母子関係の投影が濃厚だ。

説得力が不足していると感じる人のために、子供の欲望が主客転倒しやすいことも書き添えておこうか。 

 赤ん坊が言葉を獲得していく段階にはもうひとつあって、これはフロイトの「快感原則の彼岸」という論文に描かれる。 フロイトの孫が、母親(フロイトの娘)のいない間に、糸巻きを放り投げてまた引き戻す「Fort-Da遊び(いないいないばあ遊び)」という一人遊びをした。 ここでフロイトは、「幼児は、不在の母親の代わりに、その糸巻きをコントロールしているのだ」と思い至る。

 残念ながら、いま手元にフロイトラカンの本はない。ネット上では情報が錯綜しているようだ。フロイトは、あるいはフロイトを再解釈したラカンは、糸巻きを隠しては表に出す「いないいないばあ」をしている子供は、糸巻きが子供で自分が母親の立場になって遊んでいると説明していたように記憶する。

俗耳に入りやすい言葉で言い直せば、巷間しばしば言われる「ロリコン=マザコン」説は、当たっている可能性が高いということだ。単純な話、マザコンの年齢の高低を転倒させたら、そのままロリコンになるし、欲望はしばしばそのように転倒する。

 となると、名高い冒頭の場面、美しき老女が「Come back to me」と囁いて、美青年に懐中時計を渡す場面は、転倒させて解釈すべきだろう。つまり、年老いて大人になっても、幼少期に灼きついた美しい母への恋心が疼きつづけて、舞台そばの美しく若い母に、年老いた息子が「Come back to me」と囁いていると、その場面を読むのが精神分析的には自然なのだ。何だかシュークリームを食べたくなってきた。

2. どうして二人は運命の二人だと互いを見分けるのか

 エリーズがリチャードを運命の相手だと見分けるのは、ロビンソンの予言があったからだ。それに先立って、リチャードがエリーズを運命の相手だと見分ける場面が、個人的には好きだ。

古いホテルの一角にある演劇資料館。その展示に視線をめぐらせていると、リチャードの左側からまなざしが注がれているのを感じる。(上の予告編で0:25から)。映画はこのショットにかなりの時間をかけている。このまなざしの方向が、左側からというのがポイントだ。通例、心音を聞かせて安心させるために、母親は赤ん坊を頭が左になるように抱く。そのとき赤ん坊が、母親のまなざしを感じるのは左側なのだ。

引用した動画の予告編ではわかりにくいかもしれない。映画では、エリーズのブロマイドの写真はとてもよく撮れている。まなざしと微笑の美しさも別格で、しかもそのまなざしも微笑みも、タイムスリップで撮影現場に紛れ込んでいたリチャード本人に向けられたものだったことがわかる仕掛け。これは脚本家執心のモチーフだったにちがいない。とてもよくできていると思う。

3. ほとんどの恋愛映画に欠けている「鍵」

ただし、予言による指定でも、絶世の美しさでも、まだ足りない。私が運命のロマンティック・ラブに不可欠と考えているアレが欠けているのだ。 

それでも、心を変えて愛し合いつづけることを選ぶなら、そこで脚本家が強調しなければならないのは、二人が出会い、二人がある時間を共に過ごしたという事実を全肯定することだと思う。

さらに踏み込んで言えば、一人のときとは違って、二人で交流することによって、喜怒哀楽のさまざまな感情を生み出し、その情動が二人それぞれの生き方を変えたことが尊いのではないだろうか。 

調べてみると、上でまず「アレ」と呼び、長々と言葉を使って説明した内容は、心理学では、すでに「自己拡張」という概念で説明されていた。出所は下の論文周辺で、まだ日本語 wikipedia では説明されていないようだ。 

簡単に言うと、人間は基本的に自己拡張の欲求を持っているので、自己拡張の達成を「快適だ」と感じる。恋愛相手と、新しい経験、新しい対話、新しい価値観、新しい創造などを共有することによって、自己拡張と快適さが得られ、感情が大きくポジティブになる。この拡張経験とポジティブネスこそが、恋愛の醍醐味なのだ。

世に流通するほとんどの恋愛映画に欠けている「鍵」は、たぶんこれだろう。

言い換えれば、同じロマンティック・ラブでも、「運命信念」だけでなく「成長信念」に基づいて二人が物語を紡ぐ恋愛映画が、世界で熱烈に待たれているのではないだろうか。

 4. 自己催眠でタイムスリップ、現代のコインを見て現在への帰還 

 このタイムスリップの意外すぎる簡単さと、年代物のスーツに紛れていた現代のコインを見た途端、最愛の彼女を置いて現代へ帰還してしまうという筋立てに、多くの観客が違和感を抱いているようだ。

「気」の満ちた場所で、自己催眠でタイムスリップするのは、全然かまわないと思う。ただ、せっかく最高の一夜をともにした翌朝、スーツのポケットから偶々抜き出した原題のコインでタイムスリップが強制終了してしまうのは、何とも味気ない。物語に引き込まれていた多くの観客が、アンチ・クライマックスな溜息を洩らすのではないだろうか。

譬えれば、最高の一夜のあと、もう一度朝の光の中で美女に駆け寄って抱擁しようとしたら、足が床を這うコードに引っかかって、プツっと「夢の世界」も美女も消えてしまった感じだろうか。

人が通る場所にコードをつなぐな。危ないだろ!

 と、絶叫して同居する家族に説教しても、もう美女は戻ってこない。

 これには頭を抱えてしまった。しかし、解決方法はそれほど難しくないのではないだろうか。

最初から、博士に「自己催眠型タイムスリップは50時間が限界」と説明させておけばよい。タイムリミットのある過去の世界で、二人の恋はこれ以上ないくらい熱く激しいものになり、最後に「また必ず逢おう」と約束して別れる。しかし、由緒ある名門ホテルが火事で消失してしまう。「気」に満ちた場所がないとタイムスリップできないので、二人は永遠の別れになってしまう。そうシナリオメイクした方が、二人の恋情が生きると思うが、いかがだろうか。

5. 電源オフにされても、生きろ!

タイムスリップを強制終了された後のリチャードが、不憫でならない。エリーズのことばかり考えて絶食状態が続き、何とあの美丈夫が数日で死んでしまうのだ。諸事情で気持ちの切り替えが困難でも、出来合いのカップ麺くらいは口にした方が良かったのに。 

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

 

 この「淋死」エンディングは自分としては戴けない。正直言って、箸もつけたくない。誰かを真剣に愛し、愛された経験は、生命力をより確固たるものなのではないだろうか。

リチャードは脚本家なのだから、現代の世界に帰還した後、エリーズとの恋愛模様を舞台にすべきなのだ。映画を観ている間、自分に見えていたのは、こんなプロットだった。

タイムスリップ強制終了後に苦しみつづけていたリチャードが、ふと室内に目をやると、部屋はいつのまにか、エリ-ズと愛し合った1910年代の装飾品でしつらえられている。自分の容姿も若返っているようだ。

タイムスリップに再成功したのかと思いきや、実はそれは「エリーズ物語」の舞台上でのリハーサル光景だった。

若返ったと思っていたのは、舞台俳優で脚本家のリチャードが「最愛の女性の喪失に、もっと苦しんだ演技をしてほしい」 と強硬に注文を付ける。演出家が渋々その意向に従って初日を上演すると、舞台は大当たり。祝福の嵐の中で、誰かがリチャードが腕時計をしていないのに気づく。まだあの懐中時計を使っているのか?と昔の仲間が訊く。すると、たぶんリチャードはこう言うのだ。

あの懐中時計は宝物だから、もうきみたちには見せないぜ。ここに、大切にしまっているんだ。(と自分の胸を拳で叩く)

 

(ちなみに、スーパーマン役で有名だったリチャード役の名俳優は、ほぼ全身不随となりながらも、スーパーな勇者ぶりを世界に記憶されて、この世を去った。以下、関連記事)。

 6. 「場」や「物」への残留思念

 もったいないな。この映画は大好きだけれど、脚本家が自分の資質を見失っているような気がして、思わずそう呟いてしまった。この脚本家が惹きつけられているのは、「場」や「物」にある残留思念だ。資料室のブロマイドもそう、二人の結びつきの証しである懐中時計もそう、タイプスリップを成功させる屋根裏部屋もそう。

二人の永遠の愛を象徴するのに最適な「場」を描き落としてしまっている。それは、湖。初対面の二人が初めて散歩する場所だ。一般的に、液体は残留思念を吸収しやすいと言われている。湖のたたずまいは永遠だ。

初対面のリチャードでも、その湖についてエリーズに話すことはできるし、現代へ戻ってからも思い出を温め直す場所にもできる。綺麗な湖だったので、フィルムの数分は湖に使ってみたかったような気がする。

 

 *

 

さて、この映画について書きたいことは、ほとんど書いた。恋愛映画が好きと言うだけで、「自分ならこうする」という着想をいくつも書いてしまったが、こういうアイディア群は、映画を見ている間にシャンパンの泡のように次々に浮かんでくるもの。その泡々がシャンパンに属しているものであることは間違いない。美味しいお酒に、素敵な酔いにあらためて感謝したい。

ところで、今日の午前中、湯船に浸かっていると、インスピレーションが降りてきた。2017年から、自分はずいぶんスピリチュアルづいていて、時折り霊感に見舞われるのだ。半睡半醒の寝起き、リラックスした入浴のときに、霊感が降りてくることが多い。

湯船の中で、この記事について考えていたとき、霊言はこう囁いた。

途中から見た。

衝撃のあまり、そのまま潜水して、灰の空気をすべて出して泡にしたのは言うまでもない。約30年前の話だ。正直言って、映画を見たことは全然覚えていない。母が借りてきたVHSを「途中から見た」のが、おそらく真相だろう。なぜそう推定できるかと言うと、モノクルは買えなかったものの、映画好きを公言していた中学生時代の自分は、確かにゴールドの懐中時計を持っていたのだ!

中学生時代と言えば、小林麻美を愛聴していた思春期だ。そのとき映画の影響で格好つけに買った懐中時計は、映画の中では、脚本家志望が思いがけないまなざしを得て、国民的な舞台女優に逢いにいく絆の象徴だった。……

上に書いたことに、嘘は一切含まれていない。真実なのにいや、真実だから、怖いような気さえしてしまう。

この言葉を、2018年の流行語にノミネートさせたくなってきた。

宇宙調整!

 

 

 

 

 

(映画の中で、リチャードを見失ったエリ-ズは、隠遁して老女になっても、ずっとこの思い出の曲を聴いていた)。