夜に浮かぶ城、神よ私にどうしろと?

今日は、まだ咲きそろわない桜並木を散策していた。枝の桜色と菜の花の黄色と下草の緑の取り合わせを、数年ぶりに見たような気がする。舗装されていない土の上を、長い間歩けたのが嬉しかった。

そのあとで、ランチへ。

まさか、さっそくこの思い出深い記事を活用できるとは。というわけで、今日のブランチは、地元のイタリアンレストランでピザとパスタをいただいた。けれど、実はお目当ては地元野菜のサラダバー。

紫でまとめたこの記事。途中で言及した行きつけのレストランには、もうひとつ好きなところがある。レストランの入口にピザ窯があって、ピザ職人が生地を宙にハンドトスして成形しては、その上に具材を盛りつけて、釜入れしていく。その様子を、手前に設置された小さな椅子に登って、休日の家族連れで来た子供たちが、鈴なりになって見学している姿が可愛らしくてたまらない。子供たちは、まるでサーカスを見ているよう熱烈なまなざしで、一心に見つめているのだ。

と導入を書いたところで、早くも陽はとっぷりと暮れている。今日は上弦の月だ。これを書いているオフィスの窓からは、いま月は見えないが、ライトアップされた松山城が見える。この窓が好きだった。起業したときのことが次々に蘇ってきて、感傷的になってしまう。

こういうときは、自分に課している「月の習慣」を思い出して心を落ち着けよう。

私の「月の習慣」は、例えばこんな感じ。

卵は必ずサニー・サイド・アップ(目玉焼き)に調理する。
その目玉焼きにはお醤油をかけていただく。

そこもあえて「和」にして、お醤油でいただきたいというのが自分の好み。醤油は寿司用語では「むらさき」という。何だか、さっきから急に紫が気になり始めて書き始めたところ、文脈が自然につきづきしく揃っていくから不思議だ。月! 

最後の最後、別れ際にいう言葉は何が良いのだろうか。「チャオ」なんかが girly で可愛らしい。まだ心と身体が寒いままだ。温めなくては。

「茶を」求めて、寿司屋で熱いお茶を頼んでもいいだろうか。

 

へい、あがり! 

おかしいな。3か月前に頼んだはずの「あがり」がまだ来ていない。まあ、四の五の言っても仕方ないさ。人生は毎日が坂道だから、と書いたところで、昔カーステレオに入れていたお気に入りの曲を思い出した。ブルース経由のイージー・ロックナンバーだ。

Why I'm a stranger in my own life
(…)
Everyday is a winding road
I get a little bit closer

 

どうして自分の人生を自分で生きられないのだろう
(…)
曲がりくねった道を行く毎日
少しだけ目的地に近づけた

道が曲がりくねっているということは山道だろうし、山道だということは坂道なのだろう。wind-wound-wound と活用する「曲がりくねる、巻く」という動詞は、発音違いの wound-wounded-woundedという「傷つける」という単語と混同しやすい。 

重力ピエロ

重力ピエロ

 

「坂道」と「傷」。

『重力ピエロ』の Amazon レビューが、作品の質ほどに芳しくないのはどうしてだろうか。自分は『ゴールデンスランバー』より、こちらの方がエモーショナルで優れている映画だと思う。(どちらも原作は未読)。

例によって、ここからはネタバレ満載でお送りするので、未見の方は注意されたい。予告編とあらすじを引用する。

【起】
 仙台で暮らす奥野家は、父・正志と母・梨江子、長男・泉水と次男・春の4人家族。絆の強い家族でしたが、過去には非常に辛い出来事を経験しています。
 17年前に市内で連続レイプ事件が起き、被害者の一人が梨江子でした。その後梨江子は妊娠し、生まれた子供が春だったのです。それでも家族は明るく、逞しく生きてきました。兄弟たちは春の出生について薄々勘づいていましたが、春が高校生の時、正志の口から真実を告げられます。きっかけは梨江子が事故で亡くなったことでした。
 梨江子の死から数年後、泉水は大学院で遺伝子研究を専攻し、春は落書き(グラフィティアート)消しの仕事をしていました。真面目で気弱な泉水に対し、ルックスが良くストーカーまでいる春でしたが、クールで女性には興味も示しません。対照的な二人でしたが、成人しても仲のよい兄弟でした。


【承】
 市内で連続放火事件が発生していました。放火場所の近くには落書きがあるというルールを春が発見したことで、泉水と春は犯人や放火の謎を追うことになりました。
 同じころ、父が胃がんであることが判明します。手術も終わり、泉水は放火場所の名前と落書きの頭文字が、遺伝子の二重螺旋と一致していることに気づきます。泉水は大学にいる間も謎解きで頭がいっぱいになっていると、耳を疑うような噂を友人から聞かされます。23年前のレイプ犯である葛城が仙台に戻り、売春の斡旋をしていると言うのです。
 腹を立てた泉水は探偵より葛城の情報を入手し、彼と接触します。しかし葛城は非人道的な発言しかせず、反省の色は全く伺えませんでした。泉水は密かに試みた春と葛城のDNA検査で、やはり親子だという事実に愕然としたこともあり、葛城の殺害を決意します。


【転】
 殺害予定日の前夜、泉水のアパートへ春がやってきます。計画がばれない様に部屋には入れず、バーへ移動しましたが、動揺した泉水は春を詰って店を出ました。そこへ泉水の後をつけてくる女性がいたため、彼女を問い詰めます。最近付け回されていると感じていたのですが、正体は春のストーカーをしている夏子でした。夏子は、放火犯も落書きをしているのも春なのだと泉水に激白します。
 翌朝計画を実行しようとしていた泉水は、驚くべき事実を知ります。春の部屋の壁には落書き場所の地図や遺伝子表が貼られ、23年前のレイプ事件の発生場所と放火場所がリンクすることが判明したのです。時同じくして春から泉水に電話があります。新しい落書きが見つかったと。夏子と共に現場に駆けつけた泉水は、それが最後の放火だと解読しました。そして向かったのは、あの忌まわしい事件が起きた奥野家の旧家でした。


【結】
 春は葛城を呼び出し、家に火を放ちました。火には浄化作用があり、あの事件も葛城も浄化されなければならないと考え、放火をしてきたのです。遅れて泉水も到着しますが、春は葛城を何度もバットで殴りました。
次の日、放火現場から焼死体が発見されたと報道が流れます。二人は実家に身を寄せ、春は自首すると言いますが、泉水は「この事件について誰よりも考えた春は、正しいことをした」と宥めました。そんな二人の行動は正志に見破られていました。「春は俺に似て嘘が下手だから」と。
 やがて正志は亡くなり、父の家庭養蜂を二人は継いでいました。家の2階で春は、これからどうするべきか神に聞きましたが返事はありません。代わりに「自分自身がこの世で見たい変化になりなさい」とのガンジーの言葉を唱えました。そして「楽しそうに生きていれば重力など消せる」との父の教えを思い出すように、幼い時に見たピエロの如く2階からジャンプしました。 

タイトルの『重力ピエロ』が、映画の内容を捉え切れていないという批判めいた指摘を見かけたが、それは間違っているかもしれない。映画が要所で重力の増す「坂道」を、画面に映し出していることに、観客は気づかねばならない。

忌まわしいレイプ事件が起こった奥野家の旧家は、「坂」を登り切った突きあたりにあった。あの旧家の赤い屋根は、おそらく映画監督が塗らせたにちがいないと思わせる印象的な独特の赤をしていた。映画の最初で何度かその赤い屋根の家を見せられたとき、たぶんどこかで、この家は映画の中に帰ってくるだろうと感じたのを覚えている。

次の坂道は、母が兄を乗せた乳母車を押して、お遊戯の歌を歌いながら坂道を登る回想場面で登場する。それはレイプ直前の無傷の幸福な光景でもある。

最後の坂道は、レイプされてその犯人の子供を身籠り、その子を出産した元女優が、坂道の途中で横転する自動車事故で死んだ場面で登場する。母の死が事故死なのか自殺なのかは不明。

レビューではほとんど言及されていなかったようだが、この家族の節目節目には、重力のかかる「坂道winding road」と「傷wound」が深く関わっているというわけだ。

自分の気に入った場面は、兄がレイプ犯と対峙する場面。レイプ犯は連続30犯でありながら少年だったために数年で社会復帰し、同じ町で少女売春斡旋業に近い仕事をしている。兄はその男が自分の母をレイプした犯人だと知りつつ、犯人が「趣味」で収集している「記録写真」へと話を向ける。すると犯人は このような人でなしの台詞を放つのである。

レイプの醍醐味は処女だな。貞操を守ろうとして必死に抵抗するから。逆に、子供を産んだ女は最悪だ。こっちが悦ばせてやっているようなものさ。レイプしてくれて、ありがとうございます、って言われているような感じ。 

この屑にしか言えない台詞を、兄は無言で無表情で聞いている。

母は自分を生み、レイプされ、レイプでできた弟を生み、街中の噂になり、事故で亡くなった。

その胸中を想像すると、 いたたまれななくなって、手元にちょっとした爆発ボタンがあったら、つい押してしまいそうになる。

あんなに悪い奴にあんなに酷い台詞を言わせておくくらいなら、畑にあるスイカが20個くらいは爆発しても良いのではないだろうか、と言っている自分が誰かわからなくなるほど取り乱してしまうので、やってくれないか、「きみは誰だ」という誰何を。

つい取り乱してしまった。ただ上手いと思うのは、レイプ犯役を性ホルモン異常者ではなく、他人の痛みをまったく感じられない男に造型している点だ。レイプされている女が苦しんでいる悲鳴を上げているのはよくわかる。しかし、それは他人の痛みや苦しみであり、自分に関係がないことが喜びだという男の主張は、通常の性犯罪者の造型より、はるかに社会的な汎用性がある。他人の痛みを感じられない人々は、社会に決して少なくはないからだ。

自分が何となく気になってHDに録画しておいたのは、伊坂幸太郎原作の『ゴールデンスランバー』『重力ピエロ』、東野圭吾原作の『真夏の方程式』『容疑者Xの献身』の四つ。好きでたまらないのは、『重力ピエロ』と『真夏の方程式』だ。

かつて、放火魔に接近遭遇したこともあった。

男は地面に放心したようにぐったりと座り込み、その横に自転車が横倒しにされていた。なぜスタンドを立てないのだろう?

人間観察が趣味の自分は、その男のことが気になって仕方がなかった。男は携帯をいじるでもなく、酒を飲んでるわけでもない。無人の工場の前だなんて、待ち合わせをするような場所ではない。それでも、何となく直観で、男が何かを待っているような気がした。

別の道を通って散歩から帰ってしばらくすると、消防車のサイレンの音が鳴り響いた。自分のアパートのすぐ近く、急坂を下りきった突きあたりの裏手から火の手が上がっていた。消防車やら野次馬やらで大騒ぎになった。幸いなことに、というか、放火だったので計算してのことだったのだろうが、全焼したのは空き家だった。

放火魔は連続放火をしていたらしい。しばらくして捕まったのは、北先住あたりに住んでいた男。職業を聞いて驚いた。男は何と数年前に退職した元消防団員だったのである。連続放火の動機を、新聞はこう伝えていた。

 

サイレンの音が聞きたくて…

かつて、連続レイプ魔に接近遭遇したこともあった。

東京一の急傾斜を誇るだけあって、初めて見た時は「魔坂…」と感じてしまった。そして、その「魔坂」の麓でも、まさかと思うような事件に遭遇してしまった。

連続レイプ犯がマンションに出没したのだ。一目でワンルームマンションだとわかる造りと、外装のピンクベージュっぽいタイルの色が、連続レイプ犯の特殊な嗜好に訴えたらしい。マンションのオートロック内に忍び込んで、エレベーターの扉の透明な部分から外を伺っていたのだという。同じマンションの女の子の姿を視認すると、敏速にしゃがんで隠れたらしい。危険を感じた彼女は、階段を使って上階へ昇り、事なきを得た。彼女から、懇意にしている私に相談があり、私が警察へ通報した。

世評よりも前のめりで、自分が『重力ピエロ』に偏愛を寄せてしまうのは、そのような自分の個人的な体験も影響しているのかもしれない。

正直に言うと、自分で自分の多面性がよくわからなくなる時があって、こいつは何をやりたがっている奴なのだろうと、不審なまなざしで自分の鏡像を見つめることも少なくない。実は、私がいちばん私が何を書きたがっているのかに興味津々なのだ。

 さて、ここからは、自分の偏愛する伊坂幸太郎的な物語に、純文学の側から何か付け足せるものはないかを考えてみたい。原作も読まずに、しかも映画を二本観ただけの段階で、印象論めいたことを語るのも気が引けるが、今晩もきっと、つべこべ言わずに書くしかないのだろう。

 伊坂幸太郎が多くの読者に受け入れやすいのは、彼の世界レベルの伏線操作の超絶技巧というよりは、むしろ構造分析をかけたあとの「還元後のシンプルさ」にあるというのが私見だ。

例えば、数十年前の連続レイプと連続放火と連続落書きは、すべて同じ場所に重ねられている。遺伝子的暗号を使った連続落書きは、弟から兄へのメッセージで、レイプ犯への復讐を共謀しようという示唆を含んでいる。兄は兄で、上記の人でなしの台詞を聞かされて、自らもレイプ犯の殺害計画を企てる。つまり、ここで兄弟は重なっている。

すると、複雑な人間関係はほぼ三角形になる。「母」を犯した「父」に対して、「息子」が「父殺し」を果たそうとするオイディプス的三角形に還元可能なのだ。

さらに複雑きわまりないプロットの『ゴールデンスランバー』も、大学時代の友人たちを信頼すると援助が届き、それに返礼するといった「若い頃の共生関係の再現」が、恐るべき才能によって、首相暗殺のような国家大の規模にまで膨張しているのだ。元をただせば、伏線のネットワークの中心で糸を紡いでいる蜘蛛は、誰もが見慣れた小さな蜘蛛なのだろう。そのシンプルさが、多くの人々を引きつけている側面はあると思う。

伊坂幸太郎の類稀なる才能は、きっと絶対に同じことを目指してはいけないという抑止効果を、多くの作家に及ぼしていることだろう。自分もその例外ではなく、全然別のことを考えてみようという決意を新たにさせていただいた。 

『重力ピエロ』では、母親が同じである一方、兄が公務員の父を持ち、弟がレイプ犯の父を持つという血縁関係が描かれる。公務員の父は、先に妻を事故で失い、やがて自分も末期癌に罹って亡くなってしまう。「坂道winding road」と「傷wound」の映画は、そうして先行世代の二人を画面から消してしまう。順当な展開だ。

実は、冒頭で引用した「Everyday is a winding road」と歌うシェリル・クロウも、実は乳癌のサバイバーとして、アメリカ本国では有名らしい。

 

乳がんを患ったことは、間違いなくハイライトね」とシェリル・クロウは『ピープル』誌に明かしている。「あれがあったから私はもう一度人生についての基準を改めて、自分が望む生き方のガイドラインを作り直せたの」

シェリル・クロウはまた、乳ガンを克服した後に母親になった経験も同様にターニングポイントになったと語っている。シェリル・クロウは2007年にワイアット君を、2010年にリーヴァイ・ジェームス君を養子として迎え入れている。 

 日本人の約3割が癌で亡くなる。自分も祖父母を癌で亡くした。癌の画期的な治療法が少しでも早く導入されていれば、と考える人々は、この国に大勢いるに違いない。

そういう人々は、これを「明るいニュース」と受け取るだろうか。それとも「遅すぎるニュース」と取るだろうか。 

三木谷:現在、がん治療のメインの流れは、免疫療法になっている。それに対し、光免疫療法のアプローチはまったく違っていて、基本的には「生物学」と「化学」と「物理学」の3つを組み合わせています。

どのように治療するのか。がんに特異的にくっつく抗体に特定の赤外線を照射します。すると、直後からがん細胞のみの壊死が始まるのです。

画期的なことは、これがさまざまながんに適用できる可能性がある。それでは、どのくらい効くのか。奏効率というものがありますが、これは1カ月後にがんの大きさが30%以上小さくなってる比率を示す数字です。光免疫療法は第1フェーズのテストでは、ほぼすべての患者に奏効がみられました。もうこれ第2フェーズまで終わっていて、第2フェーズではさらにいいパフォーマンスになっていると思います。

もう1つの指標として、もうがんは見当たりませんというレベルにまで完治する完全奏効率というのも、あくまで第1フェーズですが3割程度に完全奏効がみられています。第2フェーズの数字は、これよりもさらによくなっているはずです。

 (…)

山田:2011年にすでに基本的な方法は確立していたわけですよね。三木谷さんの役割は、それを加速させた、ということでしょうか。

三木谷:加速させましたね、大幅に。僕らがやらなかったら、この技術はどこにも出なかった可能性もあります。 

 2011年に日本人研究者によって発見された画期的な新技術が、2019年に最初に実用化される見通しなのだが、その場所はアメリカだ。日本ではちょうど2018年3月に治験が始まったという。どうして、日本で新技術の実用化が遅れに遅れるのかについて、同じ記事ではこのように述べられている。

山田:日本には小林先生みたいな方がほかにもいるでしょうね。

三木谷:います、います。僕は、日本の研究者の能力は本当にすばらしいと思います。でも、マーケティングとか、コマーシャライゼーションとか、本当にできていないんですよ。だって、もともと光ファイバーだって日本人が開発したわけですから。スマートフォンの原型だって日本が開発したわけであって、そこは誇るべきことだと思うんです。でも、それをビジネス化するという段になると、全然できなかったのがこれまでの日本。僕は、それを変えていきたい。 

日本では、基礎研究の画期的な成果を、充分な投資とともに迅速な実用化へもっていくベンチャー企業の機動的フットワークが欠けているのである。同じ事情については、下記の記事で言及した。

上の記事でも引用した最先端の研究者の発言が印象的だ。

 特に北米では、基礎科学を研究している人が社会への応用を意識することも少なからず見受けられ、またその逆方向への転身も比較的容易になっている。基礎と応用の距離が近く、行き来がある。実際、人々も、会社、国立研究所、ベンチャー、大学、政府機関などを渡り歩く例が少なくない。  

量子コンピュータが人工知能を加速する

量子コンピュータが人工知能を加速する

 

この国が抱えている問題は、自分がこのブログを書き初めて約1年経った今も、さほど変わっていない。

 今日は休日のつもりでいた。一部には、何だか私が拗ねているというような風評も流れているらしいが、そもそも拗ねるに足る理由はどこにもない。久々に川辺を散策して自然に触れて、ブログ執筆に関係のない本でも読んで寝ようと思っていた。

 いま自分が起業した会社の窓から、生まれ育った街の中心にある松山城を見つめている。夜の暗闇の中で、松山城は光を浴びて、懐かしい佇まいで浮かび上がっている。それを見つめながら、自分の歩んできた人生の「坂道」と「傷」について考えていた。その「坂道」と「傷」とが、何らかの力をもって、多くの人々の心をポジティブな方向へ動かしたり、多くの人々の人生を変えるような革新的な技術の普及を少しでも進められれば、とも思うが、誰にもまともに話しかけてもらえない自分に、何ができるのかはさっぱりわからないままだ。

 

 

 

 

 

(気分転換にはこのドライブ・ミュージックが良さそう。下の記事向き)