蝶が舞うことの意味を知るために

受け入れるのことを天才だって言ってもいいんじゃないかと、どこかの天才が言っていた。genuis は少し手に余るけれど、genuine(本物の)な ingenuity(独創性)が gene(遺伝子)に織り込まれていてね、とか、さりげなく謎めいた大物ぶりを発揮しつつ、今晩も書き進めていきたい。

なにしろ大物だから、何があってもどこ吹く風で悠然たるもの。ストレスなんか全然溜まらないし、溜まったからといって、幼い頃、自宅にある梱包材を母に頼んで集めて、部屋でひとりプチプチ潰していたこともない。何と言っても petit petit とフランス語で書けば、小物感が醸し出されてしかたがないので、自分には似合わないのだ。ましてや、イライラしたときに、こっそり隠しておいたプチプチを、暴君のように雑巾絞りして、一気に鳴らしてスカッとしたぜ、などと自慢げに語る小物エピソードは存在しない。あまりに大物なせいで、読者を退屈させてしまいかねないのは残念だ。

ただ、エアキャップのプチプチが潰したあとも可愛らしいことは、なぜか知っている。幼い子供の精一杯のふくれっ面が、笑ったときの笑くぼやアップした口角のようにも見えないこともない。自分のせいで、どこかの笑顔にある口角が消えてなければいいなあ… こう書くしかない気もする。

世の中には、まだまだ自分の知らないことがたくさんある。チャーミングな表情作りで、アップした口角が必須なのは知っていても、地鶏が効くことは知らなかった。日本中の女子たちが地鶏を使っていろいろと研究し、自分がどう見られているか、どう見せるかを研究しているらしいのだ。世の中には、探究すべき謎がまだまだたくさんあるようだ。

謎と言えば、2003年、現在約600万ある日本語ブログが、まだ数十しかなかった頃、自分がある記事を書いた直後に、PC画面からその記事へのリアクションが聞こえてきたことがある。

まったく、何いってんだ。

確かに、そう言われてもしょうがないような記事のまとめ方だった。臨死体験を研究しているキュブラー・ロスが、当時の自分には、言及に値しないオカルトなのか、新たな存在論を提起しているフロンティアなのか、判断が付かなかったのだ。15年以上前のことではあるが、たぶんこんな風にまとめたのではなかっただろうか。

判断がつかないのも無理はないだろう。なにしろ、自分はまだ一度も死んだことはないのだから。

文章の結びとしては平凡だし、それを揶揄されても一向に痛痒は感じない。しかし、キュブラー・ロスによる臨死体験の実態の真偽より、自分が不思議でならなかったのは、その発話者が誰だか自分にわかってしまったことだ。(コードネーム:N氏)。

同様のテレパシー現象?で、的中の確認がほぼとれた事案もその後にあった。ただ、謎は尽きない。N氏とはお会いしたこともなければ、電話でお話ししたこともない。どうしてPC画面から声が聞こえてきたのか、どうして声だけでN氏だとわかったのか、今でも自分にはさっぱりわからないのだ。  

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

 

キュブラー・ロスは科学的に証明された臨死体験の実態を、世界に広めた。視力のまったくない完全な視覚障碍者が、病院のベッド上で治療を受けている瀕死の自分を、天井ほどの高さから見下ろした図について、人の配置や動きや色まで、詳細に語った。それも、二人の視覚障碍者が。

 グラフから分かるように、医療関係における日本の「スピの座上昇気流」は、欧米から10~15年遅れて上昇している。日本でもももなく急伸する可能性が高そうだ。特に、救急医は臨死体験をそばで目撃することが多いので、世界観が変わる医者が多い。  

「あの世」と「この世」をつなぐ お別れの作法

「あの世」と「この世」をつなぐ お別れの作法

 

元々は恋愛小説の一部で、亡くなりそうになった女性が、臨死体験を経て蘇生する展開を入れられないかと考えて、臨死体験を調べていた。

ある調査によると、臨死体験を経験したことのあるアメリカ人は、1800万人もいるのだそうだ。病理発生の機序がわかっていなくても、疫病学的に有意な罹患率が検出されれば、その「病気」は存在する。キュブラー・ロスによる視力ゼロの患者の上記の報告ひとつとっても、臨死体験を説得的に否定できる根拠はないと思う。

視覚障碍者臨死体験の調査は、ケネス・リングによって引き継がれ、規模を数十名にまで拡大して、同様の研究成果を上げている。話は、地動説を信じるか、天動説を信じるかに近づいてきた。

素っ気ない wikipedia の記述に比べると、キュブラー・ロスの一生は、何と波瀾万丈でタフで唯一無二のものだったことだろう! どうして死後14年経っても映画化されていないのだろう。 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

その理由は、ロスの自伝を読めば何となくわかる。末期がんなどの「終末医療の伝導師」と称されることの多いロスは、規格外のとんでもないスピリチュアリストだったのだ。

この自伝は桁違いの面白さだ。最初の臨死体験の研究を牧師と共同でやり終えて、二人でエレベーターに乗る。すると、エレベーターに三人目がいることに、ロスだけが気づく。乗り込んできた幽霊は、約一年前に医師として自分が見送った故シュウォーツ夫人だった。夫人の幽霊はこう語る。

先生、臨死体験の研究は決してやめてはいけません。

言う通りにして研究に打ち込んでいると、今度は霊能者Bから連絡が入る。そして、Bのチャネリングによって、前世の兄の霊と「再会」し、霊たちにガイドされながら、臨死体験の研究をつづけていく。霊能者と懇意になったロスに、スピリチュアリズムに理解のない夫は離縁状を突き付け、失踪してしまう。

霊たちからは苛酷な指令が下る。

第二の課題として、死が存在しないことを世界に伝えることきが来た。

それまで「死の過程」を世に広めてきたキュブラー・ロスが、「(現代の人々が考えるような)死は存在しない」と言い出せば、戸惑うに決まっている。どうして私でなければならないのかと訊いたロスに、霊たちはこう説明する。

神学や宗教の人間ではなく、医学や科学の人間でなければならぬ。(…)男ではなく、女でなければならぬ。そして、恐れを知らないものでなければならぬ。

そうして、臨死体験をさらに突き詰めていく決心をしたロスは、何とあの幽体離脱の専門家であるロバート・モンローを訪ねるのである。 

ロバート・モンロー伝―体外離脱の実践研究者

ロバート・モンロー伝―体外離脱の実践研究者

 

 モンローの研究所にある専用の装置で幽体離脱実験をして、ロスは死後に身体から離れる霊魂のように、自分がサイキックなエネルギーそのままになることに成功するのだ。ロスは自分が宇宙意識の一部になったと感じたらしい。

すると、その晩、キュブラー・ロスは地獄のような悪夢に苛まれる。ほとんど息もできないまま痛みにのたうち回るような悪夢に次ぐ悪夢。それは、これまで見送ってきた患者全員の死を再体験させられる悪夢だった。

せめて、せめて、いまの私の手を握ってくれる男性の手が欲しい。そう懇願しても、言下に「駄目だ!」と拒絶される。

誰の助けもいらない! ひとりで生きていく!

そう覚悟した瞬間、その地獄の試練を課している天上の存在に、キュブラー・ロスは「究極の言葉」を口にしようと決意する。

ブログ読者も、その「究極の言葉」が何なのかを推測してほしい。

ヒントを出そう。それは前衛芸術家だったオノ・ヨーコを、ジョン・レノンが見初めた或る芸術作品に記されたひとことと同じだ。偶々ロンドンの画廊でやっていたオノ・ヨーコの「天上の絵」という作品は、観客が梯子を登って、天井に据え付けられている絵を、虫眼鏡で鑑賞する趣向になっていた。

キュブラー・ロスの「究極の言葉」も、オノ・ヨーコの「天井の絵」も、同じ一言だった。

YES!

世界を全肯定するひとことだったのだ。

しかし、話はこれで終わらない。ロスが懇意にしていた霊能者Bは、いつしか信者への性的接触を行うようになり、その証拠をつかめないまま、自分から批判的距離を取り、排除しようとするキュブラー・ロスを、三回も暗殺しようとするのである。

毒蜘蛛やブレーキ改造や放火などの手段を使って……。

 やがて、まだ「ゲイだけが罹患する新種の癌」と呼ばれていた時期から、エイズ患者の救済に尽力し、末期エイズ患者が暮らせるホスピスホスピスという終末医療向け施設を作ったのも彼女)を確立する。しかも、そこも放火で全焼してしまうのである。

 そのような壮絶な人生の果てに、キュブラー・ロスが到達した境地は、こう記されている。

 いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある。

(…)

 死は怖くない。死は人生で最も素晴らしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。

(…)

 どうかもっと多くの人々に、もっ多くの愛をあたえようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。

 永遠に生きるのは愛だけなのだから。

 この自伝が執筆されたのは1997年。今から約20年前だ。ロスが臨死体験を世に問うた70年代から80年代にかけて、似非科学として厳しい追及や批判が巻き起こったものだ。今や、心停止を誘発されたラットが、心肺停止後も臨死体験をしているかのような脳波を維持しつづけることも、科学的に証明されている。  

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

臨死体験の先にある輪廻転生についても、特定の宗教帰依とは無関係に、日本人の四割がその説を受け入れているという調査もある。「スピの座上昇気流」が巻き起こっていることを示すデータが、他にもある。 

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「輪廻転生」という仏教概念が頻繁に用いられるようになったのは、意外に最近、1990年代のことだ。したがって、1965年に『豊饒の海』を書き出した三島由紀夫は、着眼がかなり早かったことになる。

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この「輪廻転生」という仏教用語の使用が急伸したのは、スピリチュアリティの中心的な死生観だったからだと、竹倉史人は説明している。では、スピリチュアリティの急伸の理由は?

  上記の『スピリチュアリティの興隆』という学術書では、人々の霊性体験が、修道院のような隔離施設から、社会内組織へ、やがて脱組織化された一般大衆へと、段階的に浸透していった歴史に言及している。 

かつて上記のように記した「スピの座上昇気流」の原因を、竹倉史人『輪廻転生』は、新書らしいわかりやすさで、こう説明してくれる。

 1990年代を境にして、日本人の宗教意識には、ある顕著な変化が見られます。それは「スピリチュアリティ」という新しい言葉/観念の登場です。

(…)

 日本社会においてスピリチュアリティ文化が急速に広まった背景には、日本人のライフスタイルの変化があります。高度産業化が進展した結果、社会の多様性・流動性が高まり、社会構成員の「断片化」が拡大しました。その結果、地縁・血縁を基盤に稼働していた伝統宗教がうまく機能しなくなったのです。

 個人的には、このような大変化が、「何らかの次元上昇(アセンション)と関連している」とするスピリチュアル・リーダーからのメッセージに、強い関心を抱いている。その科学的傍証として、シューマン共振の変化について、下記の記事に書いたことがある。ただし、話はかなり複雑だ。 

この記事の最初の方を読んだだけで、今晩の記事の結論が何になるかが閃いた人もいるようだ。

臨死体験の伝道師」キュブラー・ロスの『死ぬ瞬間』から約40年後、やはり臨死体験を告白した脳神経外科医の手記が、ベストセラーになった。 

プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界

プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界

 

「天国の証明」という意味のこの手記と、キュブラー・ロスの自伝『人生は廻る輪のように』との間に、注目すべき共通点があるのがわかるだろうか? 

 それは蝶だ。

装幀家の気まぐれで両書に蝶が描かれているわけではない。

キュブラー・ロスの場合は、彼女がまだ看護師に近い仕事をしていた20歳前後に、蝶のイメージに遭遇している。ちなみに、後年のロスは「偶然はない。すべては必然的に起こるべくして起こったこと」を信条としている。

20前後のロスは、ヒトラーが建設した或る強制収容所を訪問した。五段式の木製の寝台のあらゆる場所に、爪や金属で彫りつけた蝶の絵があるのを、ロスは発見する。そして、残虐な強制収容所と子供のお絵描きに登場しがちな蝶とのギャップに、違和感を感じて自問する。

どうして蝶なの? 

 キュブラー・ロスは、「蝶の謎」と題した章でこの逸話を語ったあと、自らの死期を悟った病床で、最終章にこんな文章を書きつける。

 学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じ込めている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちは魂を解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり……美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく……そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。

 強制収容所で死に瀕していた人々が描いた蝶は、キュブラー・ロスの先進的な死生観を象徴するイメージだったのだ。「偶然はない」と信じる彼女は、人生の前半で自分塢生涯のテーマを象徴する「暗号」に出会っていたのである。

では、蝶は、臨死体験の研究者であるキュブラー・ロスだけの物なのだろうか。

答えは「ノン」だ。

 『プルーフ・オブ・ヘブン』の著者エベン・アレグザンダーは、ハーバード・メディカルスクールに所属する世界一流の脳神経外科医だ。彼は自らの臨死体験をこう語っている。

 そばにだれかがいるのがわかった。隣を見ると、それは深いブルーの目をした頬骨の高い、美しい女性だった。眼下の村人たちに似た服を着て、金茶の巻き毛が可憐な輪郭を縁どっていた。私もその女性も、生き生きとした絶妙な色で彩られた、複雑な模様の平らなもの――蝶の羽根に乗っていたのだった。司法にも無数の蝶が舞い踊っていた。蝶は波のように群れをなし、ひらひらと下方の緑の中に消えては、また上空へ舞い上がっていった。

 臨死体験に関わりが深い二冊の著書が、その表紙に蝶を描いているのは、偶然ではないのである。人智学を確立した神秘思想家のシュタイナーは、蝶をこのように位置付けている。

蝶:地上の存在を霊化して、宇宙へ引き渡す存在。 

シュタイナー用語辞典 (Steiner Books)

シュタイナー用語辞典 (Steiner Books)

 

 したがって、ふと思いがけなく蝶が現れ、自分たちに寄り添いたがるように、周囲を舞いはじめるとき、その蝶は亡くなって霊となった人なのかもしれない。少なくとも、スピリチュアルな世界の知の蓄積は、その可能性が決して低くないことを語っている。

そんなことを何とかして誰かに、誰かに伝えられたら… そう思って、この記事を書き始めたのだが、書きすぎたかもしれない。

やはりこの辺りでやめておこう。こう書くしかないだろう。