短編小説「おでこの奥にあるありふれた鳥籠」

「確か、顔の中に鳥が棲んでいる小説を書かなかったっけ?」

 夜更けに古い友人から電話がかかってきて、そう訊かれた。私の小説に顔の中に棲む鳥が出てきたというのは、友人の誤解だ。こう書いたのだ。

 

(…)6年後の現在の顔を経て、晩年の彼女の顔を見透かそうとしたところで、彼は悲しみに満ちた索漠たる感情に包まれた。そこにある数限りない顔貌の折り重なりの奥で波打っていたのは、とりつく島のない「遠さ」の印象で、寓話の中で王妃が急に美しい老鳥に成り果ててしまったかのように、自分とは二度と結ばれることのない異なる種族の老成した顔が、未来で彼女ひとりを待っているように見えた。二人はただの友達だろう。これからもずっと。

 

 鳥は比喩の中にしか登場していない。けれど、友人には詳しく説明しなかった。彼が不思議な実体験をすぐに語りたがったので、そこからの30分、メモ用紙に何度も「鳥」と書きながら、聞き役に回らなければならなかったからだ。

 電話が終わりにさしかかると、友人は頻りに酒を一緒に飲もうと誘ってきた。彼の癒えない傷を、繰り返し蒸留酒で消毒するのを手伝ってほしがっているようだった。私はブランデーのきつい香りが好みではないと答えた。そして、酒の誘いを断る代わりに、友人の話を短編小説に書くと約束した。

 以下は、その彼の実体験に基づいた短編小説だ。

 

 

 海辺の水平線の上に、暗い雲の垂れこめた空が広がっている。その天と海のどちらにも届きそうなほど巨大な鳥が、今にも羽ばたこうとしている。けれど、鳥の姿がおかしい。巨大な輪郭だけが切り抜かれていて、輪郭の内側には晴れ渡った青空と白い雲が映し出されているのだ。

 ぼくはマグリットの絵をそう説明すると、春の砂浜から立ち上がって、腿についた砂を払った。波がひときわ高く立ち上がって、崩れる音がした。

「それは空に鳥がいる絵じゃなくて、鳥がいなくなったことを描いた絵なんじゃないの?」

  若菜は膝を抱えたまま、そう訊いてきた。拾い上げた空き瓶の外国語表示を読もうとしているようだった。

 ぼくは空を見上げて、春の青空を切り取るとしたら、どこに点を入れて線を引くかを考えていた。 

点と線 (新潮文庫)

点と線 (新潮文庫)

 

 点と線。有名な昭和の推理小説なら、13番ホームから15番ホームまでを見渡せる「4分間の見通し」が事件の鍵になる。けれど、ぼくの人生に起こったのはありふれた話だ。通勤で使う地下鉄ホームの反対側に、いつも同じ時刻、同じ女性が立っているのに気付いたのだった。ありふれた話らしく、ぼくは彼女のことを見つめるようになった。

 休日に出かけるとき、偶然同じ時刻に駅に立っていたので、ぼくは反対側のホームまで走って、彼女に話しかけた。そして、そのまま彼女の休日の行き先だった海岸へ同行したというわけだ。

 下町の川沿いにある印刷工場に、ぼくはずっと勤めていた。今年で35歳になる。一方の彼女は、日本橋に本社のある上場企業の受付嬢で、29歳だった。

 目立たない平凡なぼくが、華やかな顔立ちの若菜に、どうして声をかけられたのかはわからない。初対面の会話で打ち解けたあと、歩き着いた海岸で、若菜はぼくが理系かどうかを訊いてきた。

「理系だよ。大学では物理学を専攻した」
「理系の人って、女性を聖女か売女かの二分法で見るっていうのは、本当?」
「まさか」

 遠くで誰かが下手なトランペットの練習をしていた。リー・モーガンの「キャンディ」の冒頭をつっかえつっかえしながら繰り返している。演奏が不自然に途切れるたびに、リー・モーガンが背中から愛人に射殺されたことを、ぼくは想起してしまった。

「ねぇ、あててよ」
「何を?」
「私がどんな女かを」

 浜風に吹かれる髪を手で庇いながら、ぼくをまともに見て、若菜は笑った。アドリブの口頭試問が始まった。
「たぶん、酒好き。たぶん、話好き。たぶん、旅行好き。たぶん、……」
「全部当たっているわ。ねぇ、そのたぶんっていうの、やめてくれない?」
「どうして?」
「不安にさせるのよ、女を」

 そういうと、若菜はハンカチほどの小さなレジャーシートを取り出して、砂浜に敷いて座った。

 初心者のトランペットは、「サイドワインダー」に練習曲を替えていた。こっちの方がまだ聞ける。リー・モーガンが射殺されることはなくなった。そんなとき、若菜が美術の教科書に載っていたあの絵の話をしたのだった。

 帰り際、若菜はぼくと一緒に帰ろうとしなかった。砂浜で15分待ってから、勝手に帰ってちょうだいと彼女は言った。

「ひとりになりにきたんだから、帰りくらいひとりで帰らせてよ」

 最初は、ぼくは笑って、彼女の背中を見送っていた。リー・モーガンのトランペットは、もう聞こえなかった。リーが背中を撃たれる前、チェット・ベイカーがリーには背中を向けたくなかったと語ったのを思い出した。何が起こるかわからない危険な匂いがしたのだそうだ。

 ぼくはまだ若菜の背中を見つめていた。彼女が角を曲がって、背中が消えた瞬間、ぼくは駆け出した。走って若菜に追いつき、彼女の手を引いて強引にタクシーに乗せて、タクシーをホテルへ向かわせた。

 部屋を真っ暗にしても、若菜はまだ喋っていた。

「さっきの続き。私がどんな女か、もっとあててみてよ」
「どうしてそんなにイメージにこだわるのさ」
「どんな鳥か知りたいのよ。恋人たちがおでこに鳥を飼っているって話、知っている?」
「おでこに鳥?」

 ぼくは驚いてアンチ・クライマックスな声をあげた。ツインルームの隅で、古い家具が干割れる音がした。

「心理学の話。恋人たちは、おでこの奥に、籠に入った鳥を飼っているの」
「たとえば、私のおでこの奥の鳥籠には、あなたという鳥を飼っている。あなたのおでこの奥には、私という鳥を飼っている。鳥というのは、お互いがお互いに抱いているイメージのこと」

 ぼくは「たとえば」という副詞に自分が傷ついているのを感じた。今日から恋人になる相手には、使うはずのない言葉だろう。

「清潔だけど、洗濯の難しい服は全部クリーニングに出しそう、とか。受付嬢なので微笑は得意だけど、嫌いな男には微笑を節約しそう、とか」
「そう、そういうの。全部当たっているわ。そういうのがあなたがおでこに飼っている私の鳥なの」

 ぼくはずっと知りたかった問いを、やっと彼女に訊くことができた。

「ぼくは? きみはどんなイメージのぼくの鳥を飼っているの?」

 すると若菜は喋りかけの開いた口はそのままに、押し黙ってしまった。それから、自分のおでこを透かし見ようとするかのように、目線で上方を探りながら、こう答えた。

「真面目、勤勉、内気…それから、理系」

 そう言ってから、若菜は小さな声でこう付け加えた。

「たぶん」

 ぼくは、今日彼女と会ってからはじめて、心の底から笑ったような気がした。

「きみもすごく当たっているよ。ありがとう。そんな鳥をおでこに飼ってくれているなんて、なんだか嬉しいな」

 ぼくの笑い声を聞いて、若菜も陽気さを取り戻したようだった。

「ねえ、鳥と鳥が話したがっているわ。私のおでこにおでこをくっつけてくれない」

 ぼくはベッドに横たわっている彼女の顔の上に、慎重に自分のおでこを寄せた。その頭を若菜が両手でつかんで、やさしく引き寄せた。おでこより先に、二人の唇が重なった。

 その晩、二度愛し合ったあと眠りに落ち、早朝にぼくが目を覚ましたとき、部屋に若菜の姿はなかった。

 手渡されたメモに書いてある電話番号は出鱈目だった。教えられた日本橋の上場企業の受付には、彼女はいなかった。若菜という名も偽名らしかった。十社ほど近隣の会社の受付を聞き込んだところで、ぼくは諦めた。自分のようなありふれた男には、よくある話だと悟ったのだ。

 何て、ありふれた莫迦だったんだ、ぼくは。もし今の自分が銃を持っていたら、危うく自分を射殺してしまうところだ。しかし、自分で自分の背中を射殺するには、マグリットの鏡が必要だ。

  次の休日、ぼくは通勤とは逆方向の電車に乗って、海岸へ行った。砂地に寝そべって、まだ自分がおでこの奥に飼っている鳥のことを考えた。

 その鳥は、たぶん酒好きで、たぶん話好きで、たぶん旅行好きだった。それに、受付嬢なので微笑は得意だけど、嫌いな男には微笑を節約しそうだった。

 そして、彼女のおでこの奥にあった鳥籠には、最初から鳥は入っていなかったのだ。

 マグリットの空と鳥の絵を、「鳥がいなくなったことを描いた絵なんじゃないの?」と、彼女が言ったのをぼくは思い出していた。

 海岸で寝そべっているうちに、夕暮れが来た。睡眠不足が続いていたせいで、眠気が兆してきた。

 いつか現れるかもしれないぼくの恋人、とぼくは声に出して呟いた。彼女のおでこの鳥籠に入るべき鳥は、いまどこを飛んでいるのだろう。

 すっかり青みを失った夕空を見渡したが、どこにもぼくの鳥は飛んでいそうになかった。

 ひとまず眠ってしまおう、と、ぼくは自分に言い聞かせた。目覚ましをかけずに、このまま眠ってしまっても、いつかぼくは眠りから起されるだろう。

 まだぼくのおでこから去らない話好きの鳥の啼き声で。たぶん。