犬の餌にはマドレーヌ

 高速道路を走っている。シトロエンはぼくの愛車で… 電話が鳴った。職場の先輩から… すぐにPAに停めて折り返す… そうしないと面倒になる相手… おう、今どこだ? X町のPAです。犬を捨てたい。高速の中央分離帯に。今からおまえの車を貸せよ。ぼくは威圧的な声に首をすくめて… わかりました。車はPAにこのまま… こういうとき迷ってはいけない。あとで腎臓の上を殴られて、うずくまらずにすむには。

 ぼくはPAのガードレールを跨ぐ。丘を下りていく。土地勘はあるので、市街地までは歩いていける自信がある。暴力的な先輩らしい捨て場所… 高速の中央分離帯か… 犬が帰ってこないことが肝心なのだろう。と、春泥に足元がすべって、斜面を軽く転がって… でも、全身を使って山くだりするのが楽しい。マドレーヌをね、と今朝妻が云った。フランス文学好きはマドレーヌを齧ると何か思い出すんでしょう? 可愛らしい機知… もちろん、とぼく。ひとかけらを唇に押しつけられる。口に入れる。何を思い出した? と妻はこちらを見ていて… 困った。何も思いつかない。きみが大事だってことを… え? 食べるまで忘れていたの? 首は縦か横か?… 縦に振ろう、微笑みながら。しょうがない人ね、と妻。たくさん焼いておくから食べてね、ドライブから帰ってきたら。

 畑の畦道を歩いても歩いても… どこだ、アスファルトの道は。突き当たるのは、高速道路の高い白い壁ばかりで、そろそろ白い壁をくぐる道か跨ぐ陸橋がなければ、あってほしいと思いつつ… 巨大な鳥のようにたちまち夕暮れの翳りが落ちてきて… 高速道路の壁は暗く染まり、一軒の田舎屋敷の灯りが点っている… ここだ、ここだ、とぼくは胸を撫で下ろす。ここなら夕食にありつける… 喜びいさんでくぐった暖簾の奥は、けれど、洞窟のように暗く、空気が生温かい。座敷にあぐらをかき、ぼくは卓上のメニューを読もう読もうと思って目を凝らすが… 草書なのか、篆書なのか、まるで読み取れない。注文を取りにきた泥でできたような顔をした女に、ぼくはマドレーヌをと告げる。女は不貞腐れて、マドレーヌはあんたごときが食べる食べ物じゃないんだよ、と言い捨て、あんた専用のそのメニューから選びなよ、と堂々とぞんざいな口をきくのだ。ぼくは必死になってメニューに顔を近づける… 謎文字を読もうとすればするほど募ってくるのは激しい眠気… 倒れまい倒れまい… そう思いつつ、卓上に突っ伏してしまう。朝でよかろう、餌をやるんは、という老人の声が遠くから聞こえて、餌とは酷いじゃないか、と思うものの… 優しいのかもしれない。こうやって寝かしておいてくれるのは、優しいんだろう、あの人たちは。……

 翌朝、目覚めると、卓袱台は壁に立て掛けられ、ぼくが横たわっているのは、こざっぱりとした和室の畳の上。泥のような顔をした女が覗き込んで、婚約者だけに見せるような満面の笑みを作って、今日は五月三日じゃよ… 面喰らっていると、莫迦ね、とぼくの顔を泥で汚しながら、中央分離帯の両側が渋滞する祝日だがね、稼いでおいで、とぼくの尻をパンパン叩いて、掘っ立て小屋から送り出すのだ。

 掘っ立て小屋のある場所がわかった… 高速道路の中央分離帯だ… 祝日には、出口のない敷地の両側を、渋滞の車列が取り巻くのだろう。ぼくが駈け寄ったら、暇を持て余した人々が恵んでくれるのだろう… 餌を… 車の窓から… 膝の力が抜けて… ぼくはしゃがみこんで、しばらく泣いた。帰りたかった。

 やがて、卒然と、誰かが餌にマドレーヌをくれるかもしれないと思いついて、涙を拭いて、雑草の煙るけもの道をいっさんに駈け出した。  

犬と私―第一随筆集

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