ユーモア短編「まっさらな新しい日」

b 探偵事務所に入ってきたとき、最初にその男がずいぶんくたびれているのに気づいた。スーツはよれよれで、靴が埃をかむって汚れていた。初夏の街中をずいぶん歩き回ってきたのがわかる風貌だった。

 私が勧めたソファーにどっかりと座り込むと、男は失踪した妻を探していると言った。私は男が述べるままに、妻のプロフィールのメモを取った。35歳、元食品メーカー勤務、眼鏡をかけていて、ロングヘア、明るくてよく喋る性格。

「たぶん、謎めいた事件に巻き込まれたのだと思います」

 男は重々しく口をひらいた。私の背筋が心地良い緊張感でピンと伸びた。こういうひりひりするような探偵稼業独特のキナ臭さが、私は好きだ。事件の臭いがするというメールを、私は身を乗り出して読んだ。

淋しくて、淋しくて、怖いくらい。早く、なるべく早く、電話をちょうだい!

 私は二度その短文を読み直した。事件性を感じさせる言葉は見当たらない。けれど、このメールの直後に男の妻が失踪したのなら、背景に何かあったのかもしれない。

「奥様がそのメールを送ってきたのは、いつですか?」

「送ったのは、妻ではなく私です。約9年前、結婚前の交際時代に送りました。しかし、深夜に淋しくて送ったというのに、謎めいたことに、返信がなかったのです」

 私は呑みかけていた茶を吹き出さずにいるのに苦労した。それに力が入ったので、湯呑を卓上に戻す手が、少し震えてしまった。

「それは事件ではなく、ほんの少し冷たくされただけですよね?」

「果たして、そうでしょうか。後で問いただすと、妻は謎めいた微笑を浮かべて理由を教えてくれませんでした。それから9年後の先月、妻は前触れもなく失踪したのです。謎が謎を呼びつづけるのです」

 深刻な溜息をついて、男は片手で顔を覆った。私は男の妻が失踪した理由がわかるような気がした。おそらく男の自己愛と思い込みの強さに辟易したのにちがいない。

 ともあれ、探偵は人を探すのが仕事だ。私は人探しの報酬ついて、短く説明した。

「五、五十万円!」と男は素っ頓狂に叫んだ。その表情作りは、演劇学校で驚いた表情を練習させられている生徒のように、熟達していた。各所で、あるいは鏡の前で、何度か演じられてきた表情なのだろう。ただ、私が交通費や成功報酬の説明をしている間も、男がずっと同じ表情を維持したのには閉口した。

「高すぎます。私には払えません」

 今度はリアリティーのある表情に戻って、男は首を横に振った。こういう経済的に苦しいクライアントには、分割払いを勧めるのが通例だ。しかし、私は微笑んで黙っていた。それ以上、男と関わりあいになりたくなかったのだ。

「駄洒落払いは利きますか?」

「駄洒落払い?」

「私が渾身の駄洒落をどんどん繰り出していくので、それで支払いたいのですが…」

「あいにく現金とクレジットカードのみです」

「合い挽き肉入りの元気の出るククレカレーは me のです」 

 私はまじまじと目を見ひらいて、男の表情を観察した。「謎」が口癖のこの男には、確かに謎めいたところがある。男は少しばかり胸を張って、顎をあげてみせている。どうやら得意がっているらしいのだ。この駄洒落で、本気でお金がとれると思い込んでいるのだろうか。私は男にお引き取りを願った。

 男が事務所を出てすぐ、私もハンガーにかけてある上着を取った。このあと仕事の予定はなかった。今の謎めいた男を尾行して、人間観察をしたくなったのだ。

 男は街はずれへ向かって歩きながら、手当たり次第に、奥さんの友人に電話をしているようだった。距離を取って尾行しているので、電話の会話は聞こえない。それでも、男の電話リスト上の聞き込みがうまくいっていないのは、私にも伝わってきた。

 それから、道端のケーキ屋に入って、ケーキを二つ買った。現金の持ち合わせがあまりないのだろう。支払いに苦労しているようだった。

 やがて、男は公園のベンチに腰掛けて、しばらく途方に暮れていた。私はベンチの後方20メートルくらいのところに立って、タバコを吸っているふりをしていた。

 すると、思いがけないことに、男は振り返らないまま、私のところまで届く大声でこう叫んだ。

「タバコ吸うふりをしてスーパーフリーを気取っていると、豚箱行きですよ」

 謎好きのこの男は、男自身もかなり謎めいているようだ。私の尾行に気付くとは。そして、そのことを駄洒落で伝えようとしてくるとは。私は煙草を投げ捨てるパントマイムをしてから、男のベンチの前まで歩いて行って、社交辞令を言った。

「あなたのことが心配になったものですから。すみません、後をつけるような真似をして」

「不安と恐怖を捨てさえすれば、あなたのそのご心配のご神体は安泰です。後づけのマネーとして、駄洒落払いをお願いします」

 正直言って、男の発言には、意味不明の洒落が含まれすぎていて、言いたいことが全然頭に入ってこない。私は話題を変えることにした。

「その二つのケーキは誰に持っていくんですか。こちらの方角は、あなたが受付用紙に書いた自宅住所とは、反対方向です」

「まっさらな新しい一日を探しに、とでも言っておきましょうか。理由は言わない約束だったはずだぜ」

 もちろん私はそんな約束はしていない。けれど、男の発言から駄洒落が消えたのが気になった。今の言葉が、男が真剣に伝えたいメッセージだったということなのだろうか。

「奥さん、早く見つかるといいですね」

「国産は『やくみつる』とかいいですね、外国産なら『カロリン』ですね、漫画家は」

 どうやら男は普通に会話をする気はないらしい。こちらの言葉に、意地でも駄洒落で返してこようという魂胆のようだ。私の心の中で、男の闘争心がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。もはや決して駄洒落返しを許すまい。

「ああ! スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテへ行きたい!」

「嗚呼! 炊事屋ワルだなプラチナ盗って、まさにスリではあらんか。在宅介護の外注はこれだから怖いでしゅ、と」

 私は何だか悔しくなってきた。つづく文章で、スリランカの首都であるという情報を盛り込み、さらに軽く世相まで斬っている。男の渾身の駄洒落には、執念さえこもっているように感じられた。

 次はどんな台詞で勝負しようか。同じくカタカナが良さそうだ。

ヒュー・グラントには5人も子供がいるそうだな」

「衆愚の乱闘には誤認の行動もあるそうだな。ブリッジと上手な意気で話し合えばいいのに」

  むむ。追加の台詞に、ヒュー・グラントの代表作を絡めてきやがった。この男、どうしてここまで駄洒落に血道をあげているのか。探偵をしていて、ここまで熱くなったのは久しぶりだ。そうだ。これならどうだろう。短い台詞なら駄洒落を作りにくいのではないだろうか。私はフリをつけて一瞬踊って見せた。

「うー、マンボ!」

「肥ー、満坊!」

 私は「マンボ!」と言ったときのポーズで、胸の前で固めていた両手の拳を、ゆっくりとほどいた。

「参りました。私の負けです。どうしてそこまで駄洒落に情熱を燃やすんですか? 駄洒落を言うと、まっさらな新しい一日がやってくるんですか?」

「まあ、そういうところです」と男は素直に答えた。「駄洒落で、妻が帰ってくればの話ですがね。先払いしておきましたよ」

「先払い?」

「駄洒落払いで調査費用を受け取っていただき、ありがとうございました」

 男はすました顔でそう言ってのけた。

「待ってください。駄洒落払いで受け取った覚えはありません。お返ししますから」

「今さら返品は困る!」

 男は駄洒落となると、急に職人肌のような気難しさを見せた。私はほとんど泣きそうになりながら何とか答えた。

「まっさらな返品は花まる!」

「何ていう探偵だ、言い合いをただで獲るとは!」

「『なんてったってアイドル』、永遠に、キョンキョン!」 

なんてったってアイドル

なんてったってアイドル

 

「もういいから、尾けてくるな!」

「目に良いから、月とかルナ!」

 男は自分が情熱をかけている駄洒落を、素人に次々に返品されるのが、どうしても我慢ならないようだった。悔しさのあまり、両手で頭をかきむしった。

 そして、だしぬけに「泥棒! 泥棒!」と叫び声をあげると、公園を抜けて住宅街へと走り去っていった。誰もいない夜の街路を「泥棒!」と叫んでいる男がひとり逃げていくのは、何だか謎めいていた。

 私は好奇心を抑えきれなかったので、謎めいた駄洒落男の後を追った。充分に距離を取ったので、尾行は気付かれていない。男は意外にも、郊外の大きな敷地にある大学病院へと入っていった。

 いつのまにか時刻は夕刻を過ぎている。家族以外は面会できない時間のはずだ。男の乗ったエレバーターは、小児科の階で停止した。小児科の廊下を忍び足で追いかけていくと、病室から男の声がした。

「洋子、マカロンを買ってきたよ」

「パパ、ありがとう! 今日のお仕事探しはどうだった?」

 そうか。男は失業者だったのか。妻は蒸発、娘が入院で、自分は仕事を探している無職というのは、つらい境遇だろうな。私は廊下で父娘の会話を盗み聞きしながら、今日の午後の探偵業務をひっかきまわした駄洒落男を、許す気分になっていた。

「今日のところは不発かな。探偵事務所もダメ、ケーキ屋さんもダメ。駄洒落払いはできないって」

 男の話口調が、かなりゆっくりで優しく聞こえることからすると、娘は5歳くらいだろうか。

「ねぇ、パパ。私、大人になるまでに歩けるようになる? 駄洒落で物を買ったり、働いたりできる場所はできる?」

「できるに決まっているさ。洋子が洋子の好きなことをして生きていける場所は、必ずどこかにあるからね。今日いくつ駄洒落を思いついたの。ノートを見せてよ」

「行くよ。『そのオイルを塗っては駄目だよ、老いるから』」

「あ、良いのができたね。洋子が大人になる頃には、それくらい良い駄洒落があったら、きっと何でも買えちゃうよ」

「本当? 病院のお薬代も私の駄洒落で払える?」

「もちろん。お釣りがくるくらいだ。それに、大人になる頃にはお薬なんか飲んでないんだよ、洋子は」

「じゃあ、歩けるようになるってこと?」

「歩ける、歩ける。絶対に歩けるようになると信じていればね」

「ほら、このあいだの金曜日ね、私が脚に動け、動けって言っていたら、本当に動いたの! このベッドがあっちのベッドにぶつかるくらい動いたんだから」

 自分の念力でベッドが動いたと、女の子は本当に信じているようだった。先週の金曜日、この町では早朝に大きな地震があったのだ。夢の中で、あるいは夢の醒め際、歩きたいという強い思いのせいで、女の子は自分の足が動いたと錯覚したのだろう。

「信じていればもうすぐ来るよ。洋子が自分の足で歩ける『まっさらな新しい日』が」

「ありがとう、パパ。私もその日が来るような気がする」

 父娘は笑い合って、二つ目のマカロンを食べ始めた。

 私は、自分の心がカチリと音を立てて、確実に針がひとつ進んだのを感じた。この夜が明けて、光が差し込んでくる朝、私にも「まっさらな新しい日」がやってくることを私は確信した。私はメモ帳を開いて、男の妻の情報をもう一度眺めた。明日のためだった。

 明日は、私が駄洒落払いで探偵の仕事をする「まっさらな新しい日」になるのだ。