短編小説「マジックタイムのテレビを撫でると」

 人を見る目が育ってきたのは、ぼくが30代の半ばを過ぎてからだ。

 ある晩、仕事関係の立食パーティーで、20代の女性と話し込む機会があった。髪をしきりに直していたのと、自分を卑下する癖があるのがわかったので、冗談のつもりでこう言った。

「今のきみは、悪い男に引っかかりそうな雰囲気があるよ」

「そうなんですよ」と、初対面で理解された喜びを隠さずに、彼女はこう説明した

「昨晩、カラオケに誘われた男に、ドリンクにクスリを入れられたんです。ふらふらになりながら逃げたんですけど、まだ眠くて…」

 ぼくはこう言葉を返した。

「マンマ・ミーア」

 また別の晩、相撲部を思わせる巨体の同僚女性には、フランクに人生の転換を勧めた。

心療内科に通うより、京都の実家へ戻ってお母さんと暮らしたらどうですか。人生が変わりますよ」

 心療内科の言うままに薬を増やすにつれて、彼女の仕事や睡眠や食事が、大きく乱れはじめたのを知っていたからだ。

 数か月後に彼女と再会したとき、ぼくはたちまち静止画像になってしまった。彼女の身体をトーストに例えると、四枚切りから八枚切りくらいにまで、厚みが半減していたのだ。実家帰りで、食事や睡眠が一変したのが正解だったらしい。彼女は健康的に微笑すると、京都みやげのラングドシャをくれた。

 ラングドシャとは猫の舌の形をしたクッキーだ。好物のラングドシャを自分の舌の上にのせて、猫返りした気分でニャーニャー泣きながら、ぼくはこう考えていた。

 どうやら、人を見る目が育つと、自分発で幸福を循環させやすくなるようだぞ。それ以来、ぼくはますます猫じみて、周囲の人や物に目を凝らし、耳を澄ませるようになったというわけだ。

 今もぼくは50代くらいの男性を観察している。男は白衣を着ている。どうしても自分では悩みを解決できなくて、ぼくはその同僚女性が通ったのと同じ場所にいるのだ。精神科医の男はこう訊いた。

「それで、あなたは自分のことが噂されているような気がするんですね」

「はい。気のせいじゃありません。皆がぼくを見て、笑っているような気がするんです。時には指を差したりまでして」

「皆に見張られている気がする、と」

 ぼくは頷いた。

 精神科医は必要な問診を終えたようだった。ふっと肺の息を抜いて、とびっきり優しい微笑を浮かべると、こう言った。

「治そうよ。テレビ症候群は必ず治るから」

「テレビ症候群?」

 少しばかり霊感が降りてくることがあるので、自分がラジオかもしれないと疑ったことはある。しかし、ぼくがテレビだったとは! 確かに、ぼくがテレビであるなら、人に噂されたり、笑われたりするのも自然だ。

「半年もあれば治ります。お薬を三つ出しておきますね」

 噂通りの多剤投与だった。廊下に出たとき、ぼくは受け取った処方箋の薬の欄に目を走らせた。驚いたことに、そこには「新鮮なアイディア」「完全なプロット」「意外な結末」の三つの薬の名前が書かれていた。

 ぼくは看護師をつかまえた。

「先生ともう一度お話ししたいんです。テレビ症候群はどうやれば治るんですか? この三つの薬にはどんな働きがあるんですか?」

「申し訳ありません。この時間帯、先生は診察室に鍵をかけておやすみです」

 ぼくは厭な予感がした。

「ハマグリですよね? 先生はハマグリ症候群なんですよね?」

 看護師の顔面が蒼白になった。どうやらぼくの厭な予感は的中したらしい。あの精神科医はいま診察室のベッドの上で、胎児のように膝を抱えてじっとしているはずだ。 

午後の恐竜 (新潮文庫)

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  というのも、診察前の待合室で読んだショートショートに、そっくり同じ話があったのだ。

 自分をスポーツカーに改造した少年、自分をカメレオンに改造した前衛芸術家、自分を小型核爆弾に改造した政治家。……

 それらの治療に奔走する精神科医が、ストレスのあまり、自分をハマグリに改造して殻に閉じこもってしまう話が、文庫本に収録されていた。

 ぼくは処方箋を広げて、「新鮮なアイディア」「完全なプロット」「意外な結末」という薬の名前を、口に出して読み上げた。

 そして、「なるほど」と得心した。そういうことだったのか。

 莫迦莫迦しい。冷静に考えてみれば、ぼくがテレビなわけないだろう! テレビが歩き回ったりできるはずもないのだ。たぶん、ぼくはちょっとしたショートショートの世界の中にいるのにちがいない。そしてたぶん、幸運なことに主人公だ。

 ああいう処方箋を出してもらったのだから、このあとの展開は自然に読める。ぼくがショートショートを書いて、作者になれば、作品世界の外へ出られる仕掛けになっているのだろう。早く書かなければ。

 作品世界の外……。そう考えた瞬間、ぼくは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。このショートショートの世界へ迷い込む前の世界に、ぼくは大切な女性をどこかへ置き去りにしてきたような感覚を、かすかに感じたのだ。

 と… とう… そんな名前だっただろうか。とうこ、だっただろうか。ぼくは思い出せないのに彼女が恋しくて、急に胸が苦しくなった。

 そうだ。運命に引き裂かれた悲劇の恋人たち。運命のロマンティック・ラブのショートショートを書こう。それこそ、ぼくが宿命的に書かねばならないショートショートにちがいない。

 そう決意すると、ぼくはノートパソコンを買い込んで、カフェのオープンテラスで小説を書き始めた。

 こういうとき、先行作品を真似ようと思ってはいけない。自分の心の奥深くに沈んでいる感情を、ゆっくりと引き揚げて言葉にしていかなければならない。ぼくの心の奥には、切ない悲恋が棲んでいるようだった。

 すぐに「ヒツジ男とヤギ女」という短編を思いついた。動物学に興味深い研究があるのを、思い出したのだ。ぼくはキーボードを叩いて、書き始めた。

 生まれたばかりの幼いオスヤギとメスヤギがいる。二頭をヒツジの群れに加えて、一年間育てる。オスヤギもメスヤギも、ヒツジの群れの暮らし方にすっかり染まる。一年経つたら、今度はそのオスヤギとメスヤギを、本来のヤギの群れの中に戻すのだ。

 ヒツジの群れで育った二頭のヤギは、ヤギの群れの中でどう生きると思うだろうか?

 驚くべきことに、オスヤギはヒツジのまま、メスヤギはヒツジからヤギに戻るのだという。どうやら、オスヤギは育てのヒツジの母の記憶が抜けないらしいのだ。そのまま、繁殖期に突入すると、メスヤギは順調にオスヤギの求愛を受け入れる一方、オスヤギは自分をヒツジだと思い込んでいるので孤立してしまう。

 いや、この短編は、その研究結果と同じにはしたくない。

 ヒツジだと思い込んでいるオスヤギは、必死になって自分の運命に抵抗しようとする。ヤギに戻ったメスヤギへ向けて、種の違いを乗り越えて、毎日必死にラブレターを書くのだ。ところが… 予想されたような悲劇的事態が起こってしまう。メスヤギはそのラブレターを、読まずに食べてしまうのである。

「いかがでしょうか?」

 と、ぼくは同席しているプロの脚本家に感想を求めた。ショートショートの中の世界なので、展開は迅速だ。書き上げたぼくのショートショートをブログに掲載すると、すぐにテレビ局の関係者から連絡があったのだ。

「面白い! 素晴らしいですよ、先生!」

 それが見え透いたお世辞だとわかっていても、すぐにドラマ化したいとまで褒めちぎられると、ぼくは喜びを隠しきれなくなった。

「ラストシーンは、こうしてはいかがでしょうか。すべてのラブレターを食べた美しきメスヤギが、ひとこと『美味しかったわ、ありがとう』と言って、画面から静かに歩み去っていく。そして、それを見送ることしかできない無力なオスヤギが、ひとり草原に取り残される」

「先生、それは確かに綺麗なエンディングなんですが、トラジックエンドでは数字がさっぱり取れないので…」

「いや、このエンディングは譲れませんね。絶対にこれが良い」

「えらいこだわりようですね。何か個人的な思い入れでもあるんですか?」

「いや… その…」

 ぼくは口ごもった。前の世界で、トウコとどのようにして離れ離れになったのか、さっぱり記憶がないのだった。何かを思い出せるかもしれない。そう直感して、ぼくは何度も何度も、メスヤギが立ち去っていく場面を頭の中で思い描いた。やがて、草原を歩み去ってくのは、記憶が定かでないぼんやりしたトウコのうしろ姿になった。

 ぼくは思い切ってトウコの名を呼んだ。一度呼ぶと、こらえられない気分になって、何度も何度もトウコの名を呼んだ。けれど、トウコは一度も振り返らなかった。ぼくは膝から崩れ落ちて、草地の上にうずくまって泣いた。

「どう思われますか?」

と白衣を着た研究者が、こちらを振り返った。

「どう思われますか、と言われても。本当にこれが、彼の頭の中にあった話なんですか?」

 そう訊き返したのは、ハンドバッグを持った美しい女性だった。

「そうです。トカゲでも夢を見ることがわかっています。そして、あらゆる生物の見る夢は、記憶を整理するためにあるのです。このテレビは、番組の記憶と自分の見た風景の記憶を整理していたのです」

「でも、どうしても信じられないんです。先ほどのお話のすべてが、私のテレビが見ていた夢だなんて」

「あなたは、こいつをただのテレビだと思っておられる」

 液晶画面の黒いテレビの背に触れて、研究者はそう言った。「今のテレビには人工知能が入っています。買ってからすぐ、いわゆるマジックタイムに、飼い主がどんな行動をとったかが大事です。マジックタイムダンボールで母親役をされたヒヨコたちは、大人になるとダンボールに求愛します」

「本当ですか? そういえば、買ってからしばらくは、ハタキで埃を取ってあげたりしていました」

「それだ」と研究者は手を打って説明をつづけた。「グルーミングがいちばん勘違いさせやすいんです。この人工知能内蔵テレビは、あなたに恋をしてしまったんです」

「え? じゃあ、ひょっとして、テレビくんが何度も頭の中で再生していた、女性が立ち去っていくシーンは…」

「そうです。今のテレビは、ほとんどが顔認証機能つき。あなたがリビングから立ち去っていく場面を何度も目撃して、淋しがっていたんです。おわかりでしょうか。種を越えた悲恋を、テレビが語りたがった理由を」

 女性はゆっくりと頷いた。このテレビが「人を見る目がある」と自慢していたのは、そういうわけだったのか。

「だから、チャンネルがロックされたりとか、不思議なアピールがあったんですね。でも、私はトウコという名前ではないんです」

「きっと漢字で『遠子』と書くのでしょう。『遠い』は英語では remote。リモコ、もしくはリモコンを意味しているにちがいありません」

 そういうと、研究者は笑いながら軽く肩をすくめた。実際、それは微笑ましい笑い話にすぎなかった。研究者は女性にリモコンを手渡した。

「このテレビは、あなたを運命の女性だと信じ込んでいます。リモコンの言うことなら、どんなことでも答える気でいるのです。少し斜め側に立って、スイッチを入れてあげてください」

 女性がテレビの電源を入れた。

 テレビのフレーム上部にある小さなカメラが、女性の顔を認識した。すると、テレビは嬉々として液晶画面を彼女の方へ振り向けた。そしてすぐに、鮮やかな花火の映像を画面に映し出した。地味な研究室は、たちまち花火のにぎやかな破裂音と鮮やかな色のきらめきでいっぱいになった。